●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2005年1月下
 ●


【1月中旬へ】 【2月上旬へ】

【バックログ目次へ戻る】 【BBSへ】

【トップページへ】



雪…… 投稿者:アーニャ  投稿日: 1月31日(月)17時11分12秒

大阪は雪は大丈夫かもしれないけど、全国的にこの冬一番の寒波だそうね。
もちろん、私はアリョーシャのお察しの通り、こたつでぬくぬくしてますけど、Keenさまは買い物に出かけたりもしてるわよ(笑)。

皆さま、冷えないよう、気をつけて下さいね。
にゃあ〜♪


人はそれを既視観と呼ぶ 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月31日(月)09時41分52秒

本格ミステリ作家クラブの公式サイト
http://honkaku.com/
に、1月30日、第五回本格ミステリ大賞の候補作が掲載されました。
(すでに、小説部門は決まっていたような気がしたのですが、選考はこれからだったんですね。)
候補作は、以下の通り。
◆小説部門
『暗黒館の殺人』綾辻行人(講談社)
『紅楼夢の殺人』芦辺拓(文藝春秋)
『生首に聞いてみろ』法月綸太郎(角川書店)
『螢』麻耶雄嵩(幻冬舎)
『臨場』横山秀夫(光文社)
◆評論・研究部門
『子不語の夢』浜田雄介編(皓星社)
『探偵小説と日本近代』吉田司雄編著(青弓社)
『天城一の密室犯罪学教程』天城一、日下三蔵編(日本評論社)
『名探偵ベスト101』村上貴史編(新書館)
 ※ここで、「ほほう、そうきたか」と思ったのは、『天城一の密室犯罪学教程』が、評論・研究部門にノミネートされているが、小説部門にはノミネートされていないということです。
◆予想
小説部門 『生首に聞いてみろ』、(次席:『暗黒館の殺人』)
 ※笠井派の組織票が動くと予想される。また、「このミス」一位、「本ミス」一位 により「文句はないだろう」となると考える選者がいるだろう。(但し、「本ミス」もまた、笠井派の探偵小説研究会によるもので、手前味噌な感じですが。)
評論・研究部門 『天城一の密室犯罪学教程』
 ※小説部門でノミネートされなかったのは、評論・研究部門で大賞を与えるためではないか。仮に、小説部門でもノミネートされていたら、一位 ・二位にはならないが、組織票の票割れを起こす可能性があるのではないだろうか。


TeacupとFC2について 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月29日(土)21時44分1秒

Teacupでは、FC2のアドレスは書き込めません。
私のサイトを例に取ると、薔薇十字制作室BBS(Teacup掲示板)に、薔薇十字制作室SIDE B BBS(FC2掲示板)や薔薇十字日記(FC2日記)のアドレスを書き込もうとしても拒否されます。
今回の投稿不能の発生原因は、掲載しようとしたサイトがFC2だからです。
前々から疑問に思っていましたので、これを機会に、なぜTeacupが、そのような対応をしているか調べましたところ、
http://blue.ap.teacup.com/applet/planting_field/msgcate6/archive
の2004/12/17の記事「FC2とTeacup」に、その理由が書かれていました。
Teacupは、FC2には、違法宣伝などの迷惑行為を行うサイトが多いので、一律書き込み禁止にしているようです。
しかし、TeacupとFC2の両方を借りている者は、どうなるのか。また、迷惑行為かどうかを自主的に判断しようとしている掲示板管理者に対して、この一律な措置は何なのか。Teacupの措置も、結構迷惑だったりするのですが……。


※ 投稿不能の発生原因についてのご報告 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)01時58分24秒

みなさま、先ほどの私の投稿「価値ある生」(1〜11)のアップロード時間が、(6)と(7)の間で約30分ほど開いておりますが、この事情について、念のためご報告しておきたいと存じます。


(1)〜(6)までは、いつもどおりに順調にアップロード出来たのでございますが、(7)をアップしようとしたところ、いきなり

『Error BF6 このホストアドレス [ ntoska138116.oska.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp ] からの投稿はできません。詳細コード:5』

の表示が出て、何度やっても掲示板への投稿(アップロード)が出来なくなってしまいました。

ここに出ている『ntoska138116.oska.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp』というのは、もちろん私のホストアドレスで、それまで何の支障もなく投稿できていたものなのに、いきなりこのアドレス『からの投稿は出来ません。』という説明には、どうにも納得いきません。そこで私は、掲示板のサーバが故障し、そのため誤ってこのような説明表示が出るのかも知れないと考え、試しに「テスト」という短文を投稿しましたところ、予想に反して普通 にアップできてしまいました。つまり、サーバの故障ではなかったのでございます。
そこで次は、投稿文に問題があるのではないかと思い、文章の長さを調整してみたりしているうちに、ハッと気づいたのが、文中の何かが、掲示板サーバの拒否項目に入っているのではないか、ということでございます。まず試しに『出会い系サイト』という言葉を投稿しましたところ、これは普通 に投稿できました。ま、じっさいこれまでにも何度かはこの言葉を使っているでしょうから、この「それらしい言葉」で弾かれたのではなかったというのも、すぐに納得できました。

そこで、次に目についたのが、のれんさまのサイトへのリンク用の(画面上では見えない)「URL」でございます。

のれんさまが、1月28日の書き込み(「はじめまして」)の末尾に記しておられるご自身のサイトのアドレスは、いったん表示される「広告ページ」のURLであり、そこから、のれんさまのサイト「出会い系サイトを考えるサイト「挫折堂」」に、自動的にジャンプするような仕組みになっております。そこで私は、リンクを張るのであれば、このウザったい「広告ページ」を飛ばして、いきなり「挫折堂」のトップページにリンクを張ろうとして、そちらのURLを投稿文に埋め込んだのでございます。ですから、このURLに問題があるのだとしたら、このURLをのれんさまが書き込んだ「広告ページ」のURLに書き換えれば、アップロードできるのではないかと考え、それを試してみたところ、みごとにアップロードに成功したのでございます。

そこで、さらに続きをアップしようとしましたところ、やはり「挫折堂」の各ページにリンクを張ったところは、投稿が不能となりました。具体的に申しますと、

 ・ 「価値ある生」(8)の、最後に(必ず見てください)という部分
 ・ 「価値ある生」(9)の、管理人の実体験という部分
 ・ 「価値ある生」(9)の、どうしたら(※ サクラを)回避できるのか?という部分

の以上3ケ所で、ここにはもともと、それぞれのページへのリンクが張られていたのでございますが、それが障害となってアップロードできないということが判明いたしましたので、現在のようにリンクを削除した状態で投稿アップしたのでございます。


以上の事からわかるのは、のれんさまがサイト「挫折堂」を措いておられるサーバは、何らかの理由で、「ティーカップ」のサーバから、URLを指定する形式で、投稿(アクセス)を拒否されており、投稿文中にそのURLが記載されていると、「ティーカップ」のサーバは、その投稿が、拒否対象であるURLからの投稿だと勘違いし、それでいて「投稿不能の説明表示」には正しく投稿者のURLを読み込んで表示する、といったことをしたのだろう、ということでございます。

この事実から、どういう意味を引き出すのかは、人それぞれでございましょうが、ただ一般 的な印象として思い浮かぶのは「やっぱり出会い系サイトおよびその関連サイトが措かれているサーバって、怪しいところが多いんじゃないか」という疑問でございます。

この疑問を解いて下さる方がございましたら、ぜひその回答をご投稿、ご教示下さいまし。
もちろん、のれんさまがご説明下さっても結構でございます。


 


http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


価値ある生(11) 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)00時42分56秒


 のれんさま(つづき)

のれんさまがご助言くださっていることをまとめますと「結局は、出会い系サイトも世間も同じ。常識をわきまえて、真摯に、そして熱心にやらないかぎり、相手は見つけられませんよ。もし、出会い系サイトの方が、自分の理想に近い出会いが、容易に見つかりそうだ、なんて考えているんだったら、それは幻想です。そしてそんな幻想に振り回されている人が、ペテンのカモになるんですよ」ということでございましょう。

ですから、私が言いたいのも、のれんさまと同様「出会い系サイトに幻想を抱くな」ということでございますし、それにつけ加えますならば「出会い系サイトも世間も同じなのであれば、世間で相手を探す方がいいんじゃないですか」ということでございます。
少なくとも私は、のれんさまが「大したメリットなどない」と保証して下さったも同然の「出会い系サイト」に、貧しい関係しか結ばない女性を探すために、お金と努力を傾けようなどとは、到底思えないのでございます。――それくらいなら、さっさと自分で処理して、本を読んでいる方が随分マシなのでございます。いや本当に(笑)。


というわけで、私はこういうことを書きたいために、貴方さまの書き込みを残させていただきました。しかし、だからといって貴方さま個人を敵視しているわけでもなければ、興味がないわけでもございません。こんな忌憚のない私で良ろしければ、ぜひ今後ともおつきあい下さいまし。
貴サイトのまだアップされていないページ(特に「サクラについて」や「出会い系サイトの運営」関連のページ)の完成を、楽しみに待たせていただきます。



 ホランド

というわけで、これもやはり「トランセンデンタル(超越的・理想的)なものへの情熱」というものなのか、それともやはりKeenさまのおっしゃる『鉄壁』というやつなのだろうか?(笑)





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


価値ある生(10) 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)00時41分35秒


 のれんさま(つづき)

のれんさまは、『もちろん未だ連絡を取っている女性もいますし、その1回限りで終わってしまった方もいらっしゃいます』と書いておられますが、この壮観な「経歴」を見るかぎり『1回限り』が多いというのは、容易に想像のつくことでございます。
そして、のれんさまはこのような出会いを『こんな殺伐とした時代でもすばらしい出会いはすぐそこにあるのです。』と語っておられるのでございますが、はたしてこれは本当に『すばらしい』出会いなのでございましょうか? むしろ私には、こうした出会いこそ『こんな殺伐とした時代』に似つかわしい「殺伐とした出会い」であるとしか思えないのでございますが、いかがなものでございましょう?

私を含め、多くの男性は「動物的な性欲」を持っておりますので、『1回限り』の出会いでも歓迎する向きをたしかに持っていると申せましょう。私は、その事実は否定しないのでございますが、しかし、それを『すばらしい出会い』だなどと言われると「ちょっと待ってよ。それは嘘でしょう?」と言わざるを得ないのでございますね。

人によっては「デートしてセックスして、それでお終いというような一夜かぎりの関係なら、いっそ風俗店に行った方が話が早い」と言う方も、きっといらっしゃいましょう。「お金で性を買う」という問題もございますが、それを別 にすれば、私はこういう意見の方が、よほど「正直」でもあれば「すっきり」しているとも感じられます。
もちろん、こう申しますと「デートにこぎつけるまでが楽しいんじゃないか」とか「お金を払うんなら誰でもできるんだから、面 白くない」とおっしゃる方もおいででしょう。しかし、そこまで手間をかける気持ちがあるのなら、なにも「出会い系サイト」を利用して「お金をかける」必要など、どこにもないのではないでしょうか? つまり、身近なところで魅力的な女性を諄くも良し、行きずりに引っ掛けて諄くも良し、ということに、なぜならないのでございましょう?

しかし、いずれにしろ自分の貴重な時間をかけるのならば、やはり『1回限り』ではなく、末永くつきあうに値する女性を探すべきではないでしょうか。実際、『1回限り』を前提として、次々と女性を探し、それに労力を注ぎ込むというのは、「不経済」である以上に、「病的」だと申せましょう。

なぜ、そんな「安物買いの銭失い」みたいなことをするのか。なぜ、本当に努力するに値する女性に対し、努力を傾けようとはしないのか。
もちろん、全力を傾けるに値する女性だと思っても、いざつきあってみたら「それほどでもなかった」ということはございましょう。その場合、より素敵な相手を見つけようとする行為を(社会制度や責任の問題を抜きにすれば)私は否定しないのでございます。私が疑問に思うのは、あくまでも「始めから『1回限り』を前提とした女性を、探すために努力する」という行為であり、その気持ちなのでございますね。

思うにそれは、「女性不信」に由来する一種の「脅迫神経症的」な衝動行動なのではないでしょうか。「一人の人」に止まらないことで安心できるものの、しかし、それはおのずと「次の人」を探さなければ安心できないという不安定な心理が抱き合わせになったものなのでもございます。

こうした、あまりご当人にとっても歓迎できない心理状態にある人以外には、「出会い系サイト」というのは、あまり利用価値がないのではないか、というのが私の結論でございます。
「若くて美人でなきゃ」などという身の程知らずは、「出会い系サイト」ではカモにされるだけ。もちろん、外の世界でもそんな出会いはまず無いでしょうが、どっちにしろ可能性が無いに等しいのであれば、自分のフィールドで、精一杯努力してみるのが良いのではないでしょうか。





( 以下は「価値ある生(11)」につづく)


価値ある生(9) 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)00時40分42秒


 のれんさま(つづき)

                    ○

さて、サイト「挫折堂」が、人を「出会い系サイト」に誘うことを目的としたものである、ということを感じさせるページとして、管理人の実体験は、たいへん興味深いものでございます。

このページには、のれんさまが「出会い系サイト」を通じて未知の女性と関係をもった、これまでの「経歴」の一部が、一覧表形式で紹介されております。そして、この表によりますと、のれんさまは二ヶ月に1人以上の割り合いで、未知の女性とデートし、セックスをしておられます。上は48歳から下は18歳まで、じつに壮観な「経歴」なのでございますが、のれんさまはこの表について、つぎのような説明を付しておられます。

