●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2004年11月中
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ごまめの歯ぎしり(4) 投稿者:園主  投稿日:11月20日(土)19時06分2秒


 古田さま

はじめまして。ようこそおいで下さいました。

ご意見に、まったく同感いたします。だからこそ、『道化師の祈り』というタイトルには、胸の痛むような共感を憶え、それがまた残念でもあり口惜しくもございます。

> 書いてみると、現状を再認するだけのものになってしまったようで恐縮です。
> さて「革命」はいかにして為されるのか。
> 芸術はどのようなかたちを模索していけばよいのか。
> こんなところで一旦、筆を擱きます。

私も、いつもそこで筆を置かざるをえないことを残念に思っております。つまり、こうすればいいのだ、こうすれば解決するのだという「絶対的な回答」を示すことのできない苛立たしさ、不甲斐なさ。しかし、私自身、その答を見定めていない以上、今できることは、現状をできるかぎり正しく認識し、その範囲で、他の人たちにも現状の厳しさを伝えて、その認識の深化を求めるしかない、ということなのでございます。

このままではいけない。つまり「革命」は必要なのだけれど、では、その「革命」とはどのような形をとるのが正しいのか、それが私にはまだ見えておりません。

芸術の現状には大いに不満を感じながらも、指し示す方向性を持たぬ以上、それに感情的な不満をぶつけたところで、決して良い結果 は期待できないでしょう。だからこそ、私は「おまえらは呑気でいいな。まるで他人事じゃないか。芸術家先生も特権階級のうちで、権力者から保護されるとでも思っているのか? それとも、いざとなれば昔のように権力に日和るのか?」という皮肉を、なんども呑み込んでいるのでございます。

確信の持てる具体的な反抗方法を手にし得ず、自己満足的とも言える、言葉でのささやかな抵抗にとどまらざるを得ない私のこうした思いとは、まさに敵からすれば『道化師の祈り』でございましょう。しかし、私は、非人間的な強者の側について自己同一化し、その視点から自己の優位 を誇り弱者をあざ笑うような人間になるよりは、弱者の側にあって自己の無力に歯ぎしりする人間でありたいと感じております。なぜなら、その方がずっと美しいと思うからなのでございます。私は、自分の美意識だけは、どうしても手放せない人間なのでございます。

御説のなかでは、最後の、

> 結局のところ、これは労働の問題なのかしら、と考えています。

という部分だけが、よく理解できませんでした。『労働の問題』とはどういう意味なのか、もうすこし詳しくご教示いただければさいわいと存じます。

またのおいでを心よりお待ちしております。



 楽古堂さま

> 腱鞘炎について
> ご心配をおかけして申し訳ありません。過去、二年間で、病院を三ヶ所変わりました。温熱療法もしてもらっています。今年の秋から、カイロ・プラクティックを始めました。これが効果 があるようです。指先の冷たくしびれるような感覚が、和らいで来ました。一病息災と申します。なんとか上手に持病と付き合っていきたいと考えています。

しびれが和らいできたとのこと、お喜びもうしあげます。書けない時間は、読む方のまわして、いずれまた力作を見せてくださいまし。どうぞお大事に。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


ごまめの歯ぎしり(3) 投稿者:園主  投稿日:11月20日(土)19時05分11秒


実際問題として、こんな小林が警察幹部と会食をすれば、変わるのは警察の方ではなくて、小林の方である可能性が高い、というのは見えやすい議論でございましょう。私が指摘いたしましたとおり、小林は『そうしたものが自分を堕落させる契機かも知れない、などという慎重な危惧(君子、危うきに近寄らず)からは、もっとも縁遠い存在』である『ナルシスト』でございますから、警察の方が変わる可能性しか問題としておりませんし、その意味では、彼の説明は、旧世代運動家の危惧に、まったく答えるものとはなっていないのでございます。

そして、この頃すでに小林は参院選の出馬を決めていたものと思われますが、彼は『権力の恐ろしさというものについても、お二人に比べれば、お話しにならないくらい実感していない』まま、さっさと権力を行使する側にまわろうと言うのでございますから、これ以上なにをか言わんやでございましょう。

結局のところ、平和運動家と言えども人の子であれば、運動家の中には「自己実現」ために運動に加わっていく者も少なくなく、そうした者は、自己実現という目的に対して、より効果 的な方法があれば、そちらに乗り換えることも時に辞さないというのが、偽らざる現実なのでございます。
例えば、「読売グループのドン」ナベツネこと渡辺恒雄が、東大全共闘関係者であったことを思い出しても、そうしたことは明らかでございましょう(『1948年時の東大新人会運動の顛末で、宮顕(※ 宮本顕治)が後の読売新聞社長渡辺恒雄を頭目とするナベツネグループを規律違反処分する際に見せた寛容さ』云々)。つまり、権力に抗して弱者の側に立ったはずの者が、いつのまにか弱者に対して情け容赦のない冷酷な権力者に変わってしまうというようなことは、歴史上にいくらでも見いだされる、むしろ「ありふれた」現象なのでございます。

ですから、目の前の悲惨な現実に対抗する方法として、「金」や「数」の「力」を重視するというのも、それ自体を否定することはできませんが、「それが無きゃ、現実問題として、勝てないじゃないか」という心の動きにこそ「権力の魔性」がとり憑くのだということは、決してわすれてはならないのだと存じます。
以前にもご紹介いたしましたとおり、かつて竹内好は、

『負けることを考えるのを回避するのは、すでにそこで負けている』

と申しました。そして私は、この言葉を、

『 今の日本(人)は、世界のなかで「勝ち組」になろうと、必死でアメリカに媚びを売って隷属している。それはまさに『負けることを考えるのを回避』して、すでに『負けている』者の姿だと言えるだろう。』
                  (2004.10.27「敗者の栄光(5)」)

と言い換えたのでございますが、勝つことだけを重視した平和運動家が、「権力の魔性」に魅入られやすいというのも、まったく同じ道理であり、決して例外となるものではないのでございます。





( 以下は「ごまめの歯ぎしり(4)」につづく)


ごまめの歯ぎしり(2) 投稿者:園主  投稿日:11月20日(土)19時04分15秒


もう一人の旧世代運動家である天野惠一は、新世代運動家に対する違和感(不信感)を、

『 私は、デモが終わって警察官に向けて、ありがとうなんて言う若い人には仰天しましたが、若い人たちのマスコミ迎合型、マスコミ・メジャー志向の運動にも仰天しています。先ほど述べた冤罪事件のとき、被告を「爆弾犯」と決め付け、悪魔のように報道しつづけたのはマスコミだったのです。マスコミにのる、受ける運動というのを、すべて否定する気はないですが、そこには難しい問題があることを認識しておくべきです。』

