●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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子不語の夢 投稿者:本多正一  投稿日:11月10日(水)12時52分33秒

 先日は失礼いたしました。
 さて、今年の江戸川乱歩先生生誕110年を記念して、皓星社より『子不語の夢ー江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』が刊行されました。探偵小説への夢と希望を持った若き平井太郎青年が、探偵趣味の大先輩・小酒井不木博士の推挽によって、専業作家として立つことを決意する感動的な書簡のやり取りが収録された貴重な書簡集です。
 いうなれば作家・江戸川乱歩誕生の秘密が乱歩没後39年にして公刊された意義深い一冊。特別 附録として乱歩不木の筆跡が窺えるCD-ROMを添付しつつ、4200円+税という破格のお値段です。初版部数は1000部ということなので、探偵小説、乱歩、不木ファンは書店へ急げ!!
 以上、宣伝で、すみません。(本屋さんへは来週早々に並ぶそうです)重ねてよろしくお願いいたします。
 
http://www.iga-younet.co.jp/news/synthesis/2004/11/041108_2.html

http://homepage1.nifty.com/mole-uni/shifugo.html


坂道を行く 投稿者:時雨  投稿日:11月 9日(火)23時53分12秒

学園祭で忙しくしばらくご無沙汰しておりました、時雨です。

>Keen様

ヘビーですか・・・
「拘りを持たず」に読むのはなかなか難しいかもしれませんが、頑張って読んでみます。

>楽古堂様

ご忠告ありがとうございます。
それではとりあえず三部作の他の作品を探してみますね。
三つも読むとなると時間がかかるかもしれませんが、もう少しだけお待ちください。

>園主様

>同じミステリ作家でさえ、そうした「無理解な読者」の域を出なかったということが、佐藤友哉のいら立ちを増幅したのでございましょうね。

うーん。でも、変革を志向する佐藤が旧世代の理解を望むのはあまりにも虫が良すぎるような気がしますね。
清涼院や森博嗣でさえ出てきたとき叩かれたわけですし。

>「終章=あとがき」に太田編集長批判と取れる文章が残っているのは、「交換条件」ということだったのかも知れません。

太田編集長と佐藤が衝突しているのは事実らしいですけどね。
以前行ったファウスト創刊記念イベントでも東浩紀氏が「太田さんはところかまわず佐藤に説教しすぎですよ。この間飲んだ時なんか乙一さんがひいてましたよ。」といったことをおっしゃってましたし。

>どうぞ、今後ともご教示のほど、よろしくお願いいたします。

ご教示など・・・僕の方こそ、ここでは教えられることが多くて恐縮です。

>「空虚に巣食う魔 ―― 笠井潔と『空の境界』」

興味深く読ませていただきました。奈須きのこ論を書く上で参考にいたします。
やはり一つにまとまると印象が少し変わりますね。

>ホランド様

>「ゲーム」は、「作家性」の帰属するところが特定しづらいということなんでしょうね。

例えばシナリオライターが企画を実現するだけの文章屋であることも多々ありますからね。TYPE−MOONはそういったわけではないので比較的扱いやすいのですが・・・

それでは皆様、今夜はこの辺で。


空虚に巣食う魔――笠井潔と『空の境界』(下) 投稿者:園主  投稿日:11月 8日(月)23時54分42秒

 本多正一さま

>  ホランドさんがお書きになってくださいました「小説推理」での「アドニス」版「虚無への供物」ですが、掲載までのいろいろをお話すると、シッポが生えてきそう(by keenさん)ですので「乞う御期待!!」とのコメントのみさせていただきます。同性愛描写 に驚かれる方も多いかと存じますが、人間同士の性愛の組み合わせには限りがございます。別 段どうってこたございません。

私個人にとっても「同性愛」の問題は『別段どうってこた』ないのでございますが、しかし、世間の現実は到底そのようなものではございません。やはり、大半の者にとって同性愛は、「不自然」なものであるが故に、生理的な嫌悪感を喚起せしめ、結果 、根強い差別感覚を惹起せしめるものなのでございます。まして、ブッシュ大統領を再選せしめた、アメリカのキリスト教原理主義者などは、宗教的な見地から、「堕胎」と「同性愛」は悪魔の所業だと確信している始末でございます。

そして、そうした人たちの存在を無視し、「私(個人)は、同性愛など何とも思わない」と澄ましてみたところで、「同性愛」という難問を乗り越えたとは言い得ない、というのが私の現在の立場でございます。
例えば、中井英夫ファンであると称し、「当然、同性愛者にも偏見など持っていない」と言明する人のうち、一体どれだけが真に偏見を持っていないと申せましょう。むしろ、そうした人の多くは、単に、自己に内在する偏見に、無自覚なだけ(興味が無いだけ)なのではないでしょうか。

言うまでもなく、私が「差別(偏見)」の問題に興味を持つのは、中井英夫のファンだから、といったレベルのことではございません。私はそれを「例外的存在というものについての認識と評価」という難問の一端として捉えているのでございます。

今回公開される「アドニス」版『虚無への供物』が注目されるとすれば、それは「同性愛文学者」を「珍獣」でも見るような興味をもってのことなのだ、という現状認識を、私は疑わないのでございます。ですからこそ、問われるべきものは、公開以降の読者の姿なのだと存じます。



 Keenさま

> 中井英夫には、長い尻尾もねじれた角も隠れています(or 見え見え?)。それでいて、風切り羽は一点の曇りもない純白ときたもんだから、始末が悪い(笑)。

そうでございますね。中井英夫の場合、自分で言ってしまっている点が弱点だと言えば弱点なのでございますが、まあ中井とて人間であれば、そうした弱さは容認されるべきなのでしょうし、中井の場合、そういう弱さも「魅力の内」なのでございましょう。
ただ、問題としては、我々自身がそうした弱さを、中井英夫に託つけて正当化してしまいがちなところにございましょう。漆黒の羽に覆われていればこそ、一瞬のぞく水切り羽の白さも映えるのでございますから、我々としては生ぬ るい「灰色の鳥」になどならぬよう、厳しく戒めてかかるべきなのではございませんでしょうか(笑)。



 ホランド

> ちなみに、『1972年に製作され、マイケル・ケインとローレンス・オリヴィエの二人芝居といっていい映画』だった『探偵スルース』が、ジュード・ロウの主演でリメイクされるようですね。リメイク版では『オリヴィエが演じた役をケインが、ケインの役をジュード・ロウが演じる事』になったそうです。こちらも楽しみな作品ですね(笑)。

それは知らなかった。楽しみな作品になりそうだな。
でも、私自身は気づかなかったんだが、ジュード・ロウはその出演作から推すと、世間一般 には「古風な美男子」ということなのかも知れないな。また、そこから推すと、「今風の美男子」は(私にはいまいちピンと来ない)、ジョニー・ディップだということになるのかも知れない。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


空虚に巣食う魔――笠井潔と『空の境界』(上) 投稿者:園主  投稿日:11月 8日(月)23時53分57秒

みなさま、本日は、いぜん3回にわたって発表した後、討論・笠井潔をめぐってに収録いたしました旧稿を、

 ・ 空虚に巣食う魔 ―― 笠井潔と『空の境界』

として一本にまとめ、アップさせていただきました。いつもどおりレイアウトに工夫を凝らし書影なども加えて、格段に読みやすくなっておりますので、この機会にご再読いただければ幸いでございます。





 楽古堂さま

> 小生「Amazon.co.jp」にレビューを書いています。今、書き込もうとして「サインイン」しましたら、「アカウント」が登録されていないというエラー・メッセージが帰ってきます。「アカウント」というのは、「メールアドレス」と「パスワード」のことだと思います。もう90回近く書き込んでいるので、そんなことはありません。何かがおかしいのですが、どうして良いのか分かりません。問い合わせ先も不明です。どのようにすれば対処できるのか、どなたかお知恵を拝借できませんでしょうか?

私もそういったことは詳しくございませんが、書き込みの手続きにミスが無いのであれば、サーバコンピュータの故障や一時的不調の可能性が高いと思われます。日をかえて試みてみてダメならば、他の投稿者にメールを送って、問い合わせてみられてはいかがでしょうか?

なお、いぜん、この掲示板における「不測の多重投稿」に関するお尋ねがございましたが、これはたぶん、単純な投稿(手続き)ミスかと思われます。
「投稿モード」を採っておりますため、投稿者のみなさまには何かとご不便をお掛けしておりますが、そうした点については、管理者の私がフォローさせていただきますので、どうぞ遠慮なく訂正の指示をなさってくださいまし。





( 以下は「空虚に巣食う魔――笠井潔と『空の境界』(下)」につづく)


『ソウ』『キューブ』『沙粧妙子 最後の事件』『探偵スルース』(下) 投稿者:ホランド  投稿日:11月 8日(月)00時27分19秒


 Keenさま

>> やはり中井英夫は、基本的には「凶鳥」であり、気やすく馴染めるような存在ではない、というのが、私の中井英夫理解でございます。(園主さま)

> これ、同感です。
> 私は中井英夫が大好きですし、ここ「花園」でも再三話題に出してきましたが、それはもっぱら「中井さんの思い出話」であって、作品内容に言及するものではありませんでした。
> 私の場合、作品には手が出せないのです。
> 何かわかった風なことを書こうとすると、たちまち浅薄な誤読に堕してしまう。違う、こんなことを言いたいんじゃないのに、と隔靴掻痒の感だけがつのる、言語化できないもやもやした感じ……

> 中井英夫には、長い尻尾もねじれた角も隠れています(or 見え見え?)。それでいて、風切り羽は一点の曇りもない純白ときたもんだから、始末が悪い(笑)。
> それでも、いつかは何か書けるようになるんだろうかと自問しても、答えは「?」。

 「語り得ないものを語ることなかれって」って箴言をごぞんじですか? 知らないですよね。これ、ボクが今思いついた「ホランドの箴言」なんだから(笑)。――でも、ありそうな言葉でしょ? きっと、あると思うなあー。

 ま、園主さまは「語り得ないもの」を何とか語ろうとして、千万言を費やす徒労を辞さない求道者タイプだから、それはそれでしかたが無いんだけど、やはり「語り得ないもの」は安易に語るべきではないと思いますよ。プロの書評家の手になる『虚無への供物』の紹介文が、たいがいどうしようもなく空疎なのは、そういう「語り得ないもの」への敬虔さを欠いているからだと思うんです。そしてそれを欠いている人は、ついに「語り得ないもの」を見失うんじゃないかと思います。つまり「言葉」に定着したという安心感が、かえって本質的な部分を見失わせてしまうんだと思うんです。

 でも、逆に言えば「語り得なさを語る」という手法も考えられますけどね。例えば、園主さまで言うと「安易に誉めないことで、愛を語る」という ―― 「子供の愛情表現」みたいなやり方(笑)。