『もちろん未だ連絡を取っている女性もいますし、その1回限りで終わってしまった方もいらっしゃいますが、注意していただきたいのは管理人は自分で言うほどハンサムではないし、喋りも上手ではありません。そしてお金持ちなどと言うことは決してありません。
しかしこんな僕でも出会いは多数あるのです。そしてこの中の女性に自分の管理していた出会い系サイトの女性会員は一人もいらっしゃいません(ばれるととても怖い目にあうので…)全て雑誌やインターネットで自ら登録したサイトの女性会員ばかりです。
Hが目的ではなく人と出会って楽しい時間を過ごしたい。その一念でこの様な体験が出来ました。今後も増えていくと思います。
一番気をつけなければならないのはやはり相手に対する気遣い。そしてサクラを見抜く目。この二つさえきちんと備わっていれば、こんな殺伐とした時代でもすばらしい出会いはすぐそこにあるのです。』

この表を見て「うらやましい」と思った男性は少なくないでしょう。斯く言う私も、つい不覚にも、そのように思ってしまいました。――しかし、のれんさまがここで紹介しておられる「経歴」がすべて事実だとしても、例えば、出会いを求めている男性が「35歳以上は遠慮します」という人なら、この人数はずっと減りますし、それが「30歳以上はお断り」となると、この「出会い」の事例数は半分になってしまいましょう。

また、のれんさまは、ご謙遜ではあれ、ひとまず『自分で言うほどハンサムではない』とおっしゃっているのでございますが、その一方でのれんさまはどうしたら(※ サクラを)回避できるのか?のページで、「サクラ」を回避する方法のひとつとして、次のように書かれています。

『『自分を知ること』
まず相手の年齢が極端に下の場合は疑ってください。援助交際を求めている女性会員以外ならまず年齢が上の人を探していることはありません。まずサクラからのメールと思って間違いないでしょう。
又相手の写真と自分の顔を見比べてください。これは写真をプロフ(※ プロフィール)に載せている男性会員のみに言えることなのですが、通 常サクラはとても可愛らしい女性の写真をプロフに載せています。この写 真はアダルトサイト、他の出会い系サイトから引っ張ってくるのですが、ご自分と釣り合いが取れているかどうか冷静に考えてください。ほぼモデル級の女性でしょう?そんな女性が出会い系サイトをするとおもいますか?中にはとても美しい女性もいらっしゃいます。これは管理人の実体験でも合った事なのですが、そういう方は自分の写 真をおおっぴらに公開しません。ですからまず、自分の事を知るべきなのです。そうすればおのずとサクラかどうか見分けがつくはずです。』

つまり、「自分より、かなり若い相手は見つかりにくい」し「自分の顔に釣り合わない相手も、まずは見つからない」とおっしゃっているのでございます。
ですから、のれんさまの出会いの「経歴」を見て「けっこう若い娘がいるな」などと期待を抱くのは間違いでございましょうし、まして若かろうが歳をとっていようが、いずれにしろ、身の程知らずに「美人」を求める「面 食い」は大間違いで、のれんさまの経歴にある女性も、けっして「美人」であったという保証は無い、ということなのでございます。

つまり、のれんさまのように「出会い系サイト」の裏の裏まで知っており、それを要領よく利用したとしても、「若いくないとダメ」とか「ある程度は美人でなきゃダメ」などと言っていたのでは、ほとんど出会いはないだろう、というのが「論理の帰結」するところなのでございますね。

で、私がここで問いたいのは「そのあたりを妥協し、お金と時間を掛けてまで、出会い系サイトで、ほとんど一夜かぎりの女性を探す値打ちなどあるのか?」ということでございます。





( 以下は「価値ある生(10)」につづく)


価値ある生(8) 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)00時39分42秒


 のれんさま(つづき)

そこで、その慎重さを持って「挫折堂」を見ますと、まず引っ掛かるのが、のれんさまの「意図」でございます。
たしかにのれんさまは『引っかかりやすいトリック等をお教えする』ことにより『当サイトで一人でも多くの方が素敵な出会いを成し遂げれば嬉しい限りです』と書かれているとおりで、一見すると「見返りを求めない(無私の)、情報提供」をしているかのように感じられます。
しかし、「挫折堂」には多くの「出会い系サイト」へのリンクが張られておりますから、のれんさまが、そこから幾ばくかの利益を得ているのは事実でございますし、『元出会い系サイトを運営、管理していた』と書かれてはいても、本当に現在「出会い系サイト」を運営管理してはいないという保証は、どこにもないのでございます。つまり、「挫折堂」からリンクの張られている、お薦め「出会い系サイト」の中に、他ならぬ 、のれんさまご自身が運営しているサイトが無いという保証もないのでございますね。

つまり、この「疑い」が当っていたとすれば、のれんさまによる『一見すると「見返りを求めない(無私の)、情報提供」』も、じつは濫立ぎみの出会い系サイトのなかで、自身の関係するサイトを、その信頼性において際立たせようという「商売上の策略」なのかも知れない、と考えることが可能なのでございますね。
ところが、私のように疑り深くはない人ならば「こんな裏情報を(善意で)提供してくれる人の推薦する出会い系サイトなら安心だ」と思ってしまう可能性は、充分に高いのでございます。しかし、のれんさまが書かれておりますとおり、「サクラ」であれ何であれ、他人を騙そうとする人は「自分は貴方を騙そうとしていますよ」とは決して申しません。むしろ人を安心させようとするものなのでございます。
こう考えた場合、のれんさまが「出会い系サイトは危険だから、近寄らない方が賢明だ」と主張しておられるのならばともかく、「うまく利用して下さい」とおっしゃっている以上、のれんさまが「利用者の側に立っている」と考えるのは間違いで、やはり「出会い系サイトの運営・管理者の側に立っている」と考えるべきなのでございます。

したがいまして、のれんさまの「挫折堂」を覗かれる方は、のれんさまの提供して下さる「ペテンの手口に関する情報」等については有難く利用させていただくべきでございましょうが、それを理由に「過剰な信頼」を寄せるべきではないのでございます。
それは最後に(必ず見てください)のページに、のれんさま自身が、

『出会い系サイトでさまざまな問題が起きましても当サイトは一切責任を負いません。やるもやらぬ も自己責任。
見抜く目を養ってください。きっと貴方にも素敵な出会いがあるんです。管理人もそうであったように。』

とお書きになっているとおりで、そんな保証されることのない「信頼」など、寄せる方が間違いだということなのでございます。





( 以下は「価値ある生(9)」につづく)


価値ある生(7) 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)00時36分16秒


 のれんさま

はじめまして、ようこそおいで下さいました。

早速、のれんさまのサイト出会い系サイトを考えるサイト「挫折堂」を拝見いたしましたが、なかなかユニークなサイトでございますね。たいへん勉強になり、楽しませてもいただきました(笑)。

> 当サイトは元出会い系サイトを運営、管理していた視点から引っかかりやすいトリック等をお教えするサイトです。当サイトで一人でも多くの方が素敵な出会いを成し遂げれば嬉しい限りです。

という主旨で開設されたとのことでございますが、私がのれんさまの書き込みを単なる「宣伝の書き込み」と判断して削除しなかったのは、私が人の「騙されやすさ」の問題に興味を持っており、それを考えるのに、のれんさまのサイトは格好の素材だと考えたからなのでございます。

私は、これから、のれんさまのサイトについて、いろいろと疑義を呈させていただきますが、これはのれんさま個人を批判したいのではなく、「これくらい疑わないとネットは怖いよ」ということを示したいがためでございます。
ネットを利用する人たちが、ネットの怖さを知ることにより、ネットを心から楽しんで利用できるようにしたい。――そうした意味で、私の狙いは、のれんさまの「サイト設立の主旨」とも合致するものだと存じます。したがいまして、以下の分析・論考については、もしかするとのれんさまにとって不本意な部分も出てこようかと存じますが、悪しからずご容赦下さいますようお願いいたします。

                    ○

まず、のれんさまのサイト「挫折堂」を見て、我々が感じるべきは「このサイトもまた、人を、出会い系サイトへと誘っている」という事実でございます。

要するに、のれんさまは〈出会い系サイトの存在そのものが「悪」なのではなく、そうしたものの中に「悪」が紛れ込んでいるので、それを回避して、利口に利用しさえすれば、出会い系サイトは『こんな殺伐とした時代でもすばらしい出会い』を提供してくれるものなのだ〉 とおっしゃっているのでございますよね。

私は、このご意見を、しごくもっともなものだと存じます。たしかに、出会い系サイトも普通 に運営してさえおれば、それだけでそれなりに儲けが出る仕組みになっておりますから、すべてがすべて「悪徳な商売」であるとは申せません。しかしまた、これだけ濫立しておれば、なまじのことでは儲けが出せないというのも事実であり、そこから「悪」への誘惑が発芽しがちだ、というのもまた疑いのない事実なのでございます。
また、のれんさまご自身『ばれるととても怖い目にあうので…』書かれているとおり、この種の商売に「トラブルと暴力団」は付きものでございますから、いずれにしろ「出会い系サイト」には慎重に接するべきなのでございましょう。





( 以下は「価値ある生(8)」につづく)


価値ある生(6) 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)00時09分5秒


 AOIさま(つづき)

もちろん、日本共産党であれ創価学会であれ、「建て前」としては「平等」であり、そこには「力関係についての強弱」や「階級」というものはない、ということになっておりましょう。ただ「その運動への献身の度合いが、役職に反映されているために、結果 として上命下達の指示命令系統が、妥当なものとして出来あがっているのだ」という「建て前」なのでございます。
しかし、「建て前」とは言え「上下階級」が認められれば、自ずと「平等」な発言は抑圧されざるを得ません。例えば、下の者が「それはおかしい」と反対しても、「それは君が、ことの本質を理解していないからだ」として、言論を封じられてしまいます。

例えば、『地獄変相奏鳴曲』・第二楽章「伝説の黄昏」の主人公(新城太郎)が、党の末端組織で発生した「部落民差別 事件」について、これを「人民革命の本義にもかかわる」由々しき事態と見て、上部組織に検討と対応を求めるべく、会合にその問題を諮ったところ、組織上の上位 者は、こんなことを言います。

『(…)まだこれからが報告の眼目のようで、なにしろ報告内容は部落差別 だが、あれこれたくさんの重要問題が目前にあるおりから、人民党の細胞会議が、しかも臨時の拡大会議が、選りに選って部落問題なんかに、そんなに時間を掛けるのは、なぜか。(…)』(P169)

つまり「革命闘争の道程において、部落差別 問題などは瑣末な問題でしかない。革命が達成された曉には、おのずと自然にそのようなものは解消されるのだから、そんな問題は取り上げるまでもないことである。それが(新城には)わかっていない」というのでございますね。そして、この考え方を背後で支えるのは、「差別 問題」を重要視する新城は『「マルクス思想」の何たるか、「運動」の方向性等を』理解していない、という階級的否定評価なのでございます。

これが創価学会ですと、例えば「イラク戦争を支持承認した公明党を、平和仏法を標榜する創価学会が支持するのはおかしい」と批判した場合、「君の気持ちもわからないではないが、政治にはいろいろと難しい問題があって、なかなか一筋縄ではいかない。しかし、そんな政治の場で、我らの同志が為し得るかぎりのことを為そうと頑張っているのだから、我々は彼らを信じて応援すべきでしょう。いま公明党が力を失えば、日本や世界は、ますます悪くなるだけなのです。だから、理想的ではないにしろ、我々は公明党を支持すべきだし、もちろんそれだけではなく、なによりこの平和仏法を世界にひろめることで、根底的なところから、世界を平和にする努力をすべきなのです」といったような返事が返ってくるのでございますね。――しかしこれも、当りは柔らかいものの、その内実は「君には現実の難しさ深さがわかっていないんだ。また仏法の力を信じてもいないから、同志を疑ることになるんだ」ということなのでございます。

つまり、両者に共通しているのは「組織の目的とその意義を、本当に深く理解していれば、組織の方針に疑義を挟むようなことはありえない」という「問答無用」の思想が、その組織の根底に横たわっている、ということなのでございます。

このように、創価学会は「組織」体質的に、日本共産党とたいへん似た部分を持っており、それは表面 上、日本共産党と同じような主張をしている、市民運動団体の比ですらないのでございますね。

下手をすれば、役員が下からの批判に曝され、自分の立場を危うくしかねない「平等=民主的」な市民運動団体と、本質的にそうではありえない創価学会や日本共産党とは、「組織」として、その体質をまったく異にしており、だからこそAOIさまには、権威主義的(一方向的)な共産党組織というものが、なかなか理解できないのでございましょう。





( 以下は「価値ある生(7)」につづく)


価値ある生(5) 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)00時08分5秒


 AOIさま

> 大西巨人『地獄変相奏鳴曲』・第二楽章「伝説の黄昏」

> 私が党について書かれていることで頓挫してしまうのは、人間についてではなくて、党の歴史、システムについてなんですね。組織の中の人間を描くためには、それは不可欠だとは思うんですが、私にとっては、まどろっこしいというか・・・苦痛なのです(笑)。ミステリの謎解きみたいな・・・(笑)
> 論理性、客観性の欠如なのでしょうが。

たぶんそれは、AOIさまが経験しておられる市民運動団体の組織が、日本共産党や創価学会の組織と、大いに違っているからでございましょう。
おおむね市民運動団体においては、参加者は全員「平等」であり、「幹部・役員」が「偉い」とか「運動に関する認識が深い」というような「建て前」は存在せず、「幹部・役員」とは基本的に「組織運営上の調整係・世話役・牽引役」だということになっておりましょう。