と語って苦言を呈しており、私は天野と同じような違和感を、先の論文の中で、

『それくらい「政治」と「金」の魔性というのは、恐ろしいものなのでございます。ところが、能天気なナルシストとは、そうしたものが自分を堕落させる契機かも知れない、などという慎重な危惧(君子、危うきに近寄らず)からは、もっとも縁遠い存在でございますから、それが「良き行い」のために必要ならばと、無防備にそれに接近し、いつの間にかしっかりそれに絡め取られて、単なる「いっぱしの政治屋」に成り下がったりするのでございます。』

と書いておりました。
じっさい、このように批判される新世代の代表である小林一朗は、

『 私も、警察が簡単に変わるなどとは思っていません。また権力の恐ろしさというものについても、お二人に比べれば、お話しにならないくらい実感していないでしょう。経験は伝わっていないのですが、私は今日、お二人を含め、これまで活動されてこられた方々は、私のような人間に、どれだけ伝える努力をされたのかをお聞きしたいんです。』

と、自身の不勉強を棚上げにした「居直り」とも取れる言い訳をしたあと、続けて自身の批判された行動を次のように紹介しております。

『 権力について、システムとして捉えるという言い方がありました。私はむしろ、そのときに来た人間とどう向き合うかが大事だと思っているんです。たとえば、警察の人と食事したときも、私は彼らに「あなたたちは本当に人々を守る仕事をしていると思っていますか? あなたの子供たちは、このままブッシュの戦争に引きづられていく小泉政権によって安全だと思う?」と聞きました。
 だからといってすぐ彼らが変わるという幻想は持ちませんが、私たちが弾圧をうけたときには良心の呵責くらいは感じて欲しいですね。でも、運動が、たとえば憲法問題なんかで、権力とぶつかりあうときには、かならず弾圧を受けるのですから、あたかも警察と仲良くできるかのようにミスリーディングしたことについては反省しています。』

つまり、小林は、当面(感化の)効果 が無いことを承知しながら、警察幹部と会食の機会をもったというのでございます。
もちろん、小林の発したこの程度の言葉で、「警察」が変わるわけもなく、たとえ「個人」として多少は感じることがあったとしても、「警察という巨大な階級システム」の中で生きる彼らが、「個人」として現実的に行動を改めることなど、ほとんどありえないと申せましょう。実際、小林に指摘されるまでもなく、警察というシステムに疑問をもっている警察官個人は、末端に近づくほど、決して少なくはないのではないでしょうか。なぜなら、彼らは「警察教」の信者ではなく、基本的には「警察」の被雇用者に過ぎないからでございます。しかし、だからこそ彼らは、給料のために、家族のために、多少の疑問には目を瞑り、馘首にならないよう日々の仕事をこなしているのではないでしょうか? そして、そんな末端労働者たちに対し、平和運動で食っているような青二才が、賢しらな議論を吹き掛けたところで、いったい何がどうなるというのでございましょう。これは一種の「傲慢」なのではないでしょうか? また、確信的に権力の側につくことを選んだ警察幹部に、そんな建て前を言って、いったいどうなるというのでございましょう。

第一、平和運動においては「緩やかな団結」という「個人ではなく数」を問題とした現実的運動方針を選んでおきながら、敵対する警察に対しては『そのとき来た人間とどう向き合うかが大事』などという聞こえのよい理想主義的な「個人尊重主義」を持ち出して、一貫性のない場当たり的な言い抜けに終始する小林を、どうして信用などできましょう。





( 以下は「ごまめの歯ぎしり(3)」につづく)


ごまめの歯ぎしり(1) 投稿者:園主  投稿日:11月20日(土)19時01分49秒

みなさま、本日は、昨夜ご紹介いたしました『別 冊 世界 もしも憲法9条が変えられてしまったら』(岩波書店)所収のデモか、パレードか、ピースウォークか 平和運動、世代間対話の試み(吉川勇一、小林一朗、天野惠一、小林正弥)について、書かせていただきます。

見ての通り、これは、旧世代と新世代を代表する平和運動家をそれぞれ2人づつ集めて、それぞれの運動観の違いを語るとともに、平和運動の今後について語り合った公開討論会(2004.4.11開催)の一部を収録したものでございます。

私がこの討論会に注目したのは、討論会メンバーのうちに、見知った名前「小林一朗」を見つけたからでございます。
私が小林の名を知ったのは、市民運動家である「きくちゆみ」から送られてきた、先の参院選への投票依頼の推薦ハガキに刷られた「参院選候補者」としてでございました。私はこのハガキが切っ掛けで、きくちゆみを批判することになるのでございますが、その詳細については、拙論市民運動家、その虚像と実像 ―― きくちゆみの場合を当たっていただくとして、私がその批判の際に、市民運動家きくちゆみに対して発した、

『たしかに平和運動にも「お金」は必要でございます。しかし、必要だからといって、金集めに奔走する姿が目につくようになれば、それは危険信号だとも申せましょう。』

という不信の言葉は、今になって思えば、最近の平和運動家に対する「獏たる不安」を象徴するものだったと申せましょう。つまり、彼らの「現実主義」は否定しない。しかし、安易な現実主義はしばしば「権力の魔性」に対し無防備なものであり、そちらに取り込まれる怖れが大きい。言い換えれば、そんな彼らは「ダークサイドに引き込まれてしまいがちである」ということなのでございます。

デモか、パレードか、ピースウォークか 平和運動、世代間対話の試みの中で、旧世代に属する吉川勇一は、

『イラク反戦という目標をともにしている運動の全体が一色の性格を持っていて、その集団に対して外部から違和感や批判が投げかけられているという構図ではない。当然ながらそこには様々な思想や体験を持つ人びとや集団が混在しているのであって、その内部で、いろいろな問題点が意識されだしているのです。世代間の差もあるでしょうが、それだけに括りきれない問題点もかなりあります。それを運動は、運動内部の問題として、率直に議論することが必要だと思います。
 議論が回避されるということには、「やさしさ」の取り違えということもあるかもしれないと私は書きました。かつては、相手の気持ちの中までかなり踏み込んでいって、自分と相手の意見の違いを明らかにし、一致できる点、一致できない点を追求したものでした。いま、若い人はそういうことをやらない。相手を傷つけたり、あるいは相手を傷つけたと相手に思われることによって、自分が傷ついたりするのではないかと、恐れているように見えます。運動の内部でもそうですし、運動参加者とジャーナリストとの間でも議論は行われません。』

と言い、新世代運動家の「本質論議回避主義」、言い換えれば「最大公約数動員目的の現実妥協主義」を批判しております。――そして、私の「きくちゆみ批判」の論点もまた、まさにここにあったのでございます。彼女は、本質論議を回避して現象面 での対応で終始し、それでも私が食い下がると、最後は、

『「批判をしたけれど、自分にできるだろうか」
 「Be the Change you wish to see」
 という言葉を送ります。』

という「自己の運動の規模を自己賛美する言葉」を捨てぜりふとして、私の批判を黙殺したのでございます。





( 以下は「ごまめの歯ぎしり(2)」につづく)