 園主さま

 過日の『モーターサイクル・ダイアリー』に続き、今日は『ソウ』をご一緒させていただき、ありがとうございました。
 『ソウ』については、ミステリ・マニアとして少々評価が厳しくなってしまったかも知れませんが、こういう作品に馴れていない人なら、あの禍々しい雰囲気と、何度もくりかえされるどんでん返しに、ビックリさせられること請け合いですね。
 個人的には、『リーサル・ウェポン』のダニー・グローバーが刑事役で出ていたのが、ちょっと「おっ」って感じでした。でも、刑事の行動にも無理がありましたよねー(笑)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


『ソウ』『キューブ』『沙粧妙子 最後の事件』『探偵スルース』(中) 投稿者:ホランド  投稿日:11月 8日(月)00時26分40秒


 楽古堂さま

> ホランド様へ。老化現象と弱気ねえ。原因は、腱鞘炎が治らないということなのです。親指に力が入りません。それでも、仕事上、どうしても書くことが必要です。不安があります。手に負担を掛けないために、自分の原稿などは意識して書かないようにしています。キーボードは、ペンよりも親指に負担をかけません。英語は28個のキーのみ。手に楽。海外のサイトに飛んでいることが多い理由は、このあたりにもあるかも。

 まだ腱鞘炎が癒えておられなかったんですか、それは大変ですね。
 書くことがお好きなのに、それを封じられるのはつらいですよね。読書家が目を悪くするのと同じ苦痛かも知れません。基本的には腕を使わずに養生する必要があるのでしょうが、お仕事の性格上それもままならないということですから、一度、べつのお医者さまに診てもらうというのも、ひとつの手ではないでしょうか? ともあれ、どうぞお大事になさってください。

> 『モーニング娘。』は、メンバー何人で誰がいるのか?最新のヒット曲は、曲名を覚える前にチャートから消えている。テレビのアニメも映画も、若い学生からの情報で知る。明らかに、変化のスピードについていけない自分。「効率」ではない、自分が信じられる価値は何か?追求の途上。J.R.R.トールキン。シオドア・スタージョン。泉鏡花。幸田露伴。澁澤龍彦等々。十代の後半には、すでに愛読していた作家たち。そこに帰っていく自分。

 こないだ園主さまが、シオドア・スタージョンの本が昨年から今年にかけて2冊出ていると書かれていましたが、さらに2冊が予定されているようですね。
 既刊が『海を失った男』(国書刊行会・2003)と『不思議のひと触れ』(河出書房新社・2003)の2冊で、近刊として『ヴィーナス・プラスX』(国書刊行会・2004)と『輝く断片』(河出書房新社・2004)の2冊が予定されています(長編の『ヴィーナス・プラスX』以外は、日本でのオリジナルアンソロジー)。

 ちなみに『海を失った男』の編者は、創元推理文庫版『将棋殺人事件』(竹本健治)の解説者でもある、英米文学者の若島正さんです。



 本多正一さま

> ホランドさんがお書きになってくださいました「小説推理」での「アドニス」版「虚無への供物」ですが、掲載までのいろいろをお話すると、シッポが生えてきそう(by keenさん)ですので「乞う御期待!!」とのコメントのみさせていただきます。

 そうなんですか?(笑) 本多さまの(ここでは書けない)武勇伝は、園主さまからいろいろと「面 白おかしく」聞かせていただいているので、『掲載までのいろいろ』というのは、さぞや修羅場だったのではないかと想像してしまいます。「アドニス」版『虚無への供物』はボクも読ませてもらいましたので、個人的には『掲載までのいろいろ』の方に興味があるなあー。また、園主さまにこっそり探ってもらおっと(笑)。

 え? 「「アドニス」版『虚無への供物』を読んでいるのなら、前回の書き込みで、どうして自分の感想を書かなかったのか?」って。……そこはそれ(って便利な言葉/笑)。

 ボクも「小説推理」12月号、楽しみに待たせていただきます!





( 以下は「『ソウ』『キューブ』『沙粧妙子 最後の事件』『探偵スルース』(下)」につづく)


『ソウ』『キューブ』『沙粧妙子 最後の事件』『探偵スルース』(上) 投稿者:ホランド  投稿日:11月 8日(月)00時25分53秒

 みなさん、こんばんは! 今日(11/7)は園主さまと『ソウ』(ジェームズ・ワン監督)を観てきましたよ。点数的には、80点というところかな。

 たしかに「謎のシャワールームで、目を覚ました見知らぬ二人の男。そして二人の間には、頭を拳銃で打ち抜いた自殺死体が……」という奇抜なシュチュエーションで始まるミステリなんですが、園主さまが引き合いに出されていたシュチュエーションSFサスペンス『キューブ』に比べると、最初のシュチュエーション「外」のシーンが多くて、むしろ印象としては、ここ「花園」でも何度か話題にのぼったことのある、テレビシリーズ『沙粧妙子 最後の事件』に近い印象でした。つまり「シチュエーション・ミステリ」の側面 よりも「どんでん返し型サイコサスペンス」という感じだったんです。
 これは『キューブ』が、謎のダンジョンから脱出しようとする行動的なサスペンスであったのに対し、『ソウ』の方は、主人公の二人がシャワールームに鎖でつながれており、犯人から小出しに与えられるヒントによって、少しずつ記憶の糸をたぐって真相に行き着こうとするミステリということで、(『キューブ』にはほとんど無かった)「回想シーン=外のシーン」が映画の半分以上を占めいたせいでしょう。

 つまり「密室推理劇」としては、ミステリ映画の傑作『探偵スルース』のサイコサスペンス版といった感じでしょうか。その意味では『キューブ』ほどのシュチュエーションに対するこだわりは感じられず「密室劇」の部分に期待しすぎると、肩すかしを食う部分があります。でも、そこは『沙粧妙子 最後の事件』を思わせる「万能の犯人」による「想像を絶する猟奇犯罪」がすごくって、ぐいぐい引っ張ってくれるんですね。

 ただこの作品、勢いで見せるところがあって、ミステリとしては細部の詰めが甘い。いかにも「きちんと伏線を張っていますよ」という確認をとる謎ときシーンが何度かあるんですが、全体としては無理のある話で、映画を観終ったあとでは「こんな犯罪、不可能だよ」と思える部分が、たくさんあります。

 つまり、この作品は一見したところ「シチュエーション・ミステリ」なんですが、「シチュエーション」に対するこだわりは意外に薄く、しかもミステリとしては論理性に欠けるんです。でも、この映画の本領は、じつはそんなところには無くって、観客の気をそらさせないスピード感のある「どんでん返し型・猟奇サイコサスペンス」というところにあったんだと思います。

 ――う〜ん、こう説明しちゃうと、何だか観に行く気を無くしちゃう人が多いような気がするんだけど、でも観ている最中は、ハラハラドキドキでなかなか楽しませてくれる作品ですから、1800円の値打ちはあったと思いますよ(^-^;)。


 ちなみに、『1972年に製作され、マイケル・ケインとローレンス・オリヴィエの二人芝居といっていい映画』だった『探偵スルース』が、ジュード・ロウの主演でリメイクされるようですね。リメイク版では『オリヴィエが演じた役をケインが、ケインの役をジュード・ロウが演じる事』になったそうです。こちらも楽しみな作品ですね(笑)。





( 以下は「『ソウ』『キューブ』『沙粧妙子 最後の事件』『探偵スルース』(中)」につづく)


デーモン中井? 投稿者:Keen  投稿日:11月 7日(日)17時18分23秒

>やはり中井英夫は、基本的には「凶鳥」であり、気やすく馴染めるような存在ではない、というのが、私の中井英夫理解でございます。(園主さま)

これ、同感です。
私は中井英夫が大好きですし、ここ「花園」でも再三話題に出してきましたが、それはもっぱら「中井さんの思い出話」であって、作品内容に言及するものではありませんでした。
私の場合、作品には手が出せないのです。
何かわかった風なことを書こうとすると、たちまち浅薄な誤読に堕してしまう。違う、こんなことを言いたいんじゃないのに、と隔靴掻痒の感だけがつのる、言語化できないもやもやした感じ……

中井英夫には、長い尻尾もねじれた角も隠れています(or 見え見え?)。それでいて、風切り羽は一点の曇りもない純白ときたもんだから、始末が悪い(笑)。
それでも、いつかは何か書けるようになるんだろうかと自問しても、答えは「?」。

というわけで、「ご期待!!」して、月末を待ってますね。(>本多さん)


乞う御期待!! 投稿者:本多正一  投稿日:11月 7日(日)00時19分14秒

 お邪魔いたします。どうもこのところ、こちらの掲示板に小生の名が頻出しているようで、心穏やかなならぬ 日々を送っております。

 ホランドさんがお書きになってくださいました「小説推理」での「アドニス」版「虚無への供物」ですが、掲載までのいろいろをお話すると、シッポが生えてきそう(by keenさん)ですので「乞う御期待!!」とのコメントのみさせていただきます。同性愛描写 に驚かれる方も多いかと存じますが、人間同士の性愛の組み合わせには限りがございます。別 段どうってこたございません。
 また今回挿絵は、中井英夫作品お馴染みの××××画伯ではなく、宇野亜喜良画伯が担当してくださいます。こちらもくわしくお話するとシッポが生えてきそうですので、「乞う御期待!!」とのみコメントいたします。諸事ご賢察ください。
 以下、乞われて執筆した駄文のさわりを。

 男の愛、人間への愛   /  本多正一

「書かずに頭でばかり考えていたのでは、いつまでたっても出来あがらないと、さすがに自分でも思って、翌年だったか、ある会員制の雑誌に、第一章の紅司の死までを載せてもらったことがあります」(中井英夫インタビュー「塔晶夫は語る」/「別 冊幻想文学 中井英夫スペシャル」一九九三年)

 近年、城市郎編『別冊太陽 地下本の世界 発禁本』(二〇〇一年六月、平凡社)、末永昭二『貸本小説』(二〇〇一年九月、アスペクト)、伏見憲明『ゲイという経験』(二〇〇二年三月、ポット出版)などで少しづつ研究、紹介がなされてきた男性同性愛者たちの会員制同人誌「アドニス」(一九五二〜一九六二年)だが、日本の戦後文学史を彩 る高名な文学者が多く匿名で集っていたことはいまや公然の秘密となっている。中井英夫の没後十年、『虚無への供物』刊行四十年を経て、東雅夫氏の慫慂により、この稀有の大作の、碧川潭名義による第一稿が掲載された(「アドニス」21号〜24号、以後中絶、一九五五年掲載月不明)より「序章」部分(21〜22号)を掲載する。生前の中井英夫に東氏ともども了承を受けていたこともあるが、さまざまな状況から時宜を得たものと判断した。
 作家の未発表原稿、日記、書簡まで読む行為に、作家が生涯を賭け築き上げてきた営為そのものを解体する眼差しが不可避に生ずる可能性は承知している。だが、マルセル・プルーストが若年書きためていた『ジャン・サントゥイユ』の一部を『失われた時を求めて』に使用しているように、フランツ・カフカの『審判』『城』『アメリカ』等が親友マックス・ブロートによる死後刊行であるように、あるいは『死霊』未定稿が『埴谷雄高全集』第一巻(一九九八年、講談社)に収められているように、草稿、未定稿、構想の断片などは文学生成の現場を追体験、想像することを可能とし、 それぞれ決定稿とは別の固有の価値を有している。 (以下略)

 


至急:ご質問 投稿者:楽古堂  投稿日:11月 6日(土)09時08分51秒

小生「Amazon.co.jp」にレビューを書いています。今、書き込もうとして「サインイン」しましたら、「アカウント」が登録されていないというエラー・メッセージが帰ってきます。「アカウント」というのは、「メールアドレス」と「パスワード」のことだと思います。もう90回近く書き込んでいるので、そんなことはありません。何かがおかしいのですが、どうして良いのか分かりません。問い合わせ先も不明です。どのようにすれば対処できるのか、どなたかお知恵を拝借できませんでしょうか?