しかし、日本共産党や創価学会では、「役職」と「目的に対する認識の深さ」は比例している、という「建て前」がございます。つまり、日本共産党なら、役職が上に行けば行くほど、「マルクス思想」の何たるか、「運動」の方向性等を深く正しく認識しており、創価学会であれば、役職が上に行けば行くほど、「信仰心」が篤く、「教義」にも通 じていて、その意味で双方共に、それぞれの運動に深く自身を投じているのが「幹部・役員」である、という「建て前」になっているのでございますね。

ですから、日本共産党であれ創価学会であれ、基本的には「上命下達」でございます。つまり、理論や教義に詳しくない(とされる)下位 の者は、上位の「指導」や「指示」に従って「正しい運動」を実行しなければならない、ということになっているのでございますね。もちろん、この「指導」や「指示」は、「命令」口調でなされるとはかぎらず、それは時に「指導」や「説得」や「依頼」という形をとるのでございますが、少なくとも市民運動団体のように「対等に協議」して行動を決定する、というような「双方向的なもの」ではなくなるのでございます。





( 以下は「価値ある生(6)」につづく)


価値ある生(4) 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)00時06分42秒


 はらぴょんさま(つづき)

ところが、笠井潔の場合、「意味」「意義」「意図」が先走っており、その「狙い」の範疇におさまる「形式」が達成されれば、それがすなわち「意味」「意義」「意図」の達成であるかのように思い違いしているような節が見られます。
しかし、それは笠井潔自身が、かつて「岡嶋二人」論の中で指摘したとおり、「錯覚」に過ぎないのでございます。
私はそのことを、拙論空虚に巣食う魔 ―― 笠井潔と『空の境界』のなかで、笠井の「岡嶋二人」論を引きながら、次のように説明したのでございます。

『 つまり、たとえ大変「重要な意味」が語られていようとも、それが作家の直観によって適切に選択された文章によって表現され「肉化」されていないかぎり、その小説は「駄 作」であり「失敗作」だということなのだ。
 例えば、「人類愛」や「世界平和」というのは、重要な問題であり、重要な小説的主題ともなりうるけれど、それが小説として適切に文章化されないかぎり、それは「駄 作」であり「失敗作」となってしまう。「重要な主題をあつかった駄作」であり「頭でっかちの失敗作」ということになってしまうのだ。』

ここで語られている「テーマ」の問題を、テーマを実現するものとしての「形式」の問題に置き換えれば、今回の問題点が明かとなりましょう。
つまり、形式的に「作者が消滅させられた(ように見えた)」としても、そのことにより「作品が自立した(かのように見えた)」としても、それだけでは、それは所詮「重要な形式をあつかった駄 作」であり「頭でっかちの失敗作」でしかないのだ、ということなのでございます。

事実、笠井潔の近年の小説は、作者自身が作中や作外で、その「意味」「意義」「価値」などを語る(アピールする)ことによって、なんとか「(あんまり面 白くないけれど、ひとまず)意味のある作品であるらしい」というような評価をうけております。しかし、その本質は、『危ない格言』で申しますと、

『作者が語っている時、その作品は口をつぐんでいる。その作品が語りださないことを、作者は、大いに口を開くことでまぎらわしている、とみていい。』(P180)

ということになるのでございます。
もちろん、ホランドくんが、

> 結局は、講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』の解説みたいに、笠井さんの子分である「探偵小説研究会」の評論家たちが「これはすごい、これはすごい!」って、わざとらしく騒いで(言上げして)みせてお終い、――ってことになるんじゃないでしょうか?

と指摘したように、「探偵小説研究会」の評論家たちは、「いつものように」プロパガンダ(政治的宣伝)を行い、生真面 目な理屈好きの読者を「洗脳」しようとすることでございましょう。しかし、そんなことで維持される作品の評価など、多寡が知れたもの。笠井潔は、『瀕死の王』を含め、これから書かれる作品において、「意図を超えた」作品を書かないかぎり、自身が期待するような「意味=価値」のある「アンチ・ミステリ」をものにすることなど、とうてい不可能なのでございます。
しかし、「形式」に依存し、その権威によって「アンチ・ミステリ」であることを「読者に認めさせよう」とするような安易な気持ちを持つ以上、今の笠井潔に「意図を超えて語りだす作品」を産出することなど、まずは不可能なのでございます。



 Keenさま

> 昨日は暖かかったので、久しぶりにヨガに行ってきました。思ったよりも動けましたが、やはり今日は所々筋肉痛で、トホホです。
> 私はぼちぼちやってます。

AOIさまは『雪が降ると庭駆け回りたい方』だというイヌ型で、Keenさまはアーニャの飼い主らしく、寒い間は「こたつで丸く」なっておとなしくしているネコ型なのかもしれませんね(笑)。





( 以下は「価値ある生(5)」につづく)


価値ある生(3) 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)00時05分45秒


 はらぴょんさま

> 笠井潔の『瀕死の王』は、最終的に自身をモデルとする「宗像冬樹」を、「矢吹駆シリーズ」やコムレ・サーガの書き手に仕立て上げ、結果 的に、大文字としての作者である笠井潔を消そうとする。

ホランドくんも書いておりましたが、これは実に的確な指摘だと存じます。たしかに、これしかないでしょうね。――それにしても、どうして私は、この点を見逃していたのでしょうか?

> でも問題は、「だから、どうなんだ?」ということでしょう。

> 作者である笠井さんが、そういう形式を「特権的な作者を消失させる」とか「自立した世界として自己完結させる」とか言って、その「意義」に重要性を見いだしたとしても、読者にとってそれは「ああなるほど、そうまとめましたか」以上のものになるという保証は、まったくどこにもありませんからね。(<ホランドくん)

笠井潔が、はらぴょんさまがご指摘になった「形式」を採用した場合、問題となるのは、まさにこの点でございましょう。私は前回、時雨さまへのレスに、

> 私は、笠井のそうした「理屈づけ」「意義づけ」そのものを否定しようとは思わないのですが、それが年齢的な「禁欲主義(意識)の弛緩」にともなう「俗物的欲望の滲出」の影響によって、悪く表われ、結果 として失敗につながるんじゃないかと、斯様に心配しているのでございますね。

> つまり、笠井潔はどんなに世俗的に堕落したとしても、たとえ「理屈づけ」「意義づけ」が単なる「言い訳」に堕したとしても、いずれにしろ「観念」から自由になれる人ではない、と思うのでございます。

と書きましたが、まさに笠井潔は、はらぴょんさまがご指摘になった「デモーニッシュな欲望=権力欲」という「俗物的欲望の滲出」の影響によって、そのような「(ウロボロス=メタ・フィクション)形式」に仕立てることが、所詮は「観念的自己回復」でしかないことに気づき得ない、「観念に囚われた状態」に落ち入っているのではないか、と疑うのでございます。

つまり、平たく言えば、「そのような形式には、何の意味も価値も無い。問題は、形式によって正当化されることを必要としない、小説そのものの強度なのだ」ということなのでございます。

これはごく当たり前の意見で、このことを先日ご紹介した榎並重行の『危ない格言』では、このように申しております。

『作者個人を上まわる価値を有する著作こそ、優れているといわれていい。』(P178)

つまり、著者の「意図」や「狙い」の範疇に収まっているような「達成」など何ほどのものでもない、ということでございますね。逆に言えば、はらぴょんさまが、

> アンチ・ミステリの代表的な作品、『黒死館殺人事件』はメタ化の極地であるが、小栗虫太郎は愉しんで、いわば探偵小説に淫して、このような怪物的作品を生み出した。

と例示しておられますとおり、意図を超えた達成こそが「本物」の証だということなのでございます。





( 以下は「価値ある生(4)」につづく)


価値ある生(2) 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)00時03分31秒


ちなみに、現在はこのように「多臓器不全」に近い、たいへん厳しい状態になっておりますので、もしかすると「心臓が弱って、停止する可能性もある」ということでございます。その際、問題となるのは、ふたたびリスクの大きい人口心臓を設置するかどうかなのでございますが、医師の話では「もしもそうなった場合、現状ではお薦めはできません」とのことでございました。つまり、私の理解したところによれば、――救急でかつぎ込まれた当初は、疾患は心臓だけであり、他の臓器は健康だったから、人口心臓の負担にも堪えられたけれど、現在のように他の臓器が弱っている状態で人口心臓を設置すれば、たしかに血流は確保され当面 の延命ははかれるものの、そのことによって他の臓器をさらに痛め、結果として身体を回復不能な状態にまでいたらしめる可能性が高い――ということなのでございます。つまり、ひらたく言えば「今度心臓が止まったら諦めて欲しい」ということであり、医師は上の言葉につづいて「もちろん、現在は心臓が動いていますから、状況を見ながら、できるかぎりの治療はさせていただきます」とつけ加えたのでございます。

その後しばらくして、その医師から「内視鏡検査の専門医から、内視鏡による腸の検査の話が出まして、リスクはあるもののやってみようという話になりました。肛門から内視鏡を挿入して、直接損傷部を探し、可能であれば止血治療を行おうということなんですが、ただ、この内視鏡の挿入自体、腸を傷つける可能性がありますし、傷口をみつけて止血処置をしたとしても、どれくらいの効果 が見込めるかは、なんとも保証の限りではありません。ただ、できることをやってみようということなので、ご了解いただけますでしょうか」と、大要このような話がございました。もちろん、私としては、やるもやらぬ も共にリスクが伴うというのであれば、医師の判断を信じて任せるしかございませんので、そのように回答したのでございます。

このように、父は心臓を機械的に補助されながら、その回復をはかっておりますものの、その治療行為が身体の他の部分に負担をかけて弱らせ、今度はその対処治療のために、心臓に負担をかけかねないといった、むずかしいバランスのうえに立った治療をうけているのでございます。
医師からはふたたび「ここ2、3日が山かもしれない」と言われたのでございますが、私としては医師を信じて結果 を待つしかない、と考えております。ただ、この行き詰まりかけた状況のなかでの唯一の救いは、父が麻酔のおかげで苦痛を感じていないであろうと思える点でございましょう。

人口心臓の無かった昔であれば、父は心臓の止まった今月14日に死んでいたことでございましょう。それが、医学の進歩により、意識はないものの、ひとまず身体的には今も命を長らえております。この2週間、そしてもし父が回復して意識を取り戻すとしたら、それまでの時間というのは、「命」というものにとって、いったいどのような意味を持つものなのか――そんなことを、私はふと考えました。意識のない父にとっての、この曖昧な時間。そして、家族としてそれを見守る私にとっての、この「曖昧な時間」。これらは、いったい何を意味するものなのか。――私はそこに、「命」というものの何かが、あるような気がしてならないのでございます。





( 以下は「価値ある生(3)」につづく)


価値ある生(1) 投稿者:園主  投稿日: 1月29日(土)00時02分43秒

みなさま、現在、ICU(集中治療室)において、心筋梗塞による心不全の治療をうけている、私の父の容態でございますが、一昨日より腸からの出血が続いており、なかなか厳しい状況となっている模様でございます。

以前にもご説明しましたとおり、現在父は、心臓の機能を補助する機械を取り付けられ、人工呼吸気の助けを借りて、麻酔で眠ったまま、心臓の回復を待っております。しかし、この状態は、決して安定的なものではなく、心臓補助機そのものが身体に負担をかけているという側面 がございまして、先日の腎臓障害のように、身体の各所に障害をひき起している模様なのでございます。

心臓補助機は、左腿の内側の大動脈からチューブを差し入れる形で設置されているそうなのでございますが、これが左足への血流を疎外するものとなっております。そんなおり、当初の一時的な心臓停止や体力の低下などからひき起されたのであろう腸からの出血のために、なかなか難しい状況となっているのでございます。
腸は胃とはちがい外科的な治療が施しにくく、基本的には薬による治療しかないそうで、そのため腸からの出血を止めるためには、血液の粘度(凝固力)を高める薬をつかうことになりました。ところが、そうしたところ今度は血流が疎外されることになり、もともと血流の細くなっていた左足に血流障害が生じたのでございます。そこで本日は、左腿から設置していた心臓補助機を右腿に移し、左足に生じている血流障害の原因を探り、血栓などができておれば、それを取り除く手術をしようということになったのでございます。

心臓補助機の右足への移設が済み、左足の血流を検査したところ、小さな血栓は出来ているものの、手術で取り除かなければならないほどのものはなかったそうでございます。しかし、今後、右足でも同様の事態がひき起される可能性は充分にございますので、右足への血流を確保するために、できれば血はさらさらの状態(凝固力を低下させた状態)にしておきたい。しかし、そうすると腸の出血が止まりにくくなるのでございます。
つまり、今は、血の粘度を上げても下げてもそれぞれに支障が出るダブルバインドの状態なのでございます。したがいまして、担当医は「血流と腸の出血の双方の状況をにらみながら状況に応じて対処処置を行い、その中で出血の停止と心臓の回復に期待するしかない」という主旨の説明をしておりました。





( 以下は「価値ある生(2)」につづく)


はじめまして 投稿者:のれん  投稿日: 1月28日(金)00時37分51秒

ネットサーフィンでオタクの定義みたいなの見ました。
ちょっと面白かったので足跡残していきますね。
また遊びに来ます

http://zasetu.easter.ne.jp/


この政治家たちを見よ(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月27日(木)23時02分47秒


 はらぴょんさま

> 笠井潔の『瀕死の王』は、最終的に自身をモデルとする「宗像冬樹」を、「矢吹駆シリーズ」やコムレ・サーガの書き手に仕立て上げ、結果 的に、大文字としての作者である笠井潔を消そうとする。