腱鞘炎について 投稿者:楽古堂  投稿日:11月20日(土)14時12分35秒

皆様へ。ご心配をおかけして申し訳ありません。過去、二年間で、病院を三ヶ所変わりました。温熱療法もしてもらっています。今年の秋から、カイロ・プラクティックを始めました。これが効果 があるようです。指先の冷たくしびれるような感覚が、和らいで来ました。一病息災と申します。なんとか上手に持病と付き合っていきたいと考えています。


道化師の祈り 投稿者:古田  投稿日:11月20日(土)12時27分56秒

園主さま、みなさま、はじめまして。
古田と申します。

当花園のここ最近の議論を拝見していて、私にも思うところがあり、考えを
まとめるのも兼ねて、僭越ながら初投稿させていただきます。

公を二種類に分けると、法によって統治する「上からの公」と、我々がまさ
に今生きる「下からの公」になります。
(確か、赤坂憲雄の著作にあったような気がします)
下からの公は、本来、上からの公を支え、措定するものであるはずなのです
が、現在、これが非常に陳腐化、無力化しているように感じます。
結果として、上からの公による抑圧を喜んで受け入れるかたちになっている、
それに真っ向から対抗しようとも、下からの公が無力なままでは、その試み
は失敗に終わるのではないでしょうか。

下からの公の陳腐化、無力化は、上からの公を権力として利用する人間たち
や、マスメディア、アカデミズムなどが共犯関係を結んで為されているよう
に見えます。
こういう中、私の言語的ありかた、他ならぬ私がどういう歴史の中で生きて
いこうと切望するのか、それが問われている、結局のところ、これは労働の
問題なのかしら、と考えています。

書いてみると、現状を再認するだけのものになってしまったようで恐縮です。
さて「革命」はいかにして為されるのか。
芸術はどのようなかたちを模索していけばよいのか。
こんなところで一旦、筆を擱きます。


いまさら知った「憲法の本義」(下) 投稿者:園主  投稿日:11月20日(土)00時18分34秒


 アーニャ

> 11月も後半に入り、来年の影がほの見えてきたこの頃なんだけど、来年のカレンダーの準備なんかもなさってるかしら?アリョーシャは、田中麗奈ちゃんの買った?

ここ3年買っていた、田中麗奈のカレンダーを、今年はまだ購入していない。昨年までは、紀伊国屋書店梅田店に11月くらいから特設されるカレンダーコーナーで買っていたんだが、今年は田中麗奈のが見あたらないんだ。きっと新しいアイドルに押されて売り上げがイマイチだったので、今年は入荷しなかったというようなことなんじゃないかな。実際、私自身、よそを探してまで買おうという気は既にない。田中麗奈は動いていてこそ魅力のある女優だから、ポスターの類にはいつでも不満が残ってたんだ。
それでも、私がいちばん気に入っているのは、5年ほど前の「フジカラー」の販促用ポスター(『きみどり みどり キミ きれい。』)で、これは田中麗奈の女の子らしさがとても良く撮れていると思う。カレンダーのは、衣裳や化粧や設定に力がこもりすぎていて、かえって田中麗奈の魅力を引き出していないように思うんだな。

> 実はKeenさまがずっと愛用していた、山と渓谷社の卓上日めくり『猫ごよみ』が、なくなっちゃったようなのよ!同社のHPになかったから、もう作ってないのね、きっと。
> 壁掛けで月めくりタイプのものならあったんだけど……日めくりは売れないのかしらねえ。

日めくりが無くなったのは残念だな。ネコ人気は相変わらずだと思うんだが、それでもこれだけいろいろ出ると競合して大変だろうし、まして日めくりというのは、よほど売れないかぎり採算があわないんじゃないかな?

> ネコ好きなマンガ家さんって、どなたかしら。該当者が多過ぎて、見当もつかないわ。

メールで教えてやるよ。――「謎の人物」を演じるのも、なかなか楽しいぞ(笑)。


> ところで、今のチェ・ゲバラブームって、かなりのもののようね。
> この間、Keenさまと一緒にTVで名古屋グランパスのサッカー中継を見てたら、彼の写 真をプリントしたハデな旗が振られてたわ。
> グランパスとは全然関係ないと思うんだけど、彼の精神を持って戦え!って言いたいのかしらね?単なる流行りモノ好きでしょうけど。

『彼の精神を持って戦え!』ってのも、よくわからない話だけど(笑)。

でも、ゲバラが流行するっていうのは、やっぱり、彼のような存在を求める気分が多くの人に共有されつつある、ということなんじゃないかな。そこで、問題となるのは、多くの人がゲバラを「どのような存在」だと感じているのかということだろう。
私としては、人々がゲバラを「弱者のために、アメリカやソ連という圧倒的な強者と戦い続けた、無私の闘争者」と見て、そこに憧れを抱いているんだと思いたいな。



 ホランド

>  それにしても、ブッシュを支持し小泉首相を誉める、アーノルド・シュワレツェネッガーの姿を見ていると、やっぱり悲しい気持ちになってしまいますね。

ハリウッドは、昔から政治のために苦しみ抜いてきた場所だからな、いろいろあるよ。

シュワレツェネッガーの場合、ボディービルに自身のアイデンティティーを賭けた当時から、「強者」への憧れに生き続けた、とも言えるだろうな。ただ、彼は「目に見える強さ」だけに憧れ、それを求め続けた結果 が、「ケネディー家につながるエリート政治家」という現在の立場なんだろうね。

ところで、こないだ私は、

> 私自身は気づかなかったんだが、ジュード・ロウはその出演作から推すと、世間一般 には「古風な美男子」ということなのかも知れないな。また、そこから推すと、「今風の美男子」は(私にはいまいちピンと来ない)、ジョニー・ディップだということになるのかも知れない。

と書いたけれど、ジュード・ロウは、米『ピープル』誌が選ぶ2004年度のもっともセクシーな男に選ばれたそうだ。――私の美男感も、それほどアナクロだというわけではなかったようだな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

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いまさら知った「憲法の本義」(中) 投稿者:園主  投稿日:11月20日(土)00時17分52秒


なぜ、日本国憲法が、「基本的人権の尊重」や「絶対平和主義」や「三権分立」などといった「当たり前のことを明文化」しているのか。それは、こうした本来「当たり前」であるべきことが、古今東西の歴史において、しばしば蔑ろにされ、「当たり前」ではありえなかったという厳しい現実があるからなのでございます。だからこそ、「基本的人権の尊重」や「絶対平和主義」や「三権分立」といったことを、国家の最高法規として明文化し、国家を運営する人たちに「このラインに沿って国家を運営せよ」と命令したのが、「憲法」というものなのでございます。