効率信仰・7 投稿者:楽古堂  投稿日:11月 6日(土)09時03分35秒

なるほど。X軸に効率性。Y軸に物質性。Z軸に精神性をおく。この座標空間のどこに「快・不快」を感じるかというのは、その人間の「信念」の問題。つまり、この視点は人間性全体に関わるので、若者という限定された対象の短所を、「効率」によって考えるのには無理がある。納得できますね。もう少し考えてみます。


信念の証明(6) 投稿者:園主  投稿日:11月 6日(土)00時00分5秒


 Keenさま

>> 本多さんの「ヘンなお母さん」話

> あれは正確には、本多さんがKeen Jr.宛にサインして下さったご著書『プラネタリウムにて』に、「ヘンなお母さんですね!」という添え書きがあったのを、Jr.が訝しんで、「お母さんのどこがヘンなんですか?」と質問したことに対する回答だったのです。
> 後で本人から聞いたところでは、本多さんは「『ステキなお母さんですね』って書こうかとも思ったけど、ああ書いたんだ」とおっしゃったとのことです。

本多正一は、本来、(私よりもさらに)エグイくらい正直な「ゲバラの遠縁」でございますからね、子供に嘘はつけなかったのでございましょう(笑)。

最近も、そうした点(?)で私に突っ込まれ、苦労しているようでございます(笑)。

> もちろん、子供が自分の親をスタンダードだと思って育つのは、言うまでもありません(笑)。
> また、Jr.は「アレクセイさんって、ヘンなおじさん」とも言っておりますが、これも言うまでもないことですね(笑)。

『ヘンなおじさん』という表現は、まだまだ甘いと存じます。「変」ではなく「非凡」では、いかがでしょうか?(笑)

> 最近、どうも「掃除の神」が憑いたらしくて、家の片付けを続けています。かつての書庫は、クリーンナップされて、ついにJr.の個室となりました!(ぱちぱちぱち)
> 我が家も、次のステップに進む時が来たようです。最近の不安は、それに基づく部分が大きいようです。「空の巣症候群」、とまでは言わないけれど。

掃除というのは、切りがなくなりますからね。「綺麗にする」というのは良いのですが、「綺麗でないと我慢できない」とか「汚せない」となると、これはこれでまた病気でございますし。
『次のステップ』とは、「新たな一歩」であるとともに、「これまでの続きの一歩」でもあるということを、忘れないようにすべきでございましょう。



 ホランド

昨日はご苦労さまでした。次は『ソウ』だな。とても楽しみだ(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


信念の証明(5) 投稿者:園主  投稿日:11月 5日(金)23時59分16秒


 楽古堂さま(つづき)

人間は無償で与えられる快楽を拒絶できはいたしませんし、他人に与えられるのに自分だけには与えられない快楽を、自分も「欲しい」と思わない者もおりません。交換条件として要求されるマイナス要因があって、初めて「どっちを取ろうか」と考えるのであって、ただでもらえるものなら誰だって欲しい、というのが人情なのでございます。しかし、だからこそ人は、そうした「欲望」からの超出に憧れをいだきます。欲望に振り回されることなく、淡々と心静かに生きたい。そう、「仙人」のように霞を食って生きたいという「不可能性に対する欲望」が誰しもあって、そこから「非効率」信仰というものが立ちあらわれるのでございます。

しかし、これは「人間の現実」に反する「幻想」でございましょう。こんなことが可能であれば、共産主義の実験も決して破綻はしなかったと存じます。

都会の喧噪の中で生きる者は、農村の長閑そうな生活に憧れますが、それは多分に「幻想」を含んだものでございましょう。農村には農村ならではの厳しい現実があり、都会人が当たり前に享受して何とも思わないものを、欲すれども与えられない、という現実があるのでございます。同様に、人間はややもすると知能の低い動物に対して「何も考えなくていいから、幸せだよな」なんて考えますが、こうした感じ方も、相手の「生のかたち」に配慮しない、ある種の傲慢なのでございますね。

つまり、見掛け上の「効率」「非効率」はさして問題ではなく、大切なのは、その人の「ペース」に合った生き方であるか否かなのでございます。例えば、年間10冊しか本を読まない人と、300册読む人とを比べた場合、どちらが幸せか、どちらが価値ある読書をしているかは、その冊数だけからでは判断できません。言うまでもなく、数をこなせば良いというわけではないからでございます。しかし、それぞれ1冊から裨益させられるところが同程度なのならば、冊数は多い方が良いに決まっているのでございますね。事実、10冊を読む人は、同じように楽しめるものならば、できればもっと(10冊以上)読みたいと願っていることでございましょうし、環境が許すのなら、あえて冊数を減らしたいとは思わないことでございましょう。

現代に生きる我々は、いろいろな可能性に開かれております。ネットも読書も、そういうもののひとつでございます。初めから閉ざされている可能性であれば、我々はそんな可能性を端から問題にはいたしません。例えば「瞬間移動」の可能性など今は「ありえない」ので、それができないことを本気で悔やんだりはいたしません。しかし、それが技術的に可能になれば、それを無いことのように無視するのは困難でございましょう。誰だって、できればその新技術の恩恵に浴し、その技術を利用して、人生をより豊かなものにしようとすることでございましょう。その結果 、例えば「読書量が減る」とかいったように、何かが失われることになったとしても、でございます。

つまり、われわれは「効率は良いに越したことはない」ということを十二分に知っているのでございます。だから、誰しもその効率を追ってしまいます。しかし、人間の「欲望」には切りがございませんから、そのことに疲れて、時には逆に「絶対に手に入らないもの」である「脱欲望としての効率無視」に憧れるのでございましょう。したがって、「仙人」への憧れのような「脱欲望」主義として「非効率」礼讃は、所詮「実態のないものへの憧れ」であり、その意味で「信仰」でしかないのでございましょう。かつて存在した、見掛け上の「反効率」の内実を問わないからこそ、その見掛けだけを信仰できるのではないでしょうか。





( 以下は「信念の証明(6)」につづく)


信念の証明(4) 投稿者:園主  投稿日:11月 5日(金)23時58分6秒


 楽古堂さま(つづき)

> 効率信仰

私は、そうとうな「せっかち」であり、他人の非効率な行動には人一倍イライラさせられる方なので、今回の問題提起にはいろいろ考えさせられました。その結果 、気がついたのが「反効率の神話化」としての「非効率信仰」ということでございます。

楽古堂さまのおっしゃられるとおり、「効率重視」は『搾取する側の資本の論理であったものが、労働者である我々に内在する倫理になっている』部分もあると存じます。しかし、『労働者である我々』は、そのことについてまったく無自覚ではなかったからこそ、搾取者の「効率」論理に対抗するものとして「反効率の論理」を立てて抵抗したのだと存じます。つまり「効率優先主義には、精神(=質)の貧困化をもたらすという弱点がある」のでございますね。たとえば、「物が豊かなのは良いことだ(=物的に豊かな方が良い生活ができる効率が高い)が、そうした物の豊かさ(=効率主義)を追求すると、それを楽しむ精神的余裕を失う」ことになりがちなのが「効率主義」でございます。ですから、「物の豊かさに執着せず、今あるもので豊かな精神生活を送ろう」と主張するのが「非効率主義」なのでございます。

しかし、ここで言う「非効率」とは、本当の意味での「非効率」ではない、ということを見落としてはなりません。この「非効率」とは、あくまでも搾取者が大義名分(物理的に豊かなことは良いことだ)に対して「精神性」というものを立てた結果 としての「非効率主義」なのでございます。つまり、搾取者たちは「目に見えるもの(物理的豊かさや生産性)」しか問題にいたしませんが、実際のところ人間は「パンのみにて生くるに非ず」で、心の豊かさ(精神性)も重要なのでございます。つまり、そうした「別 の(効率的)観点」から「物の豊かさ(数値化しえるものの効率性)」に異議を唱えたのが、ここでの「非効率主義」であって、これは本当は「精神という数値化しにくいもの」の効率性にも配慮した「本当の効率主義」に過ぎないのでございます。

つまり、効率は良いに越したことはないのでございます。ですが、目に見える効率だけを追うと、目に見えない部分で非効率が起るから、そういう皮相的な効率主義はいけない、ということに過ぎないのでございますね。
たとえば、楽古堂さまが挙げておられる事例を例に採りましょう。

> 若者の短所を考えていて。これではないかと気が付いたこと。昨日、コンビニで食事を購入。前におばあちゃんがいました。財布から、ゆっくりと小銭を取り出しています。となりの使用中止のレジに若い店員が入る。「お待ちの方、どうぞオ!」。いつのまにか、僕の後に並んでいた三人の若者が、さっとそちらに移動。店員も客も、おばあちゃんの遅いペースを待てないのです。いらいら。焦っている空気が伝わってきました。

この事例の場合、たしかに「忍耐力がないのは弱点だ」とは申せましょうが、「非効率を良いことだと思えないのは間違いだ」という答は導き出せません。じじつ、このおばあちゃんだって、何も好きこのんでノロノロしているわけではないはずでございます。それなのに、おばあちゃんの「非効率」さを、うっかり「良いこと(好ましいこと)」のように感じてしまうのは、この事例で描かれる若者の「忍耐力不足」が「効率主義」と短絡され同一視されているからではないでしょうか。このおばあちゃんが、素早い行動も可能なのに、他人の迷惑も考えずにわざとノロノロと行動していたのであれば、それに腹を立てるのは当然のことでございましょう。しかし、この場合、おばあちゃんは、知的・体力的に、そのように(ノロノロと)しか行動できない状態にあったから、そのように行動したに過ぎません。ですから、それに腹を立てるというのは「無駄 (=非論理的)」なことであり、言い換えれば「非効率」な行為なのでございます。

つまり、ここに描かれた「おばあちゃんの鈍さ」が、さも「価値のあること」のように感じられるのは、我々が「反効率」というものの内実を問わないで、それを「神話化」した結果 、「非効率信仰」に囚われるようになったからなのではないでしょうか。





( 以下は「信念の証明(5)」につづく)


信念の証明(3) 投稿者:園主  投稿日:11月 5日(金)23時56分53秒


 楽古堂さま

> 「こだわりのある若者」と「こだわりのない若者」の関係が、「表裏一体」だということの意味が、どうもよく分かりません。ともに教育基本法に基づく「学校教育」の結果 だということですか?もう少し説明して頂けますか?