 なるほど! 「矢吹駆シリーズ」と「コムレ・サーガ」をつなぐやり方は、それだったんだ。

 言われてみれば、たしかにその通り。登場人物を共通させて、2つの世界をつなぎ合わせるんじゃ、それぞれの世界の特性を殺して、それぞれの世界観を破壊しかねない。でも、片方がもう一方の「作中世界」だということにすれば、論理的な矛盾は生じませんからね。

 ただ問題なのは、どっちをどっちの作中世界にするかということ。つまり、どっちが笠井潔虚構世界の「現実」的位 相であり、どちらがそれに従属させられる「作中世界」になるのかということ。

 でも、こうした階層化は当然、2つの世界を序列化するものになってしまうから、たぶん単純に「どっちがどっちの作中作」とはせず、まさに「ウロボロス(尾を呑む蛇)」のごとく、「矢吹駆シリーズ」は「コムレ・サーガ」に含まれ、その「コムレ・サーガ」は「矢吹駆シリーズ」に含まれるという「円環構造」にするんでしょうね。つまり、どちらの世界にも「コムレ・サーガ」や「矢吹駆シリーズ」を書いている作家「宗像冬樹」が登場するんだけど、両者は厳密には同一人物ではなく、「宗像冬樹」が登場する小説を書く「宗像冬樹」が登場する小説を書く「宗像冬樹」が登場する小説を書く「宗像冬樹」が・・・という形式になるんじゃないかな。これだと、たしかに形としてはとってもきれいにまとまります。

 でも問題は、「だから、どうなんだ?」ということでしょう。

 作者である笠井さんが、そういう形式を「特権的な作者を消失させる」とか「自立した世界として自己完結させる」とか言って、その「意義」に重要性を見いだしたとしても、読者にとってそれは「ああなるほど、そうまとめましたか」以上のものになるという保証は、まったくどこにもありませんからね。

> しかし、笠井の場合は、悪戯ではなく、絶対的に完璧な作品を要求するがゆえの行為なのだ。完璧な作品は、作者が誰かということは問わない。作品自体が、人々を瞠目させるというわけだ。笠井の欲望は、自身の作品によって、世界を止めることにある。これが権力欲でなくて、何であろうか。

 『権力欲』に促されたものだとしても、2つのシリーズをこうしたウロボロス形式に収斂 させることで、ホントに『作品自体が、人々を瞠目させる』ものになるんだったら、それはそれでボクはいいんだけど、でも、たいていの読者は、そんな大層なことは考えなくって、結局は、講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』の解説みたいに、笠井さんの子分である「探偵小説研究会」の評論家たちが「これはすごい、これはすごい!」って、わざとらしく騒いで(言上げして)みせてお終い、――ってことになるんじゃないでしょうか?



 Keenさま

> 昨日は暖かかったので、久しぶりにヨガに行ってきました。思ったよりも動けましたが、やはり今日は所々筋肉痛で、トホホです。
> 私はぼちぼちやってます。

 ヨガですか、健康によさそうですね(笑)。

 ところで、園主さまったら、運動とか全然しないし、人から「これは健康によいから、やってみたら」なんて言われると、へそ曲がりなものだから絶対そういうことはやろうとしないんですよね。タバコやお酒をやらないのはいいんだけど、もう歳なんだから、すこしは健康に配慮してもらいたいものです。



 園主さま

> 「トランセンデンタル(超越的・理想的)なものへの情熱」が、今の彼を根底で支えているというんだから、私と響きあわないわけがないんだよな(笑)。

というわけで、「トランセンデンタル(超越的・理想的)なものへの情熱」もいいんですが、体脂肪率や尿酸値なんかにも気をつけてくださいね。不健康な生活をしてたら、年齢のせいばかりではなく、ますます掲示板トップのイラストから無縁の存在になってしまいますよ! ・・・もっとも、最初から無縁なんですけどね(笑)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


この政治家たちを見よ(中) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月27日(木)23時01分40秒


 芙宮さま

 芙宮さまへの園主さまのレス。泣きべそをかいてる孫の頭をなでながら、なぐさめてるお爺さんみたい(笑)。――でも、人を励ますことで自分が励まされることがあるって、園主さま以前に書かれてましたよね。だから園主さま、芙宮さんにも励まされいるんですよ(笑)。



 Y.I.さま

 はじめまして、ようこそいらっしゃいました!

> そもそも、フランス現代思想隆盛以降の「何々的」には、総じて虫酸が走ります。あの人たちが読み返した「人間的、あまりに人間的」まで含めて…。
> かつて何かを信じたことがある人なら、誰だってそうでしょう?
> だってあの人たちの「何かを信じる人」狩り、「〜造り上げる人」狩りは、80年代には大変なモノでしたから…。「郵便的」なんて言ってる人たちだって、どうせやることは同じですよ。

 たしかにボクにも、Y.I.さまの御文はよく理解できませんでした。フランス現代思想ブームに乗っかった人たちは、そんなに悪いことをやったんですか? でも、具体的に言うと、どういうことなんでしょう?

 それから『〜なんて言ってる人たちだって、どうせやることは同じですよ。』なんて言い方は、どうにも無根拠な決めつけだけによる批判のように聞こえるんですが、いかがでしょうか?



 時雨さま

> カウンセラーですか。以前知り合いに進路を相談したときに『カウンセラーにでもなったらいいんじゃないか?』といわれたことがありましたが・・・

 あっは、やっぱりそんな印象をあたえるんですね(笑)。

> なるほど。それでは、今度僕も一話を見たら感想を書いてみますね。
> あ、それからウルトラマンですが、近場に何とかやってる映画館を見つけたのでいけることになりました。
> こちらも響鬼と一緒に感想を書き込ませていただきます。

 まだやってるところがありましたか、『ULTRAMAN』。
 『響鬼』とともに、ご感想お待ちしております!



 AOIさま

> 『地獄変相奏鳴曲』読まれているんですね。私、党のことで頓挫しています(笑)。引用されていた箇所もよく覚えています。続きを読みたいのですが、もう少し余裕ができたら(笑)。『僕の叔父さん 網野善彦』『デモクラシーの冒険』を読んで、今は、『夜のピクニック』と『アメリカの夜』を平行して読んでいます。『五里霧』も解説入りということで単行本もあるけれど、文庫も買いましたよ。一篇だけ読んで、ただ今貸し出中。こちらも返ってきたら続きを読みます。それにしても、大西さんの創作意欲は衰えるところがありませんね(嬉)。もじり方がもろなのは可笑しいですが。

 『アメリカの夜』の阿部和重さんって、ちくま文庫版『神聖喜劇』の解説も書かれておられますよね。園主さまは忘れてたみたいですけど。

 ところで、『もじり方がもろ』なのが可笑しい――『縮図・インコ道理教』(連載中)なんですが、タイトルは別 にして、この作品なかなか興味深いそう。

 大西巨人と言えば、『神聖喜劇』で「軍隊も、世間(軍隊外の一般社会)と同じであり、決して特殊空間というわけではない」として、軍隊を通 して「普遍的世界」を描き、『天路の奈落』では「マルクス主義政党もまた、世間と同じであり、決して特殊空間というわけではない」ということで、同様に「普遍的世界」を描きました。では、今回『縮図・インコ道理教』に描かれるのは「オウム心理教もまた、世間と同じであり、決して特殊空間というわけではない」ということが描かれるのでしょうか?
 この問題を「宗教団体もまた」としてしまったら、小説としてはわりあいありがちなものになりそうなんですが、あの極端に走った「オウム心理教もまた」として「普遍的世界」を描き切ったとしたら、これはなかなか凄い作品になると思います。大西さん、オウムについてかなり勉強したんでしょうねえー。





( 以下は「この政治家たちを見よ(下)」につづく)


この政治家たちを見よ(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月27日(木)23時00分8秒

 みなさん、こんばんは! ニュースでもご承知のとおり、いわゆるNHK特番問題では、NHKの特別 番組の内容に対し、自民党政治家から事前圧力がかかったとする朝日新聞の報道に、NHKと名指しされた安倍晋三自民党幹事長代理らが「事実無根である」との反論をし、衆院本会議では小泉首相も『NHKの特集番組問題でNHK幹部が放送日前に自民党の安倍晋三幹事長代理と面 会したことについて「検閲には当たらず、放送法の規定に抵触することもない。報道機関で適切に対応すべきだ」と述べ、政府として調査する考えはないことを明らかにした。』そうです。――またもこんな茶番が許されるなんて、ホントに腹立たしいことです。

 朝日新聞は、同社による『取材の際に(圧力を感じたと)語った松尾武・元放送総局長が、取材から10日で自らの発言を翻したことに驚きを禁じえない。』と言っているそうですが、これひとつ採ってみても、事の裏側が窺われようというものです。

 問題の自民党政治家らは「面会した場所や日付けや具体的な言葉」がどうだこうだと言っているようですが、今回の事やNHKの場合にかぎらず、いろんな方面 で、偉い政治家先生がたが「君、あれはどうも何だから、ひとつよろしく頼むよ」なんてやって(しばしば命令や強制・脅迫にはよらず、暗に圧力をかけたりして)いるというのは、社会人なら誰でも「常識」として知ってる事実でしょう。それなのに、その問題を矮小化し、証人に圧力をかけ、アリバイ工作までして、日頃自分たちが「当たり前のようにやっていること」を、まるで「何も無い(事実無根である)」かのように言い繕う、この臆面 の無さ、厚顔無恥。「盗人たけだけしい」とはまさにこのことですが、それにしても、なんで「右寄り政治家」って、こう恥知らずなんでしょうね。「左寄り政治家」が廉潔だとは言わないけれど、ここまでの厚かましさは、ちょっと見られませんもんねえ。

 もちろん、小泉純一郎首相の、厚かましさ・臆面のなさ・盗人たけだけしさは、いまさら言うまでもありません。
 「バリバリ右翼の、大物三世政治家」安倍晋三が、わざわざ『「公平・公正な報道を」といった趣旨の発言をしたが、面 会によって番組内容が改変された事実はない。』というのがNHKの説明だそうですけど、安倍の言う「公平・公正な報道を(※ して欲しい)」というのは、もちろん「自分(安倍)から見て」そのようなものに「して欲しい」という意味であって、NHKの自主的判断による「公平・公正な報道を」という意味じゃないのはわかりきったことです。そもそも、NHKが、安倍が喜ぶようなものばかり作っていたら、大物政治家でお忙しいに違いない安倍先生が、わざわざ面 会して「要望」を伝える、なんてことするわけないんですよね。つまり、安倍は「面 会」して「要望」することで、「圧力」をかけたんです。「圧力」かけられると確信し、「圧力」をかけるために、「面 接」をしたんですよ。つまり、形式上は「単なる軽い要望」であっても、それなりに「効果 (影響力=圧力)」のあることは、誰よりも安倍自身が承知していたんです。――それでも、そんな「権力・権威(親の七光り)・肩書きを嵩に着た行為」にすら「問題はない」と言って、小泉が安倍をかばうのは、もちろん彼らが「同じ穴のムジナ」でしかないからです。

 こんな「見え透いた嘘」をつく政治家たちを、それでも有り難がっている日本国民がいるなんて、ホントに「日本の恥」だとしかボクは思えません。





( 以下は「この政治家たちを見よ(中)」につづく)


かんたんレス 投稿者:AOI  投稿日: 1月27日(木)04時29分44秒

☆Keenさま

雪の予報ははずれたようです。早朝降っていたのかしら?寝坊していたのでわかりません。
豪雪地にお住まいの方にはうんざりでしょうけれど(うんざりどころじゃないか)、雪が降ると庭駆け回りたい方なので、ゼンゼン大丈夫です(笑)
以前私もヨガをやっていて、座り方(骨盤の位置、姿勢)を体得したことがすごくよかった。ライオンになったり、立ち木になったりも(笑)
今年の花粉の飛来はすごいらしいですね。そろそろ気配が・・・。ご自愛くださいませ。

☆園主さま

>つまり私は、「党」について書かれた大西巨人作品も、たいへん面白く読むのでございますが、どうも世間はそうではないらしい。で、この差が何に由来するのかと考えると、やはりこれは私の「創価学会経験」なのでございましょう。

>私が創価学会の中で感じてきたものの多くが、『天路の奈落』の中には実に「リアル」に描かれており、何度も「そうそう、そうなんだよ」とうなづかされたのでございますが、その部分というのはたいがい「理想と現実のギャップに、鈍感な人たち」の存在なのでございます。

なるほど、そうかもしれませんね。私にも、創価学会や共産党に比ぶべくもないですが、ちっぽけな世俗運動団体の経験はありますよ。だから、まだ、あまり読んでいませんが、人間模様については、反省も含めて肯ける。
私が党について書かれていることで頓挫してしまうのは、人間についてではなくて、党の歴史、システムについてなんですね。組織の中の人間を描くためには、それは不可欠だとは思うんですが、私にとっては、まどろっこしいというか・・・苦痛なのです(笑)。ミステリの謎解きみたいな・・・(笑)
論理性、客観性の欠如なのでしょうが。


さて、今日も。 投稿者:Keen  投稿日: 1月26日(水)10時45分0秒

昨日は暖かかったので、久しぶりにヨガに行ってきました。思ったよりも動けましたが、やはり今日は所々筋肉痛で、トホホです。
私はぼちぼちやってます。

お父様、園主さまが病室に来ていることを、きっとどこかで感じていらっしゃると思いますよ。寒いので、お気をつけて下さい。

そういえば、今日東京は雪の予報でしたが、AOIさま、大丈夫ですか?