したがいまして、権力者の都合によって、彼らの勝手な動きを制限するための「憲法」が改正されるようなことになれば、改正されるのは「9条(戦争放棄)」に止まるという保証は、まったくございません。つまり「基本的人権の尊重」が保証されなくなったり、「三権分立」が崩壊して「立法」「司法」「行政」が一体化し、絶対的権力機関を構成した結果 、「合法的に、権力者が好き放題できる恐怖国家」になってしまう、という可能性も十分にあるのでございます。また事実、一部は既にそういう状態にあるとも申せましょう。たとえば「有事法制」には、「基本的人権の制限」も「三権分立」を揺るがす「政府(行政)の緊急特権の規定」も存在するのでございます。

よく言われるように「だって、実際には自衛隊があるんだし」「お金だけを出すのではなく、血を流す国際貢献もしなきゃ、日本は国際社会から認められない」などといった意見の後押しで、「9条の改正」がなされたならば、日本は一体どんなことになるのか? ――問題は、「9条の条文の(字面 の)変更」だけでは済まないのだということを、平和ボケした日本人は、もういちどよく考えてみるべきでなのでございます。

『問題は、軍事力の存在が国民の「生活の安全保障」を脅かすということである。それはダグラス・ラミス(C.Douglas Lumms)の指摘する次のような統計が雄弁に物語っている。
 二〇世紀には約二億人の人々が軍隊によって殺害されている。しかし、そのうち約一億三千万人が自国民なのである。つまり、軍隊は外国人よりも自国民を殺している。フィリピンの軍隊は第二次世界大戦以降、一度も外国人と戦争をしたことはないけれども、自国民は殺戮していることを想起すれば、それは容易に理解できるはずである。
 軍隊の暴力は自国民にも向けられる。憲法九条の廃止は国民の「生活の安全保障」をも侵害する。』
                (神野直彦「「大砲」優先の社会へ」より)

軍隊が、国民を守ってくれると思ったら大間違いなのでございます。前にも書きましたとおり、戦争国家が守ろうとするものは「国家」そのものであって、「国民」ではない。現代の「総力戦」における「国民」とは、戦争に動員される「戦争資材」の一種に過ぎないのでございます。当然、軍隊が守るのも「国家」であって、「国民」ではない。むしろ「国家」に自己を供しない「国民」は、「非国民」として、「国家」の専制装置である軍隊による「排除の対象」となるのでございます。

もちろん、それを指揮するのは、「憲法」の束縛から解き放たれた、絶対権力者にほかなりません。権力者(強者)が、善意で、弱者を「守ってくれる」と信じるのは、ナイーブ過ぎるというよりも、やはり「平和ボケ」以外の何ものでもございますまい。

権力を持つ者が、法的な(システムの)束縛から完全に解き放たれた時、そこに現出するのは、「弱肉強食の世界」以外にはありえない。もちろん、「日本だけは、例外だ」などというお気楽な発想も、「平和ボケ」以外のなにものでもないのでございます。





( 以下は「いまさら知った「憲法の本義」(下)」につづく)


いまさら知った「憲法の本義」(上) 投稿者:園主  投稿日:11月20日(土)00時16分0秒

みなさま、知っているようで知らないことというのは結構あるものでございますが、私自身、まさか「日本国憲法」のことを、これほどまで知らなかったとは思ってもみませんでした。学校で習った「憲法」は、「基本的人権の尊重」や「絶対平和主義」や「三権分立」といった「当たり前のことが明文化されたもの」として、どこか退屈なものでございました。「でも、そういう基本的なことも書いておかなくちゃならないんだろうな」というのが、私のボンヤリした認識だったのでございます。

しかし、今回『別冊 世界 もしも憲法9条が変えられてしまったら』(岩波書店)を読んで、こういう「当たり前のことを明文化」したことの意味を、初めて知ったのでございます。

この本は、いろんなジャンルの人が「9条(戦争放棄)」が改正(改悪)されてしまったらどうなるのかという問題について、それぞれの視点から語った、わりあい短かめの論文をまとめたもので、今まで憲法の問題をきちんと考えたことのなかった私のような「一般 人」が、「9条改正問題」を学ぶのには、好個の入門書だと申せましょう。

私が本書で学んだ最大のポイントは「憲法とは、強いものに歯止めをかけて、弱いものを守るためのもの」だということでございます。
つまり、個人としては弱者である「国民」からの付託をうけて、「権力」を与えられた人たちが、その権力をつかって私利私欲を追求したりやりたい放題をしたりしないように、権力者に対して、権力の運用方向を示し、一定の制限を付したものが、「憲法」だということなのでございます。

つまり、ややもすると私たちは、「法律」とは私たち「(主権者たる)国民」を縛り(制限し)、時に罰するもの――つまり、権力の側の管理装置のように感じておりますが、これは本末転倒した考え方で、本来は、憲法で保証された「国民の権利」を守るために、その下僕たる国家政府が、各種の法律の運用によって、その理想の実現を目指す、というのが「法律」本来の意味合いなのでございます。

ですから、政治家が、「国民の利益(国民益)」を蔑ろにしてまで、「国益」のために憲法を改正しようなどと言うのは、こうした本末転倒した発想の極地なのでございますね。
政治家は、あくまでも「国民」の権利を保証した憲法(根本法規)の定めるところに沿って、政治を行い国家を運営していかなければならないのでございます。それなのに「国益」だの「国体」だのを守るためには「国民にも痛みを分かち合ってもらわなければならない」などと主張するのは、本来、国民から(一時的に)託されたものでしかない権力に酔い、自身の立場と本分を忘れた、痴れ者の戯言に他ならないのでございます。





( 以下は「いまさら知った「憲法の本義」(中)」につづく)


リーサルウェポン 投稿者:アーニャ  投稿日:11月18日(木)17時59分4秒

いつか、爆発する日も来るのかしらね?(ニヤリ)
ネコ好きなマンガ家さんって、どなたかしら。該当者が多過ぎて、見当もつかないわ。

ところで、今のチェ・ゲバラブームって、かなりのもののようね。
この間、Keenさまと一緒にTVで名古屋グランパスのサッカー中継を見てたら、彼の写 真をプリントしたハデな旗が振られてたわ。
グランパスとは全然関係ないと思うんだけど、彼の精神を持って戦え!って言いたいのかしらね?単なる流行りモノ好きでしょうけど。

にゃあ〜♪


お詫びと訂正 投稿者:ホランド  投稿日:11月17日(水)22時45分53秒

前の書き込みで、

> ・ 『囲碁殺人事件』は、単行本の後、最初の河出文庫の解説が中井英夫で、次の角川文庫が千街晶之(探偵小説研究会)、今回の創元推理文庫が有栖川有栖(本格ミステリ作家クラブ会長)。
> ・ 『将棋殺人事件』は、単行本の後、最初が角川文庫で解説は巽昌章(探偵小説研究会)、今回の創元推理文庫は若島正。
> ・ 『トランプ殺人事件』は、単行本の後、最初の新潮文庫が笠井潔(探偵小説研究会)、次の角川文庫が田中幸一(園主さま)で、今回の創元推理文庫が大内史夫(楽古堂さま)。