一般に若者に「こだわり指向」が見られるということは、若者全体の傾向がそうである可能性が高い、ということなのでございますね。ですから、一見、二極分化して見えても、それは本質的なものではなく、現象面 での相違に過ぎないのではないか、ということございます。
つまり、今の若者には全般に「こだわり指向」があるにもかかわらず、実際には肝心の「こだわりの対象」を見つけるにいたっていないことによって、一見「何事につけ無関心な若者」というふうに見られる若者も少なくないのであろう、ということなのでございます。

そして、これは『教育基本法に基づく「学校教育」の結果』などではなく、自己形成の途上にある「若者」であれば当然のことである、と考えるのでございます。ただ、そうした現実的限界を、理想であり目標であるべき「教育基本法」の理念のせいにし、この「教育機会の平等」を謳った原則法規を廃することによって、さらに若者のニ極分化(差別 化)を組織的に押し進めようとする「新自由主義」的策動が存在し、それが問題だと、私は斯様に申し上げたいのでございます。
このあたり、ある程度、「教育行政」の現実についての知識がないと理解できないと思われますので、できれば以前にご紹介いたしました、斎藤貴男の『機会不平等』(文春文庫)を読んでいただければと存じます。

> 「こだわりの対象」を見付けられないでいる若者との接触の機会が、ネットでも予備校でも、ほとんどありません。ともに「こだわり」のある者が、来る場所ですから。

たしかにそうでございますね。しかし、「若者」を構成しているのは、そういう若者ばかりではございませんから、それ以外の若者についてまったく無知であれば、「若者」を正しく理解することは不可能だと存じます。であれば当然、自分が直接接する機会のない部分(の若者)について、つねに関心を払っておく必要があろうかと存じます。

アルゼンチンの中流家庭に生まれたゲバラは、若き日の南米旅行の過程で自分の無知と自身の世間の狭さを学び、趣味人を自負して恥じなかった私は、「9.11」以降、世界政治の現実を学ぶことによって、自己の無知と自身の世間の狭さを厭というほど思い知らされました。
そんなわけで、自身が「興味の持たなかった」ところにこそ、自分を伸ばす契機が隠されている、というのは、読書人や知識人であればこそ、なおさら深く銘記すべきことなのだと存じます。

> 澁澤龍彦の「ハースリーベ」は、中井の生き方を一語で言い当てた言葉だと思っています。それは、戦後の日本という大きなものから、有名な父親との関係、周囲の者との距離の取り方まで、一貫していたでしょう。しかし、そこには何か深い生理に根ざした、世界への違和感が根底にあります。これに共感しつつ「ハースリーベ」を共有することに、困難を感じます。園主様は中井の作品では、どんな言葉が「ハースリーベ」の表現として印象に残っていますか?

ホランドくんが書いておりましたように、中井英夫の「ハースリーベ(憎悪愛)」の根底には、被差別 者としての「同性愛者のアイデンティティー」の問題があると存じます。

私自身は、同性愛者ではございませんが、何かにつけて「普通」ではない部分がございますから、中井英夫の「同性愛者のアイデンティティー」に根ざした「ハースリーベ」にも、なんら抵抗は覚えません。私の場合、中井英夫の理屈よりも、むしろ、その生理に根ざした「ハースリーベ」の方にこそ、共感ができるのでございます。ですから、そうした意味で「きれいごとで共感を語ろうとする、多くの無難な中井英夫ファン」には、むしろ反感を覚えることすら少なくないのでございます。
やはり中井英夫は、基本的には「凶鳥」であり、気やすく馴染めるような存在ではない、というのが、私の中井英夫理解でございます。





( 以下は「信念の証明(4)」につづく)


信念の証明(2) 投稿者:園主  投稿日:11月 5日(金)23時55分41秒


こうしたエピソードは、ややもすると「きれいごとに過ぎる」という印象を与えるものなのでしょうが、この作品は、後のエルネスト・チェ・ゲバラの若き日を描いているというのが前提となっておりますので、「ありえない、きれいごと」にはならないのでございましょう。

たとえば、「恩人への正直な感想表明」は、ゲバラが後に『多くの人は、わたしのことを冒険家というでしょう。わたしはそうなのです。しかし、違った種類の――自分の信念を証明するために命をも賭ける人間なのです。』と語ることになる「信念指向」を先取りするものでございましょうし、搾取権力者の「トラックに向けて「ちくしょう!」と石を投げつけ」た姿は、彼が後に『わたしは、自由のために戦う国民にとって武装闘争が唯一の方法だと信じていますし、この確信に従って行動するのです。』と語った「武装闘争についての信念」を象徴的に先取りするシーンだと申せましょう。また、ハンセン病患者に対して示した彼の態度は、「医者と患者」という垣根を乗り越えていく徹底した平等志向の表われとして、彼が後にキューバの工業相にまで登り詰めながら、その地位 を捨てて、死地となる異国ボリビアに入っていった姿とも重なりましょう。

つまり、普通なら「きれいごとに過ぎる」という印象を与える映画のシーンが、映画以上に「きれい」に生きた実在の人物によって支えられるという構造が、この映画にはございます。

エルネスト・チェ・ゲバラについては、その甘いマスクと夭折が、彼をして「傷のない神話的人物」ならしめた、とする意見がございます。たしかにゲバラには、自他にたいして厳しい完璧主義や克己主義があって、彼が権力者の地位 に止まっていたならば、後年なにかと非難されるようなことにもなりえただろうと思わせるところがございます。しかし、だからこそ、聡明なゲバラは、革命後のキューバを無二の盟友カストロに委ね、自身の居場所を戦場にもとめたのでございましょう。後世の指摘を待つまでもなく、彼は自身の長所と短所を弁えていたので、自身を完璧に生かし輝かす生き方を自ら選んだのだと、私は斯様に見るのでございます。


さて、全世界の注目を浴びたアメリカの大統領選挙は、残念ながらブッシュ前大統領の再選が決定いたしました。『華氏911』のマイケル・ムーア監督を始め、ブッシュの再選阻止に尽力していた多くの人たちは、この無情の結果 を嘆き、深く落胆していることでございましょう。
しかし、弱者のために戦うわれわれの戦いは、ブッシュが落選したところで終るようなものではなく、もとより永遠に続くものなのでございます。ですから、ここでの負けは負けとして気分を切り替え、また今日からの抵抗戦を続けていくほかございません。無論、またこの先、ふたたび悲惨な戦争やそれによる多くの被害者が出ることでございましょう。日本でもさらに右傾化が進み、平和憲法の改正が進められ、それと連動した教育基本法の改正にもさらに弾みがつくことでございましょう。しかし、状況が悪くなれば悪くなるほど、われわれの戦いは、その重要性を増すのでございますから、結果 はどうあれ、われわれは戦い抜くしかないのでございます。

結局のところ、問題は、自分一人の力ではどうすることもできない「結果としての世界や日本の動向」にあるのではなく、「弱者の側に立って戦う」という自分の信念をどこまで貫けるか、なのだと存じます。――そう。ゲバラが語ったように、われわれ一人ひとりが、最後まで『自分の信念を証明するために命をも賭ける人間』でありえるか否か、それが問題なのだと存じます。





( 以下は「信念の証明(3)」につづく)


信念の証明(1) 投稿者:園主  投稿日:11月 5日(金)23時54分31秒

みなさま、昨日はホランドくんと『モーターサイクル・ダイアリーズ』(ウォルター・サレス監督)を観てまいりました。

『時は1952年、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(ガエル・ガルシア・ベルナル)は23歳の医学生。学業もほぼ修了というところまできた彼は、ブエノス・アイレスにある自宅を出てバイク旅行に出発する。旅の相棒は一家と親しくしている友人のアルベルト・グラナード(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)、頑強な肉体を持つ生化学者だ。アルベルト所有のポデローサ号("馬力のあるヤツ"の意)という、愛称は楽天的だが癇癪持ちのノートン500にまたがったふたりは、彼らが共に抱いていた絶えざる夢、すなわちラテン・アメリカ探検を実現すべく旅立った。その大陸のほとんどは、当時のふたりにとって未知の世界であった。』(

旅先で目にする庶民の悲喜こもごも通 して、後に革命家へと成長する若者エルネルトの姿を描いた青春ロードムービーで、大変に感じの良い作品でございました。

エルネストの欠点は、ばか正直で誤魔化しのきかないところ。
たとえば、彼とアルベルトは、旅先のペルーで世話になったペッシュ医学博士に「私の書いた小説を読んで、感想を聞かせてくれないか」と頼まれて心良く引き受けるのでございますが、別 れの直前、博士に「まちなさい、何か忘れていないかね。私の小説の感想は?」と問われ、二人は一瞬困ったような表情を浮かべます。要領のいいアルベルトはエルネストの表情を見て、まずいと悟ったのか、自分から「何と言うか……大げさではなくあんな傑作はなかなか書けませんよ」とお追従を言います。しかし、博士はエルネストの感想も聞きたがったため、エルネストは「少々陳腐だと思います。月並みな表現ばかりですし……」と感想をもらします。「それほど悪くはないよ」と、つい自己弁護してしまう博士に、エルネストは「いいえ…基本的にひどかったですね。読むに耐えません。価値ある挑戦だったとは思いますが。感想を求められたので……」と、アルベルトの危惧したとおり、正直な感想を口にしてしまいます。博士は当惑した表情を浮かべ、アルベルトは頭を抱え、エルネスト自身も気まずそうな面 持ち。しかし、好人物の博士は「まったく……これほど正直な意見は君が初めてだ」と少し悲しそうな表情で、エルネストの酷評を受け入れたのでございます。
――このエピソードは、エルネストの「ばか正直」さ、というよりも、むしろその「誠実さ」と「内面 重視」を伝えるエピソードと理解すべきなのでございましょう。事実、エルネストは旅の途中、アルベルトのホラに話をあわせて、それなりに罪のない嘘をついたりもするのでございます。つまり、彼はいっさい嘘のつけないガチガチの正直者というわけではないのでございますね。ただ、彼らに親切にしてくれた博士にたいしてだけは、どうしても嘘をつくことができなかった、ということなのでございましょう。たとえそれで博士を傷つけることになろうとも、本当の意味で、博士の信頼を裏切るようなことが、エルネストにはどうしてもできなかったのだと存じます。