かくもデモーニッシュな欲望 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月26日(水)00時17分53秒

『瀕死の王』において、笠井潔は自身の「矢吹駆シリーズ」やコムレ・サーガとリンクするような記述を行っている。これは、以下のような理由が考えられる。
(1)ミステリというジャンル自体が、トリックの独創性を要求することから、過去に使われたトリックを除外するために、過去のミステリに言及することが多く、また、マニア性を帯びたジャンルであることから、メタ・ミステリへと転化する因子を自ずから持っているといえる。笠井潔はこうしたメタ・ミステリの累積の極限において、重力で陥没が起き、プラックホールとしてのアンチ・ミステリが生まれる条件が整うと考えており、この理論をもとに、自作においてもメタ化を図ろうとしている。
それに加え
(2)『梟の巨なる黄昏』のように、最後の小説、絶対的な究極の書物の呪縛を弾劾する主題の小説を書きつつ、それに深く魅了され、自身もそれを書きたいという不条理な願望を持っている作家であるがゆえに、完全な虚構を志向するから、ということがある。
ここで、完全な虚構について考えてみたい。
サルトルの『嘔吐』を例にとって考えてみる。というのは、笠井潔が文芸評論で、何度も言及しており、笠井潔に少なからず影響を与えていると考えられるからである。この小説は、主人公のアントワーヌ・ロカンタンが、マロニエの木に存在の裸形を見て、その「もの」の即自性に吐き気を覚えるというストーリーであり、即時存在(存在)と対自存在(無)の相克を描く実存主義文学である。しかし、そういった主題の面 以外でも、文学の形式としても特筆に価することがある。
それは、物語の話者であるアントワーヌ・ロカンタンが、最後に吐き気から逃れるために、サキソフォンの美しい調べに心奪われ、いわば芸術により救済の糸口を掴み、自身も存在を恥じ入らせるために文学の書き手となり、最終的に『嘔吐』そのものがロカンタンの書いた小説であると匂わせて終わるという自己言及的な構造を持っていることである。この特質は、後のアンチ・ロマン(反小説)、ヌーヴォー・ロマン(新小説)に影響を与えることになる。
笠井潔の『瀕死の王』は、最終的に自身をモデルとする「宗像冬樹」を、「矢吹駆シリーズ」やコムレ・サーガの書き手に仕立て上げ、結果 的に、大文字としての作者である笠井潔を消そうとする。それは、『嘔吐』をロカンタン作に仕立て上げようとするサルトルの試みの反復である。
まず、(1)のメタ化の極限において、ブラックホールとしてのアンチ・ミステリが発生するという説について検討してみよう。アンチ・ミステリの代表的な作品、『黒死館殺人事件』はメタ化の極地であるが、小栗虫太郎は愉しんで、いわば探偵小説に淫して、このような怪物的作品を生み出した。笠井は感性の要求ではなく、理論の要求に基づき、メタ化をやっている。彼が淫しているのは、理論をこねくり回す方にある。これは、なにか似て非なるものに向かっている気がするが、どうだろう。(理論をこねくり回すタイプは、自分もそうなので判るが、時として壮大な錯誤に陥ることがある。読み手は、その点を心して読解すべきである。)
(2)の試みについてあるが、最近ではコミック版『多重人格探偵サイコ(I)』に、田島昭宇×大江公彦というクレジットで、少数部数刊行した大塚英志がいる。(下記URL参照)
ちなみに大江公彦は、大塚作品の話者であり、『東京ミカエル』や『冬の教室』等にも登場する殺人者である。大塚の場合、マニア心理を読み解き、彼らにウケるにはどうすればいいかというゲームを愉しんでいる。大塚という名前を消すことは、たんなる悪戯なのだ。しかし、笠井の場合は、悪戯ではなく、絶対的に完璧な作品を要求するがゆえの行為なのだ。完璧な作品は、作者が誰かということは問わない。作品自体が、人々を瞠目させるというわけだ。笠井の欲望は、自身の作品によって、世界を止めることにある。これが権力欲でなくて、何であろうか。

http://psycho.web.infoseek.co.jp/data/ver0.html


トランセンデンタルなものへの情熱(4) 投稿者:園主  投稿日: 1月25日(火)23時45分46秒


 AOIさま(つづき)

> 『僕の叔父さん 網野善彦』『デモクラシーの冒険』を読んで、今は、『夜のピクニック』と『アメリカの夜』を平行して読んでいます。

私も明日から『デモクラシーの冒険』(姜尚中、テッサ・モーリス-スズキ/集英社新書)を読む予定でございます。
『アメリカの夜』は、今期の芥川賞授賞作家である阿部和重のデビュー作でございますね。阿部については、以前に『インディヴィジュアル・プロジェクション』で話題になった際に、同書と次の『無情の世界』を買ったのでございますが、まだ一作も読んでおりませんし、今のところ特に読みたいとも思っていないのですが、ひとまずご感想・ご意見をお聞かせ下さいまし。

> ところで、お父上、好転したようにも伺えますが、やはり、意識は戻らないのでしょうか?手をさすったり、話しかけたりしていると意識が戻ってくるということも聞いたことがあります。今は安静第一でそれもしないほうがいいのかも知れませんけれど。意識は鮮明でなくても、好転しているという医師の話からも、お父上は戦っておられるのだと思います。園主さまも寒いですから、無理なさらないでくださいね。

お気づかい、ありがとうございます。
父は、(大状況としての)心不全が『好転した』のではなく、それによってひき起された(小状況としての)腎臓の機能低下がいくぶん『好転した』という感じでございます。意識については、戻らないのではなく、意識を戻らせても本人が苦しむだけでございますし、いろんな管が身体につながっている現段階では、なまじ意識を取り戻したがために動かれたりするとマズイので、麻酔で眠らせているのでございます。

ICU(集中治療室)に入っている現段階では、面会は10分と決められているのでございますが、実際には10分もの時間は必要ございません。意識がなく、声をかけても反応しないのですから、腕などを二三回さすって、耳もとで励ましの言葉を囁くくらいのことしか出来ないのでございます。

まあ、それでも、私にできることはそれくらいでございますから、仕事で行けない日以外は、毎日病院に通 って、父の顔を見て声をかけて(その間、1分くらい)帰ってくるのでございます。その行きか帰りには、必ず本屋へも寄りますから、これは決して苦行でもなければ無理でもございませんので、どうぞご安心下さいまし。本も読めば、このように書き込みもし、睡眠時間もいつもと変わってはおりません(笑)。



 ホランド

『僕の叔父さん 網野善彦』(中沢新一・集英社新書)を読んだよ。あらためて、中沢新一の「人柄」に共感した。

AOIさまへのレスに、大西巨人と私の共通点は「理想をかかげる世俗運動団体」のなかでの苦闘体験だといういようなことを書いたけれど、中沢新一は幼い頃、クリスチャンとして育てられているし、敬愛する父や叔父さんたちは、後に離党するものの、一時は共産党運動に理想を見て奔走した(知識)人たちだった。そして、そうした血が、「トランセンデンタル(超越的・理想的)なものへの情熱」が、今の彼を根底で支えているというんだから、私と響きあわないわけがないんだよな(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


トランセンデンタルなものへの情熱(3) 投稿者:園主  投稿日: 1月25日(火)23時44分46秒


 AOIさま

> 『地獄変相奏鳴曲』読まれているんですね。私、党のことで頓挫しています(笑)。引用されていた箇所もよく覚えています。続きを読みたいのですが、もう少し余裕ができたら(笑)。

長らく絶版となっている大西巨人の長編『天路の奈落』は、まさに「党」をあつかった長編なのでございますが、これもたいへん売れなかった作品で、当時の評判もイマイチだったようでございますね。しかし、『天路の奈落』は、私が『神聖喜劇』の次に好きな作品なのでございます。つまり私は、「党」について書かれた大西巨人作品も、たいへん面 白く読むのでございますが、どうも世間はそうではないらしい。で、この差が何に由来するのかと考えると、やはりこれは私の「創価学会経験」なのでございましょう。

もともと、日本共産党と創価学会は仲が悪いことで有名なのですが、これは片側が「宗教否定の現実主義政治団体(政治党派)」であり、もう一方が「政治活動もする宗教団体(宗教党派)」であるという違いよりも、むしろ両者が「理想をかかげる世俗運動団体」だという点でとても近い存在であり、それゆえの「近親憎悪」だったのではないかと思うのでございますね。

私が創価学会の中で感じてきたものの多くが、『天路の奈落』の中には実に「リアル」に描かれており、何度も「そうそう、そうなんだよ」とうなづかされたのでございますが、その部分というのはたいがい「理想と現実のギャップに、鈍感な人たち」の存在なのでございます。

例えば、創価学会員にも日本共産党員にも、ソープランドで買春をする人がいるでしょう(絶対におります)。で、彼らは、自身のそうした行為が、自身の信奉する「理念」や「教義」に反するとは、あまり考えないのでございますね。彼らの頭の中では「それとこれとは別 」で済んでしまっている。そして、そういう人の方が、むしろ一般的なのでございます。
ですから、当時の私はそういうものを目にする度に、『天路の奈落』の主人公や『地獄変相奏鳴曲』の「伝説の黄昏」の主人公(や、たぶん共産党員時代の大西巨人)と同様の、たまらない「苛立ち」を感じてきたのでございます。

こういう苦い現実的経験がございますので、私には、大西巨人が「党」をあつかった小説のなかで書いているものが、とても「リアル」であり、かつ「重大な問題」であるというのが、大変よくわかるのでございます。
ところが、読書家などというものはたいがい個人主義者であり、「理想をかかげる世俗運動団体」の中でその理想を目指してがんばった経験など絶えてございませんから、大西巨人が書いていることは「善悪二元論」的であり「マンガ的に単純な党派的批判」だなどと映るのでございましょう。観念的でなにやら難しげなものばかり読んできた「知識人自認者」たちには、大西巨人が「党」をあつかった作品で描いてきた、問題の重要性が、その「経験不足」により理解できないのだと存じます。言い換えれば、「知識人自認者」たちは「俗情」の根強さという難問がまったく見えないほど、舞い上がっているのでございます。





( 以下は「トランセンデンタルなものへの情熱(4)」につづく)


トランセンデンタルなものへの情熱(2) 投稿者:園主  投稿日: 1月25日(火)23時43分37秒


例えば、ここでの有栖川有栖の話を、ミステリの世界にスライドさせてみましょう。有栖川有栖は、こんなことを言ったりはしないでしょうか。

「カーやクイーンを読んで、それが面白いと感じない人とは、ミステリについて議論できない」

――充分に「ありそうな言葉」でございましょう?

さて、映画化される『亡国のイージス』や『終戦のローレライ』の作者である福井晴敏は、『IN・pocket』2005年1月号に掲載されたインタビュー(『魔女と暮した日々』)で、自分の読書歴について、こんなことを言っております。

『(※ よく読んだのは)何か自分の知らない世界が書いてあったり、そこであがいたりする人のさまが描かれていたり、というものですね。だからお話として作られすぎたものや、トリックがどうこうっていうようなものには、興味は感じなかったです。』

大雑把に言えば、福井晴敏は「冒険小説作家」に分類され、本人も語っているとおり、(本格ミステリ作家たちが、神のごとく崇め奉っている)J・D・カーやエラリー・クイーンなどを、それほど面 白いとも思わなければ、重要視もしていないことでございましょう。
そこで有栖川有栖は、こういう福井晴敏と、「ミステリ」について『議論』ができるのでしょうか、できないのでしょうか? ――私は、たぶん「出来ない」のだと存じます。少なくとも有栖川有栖は、その「本格ミステリ原理主義」を隠さずに、正直に議論することは不可能でございましょう。したがって、「社会人」として議論する時は、そうした「非共通 認識」への言及を避けて、無難で退屈な、予定調和をめざした議論をすることでございましょうね。

そして逆に言えば、有栖川有栖が『私は今後、ここに書かれている分析を共有しない人とは、社会問題について議論できないかもしれない。』という言葉で語った「自己のスタンス」からすれば、福井晴敏とは「ミステリ」について語れなくても、大方の予想どおり、綾辻行人や法月綸太郎などとなら『議論』できることでございましょう。そして、そういう無難で退屈無残な『議論』を喜んで読む読者とは、「目に貼りついた鱗」をさらに補強してくれるような『議論』を求めているマニア(=偏執的)読者に違いないのでございます。

たしかに有栖川有栖は『今の若者に対して、心から「先行きが不透明で大変だな。不安だろうな」と思』っていることでございましょう。しかし、その若い人たちに対し、有栖川有栖がこの本を紹介しながら提供しようとするものは「見通 しを得ることによる安心」であるよりも、むしろ『知恵のかぎりを尽して目を凝らせば、問題点は正しく視えてくるのだ。それは、驚くべき姿をしている。』という言葉に現れている「本格ミステリ的に知的な驚愕の真相と、それがあたえてくれるカタルシス」なのではないでしょうか。

私は依然、綾辻行人について「見たいものしか見(られ)ない」と書きましたが、社会に目を向けているように見えても、少なくともここで有栖川有栖が見せている態度は「見たいものしか見(られ)ない」に限りなく近いものだと存じます。まただからこそ有栖川は、その認識を共有しない人とは『議論』ができない(話の合う人としか話せない)のではないか、とも感じるのでございます。





( 以下は「トランセンデンタルなものへの情熱(3)」につづく)


トランセンデンタルなものへの情熱(1) 投稿者:園主  投稿日: 1月25日(火)23時42分37秒

みなさま、本日も病院へ行く途中、紀伊国屋書店大阪本店に立ち寄ったのでございましたが、『活字倶楽部』2005年冬号が、『バッテリー』で今人気爆発のあさのあつこの特集を組んでいるのを見つけ、これを手に取りました。あさのあつこへの『25000字ロング・インタビュー』以外は「ああ、活字倶楽部だな」という感じの若い読者向けの特集で、特にどうということはなかったのでございますが、そのほかに好例の人気作家に対するアンケート特集「マイベストブック2004」がございましたので、そちらの方をめくってみましたところ、少々ひっかかる回答が載っておりました。