と書きましたが、角川文庫版の解説者が、『囲碁殺人事件』と『将棋殺人事件』で入れ違っていました。

正しくは『囲碁殺人事件』の解説者が巽昌章で、『将棋殺人事件』の解説者が千街晶之です。
記してお詫びいたします。


沙羅双樹の花の色に想う(4) 投稿者:ホランド  投稿日:11月17日(水)21時41分39秒


 アーニャ

 ホントにひさしぶりだね(笑)。

 ところで、園主さまが最近さるところで、ネコ好きの漫画家さんと知り合いになったようだよ。で、その人のサイトの掲示板に、別 名儀で、その人の作家論を書いたところ、ご本人からは、

『どうもありがとうございます。
なんだか、手慣れた書きぶり。いったい何者なのでしょう?(笑) 読書家ばかりでなく、もしや文筆家なんですか本当は?ちょっと焦って座り直しました(笑)。
他人から指摘され、「ああ、なるほど」と気付いたりするものですから、興味深く読ませていただきました。また、お待ちしております。』

という感想を、ファンと思しき方からは、

『説得力をもった、深みのある評論に感動しました。このような硬質な漫画論が「○○○○」にも登場することを願っています。(当の評論も収録されたらいかがですか?)』
                         (※ 伏せ字は引用者)

というお誉めの言葉をいただいたそうなんだ(と言いつつ、ボクはその掲示板を見て、この文章を書いてるんだけどね/笑)。

 で、園主さまは、その人の前では「一介の読書人」ということになってて、本性(笑)を明かしていないそうで、だから書き込みも「アレクセイ」を使わないで、別 名儀にしたそうなんだ。――でも、その急場しのぎのハンドルネームというのが笑っちゃうよ。この前のボクの書き込みが頭にあったんだろうけど、「リーサルウェポン」って言うんだからさ(笑)。



 園主さま

 こないだから映画の話ばっかりですが、そういえば『スーパーマン』のクリストファー・リーブが、先日亡くなりましたね(asahi.com)。『スーパーマン』で一躍スターになりながら、落馬事故でほぼ全身が麻痺状態となる悲劇にみまわれた彼。でも、彼はそれに挫けることなく、そうした障害に敢然と立ち向かい、多くの人に希望をあたえる存在となりました。

 でも、そんな彼が、人間の受精卵から採れる胚性幹細胞(SE細胞)をつかった医療研究を支持し、人間の受精卵を使うことに強く反対する宗教右派を支持基盤とするブッシュ大統領がこの研究への規制を強めていることから、ブッシュを批判する立場に立ったというのには、ちょっと複雑な気分です。
 というのも、「SE細胞」による医療研究は、『脳死・臓器移植の本当の話』などで小松美彦さんが批判を展開している「人体の資源化」の問題と密接に関係していて、要は、一部金持ち(権力者)の健康のために、貧しい人の人体を搾取し利用しようとする構図が、そこには隠されているからなんですよね。例えば、SE細胞によるアルツハイマー治療薬の開発推進には、パパブッシュの先輩にあたるタカ派の米大統領だったレーガンのアルツハイマー罹病が大きく影響している、というのは知られた事実なんです。つまり、今のところブッシュは、支持基盤向けの点数稼ぎとして「SE細胞をつかった医療研究」を規制する方に回っているけど、本音はそんなところにはないんですね。そのへんで、クリストファー・リーブの立場には、視野の狭さを感じざるをえないんです。
 彼がそのあたりの事情をどれだけ理解していたのかはわかりません。でも、あのような重大な障害を負った身であれば、問題含みの「SE細胞をつかった医療研究」に期待してしまうというのも、それこそスーパーマンではない生身の人間である以上、致し方のないことなんだろうなとも思います。

 それにしても、ブッシュを支持し小泉首相を誉める、アーノルド・シュワレツェネッガーの姿を見ていると、やっぱり悲しい気持ちになってしまいますね。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


沙羅双樹の花の色に想う(3) 投稿者:ホランド  投稿日:11月17日(水)21時40分12秒


 時雨さま

>>「ゲーム」は、「作家性」の帰属するところが特定しづらいということなんでしょうね。

> 例えばシナリオライターが企画を実現するだけの文章屋であることも多々ありますからね。TYPE−MOONはそういったわけではないので比較的扱いやすいのですが・・・

 つまり、ゲームの世界では、シナリオライターが単なる企画提供者に止まる場合も少なくないけど、TYPE−MOONの場合、奈須きのこさんの占める位 置はもう少し大きいから、完成したゲームにおける奈須きのこの「作家性」は、すべてではないにしろ、かなり大きいんだということですね。


 ところで、竹本健治さんの『囲碁殺人事件』『将棋殺人事件』『トランプ殺人事件』の、いわゆる「ゲーム3部作」は読まれましたか?

 この「ゲーム3部作」は、うちのサイトと何かと縁が深いんですよ。たとえば、

・ 『囲碁殺人事件』は、単行本の後、最初の河出文庫の解説が中井英夫で、次の角川文庫が千街晶之(探偵小説研究会)、今回の創元推理文庫が有栖川有栖(本格ミステリ作家クラブ会長)。
・ 『将棋殺人事件』は、単行本の後、最初が角川文庫で解説は巽昌章(探偵小説研究会)、今回の創元推理文庫は若島正。
・ 『トランプ殺人事件』は、単行本の後、最初の新潮文庫が笠井潔(探偵小説研究会)、次の角川文庫が田中幸一(園主さま)で、今回の創元推理文庫が大内史夫(楽古堂さま)。

 ねっ、まぎれもなく『何かと縁が深い』でしょ?(笑) そんなわけで、そういうところに少しでも興味を持たれたなら、今度は竹本健治の上級編「ウロボロス3部作」に挑戦してみてください。と言っても、完成しているのは『ウロボロスの偽書』『ウロボロスの基礎論』の2作で、3作目の『ウロボロスの純正音律』は現在連載中であり、完成にはまだ数年はかかりそうな模様です……。

 この「ウロボロス3部作」には、上記の解説者などが「実名」で登場してきます。つまり、現実そのままを描いているわけではありませんが、現実を色濃く反映した奇想小説になっているというわけです。ですから、この掲示板での討論・笠井潔をめぐってにご参加下さった時雨さまなら、普通 の読者以上に「特別な楽しみ」の味わえること受け合いなんですよ(笑)。



 本多正一さま

> さて、今年の江戸川乱歩先生生誕110年を記念して、皓星社より『子不語の夢ー江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』が刊行されました。探偵小説への夢と希望を持った若き平井太郎青年が、探偵趣味の大先輩・小酒井不木博士の推挽によって、専業作家として立つことを決意する感動的な書簡のやり取りが収録された貴重な書簡集です。