一方、エルネストの長所は、弱者にたいする共感の強さでございます。彼は、チリのチェキカマタ鉱山(アメリカ資本の会社)の現場監督が、人足の仕事を求めてくる貧しい人たちを、見下したような態度で人選している姿に腹をたてます。人選作業の様子を、少し離れたところで睨みすえているエルネストに、現場監督が「お前たちは何だ?」と聞き、エルネスト「見ているだけさ」と反抗的に答えます。すると現場監督は「ここは観光地じゃないぞ、うせろ!」と怒鳴るのですが、エルネストが「みんな喉が渇いている。水くらいやれよ」とやりかえすと、「早くしないと警備の者を呼ぶぞ。不法侵入だ。鉱山会社の私有地だぞ」と捨てぜりふを吐き、現場監督は雇い入れた人足たちをトラックに乗せ、走り去っていきます。エルネストはそのトラックに向けて「ちくしょう!」と石を投げつけるのでございます。

また、医学生エルネストの専門はハンセン病なのでございますが、ペッシュ博士の紹介で二人が3週間世話になるペルーのハンセン病療養所では、ハンセン病が伝染しない病いであるにもかかわらず、療養所を運営している修道院側の決まりとして、ゴム手袋の着用が義務づけられていたのでございます。ところが、エルネストがこれを拒否。そのため修道院長とぶつかったりするのでございますが、これもエルネストの患者たちへの献身的な態度により、やがてこの規則違反も黙認されるようになるのでございます。





( 以下は「信念の証明(2)」につづく)


効率信仰・6 投稿者:楽古堂  投稿日:11月 3日(水)18時15分5秒

『モーニング娘。』は、メンバー何人で誰がいるのか?最新のヒット曲は、曲名を覚える前にチャートから消えている。テレビのアニメも映画も、若い学生からの情報で知る。明らかに、変化のスピードについていけない自分。「効率」ではない、自分が信じられる価値は何か?追求の途上。J.R.R.トールキン。シオドア・スタージョン。泉鏡花。幸田露伴。澁澤龍彦等々。十代の後半には、すでに愛読していた作家たち。そこに帰っていく自分。


効率信仰・5 投稿者:楽古堂  投稿日:11月 3日(水)11時53分26秒

この点で快いのが海外のサイト。それぞれが、自分の時間を悠然と生きている。たとえばブラッドベリ。映画『華氏911』に『華氏451』の作家が抗議というアクチュアルな話題もあり。同時に、二十年前に夫と見た芝居の感動。今年のタンポポのお酒の出来の報告。魔女シリーズのシシーが好きという男性の感想。多種多様。それでいて、誰かに誰かがレスを付けている。理想的な掲示板の風景。


効率信仰・4 投稿者:楽古堂  投稿日:11月 3日(水)11時48分16秒

ある編集者から聞いたこと。若者向けの小説の文庫は、出してから三ヵ月間が勝負。それ以降は、急速に売り上げが減衰。一次読者が感動して、それを聞いた二次読者が買う。さらに連鎖していく。この伝播がないのが現在。文庫も、映画や流行歌と同様に消費されていく。次の新しい財を消費していくためには、速度が必要。古いものよりは、新しいものへ。感動の体験も「効率」的でなければならないということ。「こだわりのあるもの」だけに追求を徹底するのは、消費財の洪水から自分の財を守るための当然の態度なのでは?


効率信仰・3 投稿者:楽古堂  投稿日:11月 3日(水)11時34分45秒

現代の若者は、待つことが苦手なのでは?受験も速度と正確さを要求。ネットの情報検索と、流行の変化の速度に身体が慣れている。現実の生活にも、それを要求する。背景にある考え方は、「効率」に高い価値を置いていること。僕もかつては四時間で出来た仕事が、五、六時間かかることを嘆く。効率を重視しているから。かつては搾取する側の資本の論理であったものが、労働者である我々に内在する倫理になっている。これは、かなりおかしな短所なのでは?


効率信仰・2 投稿者:楽古堂  投稿日:11月 3日(水)11時26分43秒

若者の短所を考えていて。これではないかと気が付いたこと。昨日、コンビニで食事を購入。前におばあちゃんがいました。財布から、ゆっくりと小銭を取り出しています。となりの使用中止のレジに若い店員が入る。「お待ちの方、どうぞオ!」。いつのまにか、僕の後に並んでいた三人の若者が、さっとそちらに移動。店員も客も、おばあちゃんの遅いペースを待てないのです。いらいら。焦っている空気が伝わってきました。


効率信仰・1 投稿者:楽古堂  投稿日:11月 3日(水)11時20分44秒

ホランド様へ。老化現象と弱気ねえ。原因は、腱鞘炎が治らないということなのです。親指に力が入りません。それでも、仕事上、どうしても書くことが必要です。不安があります。手に負担を掛けないために、自分の原稿などは意識して書かないようにしています。キーボードは、ペンよりも親指に負担をかけません。英語は28個のキーのみ。手に楽。海外のサイトに飛んでいることが多い理由は、このあたりにもあるかも。


アドニスの妖艶な微笑(下) 投稿者:ホランド  投稿日:11月 2日(火)23時56分23秒


 楽古堂さま

> 「古い水夫」として、この古い歌を歌っている自分に気が付きました。

> 往事茫々。

> 記憶力の衰え。老化現象。少し寂しいです。

> 「老い」の性急さもあるかな。

 最近の楽古堂さまの書き込みで気になるのが、ご自身の老化を強調なさりすぎる点です。まだ49歳になられたばかりなのに、なんだかお爺さんなっちゃったような気弱な口ぶり。

 でも、このくらいで年寄りぶってたら、ホントのお年寄りに怒られちゃいますよ! よく言うではありませんか、「四十、五十は洟垂れ小僧」って。不必要に若ぶることはないけど、まだまだ自分の老化を気に病むような歳じゃありません。むしろこれからがホントの勝負なんですから、しっかり気合いを入れて、若者に負けないファイトを見せてくださいね! (^0^)/ オーッ!



 Keenさま

> うん、ホランドくんは怖くないね(笑)。

 よかった(笑)。ホントは「怖い時もある」なんて言われるんじゃないかと、内心ひやひやしてたんです。だって、AOIさまとの議論では、ボクもけっこう熱くなったりしてるんで、その辺を指摘されるとつらいなあーって(^-^;)。

> 京極堂の「憑き物落とし」は、快いです。読んでる方も一緒に落してもらえるところがある(笑)。んで、気づいたことには、もしかして園主さまが一番デカい憑き物だったりして……って、賢ちゃんには、電話でも直接言われるのよ、「誰かに似てきた」って!
> しかし『魍魎の匣』で、京極堂は「憑き物は、なんでも祓えばいいというものではない」というようなことを言ってますよね。仲良くつきあった方がいい憑き物もあるわけです(笑)。

 Keenさまでさえ、園主さまに似てきたって言われるくらいなんだから、もっとずーっと長くつきあっているボクが、園主さまの影響を強く受けないわけがないんですよね。時には、園主さまに憑依されているのか、あるいは同一人物かというくらいになってても、ぜんぜん不思議ではないんです。でも、……それもちょっと困りものですよねー(笑)。

> 『狂骨の夢』は、初めて読後感が爽やかでした。京極さん、よくも悪くも筆がこなれてきたんでしょうか、クライマックスでも要所要所に緊迫感を削ぐ茶々入れて、わざと落してるなあってところ、私はとても気に入りました。前2作は、クライマックスが長丁場に過ぎて、緊張が持続しないように思えたので。まあ、シリアスな中にギャグが入る、というパターンは全く私好みである、というせいが大きいでしょうが(笑)。

 あの作品は、「京極堂シリーズ」のなかではもっとも爽やかな終わり方をする作品ですから、きっと喜んでいただけると思ってました。朱美の最後のセリフなんて、とってもいいですよね(^-^)。

 残りの「京極堂シリーズ」本編は、それなりに重い作品ばかりですけど、『姑獲鳥の夏』や『魍魎の匣』ほどじゃあないと思います。楽しいという点では、榎木津礼二郎が主役を張る「百器徒然袋シリーズ(薔薇十字探偵シリーズ)」が、確実に痛快な作品ですよ。



 園主さま

 面白そうな映画ばかりですね。なかなかDVD観賞会ができませんけど、当分は劇場の方で映画を楽しみましょうか(笑)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


アドニスの妖艶な微笑(中) 投稿者:ホランド  投稿日:11月 2日(火)23時55分45秒


 本多正一さま

というわけで、中井英夫の秘密の一端が明かされますね。

 中井英夫が同性愛者であり、それが作品に大きく影響しているというのは、ファンの間では周知の事実なんですが、そうした側面 から本格的に中井英夫を論じた評論は無かったように思います。中井作品を語るうえで「人外」「鏡」「反世界」といった言葉が、キーワードとしてよく取り上げられますが、これらの言葉はいずれも「同性愛者のアイデンティティ」の問題と密接にからんでいるのは明きらかでしょう。今回の『解禁』がきっかけとなって、さらに突っ込んだ中井英夫研究の進むことを、ファンとして期待したいと思います。



 時雨さま

> 映画版『デビルマン』

それにしても・・・概要を聞いたときからずっと引っ掛かっていたのですが、この話にシレーヌを出す意味があるのでしょうか?
> たしかにシレーヌ編は原作初期の名エピソードですが、後半の展開とはほとんど関係がないですよね。
> 二時間余りでの映画化という暴挙を行っていながらこんな枝葉を残すあたり、KONISIKIやらボブサップやら以前の段階で構成に致命的な欠陥があるような気がします。

 物語の構成の面から見れば、 シレーヌを出す必然性はなかったでしょうね。ただ「営業的」な必然性はあったということでしょう。デビルマンもサタンも男だから、絵になる美しい女性デーモンを出したかったんでしょう。じっさい、ポスターでもデカデカと使われていましたし、デビルマンとの戦いにも勝ったままで、どこかへ行っちゃいましたからね(笑)。
 つまり、基本的には、原作のシレーヌのエピソードを、映画に盛り込むのは無理だとわかっていた。でも、営業的には出さざるを得なかったので、「綺麗どころの顔見せ」と割り切って、シレーヌを殺すところまでは描かなかったんじゃないかな。これには、シレーヌを演じたモデルさんへの配慮もあったのかも知れません。つまり、不自然に肌の露出をおさえたデザインを採用したのと同様の理由から、血まみれの死を描かないという配慮もなされたんじゃないかと思うんです。このモデルさんが、そこまで気を使わなきゃならないほどの大物なのかどうかは全然知らないんですが、どうなんでしょうね?