それは、3つの質問のうちの1『2004年に読んで印象に残っている本を教えて下さい。刊行年は問いません。まんがも可。』という問いに対する、ミステリ作家有栖川有栖の回答でございました。

『『「人口減少経済」の新しい公式――「縮む社会」の発想とシステム』松谷明彦(日本経済新聞社)

〈2004年上半期ベスト経済書 第一位〉の帯が掛かったビジネス書。「そんなオヤジ向けの本なんて」と言わず、未来ある若い人たちは、ここで分析された日本の変化を理解しておくべきだ。私は今後、ここに書かれている分析を共有しない人とは、社会問題について議論できないかもしれない。
 今の若者に対して、心から「先行きが不透明で大変だな。不安だろうな」と思う。しかし、知恵のかぎりを尽して目を凝らせば、問題点は正しく視えてくるのだ。それは、驚くべき姿をしている。とにかく一読を。』

ミステリ作家には、二つのタイプがございます。ひとつは、ミステリばかりを読むミステリマニア作家で、もうひとつは、ミステリはほとんど読まないミステリ作家でございます。――もちろん、これはごく形式的な分類で、実際にはこんなに単純に二分はできませんし、もちろんその作家がどんな本を読んでいるかだけで、その作家を判断することもできません。ただ、「類型化することによって見えてくるものもある」ということなのでございます。

さて、そう前提した上で、私が、有栖川有栖のこの回答を読んだ際、最初に感じたのは「さすがは有栖川さんだな。ちゃんと社会問題にも目を配っている」ということでございました。しかし、どこか引っ掛かるものがある。それで、その正体が何かと考えて気づいたのが『私は今後、ここに書かれている分析を共有しない人とは、社会問題について議論できないかもしれない。』という言葉でございました。

言うまでもなく、私はまだこの本『「人口減少経済」の新しい公式』を読んでおりません。すると、今の有栖川有栖にとって、今の私は、社会問題を論じるに値しない相手だということになるのでしょうか? また、この本を読む以前の有栖川有栖自身も、今の有栖川有栖にとっては、社会問題を論じるに値しない存在であったということなのでしょうか?
たしかに、この本は「目から鱗が落ちる」ほど優れた本なのかも知れません。しかし、たった一冊の本を読んだか読んでいないか、ただそれだけで「人の価値(対話するに値するか否か)」が、そんなに変わるものなのでしょうか?

たしかに「目から鱗が落ちる」ような本というのはございます。例えば、私にとって、チョムスキーの『9.11 アメリカに報復する資格はない!』(文春文庫)などは、そういった本の一冊でございました。
しかし、では私は、この本を読んでいない人とは社会問題や政治問題を議論できないと思うのかというと、そんなことはまったくございません。たしかに多くの人にこの本を読んでほしいと思いますし、『ここに書かれている』ことを『共有』したいとも思いますが、私としては、『分析』結果 や「事実認識」を共有しない相手だからこそ『議論』する価値があるのであって、同じ認識を共有しあっている者どおしなら、そもそも議論の必要性など無いのではないか、とすら思えるのでございます。つまり、同じ認識を共有しあっている者どおしの議論なんて、たしかに当事者としては、話(意見)が合って楽しいかも知れませんが、議論としては「馴れ合い」にも近いものであり、聞かされ読まされる方としては、退屈なのではないでしょうか。





( 以下は「トランセンデンタルなものへの情熱(2)」につづく)


奏鳴曲 投稿者:AOI  投稿日: 1月25日(火)12時44分1秒

☆園主さま

『地獄変相奏鳴曲』読まれているんですね。私、党のことで頓挫しています(笑)。引用されていた箇所もよく覚えています。続きを読みたいのですが、もう少し余裕ができたら(笑)。『僕の叔父さん 網野善彦』『デモクラシーの冒険』を読んで、今は、『夜のピクニック』と『アメリカの夜』を平行して読んでいます。『五里霧』も解説入りということで単行本もあるけれど、文庫も買いましたよ。一篇だけ読んで、ただ今貸し出中。こちらも返ってきたら続きを読みます。それにしても、大西さんの創作意欲は衰えるところがありませんね(嬉)。もじり方がもろなのは可笑しいですが。

ところで、お父上、好転したようにも伺えますが、やはり、意識は戻らないのでしょうか?手をさすったり、話しかけたりしていると意識が戻ってくるということも聞いたことがあります。今は安静第一でそれもしないほうがいいのかも知れませんけれど。意識は鮮明でなくても、好転しているという医師の話からも、お父上は戦っておられるのだと思います。園主さまも寒いですから、無理なさらないでくださいね。


それぞれのこだわり(下) 投稿者:園主  投稿日: 1月24日(月)23時05分22秒


 時雨さま(つづき)

> ところで今静かに盛り上がっているムラキ、矢吹駆、そして竜王翔らの話ですけど、僕もこれらのキャラクターの関係については園主様の言う『パラレル』に賛成です。
> ただ

>> 笠井潔自身も、当初は2つの世界を、パラレルなものとして「設定」していた。
>> しかし、いまや笠井潔は、作家の晩年にありがちな欲望にとり憑かれ『自分の小説作品を全部つなげて、一大笠井ワールドを構成しよう』と、個々の(シリーズの)作品世界を破綻させかねない、無理なつなげ方をしようとしているのではないかと、私は斯様に危惧しているのでございます

> というのはさすがに杞憂ではないでしょうか。
> 『瀕死の王』は読んでいないのでなんともいえませんが、これはあくまでファンサービス、あるいは遊びの次元にとどまるのではないでしょうか。
> 矢吹の本名が、「アスカムラキ」だからといってそれがヴァンパイヤー戦争のムラキに直結するわけでもないと思います。

どうでしょうか。なかば冗談の「矢吹駆=天使説」が当っているかどうかは別 にして(当っていれば、わりあい無理なく『直結』するわけですが)、――あの笠井潔が、単なる『ファンサービス、あるいは遊びの次元にとどまる』行為を行い得るものでしょうか?

私は、笠井潔ならば、それが一見したところ『ファンサービス、あるいは遊びの次元にとどまる』行為に見えたとしても、本人のなかでは、十二分な「理屈づけ」「意義づけ」という観念化がなされていると思うのでございます。

私は、笠井のそうした「理屈づけ」「意義づけ」そのものを否定しようとは思わないのですが、それが年齢的な「禁欲主義(意識)の弛緩」にともなう「俗物的欲望の滲出」の影響によって、悪く表われ、結果 として失敗につながるんじゃないかと、斯様に心配しているのでございますね。

つまり、笠井潔はどんなに世俗的に堕落したとしても、たとえ「理屈づけ」「意義づけ」が単なる「言い訳」に堕したとしても、いずれにしろ「観念」から自由になれる人ではない、と思うのでございます。ですからまた笠井潔のやることは、善かれ悪しかれ、単なる『ファンサービス、あるいは遊びの次元にとどまる』行為などという「当たり前のもの」ではありえない、とも思うのでございます。



 ホランド

いま、唯一読んでいなかった(残してあった)大西巨人の長編小説、『地獄変相奏鳴曲』を読んでいるんだが、これがまた期待以上におもしろい。刊行当時は、かなり酷評されたみたいで、私も「さすがに、そうそう傑作ばかりは書けないだろう」と見ていたんだが、豈図らんや。

> 園主さまに敵意を抱くのに「年齢」は関係ありませんし、園主さまを敵視するのは「ミステリ関係者」とばかりも言えません。

『――いったいに、ともすれば税所(※ 主人公の名字)は、一般の人人が言いづらく考えること・直言するのを遠慮または躊躇するような事柄・それを無理に言えば嫌味の、失礼な、あるいは愚かしい印象なり効果 なりを伴いがちな発言の類を、極めて明確率直に、たいそう明快清明に、ずばりと口に上せた。それは、いかにも彼の性格および生き方を表象しているようであって、ある人人にはさわやかな感じを与えた。だが、敵を作る可能性も、そこには決して少なくはなかった。……』(大西巨人『地獄変相奏鳴曲』P16)





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


それぞれのこだわり(中) 投稿者:園主  投稿日: 1月24日(月)23時04分27秒


 時雨さま(つづき)

>> 劇場版『伝説巨神イデオン』

>> ちなみに、今でも印象に残っているのは、テレビで観た『発動篇』における、ユウキ・コスモの『こんな甲斐のない生き方なんて、俺はみとめないぞお!』という痛切な叫びでございます。

> 「富野節」ってやつですね。僕もイデオンは見ましたけど、熱気はすごいと思いましたがラストシーンでちょっと拍子抜けしてしました。
> あんまり好きじゃないんですよね、リセットって言うのは。

私はあのラストを、単純に『リセット』だと評価したくはございません。また、あれが「救い」になるとも思いたくございません。ただ、どんな「悲惨な生」であったとしても、死ねばみな同じで、誰もそれを引きずるものではない、と考えるのでございます。

つまり、宗教のように「生前に善行をなしたものは、次に生まれてくる時は恵まれており、生前悪行をなしたものは、悲惨な運命を担って生まれでてこなければならない」というような「宿命論(=観念的意味回復)」が、私は嫌いであり、また「誤魔化し」だとしか思えないのでございますね。

昔、徳間書店から富野喜幸(現・富野由悠季)の自伝『だから僕は… 「ガンダム」への道』(1981)が刊行された際、この本を講読して感じたのは、富野の「深く屈折した無垢な心情」とそこに発する「負けじ魂」あるいは「暗い復讐心」でございます。
ですから、富野由悠季があのラストで、打ち切りになった不遇な作品を、単純に「リセット」したとか「救済」したとは、私にはどうしても思えない。むしろ、登場人物たちをあそこまで、不幸のどん底にまで、救いのない場所にまで追いやっておきながら、その不幸に「意味」を与えずに、むしろ悪意をもって「打棄ってみせた」という感じがするのでございます(そこが『CASSHERN』とは違うところ)。

これは多分にファンとしての願望充足的な読解かとも存じますが、あの富野喜幸が、ただ単に、クリアに「リセット」したなどとは、どうしても思えないのでございますよ。

今日、たまたま古本屋で富野由悠季の第2エッセイ集『ターンエーの癒し』(ハルキ文庫)を見つけて購入いたしましたので、――たぶん変わってはいないであろう「困った奴」富野由悠季を、再度味わってみたいと存じます(笑)。





( 以下は「それぞれのこだわり(下)」につづく)


それぞれのこだわり(上) 投稿者:園主  投稿日: 1月24日(月)23時03分19秒

みなさま、現在、ICU(集中治療室)において、心筋梗塞による心不全の治療をうけている、私の父の容態でございますが、本日予定されていた手術が延期となりました。

すでにご報告いたしましたとおり、本日、予定されていたのは、心臓の弁の手術なのですが、昨日私の代わりに病院へ手術の説明を受けに行った、弟からの電話によりますと「先生の話では、血流の不足により腎臓の機能が低下しているので、身体に水がたまってむくみが出ている。そのせいで肺などにも負担がかかっていて、現在その対応をしているんだけど、その状況次第で今日手術をするかも知れないという話だ」とのことでございました。ところが、その後一転して「やはり手術は、予定どおり明日になった。時間は午前10時から」と連絡が入りましたので、本日午前9時に病院入りしましたところ、今度は医師から「病状が若干好転したので手術を延期したい。ご説明したとおり、リスクの大きい手術なので、もう少し様子を見たいと思います」とのことだったのでございます。――つまり、状況は二転三転して、なんとも見通 しのつかない状態が続いている、といったところなのでございます。





 時雨さま

> その、何といっていいか・・・

お気づかい、ありがとうございます。

それにしても、この言い淀みは、とても大切なものでございますよね。
こうした場合、どんな慰めの言葉も、どこか形式的なものになってしまわざるを得ませんから、若くて正直な方は、そのような言葉を必要にかられて発せざるを得ない場合、どうしてもこのように言い淀んでしまうのでございます。

> 本屋と図書館巡りの日々

素晴らしゅうございますね(笑)。
もっとも、そのうえに「図書館で知りあった女の子とのつきあいが始まった」なんてことになると、贅沢だと非難されることにもなるのでございましょうが(笑)。

> うーん、『「日常の肯定」と「あらゆる他者の許容」』にしてもこの人と園主様はちょっと違う気がするんですよね・・・
> 上手くいえないんですけど。単に知ったフィールドの違いかもしれませんが。

そうでございますね。そのへんの微妙なニュアンスを何とか言語化していただかないことには、私としても感想を申し上げかねますので。

> そ、そうでしょうか?
> でも、これは内容を評価していないという意味ではなくて・・・
> 単純に、学生という中途半端な立場の人間としては自分の「仕事」にこれほど真摯に取り組める姿勢になんと言うか・・・あこがれてしまうんですよ。

なるほど。それはわかるような気がいたします。

私は、大学進学をそっちのけにしてまでなりたかったアニメーターに(実力的に)なれないことが判明した後は、なりたいものが無くなってしまったこともあって、1年半、就職浪人として無為な日々を過ごしました。その間、私は、自宅でぶらぶらしている自分が「根っからの生活無能力者」のように感じられ、一方どんな仕事であれ、職業人として自分で生活費を稼いでいる人々が、皆とても偉大で遠い存在のように感じられたものでございます。――時雨さまの『あこがれ』というのも、これに近いものなのではないでしょうか?