 小酒井不木って、ホントになつかしい名前ですね。ボクら古いミステリマニアなら、多少は知っているけど、若いミステリファンはほとんど知らないでしょうね。なにしろ最近は「原田宇陀児」なんて作家が出てくるくらいですから(笑)。

 ただ、ボクが小酒井不木を読んだのも、たぶん創元推理文庫の「日本探偵小説全集」の第1巻(黒岩涙香・小酒井不木・甲賀三郎集)だけだと思うし、事実、ほかではちょっと読めないんじゃないかなあー(ちなみに、第2巻が「江戸川乱歩集」)。


 ところで、みなさんのために『子不語の夢』というタイトルについて簡単に説明しておきますと、『論語』の「子不語怪力乱心」(「孔子は怪異、信じられないような力、秩序の破壊、鬼神を語られなかった」というほどの意。論語解釈学の権威である朱注に従って読むならば、孔子は現実に判断しきれないようなことは括弧 の中にくくって敢えて触れようとはしなかったということ)という教えに反発して、後の袁枚という人物がおもうさま「怪力乱心」について書いたのが、今で言うホラーに近い『子不語』という著作で、つまり乱歩は、この「子不語の夢」にとらわれて書きはじめた作家だということなんでしょうね。(

 ちなみにボクがこないだ書いた、

> 「語り得ないものを語ることなかれって」って箴言をごぞんじですか? 知らないですよね。これ、ボクが今思いついた「ホランドの箴言」なんだから(笑)。――でも、ありそうな言葉でしょ? きっと、あると思うなあー。

と書いた言葉の原典は、なんと『論語』だったんですね。ボクとしてはヴィトゲンシュタインあたりかなと思ってたんですが(笑)。





( 以下は「沙羅双樹の花の色に想う(4)」につづく)


沙羅双樹の花の色に想う(2) 投稿者:ホランド  投稿日:11月17日(水)21時29分33秒


 ただ、良いことであれ悪いことであれ、生々流転して定まりなきこの世であれば、いったい何を望みどのように生きていけば良いのでしょうか。それもたぶん、園主さまがおっしゃっていたとおり、その場の勝ち負けにこだわらず、歴史の評価に耐えられるよう正々堂々と生きる、というのが正解なんだと思います。

 中井英夫は「人は死んだら、残された者の心の中に行く」という主旨の言葉を残して死んでいきましたが、結局、人の生きた証とは、他人の記憶の中にしか残りません。だから人は、最後は「名声」を求めたり「作品」を残そうとしたりするんでしょう。でも、そうした「名声」や「作品」を残すために、その人の生き方そのものが誉められたものじゃなくなったとしたら、それは本末転倒だとなんじゃないかと思います。

 石碑が建てられたり、百貨店で回顧展が行われたり、残された作品が名作として多くの人に読まれたりして、見も知らない多くの人から「偉大な人だったんだなあ」と感心されるのも、決して悪いことではありません。でも、それはタレントがうける讃嘆に近いものがあって、どこか寂しいものがある。たしかにそういう讃嘆も、あるに越したことはないんだけど、それだけで終ってしまったら、タレント(人気者)の孤独にも似たものが残るんじゃないかなあ、って感じるんです。

 それよりは、たとえ数は少なくても、身近な人に「あの人はいい人だったなあ。また会いたいなあ。」と思われたり、「あの人の思い出は、私の生きる励ましだ」と思ってもらえるような方がいいんじゃないでしょうか。ボクはそういうのが「人は死んだら、残された者の心の中に行く」ということなんだと思うんですよね。
 こないだ園主さまはエルネスト・チェ・ゲバラの、

『どこで死に襲われようと、われわれの戦いの雄叫びが誰かの耳に届き、われわれの武器を取るために別 の手が差し出され、他のひとたちが立ち上がるのなら、喜んで死を受け入れよう』

という言葉を引用しておられましたけど、こうした生き方こそが「死ぬ ことで永遠の生を勝ち取る」ということなんじゃないでしょうか。

 暦の上では、もう冬。この秋、台風や地震などに罹災された方には、とても厳しい冬となるでしょう。でも、冬はきっと春になる。だから、それを信じて、今を精一杯生き抜いていただきたいと思います。





( 以下は「沙羅双樹の花の色に想う(3)」につづく)


沙羅双樹の花の色に想う(1) 投稿者:ホランド  投稿日:11月17日(水)21時28分8秒

 みなさん、こんばんは! 最近、ちょっと書き込みが少ないですね。かく言うボクもこないだからサボり気味なんで、それをとやかく言うつもりはないんですが、いつも覗きに来てくださっているみなさんには、ホントに申し訳ないと思ってます。でも、こういう時期もあるということでご勘弁下さい。

 この「アレクセイの花園」がまだ『LIBRA アレクセイの星座』の一部ではなく単独の掲示板であり、掲示板の設置者(管理者)と掲示板の主催者(園主さま)が別 人であった当初、設置者と園主さまが揉めたために設置者が掲示板の管理を放棄した結果 、掲示板荒らしが大挙して押し寄せ、それに園主さまが真正面から対抗する、なんてことがありました。また、「アレクセイの花園」が独立して園主さまの管理下に置かれた後も、掲示板荒らしの書き込みを削除せずに、すべて記録しておく(証拠化する)という方針を園主さまが採ったために、掲示板荒らしの書き込みせいで、掲示板がおかしな形でにぎやかになったこともあります。

 そういうにぎやかさと今のような静かさのどっちが好ましいかと言えば、普通 は後者の方が好ましいということになるんでしょうけど、園主さまにすれば、まだしも前者の方が「価値がある」ということになるんでしょうね(笑)。もちろん、園主さまとしても、そんな荒れた状態がずーっと続くのは、善意の閲覧者のみなさんのためにも困るわけで、掲示板荒らしのために「花園」がどうしようもなく荒れた時期には「これがずーっと未来永劫つづくわけではない。だから今は、後で恥じることのないように、正々堂々と対応しておけばいいんだ。見る人はちゃんと見てくれているよ」というようなことを、自他に言い聞かすように何度も書いておられました。
 じっさい、「アレクセイの花園」は、テーマを限定してそれに寄り掛かることをしない、かなり硬派の掲示板であるにもかかわらず、設立時のサイトからの独立(2001.1.1)後の4年間を見ても、1日平均100件以上のアクセスがあるし、時にアクセス数が増えることがあっても100を下回ることはほとんどなく、今はもう完全に安定期に入っていると思います。つまり、ここ「花園」を寂れさせようと掲示板荒らしたちがいろいろやったことはすべて徒労だったということだし、園主さまのおっしゃったとおり、目先の状態にとらわれず後世に恥じない対応をした結果 が、今の「花園」なんだと思います。