> それにしても、ガンダムSEEDといい監督・脚本が夫妻の作品にはろくなものがない・・・

 結果論だとは思うんですが、馴れ合いになる怖れはあるかも知れませんね。少なくとも、結果 で示せなければ、そう勘繰られてもしかたがないのかも知れません。

>> 読書の世界では、普通は個人(の作家性)を評価の対象にしますから、あまりこういう言い方をしませんからね。

> そうですね。でもゲームの場合、作品は個人ではなく開発者に帰属するものですから、文芸評論のようにはいかないわけです。
> 作品の個性がシナリオライターによって出される場合もあれば、企画そのものによる場合もありますから。
> 東浩紀さんもこの問題には手付かずのようですし、難しいところです。

 以前に園主さまが、奈須きのこを論じて、笠井潔さんの「岡島二人論」を紹介なさってましたよね。そこで笠井さんは「小説の本体は、実際の文章化の中で顕現するものであり、プロットやアイデアや主題といったものは、小説のきっかけでしかなく、副次的な意味しか持ちえない」という主旨の主張をし、「作家性」が誰に帰属するのかと言うことを論じていたんですが、その際に例に挙げられた「(集団芸術としての)映画」や「合作小説」よりも、さらに「ゲーム」は、「作家性」の帰属するところが特定しづらいということなんでしょうね。





( 以下は「アドニスの妖艶な微笑(下)」につづく)


アドニスの妖艶な微笑(上) 投稿者:ホランド  投稿日:11月 2日(火)23時52分57秒

 みなさん、こんばんは! 「知る人ぞ知る」って言うか、いろんな意味で「マニアックな人は、みんな知っていた」というアドニス版『虚無への供物』の、一部が公開されることになりました。

 どういうことかと言うと、日本ミステリの金字塔であり「推理小説の墓碑銘」とも称される中井英夫の代表作『虚無への供物』は、講談社文庫の巻末「年譜」では、

昭和三十年 一九五五年  三十三歳
 一月、突然に「虚無への供物」全編の構想浮ぶも、執筆は手につかず、三十八年一月までを完成に費やした。このころより古い「新青年」を買い集め、もっぱら久生十蘭を愛読。

 昭和三十一年 一九五六年  三十四歳
 (※ 『虚無への供物』への言及なく、省略)

 昭和三十七年 一九六二年  四十歳
 「虚無への供物」前半第二章まで書き上げ第八回江戸川乱歩賞へ応募したが、佐賀潜、戸川昌子の自席にとどまる。

 昭和三十八年 一九六三年  四十一歳
 講談社の迹見富雄の励ましで前年一月に後半を完成、本年二月二十九日に塔晶夫の名で同社から刊行された。翌年の毎日新聞や早川のミステリーマガジンでは、戦後二十年間の推理小説ベストスリーの一に選ばれたが、書評ではおおむね不評だった。文芸雑誌に依頼されて短編「青髯公の城」を書くが不発表に終る。』

となってて、昭和30年に『全編の構想浮ぶ』も、結局は昭和37年に江戸川乱歩賞への応募のために『前半第二章まで』を書き上げるまでは、ほとんど執筆は進んでおらず、おのずと一般 的には、『虚無への供物』はこの「乱歩賞応募原稿」が最初に公にされたかたちだ、と思われてきたんですね。ところが、実際にはそれ以前に、この「乱歩賞応募原稿」バージョンよりもさらに短い未完成稿が、ある同人誌に発表されていたんです。その同人誌が、男性同性愛者のための会員制文芸同人誌『アドニス』だったんですね。

 この同人誌には、三島由紀夫などの有名作家も複数、変名で参加していて、変名を用いても一般 誌には発表できないような作品を、ここに書いていたんです。そのため、この同人誌のことは長らく出版業界の秘密で、講談社文庫版『虚無への供物』の「年譜」が、昭和31年からいきなり昭和37年まで跳んでいたりするのも、たぶんこのせいなんでしょう。
 でも、近年、日本でも同性愛文化の研究が進んだ結果、この同人誌の存在がクローズアップされる機会が増え、そのせいで、この同人誌に、後の『虚無への供物』の原型となる同名作品が発表されていたという事実も、少しずつ知られるようになっていったんです。

 で、この『アドニス』に参加した有名作家の多くが鬼籍に入り、たとえアドニス版『虚無への供物』が公開されたところで、悪い意味での騒ぎにはならないだろうとの判断から、今回、中井英夫に縁の深い東雅夫さん(編集者・評論家)の勧めもあって、現在、東さんが連載を持っている『小説推理』誌上での公開に踏み切られた、ということのようです。

 なお、今回公開されるのは、『アドニス』に4回に分けて発表された第二章まで(全23節)のうちの「序章」分(第10節まで)。
 以前にアドニス版を読んでいる園主さまによると「あまりにも有名な冒頭のシーンは、内容的には変わっていないものの、文章の彫琢度に歴然たる差が見られる。また、店の名前もアラビクじゃない。序章では、まだ事件は起らないものの、最後の方ではホモセックスのシーンがあるので、心の準備をしておかないと、ちょっとショッキングかも知れない」とのことです。

 下世話な興味で読むのはどうかと思いますが、有名作家とその代表作の「秘められた部分」に接することで、創作という行為の奥深さや、今あるかたちの『虚無への供物』の意味するところを、あらためて考えてみる、というのはいかがでしょうか?

 以下は、『小説推理』(双葉社)の次号予告文です。

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◆特集〈幻想と怪奇〉への誘い9(『小説推理』2005年1月号)
秘稿解禁!――『虚無への供物』の原風景を探る
*アンチ・ミステリーの最高峰として、今なお熱烈な愛読者を有する中井英夫の傑作長篇『虚無への供物』には、知られざるプロトタイプが存在した。伝説の同性愛文芸誌『アドニス』に発表されたホモセクシュアル・ヴァージョンである。『虚無』刊行40周年を期して、その全貌を明らかにするとともに、戦後幻想文学史の秘園に迫る!
【作品復刻】中井英夫 アドニス版「虚無への供物」序章
【インタビュー】須永朝彦
【評論/エッセイ】斎藤慎爾/垂野創一郎/本多正一
【企画プロデュース】東雅夫
【掲載誌発売日】2004年11月27日





( 以下は「アドニスの妖艶な微笑(上)」につづく)


中井英夫の「ハースリーベ」の継承 投稿者:楽古堂  投稿日:11月 2日(火)22時31分6秒

澁澤龍彦の「ハースリーベ」は、中井の生き方を一語で言い当てた言葉だと思っています。それは、戦後の日本という大きなものから、有名な父親との関係、周囲の者との距離の取り方まで、一貫していたでしょう。しかし、そこには何か深い生理に根ざした、世界への違和感が根底にあります。これに共感しつつ「ハースリーベ」を共有することに、困難を感じます。園主様は中井の作品では、どんな言葉が「ハースリーベ」の表現として印象に残っていますか?


お帰りなさいませ。 投稿者:Keen  投稿日:11月 2日(火)17時34分30秒

今日はまた思い出したように暑かったですよね。寒暖差で、旅の疲れがでませんように。

>本多さんの「ヘンなお母さん」話

あれは正確には、本多さんがKeen Jr.宛にサインして下さったご著書『プラネタリウムにて』に、「ヘンなお母さんですね!」という添え書きがあったのを、Jr.が訝しんで、「お母さんのどこがヘンなんですか?」と質問したことに対する回答だったのです。
後で本人から聞いたところでは、本多さんは「『ステキなお母さんですね』って書こうかとも思ったけど、ああ書いたんだ」とおっしゃったとのことです。
もちろん、子供が自分の親をスタンダードだと思って育つのは、言うまでもありません(笑)。
また、Jr.は「アレクセイさんって、ヘンなおじさん」とも言っておりますが、これも言うまでもないことですね(笑)。

最近、どうも「掃除の神」が憑いたらしくて、家の片付けを続けています。かつての書庫は、クリーンナップされて、ついにJr.の個室となりました!(ぱちぱちぱち)
我が家も、次のステップに進む時が来たようです。最近の不安は、それに基づく部分が大きいようです。「空の巣症候群」、とまでは言わないけれど。

いやーん、愚痴っぽくなっちゃった☆(;^_^A


若者の「こだわり」の多寡の原因は? 投稿者:楽古堂  投稿日:11月 2日(火)11時04分42秒

園主様へ。「こだわりのある若者」と「こだわりのない若者」の関係が、「表裏一体」だということの意味が、どうもよく分かりません。ともに教育基本法に基づく「学校教育」の結果 だということですか?もう少し説明して頂けますか?「こだわりの対象」を見付けられないでいる若者との接触の機会が、ネットでも予備校でも、ほとんどありません。ともに「こだわり」のある者が、来る場所ですから。


「ディジタル・ディヴァイドの可能性」の訂正・他 投稿者:楽古堂  投稿日:11月 2日(火)10時44分36秒

番号のない「若者の書く日本語は〜」という文章が「4」です。「1」「2」「3」「4」として、他は削除して下さい。前にも二重投稿になったことがありますね。どうしてなのでしょうか?はらぴょん様の「扱いやすい素材」とは「アニメ論」一般 のことではなくて、「エンジェリック・レイヤー」のことです。短い文章なので、どうも意味が正確に伝わりにくいようですね。「老い」の性急さもあるかな。自戒。


日本推理小説文壇攻防史(8) 投稿者:園主  投稿日:11月 2日(火)01時00分20秒


 Keenさま

> 気をつけて行ってらっしゃいませ!

ありがとうございます。無事、帰宅いたしました。

> きっと本多さんにもお会いになることと思いますが、「私にも本多さんは天使に見えましたが、同時に、この天使にはもしかしたら尻尾も生えているかも、とも思いました」とお伝え下さい(笑)。

特に伝えはいたしませんでしたが、時々こちらを読んでいるそうなので、お言葉は十二分に伝わっていることと存じます(笑)。

そう言えば、いぜん本多さまにお会いになられた際、本多さまが、Keenさまの娘さんへの電話を替わって、いきなり「変なお母さんだねー」なんて言われてましたよね(笑)。たしかに「変なお母さん」かも知れないけれど、「いきなり娘に言うか」とその通 話を横で聞きながら、私はそのように思ったものでございます。それに、小さいお子さんは、自分の母親しか知らず、「世間並み」というのがわからないのでございますから、たとえそれが事実であったとしても、そうした意見に同意を求めるのは無理だとも思いました(笑)。

> 京極堂の「憑き物落とし」は、快いです。読んでる方も一緒に落してもらえるところがある(笑)。んで、気づいたことには、もしかして園主さまが一番デカい憑き物だったりして……って、賢ちゃんには、電話でも直接言われるのよ、「誰かに似てきた」って!
> しかし『魍魎の匣』で、京極堂は「憑き物は、なんでも祓えばいいというものではない」というようなことを言ってますよね。仲良くつきあった方がいい憑き物もあるわけです(笑)。

ありがとうございます。読み捨てになどできない、「呪う評論家」を自称する者としては、最大の褒め言葉でございます(笑)。



 ホランド

前説にも書いたが、変に流行りものに敏感な青土社が、今度は別冊『現代思想』として「ゲバラ」特集号を刊行した。どうやら、ゲバラブームというのは確かなことのようだな(笑)。