( 以下は「それぞれのこだわり(中)」につづく)


本屋と図書館巡りの日々(2) 投稿者:時雨  投稿日: 1月23日(日)22時23分17秒

>はらぴょん様
ご教示ありがとうございます。コムレサーガをひっくり返す、ですか。以前版巨人伝説を読んだときにちょっとコムレ教に違和感を感じてしまったので、すごく関心をそそられるのですが・・・
単行本になるのを気長に待つとします。

>ホランド様

>そういえば、時雨さまの当りの柔らかさって、カウンセラーのそれを思わせるところがありますよね。皮肉などでは決してなく、ホントにそんな感じがします。

ありがとうございます。
カウンセラーですか。以前知り合いに進路を相談したときに『カウンセラーにでもなったらいいんじゃないか?』といわれたことがありましたが・・・

>ええ、じつはボクが覗いたサイトでも、時雨さまと同じような視点から、期待してよいのではないかという意見が語られていました。
>でも、ボクは『クウガ』も見てないんで、そういう評価は下せないから、「響鬼」のデザインからうけた印象を、そのまま語ってみたんです。

なるほど。それでは、今度僕も一話を見たら感想を書いてみますね。
あ、それからウルトラマンですが、近場に何とかやってる映画館を見つけたのでいけることになりました。
こちらも響鬼と一緒に感想を書き込ませていただきます。

それでは皆様、今夜はこれにて。


本屋と図書館巡りの日々(1) 投稿者:時雨  投稿日: 1月23日(日)22時22分10秒

こんばんわ。しばらくぼうっとしていたらなんだか騒がしくなっていますね・・・

>園主様

その、何といっていいか・・・
僕も何度か経験したことではあるんですが・・・
とにかく、今はただお父様の回復を祈らせていただきます。

>私は、白倉がこの本を「テレビプロデューサーの余技」として書いたのではないと感じました。
>白倉もまた、そんな軽い気持ちで書いたつもりはございませんでしょう。
>ですから私は、この本を一人の思想家の「正義論」(の思想書)として読み、そのつもりで評価したのでございます。
>――そうでないと、白倉に失礼ではございませんか。

そうでしょうね。「そもそもこの人はプロデューサーであり思想家ではない」というのは、反射的にそう考えてしまっただけで、それではいけないというのは僕にもわかります。

>私にも「日常の肯定」と「あらゆる他者の許容」が存在いたします。
>ただ、「肯定」や「許容」が、そのまま『中途半端』に直結するものだとは思いません。
>私の感じたものは、白倉の「肯定」や「許容」が中途半端だったということのように存じます。

うーん、『「日常の肯定」と「あらゆる他者の許容」』にしてもこの人と園主様はちょっと違う気がするんですよね・・・
上手くいえないんですけど。単に知ったフィールドの違いかもしれませんが。

>そう言っては、私より数等、残酷なのではないでしょうか?(笑)

そ、そうでしょうか?
でも、これは内容を評価していないという意味ではなくて・・・
単純に、学生という中途半端な立場の人間としては自分の「仕事」にこれほど真摯に取り組める姿勢になんと言うか・・・あこがれてしまうんですよ。

>そうでございますね。しかし、そうしたことは、同時代人にとっては、さほど凄いことのようには感じられないものでございます。

うーん・・・やっぱりそんなもんなんですかね。

>ちなみに、今でも印象に残っているのは、テレビで観た『発動篇』における、ユウキ・コスモの『こんな甲斐のない生き方なんて、俺はみとめないぞお!』という痛切な叫びでございます。

「富野節」ってやつですね。僕もイデオンは見ましたけど、熱気はすごいと思いましたがラストシーンでちょっと拍子抜けしてしました。
あんまり好きじゃないんですよね、リセットって言うのは。

>なお、時雨さまが持たれた「感じ」については、私にも類推することが可能でございます。
>例えば、時雨さまにとっての『「アニメ新世紀宣言」とかイデオン劇場版公開の騒動』などは、私にとっての「力石徹の葬式」にあたるのでございましょうね。

なるほど。ということは、あと20年もすれば僕も「エヴァ劇場版を見にいった」とか「東浩紀の同人誌を持っている」といって後進に『す、すごい!凄すぎます!』とか言われたりするんでしょうかね(笑)。

ところで今静かに盛り上がっているムラキ、矢吹駆、そして竜王翔らの話ですけど、僕もこれらのキャラクターの関係については園主様の言う『パラレル』に賛成です。
ただ
>笠井潔自身も、当初は2つの世界を、パラレルなものとして「設定」していた。
>しかし、いまや笠井潔は、作家の晩年にありがちな欲望にとり憑かれ『自分の小説作品を全部つなげて、一大笠井ワールドを構成しよう』と、個々の(シリーズの)作品世界を破綻させかねない、無理なつなげ方をしようとしているのではないかと、私は斯様に危惧しているのでございます
というのはさすがに杞憂ではないでしょうか。
『瀕死の王』は読んでいないのでなんともいえませんが、これはあくまでファンサービス、あるいは遊びの次元にとどまるのではないでしょうか。
矢吹の本名が、「アスカムラキ」だからといってそれがヴァンパイヤー戦争のムラキに直結するわけでもないと思います。


訂正 投稿者:園主  投稿日: 1月23日(日)02時08分4秒

みなさま、昨夜の私の書き込みに誤記がございましたので、訂正させていただきます。

 「危ない格言(1)」の、『明後日17日』を「明後日24日」を訂正いたします。

「明後日の月曜が手術だ」と記憶していて、カレンダーを確認して日付けを書いたところ、うっかり一週間間違えてしまったのでございます。
このところ、変則的な生活をしておりましたので、時間の感覚がズレていたのでございましょう。今でも「もう23日か、ついこないだ正月だったのに」という感じなのでございます(笑)。



それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


危ない格言(7) 投稿者:園主  投稿日: 1月22日(土)20時37分52秒


 ホランド(つづき)

>  大西巨人を師と仰ぐ園主さまによって批判される人たちは、「探偵小説研究会」に代表されるように概ね「体制順応主義者」なんですが、鎌田哲哉さんの『匿名に逃げこむ集団的暴力とコンフォーミズム(※ 体制順応主義)』という言葉は、「匿名者」と「体制順応主義」の近親関係を窺わせますよね(笑)。どっちも『ひとりで立つ』ことが出来ず、「数」のなかに「私」を隠蔽・埋没させた上で力を振いたがる人たち、ということでしょう。

おまえはここで、「探偵小説研究会」の部分に、私の論文笠井潔が、真に望んだこと。へのリンクを張ってくれているけど、この場合、リンクを張るんなら、この論文よりも、「匿名と数の論理」ということで、

 ・ 恃衆、あるいは 一票の重みと党派の暴力

の方が適切だったんじゃないかな(笑)。

DHCさんやその前の「いっちょがみ」さん、それからその精神的同類である『匿名に逃げこむ集団的暴力とコンフォーミズム(※ 体制順応主義)』者のみなさんにも、榎並重行の『危ない格言』から、次の言葉を捧げておこう。

『匿名で、特定の相手を口汚くののしり、中傷し、人格や性質に至るまで全否定するような文章を、情報技術媒体などに載せる者たちは、何よりも彼ら自身が注目されることを求めている。他のやり方では、ついにそれを得ることがかなわなかったという恨みに基づく、復讐心の発散のために。しかし、最も醜い憎悪と嫉妬を曝け出すことでしか、それを行うことができないということを見透かされる恥辱を先取りして逃れるためには、彼らは匿名の陰にうずくまる以外にない。』(P19)

ちなみに、この言葉を、以下のとおり読み替えるくらいの「知性」は、仮にも「評論家」を名乗る人たちには、持っていてもらいたいと思う。

「署名入りで、業界権威者や主流派の作物を称賛し、その貢献によって、自らもその大樹の陰に依らんとするような意図の見え透いた文章を、商業誌や情報技術媒体などに載せる者たちは、本当は何よりも彼ら自身が注目されることを求めている。自分の実力では、ついにそれを得ることがかなわいだろうという客観的自己評価に対する秘められた恨みと、矜持を捨てた安易な体制順応主義のために。しかし、権力者に媚び、多数派に所属して時流に媚びることでしか、それを行うことができないということを見透かされる恥辱を先取りして逃れるためには、彼らは自身のそうした矮小さを批判する者の存在を、あたかも気にしていないかのごとく黙殺するか、匿名でイヤがらせをする以外に方法を持たない。」

もうひとつおまけに、

『最近の学者のなかに、各々の分野のいわゆる大物学者や、思想家として名声が確立している著作家の顧問弁護士を自認する類型が増えてきた。まるで、それら学者、著作家たちが現代社会との係争にまき込まれていて、その権威や名声を維持するために、特別 の援助を必要としているかのように、そして、その要請に応え得るのが彼らだけであるかのように、その押しかけ弁護士たちは振る舞っている。』(P15)

この格言だけは、我らが「日本の本格ミステリ界」に、ぴったりとは当て嵌まらない。なぜなら、この格言では「必要のない弁護をしたがる押しかけ弁護士」が問題となっているけれども、わが「日本の本格ミステリ界」では「弁護士と弁護される者とが、ぴったり癒着して一体化している」からだ。つまり彼らがやっているのは、所詮「自己弁護」に過ぎないのだけれど、問題はその自己弁護を、さも「客観的第三者として」為しているかのごとく、欺瞞的に振る舞っている点だ。

金さえもらえば、黒を白と言い包めることも辞さない「悪徳弁護士」というのは存在するけれども、それより悪質なのは、内実は「悪徳弁護士」でしかないのに、中立的な「評論家」という看板を挙げている「ペテン師」の類だと言えるだろうな。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


危ない格言(6) 投稿者:園主  投稿日: 1月22日(土)20時36分28秒


 ホランド(つづき)

つまり、大森望がここで語っているのは、私がDHCさんから『双葉社の件』について聞かされた際に語った次のような評価と、何ら変わらないことだったんだ。

> 貴方さまは『笠井潔一派や若桜木虔一派』がやったことと、『双葉社』の編集者や書店員がやったことを、同列にならべて評価なさっておられますが、これは明らかに「次元の違う話」でございましょう。
> つまり『笠井潔一派や若桜木虔一派』は「小説家」や「評論家」といった「公的言論公表者」ですから、自身が公にする文章(意見)については、「プロ」としての責任を負わねばなりません。ところが、彼らは自身が関与した「ベストテン投票」や「文学賞」において、「不公正」な「身内びいき」を一般 読者にはわからないかたちでやったのですから、これは彼らの「職業倫理」に反する行いであり、「読者への背信行為」として問責断罪されてしかるべきことなのでございます。

> しかし、出版社社員・編集者の仕事とは何か? ――彼らの仕事は、精一杯面 白い本を作って、それを売ることでございます。また書店員の仕事とはなにか? それは本を売ることでございます。つまり、『双葉社』の編集者がやったのは、自社の製品の売り込みであって、別 に非難される筋の行為ではございません。また、売り込みをうけた書店員が、それを読んで面 白いと思えば、それを推すことに何ら問題はないのでございます。元々彼らは、評論家でもなければ物書きですらないのですから、すべての作品を読んだ上で公正に評価しなければならない筋など毛頭ない。書店員とは所詮「本を売る人」であって「読む人」でも「評価する人」でもないのでございます。つまりそんな「読書の素人」を「プロの評論家」などと並べて、評価を語らせねばならないところに、そもそも、ミステリ業界におけるプロの物書き・評論家の情けなさがあるのでございます。
              (園主「7時間カラオケの後で(1)」2005年1月11日より)


結局、DHCさんは、称賛されてもいい『双葉社の件』をわざと悪意に解釈することで、非難されるべき『笠井潔一派や若桜木虔一派』がやったことと同列に並べ、それを私が同列『公平』に扱わなかったと「難癖」をつけることにより、私に非難された『笠井潔一派や若桜木虔一派』を、相対的に救い出そうとしたんだな。





( 以下は「危ない格言(7)」につづく)


危ない格言(5) 投稿者:園主  投稿日: 1月22日(土)20時35分22秒


 ホランド

いまだ「匿名」のまま沈黙している「DHC」さんについて書かせてもらおう。

> ぼくはネットで双葉社の件を知りましたが、活字では大型書店の売上ベストテンにも入ったロッキング・オン社の『日本一怖い! ブック・オブ・ザ・イヤー2005』で、大森望さんが詳しく触れています。
             (DHC「余計なお世話でした」2005年1月13日より)

彼が1月10日の書き込み(「園主さんに質問」)で、私に対し、『笠井潔一派や若桜木虔一派』がやったことと並べて同様に批判しなければ『公平』ではない、と要求してきた『双葉社の件』について、大森望は上の本で、対談相手の北上次郎に次のように語っている。

『―― 次は『犯人に告ぐ』なんですけど、七月に出た瞬間に「このミス一位 確定!」というような声も飛び交っていたんですが。

大森「雫井さんって評判は高い人なんだけど、あんまり売れてなかったんですよね。で、聞いた話なんですけど、双葉社のこの担当者がすごく偉かったのはですね、一年ぐらい前に原稿はもうできあがってたらしいんです。普通 、進行中の本とか、他の編集者は読まないじゃないですか。営業部も読まないし。これは売れると思った編集者が一年かけて社内を調整して、とにかく原稿を社内の営業とか重役とか役員に読ませて、全社的にこの本を売っていこうっていうコンセンサスを一年ぐらいかけて盛り上げていって。その結果 、初版が五万刷ったんですよ」