 そして、こうしたことは、日本や世界の情勢にも当てはまると思うんですよね。今は、権力者が権力と暴力を盾にやりたい放題をやって、正義を蔑ろにしています。そして、いつの時代にも権力者の本質とはそういうものだから、ついついボクたちは今の望ましくない状況がずーっと続いていくかのような絶望感にとらわれがちなんですが、でも、そんなことはありえないんですね。『平家物語』のあまりにも有名な一節、

  祇園精舎の鐘の声
  諸行無常の響きあり
  沙羅双樹の花の色
  盛者必衰の理をあらわす
  おごれる人も久しからず
  ただ春の世の夢のごとし
  たけき者も遂には滅びぬ
  偏に風の前の塵に同じ

とあるように、どんなにこの世の栄華を誇る『おごれる人』も『たけき者』も、ついには時間の試練に曝されて、いずれは滅びていくものなんです。

 ただ、滅びていくのは、何もそういう人たちばかりではありません。善人の幸福も平和な社会も、時間の試練の中で、いずれは変質し崩壊していくものだという現実にも言及しなくちゃ、公平とは言えないでしょう。――そうした意味で、幾多の試練を乗り越えてきたこの「アレクセイの花園」も、いずれはなくなってしまうものなんだという園主さまの言葉も、ものごとを歴史的なスパンの下に見る園主さまらしい先取りだと思います。





( 以下は「沙羅双樹の花の色に想う(2)」につづく)


カレンダーの話 投稿者:アーニャ  投稿日:11月17日(水)14時22分27秒

皆さまお久しぶり、アーニャよ。
11月も後半に入り、来年の影がほの見えてきたこの頃なんだけど、来年のカレンダーの準備なんかもなさってるかしら?アリョーシャは、田中麗奈ちゃんの買った?
実はKeenさまがずっと愛用していた、山と渓谷社の卓上日めくり『猫ごよみ』が、なくなっちゃったようなのよ!同社のHPになかったから、もう作ってないのね、きっと。
壁掛けで月めくりタイプのものならあったんだけど……日めくりは売れないのかしらねえ。
私としても、毎日違うコたちとの出会いが楽しみだったから、残念だわ。
また何か面白いカレンダーが見つかるといいんだけど。

楽古堂さま、KeenさまはJr.誕生〜1年くらい、両手首の腱鞘炎に耐えたのだけど、慢性の痛みはとにかく冷やさず、温めるのがいいそうよ。当時治療に通 ってた接骨院の先生がそうおっしゃってたんですって。もうご存知かとも思うけど、これからますます冷えますから、お大事に。

それでは皆さま、ごきげんよう。
にゃあ〜♪


公に名において隠蔽される私(下) 投稿者:園主  投稿日:11月14日(日)16時01分9秒


 本多正一さま

『子不語の夢 ― 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(皓星社)

ご紹介いただいたページを見て、初めて本多さまがかかわっておられたのを知りました。
何度もお聞かせいただいたとおり、本多さまは「作家としては、中井英夫よりも江戸川乱歩を評価している」とおっしゃるほどの乱歩ファンでございますから、この本の「監修」に当たられたのも、さほど意外なことではございませんでした。ただ、

> 今年の江戸川乱歩先生生誕110年を記念して、皓星社より『子不語の夢ー江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』が刊行されました。探偵小説への夢と希望を持った若き平井太郎青年が、探偵趣味の大先輩・小酒井不木博士の推挽によって、専業作家として立つことを決意する感動的な書簡のやり取りが収録された貴重な書簡集です。

という文章の『江戸川乱歩先生』という表現は、正直気持ち悪かった(笑)。この「先生呼ばわり」が他の作家に対するものであれば、一種の「揶揄」であろうと思えるのですが、もっとも好きな作家に対するものだから、逆に引っ掛かってしまったのでございます。
もちろん私は、「先生呼ばわり」がしばしば「お追従(という政治手法)」として使われるものだから好ましくない、と否定しているのではありません。そういう側面 の存在は否定しがたいにしろ、「ゴマスリ根性の有無」はしょせん個人の内面 の問題でございますから、一般論として「先生呼ばわり」を否定する気はないのでございます。

しかしまた、一般論として「先生呼ばわり」が自然なものとなるのは、

・ その人物(先生と呼ばれる方)が(その生死にかかわりなく)教育者である場合

であるか、あるいは、

・ その人物と面識があり、かつその人物が自己(先生と呼ぶ方)にたいして教育的な存在だった場合

でございましょう。

つまり、生前の乱歩に面識もない者が、推理作家である乱歩を「先生」呼ばわりする場合、どこか「気持ち悪い」感じがつきまとうのでございますね。「なぜ呼び捨て(あるいは「氏」づけ)ではいけないのか? 先生呼ばわりすれば、何がどう違うと言うのか?」と感じるのでございます。

たぶんこれは、本多さまがあらかじめ存在した紹介文を流用したために、まことに不似合いな『江戸川乱歩先生』という表現が生き残ってしまった、ということなのではないでしょうか。――乱歩を称揚しようという地元の方をとやかく言うつもりはございませんが、いっぱんに地元関連の有名人を無闇に「先生」呼ばわりするのは、一種の「権威主義」でもあれば「自慢」でもございますから、都会人のセンスからするば、いかがなものかと思ってしまうのでございます。



 ホランド

やっと『暗黒館の殺人』(綾辻行人)を読みはじめた。関口苑生を読んだ後だからだろうが、この設定やこの書き出しは、「いかにも」って感じで、鼻につく人はつくだろうな。それも無理のないことだと思うよ。

読むやすい文章だけれど、やっぱりとにかく分厚い。普通の新書版教養書なら6冊分、新書ミステリなら4冊分。(「暇つぶし」で読む読者は別 にして)読みたい本の多い読書人にとっては、その厚さに見合う作品になっていなければ読む価値がないと思うんだが、それも容易なことではないだろうな。





それでは、みなさま、本日はこのあたりで失礼いたします。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


公に名において隠蔽される私(中) 投稿者:園主  投稿日:11月14日(日)16時00分14秒

しかしまた、こういう「怒る」タイプの人は、たいがい喧嘩に弱い。そこに戦略的思考が皆無なのだから、これは当然のことなのでございますが、そのことを本人もなかば自覚しているため、変なところで中途半端に腰が退けてしまい、それがまた傍目にも見えてしまうのでございます。
本書のテーマである江戸川乱歩賞受賞作品そのものや、選考委員の不見識については、じつに忌憚のない直言を放っていて、大いに評価できるものの、ときどき何に配慮したのか、妙に曖昧な書き方をするところあるのでございます。例えば、昭和56年の乱歩賞受賞作『原子炉の蟹』(長井彬)の人物描写 (人物の書き分け)不足を論じた部分に、こういう文章がございます。

『これぞまさしく、ある新本格系の作家がかつて述べていた、殺されるためだけに登場させる人間に人物描写 など必要ない、彼らはその役割だけを全うしてくれればいい、という小説無視の姿勢にほかならない。』(p227)