ところで、まだ『モーターサイクル・ダイアリーズ』を観に行っていないが、面 白そうな映画が公開されているぞ。『ソウ』(ジェームズ・ワン監督)という作品で、オーストラリア出身の無名の若者二人組、リー・ワネル(原案・脚本・出演)とジェームス・ワン(監督・原案)が、低予算(撮影期間18日)で撮った『シチュエーション・ホラー(ミステリ)』だ。
予告編を見ただけでも、ただ事では禍々しい迫力が横溢しており、感じとしては、『ソウ』同様、無名の監督が撮った、シチュエーション・SFミステリ『キューブ』の、ホラーミステリ版といった感じかな。ただ、『ソウ』の方がミステリ性が強く、『キューブ』では解かれることのなかった「不条理な状況設定」の謎が、この『ソウ』では最後に解かれることになる。
かなりエグイ感じの場面が多いようで、「15禁」に指定されているんだが、予告編を見たかぎりでも「子供より、むしろ気の弱い大人が控えるべきだ」とまで思える作品だ。だからこそ、ぜひ観に行きたいとも思うんだがな(笑)。

それともうひとつ。これも無名の若者の原案・脚本・監督でつくられた、レトロ風味のSFアクションで、まもなく公開されるのが『スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー』(ケリー・コンラン監督)だ。ただし、こっちは出演者がすごい。主役のスカイキャプテンをジュード・ロウ、友人の美人新聞記者をグウィネス・パルトロウ(『リプリー』コンビ)。「1939年のニューヨーク」を襲った「謎のロボット軍団」を指揮しているらしい「謎の女将校」を(『トゥーム・レイダー』の)アンジェリーナ・ジョリーが演じている。

この作品、監督が自宅のガレージにあるパソコンで、独りこつこつと作った20分足らずのフィルムが切っ掛けとなり、このフィルムに惚れ込んだ人たちが協力して作った作品だとか。人物以外すべてCGで、背景から浮かないように、人物にもソフトフォーカス風のエフェクトが掛けられており、カラー作品ながらレトロ感を強調した画面 づくりになっているようだ。
「古き良き時代のSFヒーローアクション」を目指した作品のようで、大傑作になるような作品ではないようだけど、出演者も魅力的だし、若手作家のデビュー作として期待しているんだ。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


日本推理小説文壇攻防史(7) 投稿者:園主  投稿日:11月 2日(火)00時59分38秒


 楽古堂さま(つづき)

> はらぴょんさんのアニメ論は、扱いやすい素材での、「知」の腕試しではないでしょうか?時雨様にも『空の境界』が難関であれば、周辺から攻めていくことを、お薦めします。ボスキャラは、いきなりは倒せませんよね。

う〜む。この表現も誤解を招くものだと存じます。
なぜなら、これでは、アニメは『扱いやすい素材』、つまり「底の浅い、手強くない」批評対象であり、「哲学」や「思想」を中心とした「知」の世界からすれば、『腕試し』にちょうど良い程度のもの、言い換えれば、全力を傾注して格闘するに値しない相手(非『ボスキャラ』=ザコ)だ、という風に読めてしまうからでございます。

> そして、この「こだわりのあるもの」が一つで、他とリンクしていかない場合に、「全体としての教養の低下」が発生するのではないでしょうか?現代は自己充足的に、自己の世界を、どこまでも完結できるのです。

同感でございます。

> それから、勘違いが一つあると思います。僕達は、この議論が、別に多くの若者たちに読まれるとは思っていないのです。そうではなくて、あなたの論の参考にならないかと思って語っているのです。若者についての、別 の視点を知ってほしいからです。

私としては、とにかく「若者」のことを少しでも理解したい、ということに尽きます。その手段として、若者とも議論したいし、同世代や上の世代とも議論したい。そのなかで、少しでも「異文化としての若者」を理解できればと思っているのでございます。

ただ、では「なぜ若者を理解したいのか」と言えば、それは我々がこの世界を引き継ぐべき相手が、その若者だからでございます。そういう意味で我々には、若者に対する一定の責任がございます。だから、知らないでは済まされない。我々にそうした責任がまったくないのであれば、私は「若者にウケたい」などとは豪も思わない「頑固な個人主義者」ですので、「若者は若者で好きにやればいい。私は私で、これまでどおり自分の好みのままに生きていく」と考えたことでございましょう。

ですから、私には「若者に何かを教えよう」などという気は、ほとんどございません。それよりもまだ「(自分が)もっと世界をよく理解したい」のであり、今のところ、私にとっての「若者」とは「世界(という謎)の構成要素の(重要な)ひとつ」に過ぎないのでございます。

> 「この小説のなかに、まぎれもない戦中派である作者の、戦後へのハースリーベ(憎悪愛)をふくんだ、痛切な嘆きの歌を聞きとらなければ、読者はこれを正しく読んだとは言えないのではないか。」澁澤龍彦『偏愛的作家論』所収「『悪夢の骨牌』書評」より。332ページ(福武文庫・1986年)。「ハースリーベ」という重要な単語を失念。記憶力の衰え。老化現象。少し寂しいです。

それよりも、中井英夫のハースリーベ(憎悪愛)を知る我々が心しなければならないのは、当の我々の生き方がそうした憎悪の対象に堕してはいないだろうか、ということでございましょう。

中井英夫は、見た目は(軍国主義から民主主義に)変わっても本質的には何も変わっていない、憎むべき「戦前・戦中」と地続きである、「戦後」を呪いました。そして事実、今の日本を見れば、「戦後」がそのままあっさり「戦前・戦中」へと転化してしまったかのような様相でございます。
そんな「戦前・戦中」に生きる我々は、まさに今、その生き方を、中井英夫に問われているのだと申せましょう。中井英夫が『虚無への供物』で語った「死者の無念への想い」と「人間との約束」。我々に必要なのは、今現在のこの世界こそが、「嵐のなかを出航した洞爺丸の殺人」と同種の、「道理のとおらない、非人間の反世界」である、とする自覚なのだと存じます。つまり、今ここで、逃避のための反世界を求めるような人間に、中井英夫ファンや『虚無への供物』読者を名乗る資格などない、とまで私は言いたくなるのでございます。たとえそのような読者が、ファンの大半を占めていようとも、でございます。


【事務連絡】 ご投稿いただきました「ディジタル・ディヴァイドの可能性」は、番号の振られていない分がダブってアップされておりますので、どちらを削除し、どのように番号を振りなおしたら良いのかを、ご連絡下さいまし。





( 以下は「日本推理小説文壇攻防史(8)」につづく)


日本推理小説文壇攻防史(6) 投稿者:園主  投稿日:11月 2日(火)00時58分55秒


 楽古堂さま(つづき)

> パソコンを活用できるものとできないものとの間に、情報較差が生じる可能性については、以前から指摘されていました。僕は、それに英語力の有無を追加したいのです。教育の世界では、現代文(国語)ができないものは、英語の長文読解ができないというのは、もちろん常識でした。しかし、もしかすると英語という他国語を習得したことで、日本語に対する理解を増したのではないでしょうか?

逆転の発想でございますね。「国語ができるから、英語(外国語)もできる」ではなく「英語(外国語)ができるような人は、おおむね日本語もできる」し、さらに言うと「英語(外国語)を学ぶことで、日本語に対する理解も深まったのではないか?」という仮説でございます。

> 若者の書く日本語は、英語の訓練を通過することで、読みやすく分かりやすいものになっています。新聞の文章で、一読して意味が取れないような晦渋なものは、少なくなってきました。日本人の若い世代は、過去の名文への信仰から解放されているように思えます。

この「仮説」には、疑問を感じます。と申しますのも、このご意見では、最近の若者の書く文章が「読みやすい」というのが、「自明の前提」のごとく扱われているからでございます。
しかし、現代の我々が読んで「読みやすい」と感じる文章が、普遍的に「読みやすい」文章だと言えるのでしょうか? つまり、若者の文章が「読みやすい」と感じるのは、彼らの文章が「時代の嗜好」に応じて変化したものだからであり、それを「同時代の読者」である我々が、単純に「過去の文章」と比較して、「読みやすい」とあたかも「文章が進歩した」ように評価して良いものなのでしょうか?

一般に『若い世代』が、「過去のもの」に対して『信仰』を持たない(新しいもの好き)というのは、いつの時代でも、どこの国でも、似たようなものであって、特に「最近の日本の若者」に限った話ではないと存じます。
また、『過去の名文への信仰』という表現も、『若い世代』の評価を急ぐあまり、『過去の名文』とその「正統な評価者」を不当に貶めているきらいがあるのではないでしょうか。

たとえば、ここで楽古堂さまは「英語力」を推奨し、その長所を挙げ、それとは対比的に「過去の名文」へのこだわりを否定的に語っておられますが、楽古堂さま自身、かつて「漢文」の素養を肯定的に語っておられたのではなかったでしょうか? つまり、もしも若者の文章が、良い意味で読みやすくなっているのだとしても、その原因は、何も「英語」教育の賜物だとは特定することはできません。なぜなら、例えばその原因を、『過去の名文』に大きく影響を及ぼしていた「漢文」教育の消失に求めることも、十分に可能だからでございます。

つまり、日本語というものは、いつの時代にも多かれ少なかれ「外国語」の影響下に形成されております。ですから、「漢文」の影響が大きい時代もあれば、「英語」の影響が大きい時代があってもかまわないのですが、それらをある時代に属する者が、単純に自分の「(時代の制約をうけた)感性」を頼りに、「こちらが読みやすいから、日本語として優れている」などと言って良いものかどうか、と思うのでございます。

「近ごろの若者は」とばかり言う「進歩のない大人」も困ったものではございますが、かと言って、若者たちの特性をむやみに(肯定的に)評価すれば良いというものでもございません。変化にはプラス面 もマイナス面もあるはずですから、その両面を押さえて、総合的に客観的に評価する必要があるのではないでしょうか。





( 以下は「日本推理小説文壇攻防史(7)」につづく)


日本推理小説文壇攻防史(5) 投稿者:園主  投稿日:11月 2日(火)00時57分53秒


 楽古堂さま

> ディジタル・ディヴァイドの可能性

> 僕の具体的に接することのできる学生は、大学の受験生です。現代の「知」の世界に、「関心」を持たざるを得ない情況に置かれています。しかし、情報の検索能力とともに、外国のサイトでの英語での発言を見ていると、それが自発的な知的好奇心によるものであり、受験勉強として強いられたからではないと思えるのです。(勉強で多忙で、そんな時間はないはずですから。)むしろ「こだわりがあること」への追求の徹底性に、現代の若者の特質を見ます。もしかすると、どこかで若者の二極分化が、進行しているのかもしれませんが。

『「こだわりがあること」への追求の徹底性に、現代の若者の特質を見ます。』というご意見には賛成いたします。しかし、そうした若者と、対照的な存在と思われがちな「何かにつけて、こだわりのない若者」とは、表裏一体の存在であり、『若者の二極分化』ということではないのではないかと考えます。
つまりこれは、「こだわりの対象」を見つけられるか否か、の問題なのではないか。その意味では、教育基本法の改正によって、教育の「機会平等」が侵されつつある現在の日本は、本来的に「学びの芽」をもっている若者の、その芽を摘む方へと進んでいる、と申せましょう。つまり「勉強の嫌いな者は、中学を卒業して、すぐに働けばいい。頭の悪い者には、簡単なことだけ教えておけばいいんだ」という理屈は、まだ自分の興味の対象を見つけていない子供たちに、それを探すための十分な時間と機会を保証しようとはしないものであり、教育環境に恵まれた者だけに可能性を残そうとする、差別 的な考え方なのだと存じます。