北上「初版五万!? そこまで売れてた作家じゃないよね?」

大森「そうそう、でもそれを全社的に盛り上げて、これをベストセラーにするんだってムードを作った。実際、発売前にすでに今度のはすごいらしいって口コミで評判になってたから」

北上「書店にもまいたわけだ」

大森「たぶんまいてると思いますよ。しかも仮綴じ本がまだできないうちに、もう他社の編集者から『今度双葉社から出る雫井さんのはすごいらしいですよ』みたいな話が回っててですね、なんとなくすごい勝負作が出るらしいって雰囲気だった」

北上「その一年間って、書き直しさせてる時間があるからじゃなしに?」

大森「うん」

北上「偉いねえ、その編集者!」

大森「賭けてたみたいですよ。逆に言うと、それぐらいしないと今、本は売れないっていうことかもしれないんですけど(笑)。でもそれぐらいアイデアが魅力的だったっていうこともあって。(中略)ただ、それをさらっとふつうに出しても、これだけ新刊が多いと埋もれてしまう。だから非常に長い準備期間と労力を投入して、その仕掛けがうまくいったという、ベストセラーの作り方としては理想的なケースですね。それについては高く評価したい。作品の評価はまたちょっと別 なんですけど。どうですか?」』





( 以下は「危ない格言(6)」につづく)


危ない格言(4) 投稿者:園主  投稿日: 1月22日(土)20時33分19秒


 はらぴょんさま

お気づかいありがとうございます。「笠井潔葬送派」として、だてに「一人で立つ」て来たのではない、というところを見せるつもりでございますので、どうぞご安心下さいまし(笑)。

ところで、先にご紹介いたしました榎並重行の『危ない格言』には、こんな言葉もございました。

(1)『居丈高に威圧めいた態度である意見を語る者は、だいたい、その意見が多数派を獲得する直前に、首尾よくその意見に身を寄せることに成功した人間と相場が決まっている。』(P23)

(2)『自分の能力、行動、達成に満足してきた者も、自分自身とそれらが徐々に忘れられていくのを感じながら、老いの自覚によってそれらをもはや繰り返す、あるいは新たに実行することができないと認めざるを得なくなると、讃辞や、自分を知る人間の賞讃に貪欲になる。もはや、自分自身ではまかなえなくなったものを、外から、他者から取り込まなければ、満足という感情の勘定が合わなくなってしまうのだろう。』(P77)

(3)『俗物とは、自分で勝手に押し上げた自己評価を高どまりさせたまま、何とかして周囲の評価をそこまで導かんとして、当人としては巧妙なつもりで策動を試みるが、にもかかわらず、その見え透いた悪あがきがかえって見透かされてしまう人物だ。(以下略)』(P22)

(4)『諸個人の間での人格、品性、教養の差は、その老年において最も大きい、当然のことながら。』(P77)

すでにお気づきのとおり、私はこれらの格言を、笠井潔その人に捧げたいと存じます。
(1)は、「新本格」ブームの確立期に、「新本格」に敵対した長谷部史親・縄田一男を『居丈高に威圧めいた態度で』批判した頃の笠井潔に。(2)と(3)は、「探偵小説研究会」を組織して、その組織力によって「本格ミステリ大賞」を受賞するまでになった笠井潔に。(4)は、「老いたるアリョーシャ」中井英夫の晩年の姿にショックをうけて、今のような晩年を選んだらしい「老いたる矢吹駆」笠井潔に。

あと、例によって、事のついでに、刺身のツマのごとく、書き添えておきますと、今年の「本格ミステリ大賞」授賞予定作品『生首に聞いてみろ』と、その作者法月綸太郎に対しては、次の言葉を捧げておきたいと存じます。

『複製の方が、当然接近しやすく、手に入りやすい。人間についても、勿論、そうだ。』(P15)




 Y.I. さま

ようこそ、おいで下さいました。七四式さまのところから、いらして下さったのでございますね(笑)。

> ボク、「郵便的」なんて言葉には虫酸が走るタチなんで…。
> そもそも、フランス現代思想隆盛以降の「何々的」には、総じて虫酸が走ります。あの人たちが読み返した「人間的、あまりに人間的」まで含めて…。
> かつて何かを信じたことがある人なら、誰だってそうでしょう?

お書き込みを読ませていただいたのですが、どうも良く理解できませんでした。
どうやら『フランス現代思想』ブームや『フロイト』について、ある程度の予備知識を前提として、お書きになられているようなのでございますが、私は専門を持たない人間であり、そのようなことに関しても特に知識を持っているわけではございませんので、もうすこし、ご意見の前提となる部分を、ご説明いただければと存じます。





( 以下は「危ない格言(5)」につづく)


危ない格言(3) 投稿者:園主  投稿日: 1月22日(土)20時32分8秒


 Keenさま

お気づかい、ありがとうございます。

ですが、Keenさまご自身もあまり好調とは言えそうもないご様子ですので、どうぞ無理はなさらないで下さいまし。こちらは大丈夫ですので、ご自身のお身体を大切になさって下さいましね。



 賢ちゃん

本当にありがとう。

まあ、私としても、父には早く元気になってもらって、一日も早く、気兼ねなくカラオケに行けるようになりたいものだよ。――本屋だけは欠かさずに寄ってはいるんだがね(笑)。



 芙宮さま

泣き虫の芙宮さま、私のためにお心を痛めて下さったのでございますね。まことにありがとうございます。

でも、私が貴女さまに期待するのは、貴女さまがもっと強くなられて、私を励まして下さるような事態でございます(笑)。
もちろん私の父も、私にそのような成長を期待していることでございましょう。ですからこそ、私は今回のことを、単なる不運な出来事とするのではなく、自己を鍛える契機としたいのでございます。また、そうしてこそ、父の苦しみに意味を見いだし、価値を与えることにもなりましょう。
その意味で、私は大丈夫でございますから、どうぞ安心して見守っていて下さいまし。世の誰もが多かれ少なかれ経験する困難になど、この私が負けるわけにはいかないのでございますよ(笑)。





( 以下は「危ない格言(4)」につづく)


危ない格言(2) 投稿者:園主  投稿日: 1月22日(土)20時31分19秒


この世界は、少数の権力者と大多数の一般庶民から成り立っている。――それが「現実」でございます。しかし、その現実が、「民主主義」の美名の下に巧みに隠蔽され、一般 庶民はいいように誤魔化され搾取されているのでございます。

ですが、最近刊行された、榎並重行の『危ない格言』(洋泉社新書)には、こういう言葉がございます。

『民主主義とは、強制によらず自ら誰かの奴隷になることができ、かつ、そうなっても自分たちを自由だと勝手に誤認する多数者がいて、何とかなりたつ制度だ。』(P112)

私は先ほど『(権力者たちによって)一般 庶民はいいように誤魔化され搾取されている』と書きましたが、榎並は、「権力者が」というよりも、むしろ「庶民(の側)が」進んで、その支配下に入っているという事情を、ここで指摘しております。そして、それはどんな感情に由来するのかと言えば、

『自由とは、あえて行うということのなかにのみ実現する実践のあり方だ。意志や権利としての自由は、所詮、われわれのわれわれについての甘ったるい憶断のひとつに過ぎない』(全同P166)

『多くの者たちは、権利として自由を持ちたいのであって、自由を実践したいのではない。自由とは、ひとがただ欲すれば実践できるほど容易なことではなく、誰でも欲すればできるほど安易なものではない。』(全同P166)

つまり「柵が目に入らない、牧場の(飼われた)牛」みたいなもので、あえて、自身を囲う「柵」の存在を直視し、そこから出ようとするような勇気をもたないのが「大衆」という存在だ、という指摘なのでございます。
そして、これはちょうど、先日ホランドくんが「アジール」の問題にからんで書いていた、

>  「アジール」を不可能なものと感じさせるのは、現実の層においては、まず「国家という強固な管理統制制度」でしょうけれど、それを支えているのは、やはり「自由」の目くるめく開放感に、「非既知の空間」への参入に、怖れをなしてしまう現代人の、惰弱な保守性なんだと思います。

>  飼い犬は、安心して暮らせるかも知れないけど、だからといって縛られることを良しとしたら、つながれたまま捨てられた場合、為すすべもなく飢え死にするしかありません。だから、いつでも逃げだせるだけの自由、つまりアジールだけは確保しておく必要があるんだと、ボクは思います。

という指摘と重なってまいりましょう。
しかし、榎並重行はさらに厳しく、次のようにも書いております。

『金持ちが、実際には、その精神の素姓において同様にお粗末である場合にも、あまり金を持たない大衆の羨望を喚び起すのは、前者は富によって、種々の目くらまし、芸術、趣味、教養の仮装を買うことができるのに対し、後者には、充分な富ばかりか、その仮装を見抜き、嘲笑する知性が欠けているからだ。』(全同P159)

つまり「大衆」が、権力者によって、「民主主義」の名の下に、いいように「飼いならされる」のは、単に「勇気がない」だけではなく「知性にも欠けている」からだ、ということなのでございますね。

しかし、この厳しい指摘を、いったい誰が否定できましょう。少なくとも「日本は赤字国家なんだから、医療費の一部自己負担もやむを得ない」などと言って、自らの措かれた立場を省みることもできないような「大衆」には、決して榎並の指摘を否定することは出来ないはずでございます。

我々「富」をもたない「大衆」は、せめて「知性」と「勇気」という武器を持たなければなりません。そうでなければ、確実に、「富」をもった者たちに敗れ、利用されるしかないのでございます。
無論、富める者たちが「善意」で、貧しい者を救ってくれるなどという「漠然とした期待」は、仮にも大人の持つべきものではございません。しかし、「大衆」の中にこそ、そういう大人は、決して少なくないのでございます。

『人権とは、すべての人間に認められるべきものであって、すべての人間がすでに持っているものではない。おそらく、いつまでたっても、すべてに「すでに」とは、認められないだろう。所詮、特権は、持っているものにとって、他者に与えるべきものだと表向き認めることはできても、余儀なくされない限り、実際には与えはしないものだ。』(全同P165)

我々「大衆」も、これくらいのことは認識できる「知性」と「勇気」を持ちとおございます。さすれば、我々が、何より我々自身のために為さねばならぬ ことも、自ずと明らかになるのではないでしょうか。





( 以下は「危ない格言(3)」につづく)


危ない格言(1) 投稿者:園主  投稿日: 1月22日(土)20時29分55秒

みなさま、現在、 ICU(集中治療室)において、心筋梗塞による心不全の治療をうけている、私の父の容態でございますが、最初の心停止でうけた心臓のダメージは若干回復してきたものの、血の逆流を防ぐための弁の機能が充分な回復を見ず、補助機の助けがなければ必要な血流を確保できない状態が続いておりますので、明後日17日に心臓弁の手術をうけることとなりました。もちろん、このような状態ですので、まだ父は麻酔で眠ったままでございます。


さて、この心臓手術でございますが、病院側の説明によりますと、74歳の父は「老人医療保険」の補助を受けられますので、一割負担ということで「4万数千円程度で済みます」との話でございました。ということは、手術代は本来40数万円ということになります。数人の医師と看護婦が数時間かかりっきりなる、繊細な重労働とも言える心臓手術でございますから、この金額自体は決して高いものだとは思いませんが、しかし、もし医療保険というものが無かったとしたらと考えると、今さらながら愕然させられます。例えば、医療保険の適用をうけられない在日外国人の人たちは、40数万円を丸まる払わなければ同じ手術をうけられないのでございます。もちろん、40数万円で完全に回復するというのであれば、何とかならないこともないのでしょうが、実際には入院費や治療費や諸雑費などが、退院までの何日かかるか見通 しのつかない先まで、重くのしかかってくるのでございます。こうしたことを考えた場合、病人を見捨てない行政としての「医療保険」制度の重要性が、自ずとご理解いただけようかと存じます。

たしかに、今の日本は赤字国家であり、高齢化が進む中で歳出がふえる一方の保険医療費を削減したいというのは、理屈としてはわかります。しかし、混合診療の問題でも明らかなとおり、保険医療費の削減で困るのは貧乏人だけで、自費でいくらでも高価な治療を受けることのできる、政治家をはじめとする金持ち連にとっては、自費負担を増やす方向性とは、端的にいえば「足手まといな貧乏人(の、しかも病人)を切り捨てて、自分たちが支配する日本という国家の、国際競争力を確保する」ということ以外のなにものでもないのでございますね。

ですから、保険医療費の削減は考えても、世界に冠たる軍事力を誇る自衛隊の強化だけは問題にせず、アメリカ中心の「世界新秩序」に貢献せんと、ますます軍事・外交方面 には惜しみなく資金を投入するのでございます。そして、なぜ軍事・外交方面 には資金を投入するのといえば、軍事・外交とは結局のところ、アメリカ主導のグローバル経済の枠組みの中で、日本の企業も、後進国と呼ばれる国々で安心して(搾取的な)経済活動が出来るようにするためなのでございます。

つまり「皆で痛みを分かち合い、危機にひんした日本を建て直そう」というような聞こえの良い「キャッチフレーズ」の内実は、実のところ「貧乏人など切り捨てても良いから、グローバル経済の枠組みの中で、国際競争力のある国家にしなければならない」ということであり、これを言い換えれば「金持ちがもっと金儲けを出来るようにしなければならない。そのためにはアメリカに追随する必要があり、その際、国内の貧乏人への配慮など、二の次、三の次でしかない(10人の中流階層からなる国よりも、1人の富豪と9人の貧乏人を擁する国の方が強い)」ということなのでございます。





( 以下は「危ない格言(2)」につづく)



【1月中旬へ】 【2月上旬へ】

【バックログ目次へ戻る】 【BBSへ】

【トップページへ】