「なぜ名指さないのか」ということでございます。明らかに否定的に引用しているのでございますから、ここでは否定対象を名指して、自身の批判責任を明確に引き受けるのが、筋というものでございましょう。また、その覚悟がないのなら、こんな必然性のない(付録的な)引用などすべきではないのでございます。

つまり、本書を通読して感じるのは、「不器用な正直者」ではあるものの、その半面 「覚悟のない小市民」とも言える、関口苑生の人間的・批評家的スケールなのでございます。正直者の文章なので、私が言うところの『体制順応型の優等生批評家』の文章では絶対に読めないであろう、「ミステリ文壇内の生の声」を聴くことができ、その点で面 白くもあれば裨益されるところも少なくない本でありながら、その著者はというと、好感は持てるものの、残念ながら高く評価することはできなかったのでございます。





 時雨さま

>> 同じミステリ作家でさえ、そうした「無理解な読者」の域を出なかったということが、佐藤友哉のいら立ちを増幅したのでございましょうね。

> うーん。でも、変革を志向する佐藤が旧世代の理解を望むのはあまりにも虫が良すぎるような気がしますね。
> 清涼院や森博嗣でさえ出てきたとき叩かれたわけですし。

たしかに。しかし、佐藤友哉の愚痴のタレ方をみておりますと、彼にそうした「克己心」など、ほとんど無いのではないかと存じます。基本的には、「甘ったれ」の「(幼い)反撥屋」なのではないでしょうか。

> 太田編集長と佐藤が衝突しているのは事実らしいですけどね。
> 以前行ったファウスト創刊記念イベントでも東浩紀氏が「太田さんはところかまわず佐藤に説教しすぎですよ。この間飲んだ時なんか乙一さんがひいてましたよ。」といったことをおっしゃってましたし。

ある業界人が、太田編集長と若手作家の(見掛け上の)関係を「体育会系で気持ち悪い」と言っておりました。「編集者と作家」と言うよりも、「先輩と後輩」「年長者と若輩者」そして「作家にしてやった者と育ててもらった者」といったニュアンスが感じられ、文系人間が嫌う「絶対服従の上下関係」的な雰囲気があったようでございますね。


空虚に巣食う魔 ―― 笠井潔と『空の境界』

> 興味深く読ませていただきました。奈須きのこ論を書く上で参考にいたします。
> やはり一つにまとまると印象が少し変わりますね。

どのように印象が変わったのでしょうか? 忌憚のないところをお聞かせ下さいまし。





( 以下は「公に名において隠蔽される私(下)」につづく)


公に名において隠蔽される私(上) 投稿者:園主  投稿日:11月14日(日)15時57分1秒

みなさま、過日の東京行の際に買って戻りました『江戸川乱歩賞と日本のミステリ』(関口苑生・マガジンハウス)を読了いたしました。
先日、 この本に対する期待を、私は『評論家としての関口苑生をまったく評価しておりません』、しかし『時に「公(おおやけ)」を引き裂いて「私(わたくし)」の部分が噴出するらしい『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』は、その特異性・稀少性において注目に値するのでございます。』と記しましたが、本書を読み終えての感想は、おおむね予想は当たっていたというものでございました。

本書は、江戸川乱歩賞受賞作を、年代順にその時代背景をからませながら論じた長編評論で、全体のテーマであり結論でもあるのは「歴代乱歩賞受賞作は、善かれ悪しかれ時代の産物であり、江戸川乱歩賞の歴史を追う作業は、そのまま戦後の日本の遍歴を追想する作業であった」というようなことでございます。しかし、このような見解は、誰もが気づくとおり到って凡庸なものであり「あたりまえじゃないか」と言われればそれでお終いといったものでしかございません。ですからこそ、大切なのは結論ではなく、各論での分析考察の中味ということになるのでございますが、これがやはり「この時代にはこんな事件が起ったのだが、いま考えるとこの年の受賞作は、そうした日本人の漠然たる気分を象徴するものだったと言えるのではないか」といった調子で一向に深まりを見せず、無難な見解(感想)ゆえ一応なるほどなと首肯はできるものの、批評に期待される「目から鱗が落ちる」式の感動がほとんど得られないのでございます。そうした意味で、やはり「関口苑生は、評論家として凡庸である」という評価は、残念ながらすこしも揺らぎはいたしませんでした。

しかし、全24章のうち、意外なほど手堅い(普通っぽい)印象をあたえ、かえって私を危惧させたのは第8章までで、それ以降はだんだんエンジンがかかってきたのか、噂に違わぬ 「関口節」が炸裂しはじめ、大いに楽しませてくれました。「批評」としては今一つ冴えなくても、「関係者(乱歩賞予選委員)の生の声」としてはかなり面 白かったのでございます。

本書を読んで感じたのは、関口苑生という人は、基本的に「怒りの人」なのだということでございます。しかし、関口自身、あとがきで『取材に出ても、まともに人と口がきけず、話をほとんど聞けないまま原稿をでっちあげる。その原稿も、ひとりよがりで小難しい言い回しが多く、とてもじゃないが人に読ませて自慢できるものではなかった。』と回想しているように、この人はもともと内向的な人で、その怒りを内に溜め込むタイプだったのでございましょう。それが『時に「公(おおやけ)」を引き裂いて「私(わたくし)」の部分が噴出する』という形をとるのだと存じます。
ですから、この人の場合、他人を批判していても、そこに戦略的思考という程のものはほとんど働いていないようで、敵をどうするかではなく、ひとまず言わねば気がすまないから言っている、という感じなのでございます。つまり、私とは「好み」に大きな違いはあれ、この人の怒りはいたって正直なもので、この人が損得抜きで正直な感想を語っているのだということだけは信じられて、そこに好感を覚えるのでございます。例えば、こんな具合でございます。

『岡嶋二人と高橋克彦の場合は、まず江戸川乱歩賞をとると決意して「傾向と対策」の勉強に入ったのは確かだろうが、彼らはその後のこともしっかり見据えていたのである。
 それに加えてあえてもうひとこと付け加えさせていただければ、同じように傾向と対策を勉強したのはいいけれど、その作品が「受験答案」であったときに、それをすんなりと受賞作とする選考委員たちの「眼鏡」の問題は一体どうなるのだと言いたい。
 まったくくだらぬトリックの類似性であるとか、いい加減な取材による実行不可能であるとの断定といったことで、価値のある作品を落してしまう選考委員の責任は何も問われないのでだろうか。』(P249〜250)

(※ 引用者註:『トリックの類似性』『いい加減な取材による実行不可能であるとの断定』とは、岡嶋二人の『あした天気にしておくれ』が、乱歩賞の最終候補に残りながら、落選させられた時の理由。特に後者の理由は、確認取材が杜撰であったために、実行可能なトリックが実行不可能だとされてしまい、落選が決定的になってしまった)




( 以下は「公に名において隠蔽される私(中)」につづく)



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