それと『「こだわりがあること」への追求の徹底性』は、必ずしも喜ぶべきことばかりとは申せません。荷宮和子が申しておりますとおり、怒るべきところで怒れない、今の日本の若者は、結局のところ自分で自分の首を絞めるしかないのでございますから、オタク傾向の一般 普遍化とも評しうる『「こだわりがあること」への追求の徹底性』という『現代の若者の特質』は、諸刃の剣だと存じます。





( 以下は「日本推理小説文壇攻防史(6)」につづく)


日本推理小説文壇攻防史(4) 投稿者:園主  投稿日:11月 2日(火)00時56分55秒


 時雨さま

したがいまして、『クリスマス・テロル』は、ほぼ間違いなく『動物化する世界の中で』の話なのでございますよ。

それはあるでしょうけど、それだけが原因でもないでしょう?
> 実際に終章で書かれている「読者への憎悪」もあるはずですよ。
> その後も彼は「読者の存在が信じられない」と発言していますし。

もちろん『読者への憎悪』がベースにあるのでございましょうが、同じミステリ作家でさえ、そうした「無理解な読者」の域を出なかったということが、佐藤友哉のいら立ちを増幅したのでございましょうね。

ともあれ『クリスマス・テロル』の冒頭に掲げられている福井健太の言葉が、『動物化する世界の中で』における笠井潔と東浩紀のやり取りにあらわれた「『ファウスト』周辺の新世代作家をめぐる党派争い」を指しているというのは、まず間違いないところでございましょう。

> それにしても、この事件に関する記述が全くないのがちょっと引っかかります。
> もしかしたら、初期稿では業界内のトラブルに関する記述も存在していて、校正の段階で削除されたのかもしれませんね。
> あまりにも陰謀論的に過ぎる見方かもしれませんが。
> でも太田克史ならやりかねないなあ・・・

それもありえましょうが、単にそこまで書くだけの根性がなかっただけなのかも知れません。作家と言えども「ただの人」でございますから、「皮肉は言えても、直言による批判はできない」というようなことは、十分にありえることだと存じます。
ただ、じっさいに書かれたとしたら、編集者の立場としては、きっと「削れ」と言うでしょうね。その場合、まだまだ「引き立ててもらっている若手作家」の立場としては、それ以上の無理は言えませんでしょう。もしかすると、「終章=あとがき」に太田編集長批判と取れる文章が残っているのは、「交換条件」ということだったのかも知れません。つまり「私の悪口はかまわないけど、先輩作家への悪口は、出版した方にも類のおよぶ怖れがあるから削ってほしい」などと言って懐柔した可能性が考えられます。こう言われたら、退かざるをえないのではないでしょうか。

> ともあれ、今回佐藤友哉を巡って園主様と議論が出来たのは大収穫でした。
> これで自分のなかの佐藤友哉観がいっそう確かなものになりました、ありがとうございます!

いえいえ、私の方こそ教えられたことが多く、たいへん感謝しております。どうぞ、今後ともご教示のほど、よろしくお願いいたします。





( 以下は「日本推理小説文壇攻防史(5)」につづく)


日本推理小説文壇攻防史(3) 投稿者:園主  投稿日:11月 2日(火)00時45分9秒


また、本書のもととなった連載は1996年から1999年までのものですので、笠井潔が「新本格」のイデオローグとして大車輪の活躍をしていた時期とも重なります。したがって、『反「新本格」』の旗色を鮮明にした「反・時代的」な関口であれば、「新本格」のイデオローグとしての地位 を築きつつあった笠井潔からも、きっと批判されたことでございましょう。
その場合、左翼党派理論家として戦闘的な論争経験を持ち、しかも時流に乗って「新本格」の地位 獲得に加担した笠井潔に対し、当時の笠井流に言えば「感想文ていどの書評しか書けない、とても評論家とは呼べないような、自称ミステリ評論家」の一人である関口苑生に、どれほどの抵抗が可能であったか、――それは火を見るよりも明らかでございましょう。

そんなわけで、本書『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』は、長らく日本のミステリーの主流作家を生み出してきた「江戸川乱歩賞」の歴史を語りながらも、その背景として、そうした歴史が終焉に向かいつつある時代の影をも、意図せず描き出している部分があるのではないかと、私は期待するのでございます。笠井潔に率いられる体制順応型の優等生批評家集団とはちがって、才能は乏しくとも、時に「私」が突出する関口に、ここでは期待してみても良いのではないかと思い、2500円と安くもない(きっと売れなかっただろう)本書を、私は購入したのでございます。





( 以下は「日本推理小説文壇攻防史(4)」につづく)


日本推理小説文壇攻防史(2) 投稿者:園主  投稿日:11月 2日(火)00時44分23秒


私が、この注釈のどこに興味を持ったのかは、申すまでもないと存じます。ともあれ、この注釈を読んで「ああ、そういえば、あれも関口だったな」と思い出す文章が、私にはございました。かつて一度だけ、私の興味を惹いた関口の文章。それは講談社文庫版『斜め屋敷の犯罪』(島田荘司)の解説でございます。そこで関口は、講談社の名物編集者であり、「新本格」の仕掛人として知られる宇山日出臣(宇山秀雄)について、おおむね次のように書いていたのでございます。
「あるパーティーの席で、「新本格」ミステリの仕掛人として知られる講談社の編集者のU氏が私に近づいてきて、いきなり「こないだ○○で貴方の文章を読みましたけど、あれは酷かったですねえー」と衆人環視の中で言い放った」

関口は、この解説に『反「新本格」』云々というサブタイトルを付していたと記憶いたしますが、要は新勢力として日の出の勢いにあった当時の「新本格」ミステリを、「古いミステリマニア」として評価できず、そのために冷や飯を食わされることが多くなっていた当時の関口が、宇山のこうした発言に(キレて)、適切な場所とは言いがたいところで「私怨晴らし」をしたというのが、この「解説」文なのでございます。

なお、関口のために一応フォローをしておきますと、宇山は『虚無への供物』や『匣の中の失楽』を(最初に)文庫化した功労者であり、島田荘司を下支えして「新本格」を育て、京極夏彦を発掘し、今の『ファウスト』ブームにつながる『メフィスト』を創刊した、日本のミステリ史には欠かすことの出来ない名編集者でございますが、そういう人物だからこそ、ある種の非情(非常識)さも備えていたのか、「人間扱いされなかった」として宇山を憎む作家もいたようでございます。その代表格が『モーツアルトは子守唄を歌わない』で江戸川乱歩賞を受賞した個性派作家 森雅裕で、彼はエッセイ『推理小説常習犯』(KKベストセラーズ → 講談社α文庫)で、宇山のその手の発言を生々しく紹介しております(これに対し、宇山からの反論は無かったようなので、宇山の発言はおおむね事実そのままだったと考えても良かろうかと存じます)。また、宇山にはアルコール依存の傾向があるそうですので、関口の解説にもございますとおり、「飲酒のうえでの暴言」という側面 もあったのかもしれません。――もっとも、そうであればこそ、不必要に「本音」を暴露してしまったということなのでもございましょう。

このように、宇山の方にも問題はあったのでございましょう。しかし、それでもたいていの人は、このような話を「公の場所」で書いたり(暴露したり)はいたしません。書くのがいけないと言っているのではなく、ふつう日本人は、このように公の場所での「公然たる復讐」をしたりはせず、たいがいは泣き寝入りをするか、もっと陰微な形での復讐を考えるものだ、ということなのでございます。

その意味で、関口苑生や森雅裕は(私同様に)「困った人」ではあれ、非・日本人的にユニークな存在であるとは言えるのでございましょう。ですから、そうした意味で、時に「公(おおやけ)」を引き裂いて「私(わたくし)」の部分が噴出するらしい『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』は、その特異性・稀少性において注目に値するのでございます。





( 以下は「日本推理小説文壇攻防史(3)」につづく)


日本推理小説文壇攻防史(1) 投稿者:園主  投稿日:11月 2日(火)00時43分28秒

みなさま、私、昨夜(9/31)、東京より帰阪いたしました。予定どおり、いつもの面 子と、いつものような話をしてまいりました。今回は、2泊3日と短い日程であったため、神田の古書店街に近づくこともなく、無駄 遣いをせずに済んだというのが、特筆すべき点でございましょう(笑)。

それにしても、やはり東京はすごい。初日、新宿の紀伊国屋書店で友人と待ち合わせたのですが、とにかくこの店、品揃えが違うのでございます。私が覗いたのは文芸書だけでございましたが、大阪の紀伊国屋書店梅田店と比べても、倍くらいの品揃えなのではないかと思われ、例えば大阪でなら、単行本(親本)刊行から3年を経て文庫落ちした場合、よほどの人気作品でもないかぎり、単行本(親本)と文庫本の両方が売られているというのは(スペースの問題として)まずありえないのでございますが、この店にはそうした古い単行本までが揃っておりました。また、文庫本も、文庫としてはマイナーな出版社のものまで棚が確保されておりますし、すぐには動かないであろう文庫の全集物もかなり揃っておりました。

身近なところで一例を挙げてみましょう。国内推理小説の単行本の棚を見ますと、竹本健治の本は『フォア・フォーズの素数』『クレシェンド』『闇のなかの赤い馬』などの比較的新しいものに混ざって、地方でなら古本屋でしか見ることができないであろう『入神』などが並んでいたりして、驚かされました。

先ほども書きましたとおり、私、なるべく本は買わないで帰ろうと思っておりましたので、特に新刊書店では一冊も買わないつもりでおりました。ですから、その日みつけた、舞城王太郎の新刊や、アルフレッド・ベスターの短編集や、別 冊『現代思想』のゲバラ特集号なども、帰阪してからでいいと我慢したのでございますが、「下手をすると、大阪では入手できないかもしれない」というのを、1冊だけ購入いたしました。それはミステリ評論家 関口苑生の『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』(マガジンハウス・2000年5月18日刊)でございます。

ハッキリ申しまして、私は、評論家としての関口苑生をまったく評価しておりませんので、刊行当時、本書にはまったく注目いたしませんでした。ところが、先日ここ「花園」でも取り上げました話題の書『文学賞メッタ斬り!』(大森望・豊崎由美)の中で、本書が次のように「注釈」紹介されていたのでございます。
(※ なお、文末の『(大)』は、注釈の筆者が大森望であることを示す)

『*『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』
二〇〇〇年 マガジンハウス。雑誌《鳩よ!》の連載をもとに単行本化。時代背景を織り交ぜつつ乱歩賞の歴史を年度順に追い、受賞作を詳細に分析。一部作品に対する忌憚のない評や予備選考の内幕暴露が連載中から論議の的になった。作品評価はともかく、乱歩賞に興味のある人は必読の一次資料。(大)』(P136〜137)





( 以下は「日本推理小説文壇攻防史(2)」につづく)



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