●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


● 2005年1月中
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お邪魔しちゃってよろしいですか?… 投稿者:Y.I.  投稿日: 1月20日(木)16時33分29秒

始めまして…。チョット寄らせていただきました…。
え〜と、『新浅草十二階』というトコから来たんで、笠井・東両先生の対談に関する記事には、驚かされました。笠井・柄谷両先生の対談なら、読んだことがあるんですが…。
園主様(と、お呼びしてしまってよろしいですか?)の記事を読む限り、「笠井先生ッ! あんまりですッ!」って感じですが、でもボク、「郵便的」なんて言葉には虫酸が走るタチなんで…。
そもそも、フランス現代思想隆盛以降の「何々的」には、総じて虫酸が走ります。あの人たちが読み返した「人間的、あまりに人間的」まで含めて…。
かつて何かを信じたことがある人なら、誰だってそうでしょう?
だってあの人たちの「何かを信じる人」狩り、「〜造り上げる人」狩りは、80年代には大変なモノでしたから…。「郵便的」なんて言ってる人たちだって、どうせやることは同じですよ。
ところで、「人間は、『気持ち良さ』を求めて生きている」とタイプしたとき、園主様は、ヒョットして、フロイトを、とくにその「負のリビドー」なんて言葉を意識されましたか? もし意識されたのだとしたら、園主様も結局、ボクにとっては…。
そりゃそうなんでしょうけどね…、って話は、どんなにカッコよく話してもらっても、そりゃそうなんでしょうけどね…、って話にしか聞こえないです。
ボクは敢えて、「次はお前だッ!」(by Danton)なんて言われちゃうような人に、なりたいですね(なんだか、「青年の主張」になっちゃいましたね…)。


ふらり 投稿者:芙宮  投稿日: 1月19日(水)23時58分26秒

ホランドさま、そぅ・・・ね。

はたせなかったなぁ。ごめんなさい。眼球が痛いわ。


アジールとしての「花園」(12) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時52分4秒


 AOIさま

鎌田哲哉大西巨人のダイナモ

 『深淵』の連載が終った後、早速、新連載『縮図・インコ道理教』が始まったということで、ますます盛んな大西巨人さんですが、でも「インコ道理教」というネーミングは、ちょっと(笑)。

>  だが、それとは別の気がかりがある。それは、「読者」の問題である。そもそも今日の日本社会が、その強度と硬度において大西の文学に値するのか、という決定的な問題である。かつて中野重治が「悲しみということの滅亡」について述べた時、中野は明晰な状況分析と失われた可能性への痛みを伴う石川啄木の「悲しみ」が、高度成長時代の文学ファンによって陳腐な感傷へと切り縮められる事態を的確に伝えた。だが大西巨人を囲む状況ははるかに悪い。たとえば、「ひとりで立つ」ことをモチーフにする本書の短編「雪の日」を読むと、今日の日本が「『ひとりで立つ』ということの滅亡」と言うべき感覚麻痺にあることを私は逆に痛感する。もう何年も、ムラの掟を破った個人が、権力ばかりか草の根からも制裁を受ける光景が止まない。馬鹿な政府しかもてない馬鹿な国民に見合った、匿名に逃げこむ集団的暴力とコンフォーミズムの実例がいつまでも後を絶たない。

 読んでいない作品を否定する気はないんですが、ただ昨今の「泣ける恋愛小説」ブームには、たしかに『陳腐な感傷へと切り縮められる事態』が強く感じられ、そんな読者に大西巨人は縁遠い、というのは否定できないところでしょうね。

 大西巨人を師と仰ぐ園主さまによって批判される人たちは、「探偵小説研究会」に代表されるように概ね「体制順応主義者」なんですが、鎌田哲哉さんの『匿名に逃げこむ集団的暴力とコンフォーミズム(※ 体制順応主義)』という言葉は、「匿名者」と「体制順応主義」の近親関係を窺わせますよね(笑)。どっちも『ひとりで立つ』ことが出来ず、「数」のなかに「私」を隠蔽・埋没させた上で力を振いたがる人たち、ということでしょう。

 鎌田哲哉さんの現状認識でも、映画『神聖喜劇』の実現は、難しいということなんでしょうか?(笑)



 賢ちゃん

 園主さまと賢ちゃんのカラオケの定番である、ザ・ブルーハーツの歌詞による励ましのお言葉。ホントにロマンチストの賢ちゃんらしくって・・・(笑)。

 ありがとうございます。園主さまはこういうの苦手だろうけど、喜んでいると思いますよ(笑)。



 芙宮さま

 またまた遅まきながら、あけましておめでとうございます。

 園主さまは「鬼神も避けるアレクセイ田中幸一」ですから、だいじょうぶですよ!(笑)

 今年もよろしく!



 園主さま

 「アジールとしての花園」って、なかなか本質を突いてるでしょ?(笑)





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


アジールとしての「花園」(11) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時51分22秒


 はらぴょんさま

 園主さまへのお気づかい、ホントにありがとうございます。

> 笠井潔の『ヴァンパイヤー戦争7蛮族トゥトゥインガの逆襲』(講談社文庫)が刊行されましたが、今回の表紙を見て、なぜか荒俣宏の『地球暗黒記』(角川文庫、全3巻)を連想してしまいました。アフリカの密林に立つ美少女と、ハワイの密林に立つ美少女……。それだけの共通 点ですが。

 これですね(笑)。例によって「TYPE-MOON」の全面 支援による装丁ですが、さすがに第4巻以降は、再刷していないようですね。

> このサイトをご覧の方で、当時の『SFマガジン』をお持ちの方、もしくはこの連載をしっかり読んでいたという方は、お教えください。たぶん、このサイトは笠井派の方もチェックされていると思いますので、是非ご教示を。

 こう呼びかけて、「はい、笠井派の私がご説明しましょう」なんていう度胸のある人は、笠井派にはいないんじゃないですか?(笑)

> 笠井潔は、当初、普通小説で左翼テロリズムの問題を描こうとし、挫折しています。彼は、探偵小説という様式化されたジャンルの形式でやっと、この問題を描くことに成功したのです。(本当は純文学でデビューしたかった人間だということです。)
> 後年、彼は、探偵小説という形式には、戦争中の大量死と戦後の大量生という生きる意味を奪われた時代に抗するという意味があるのだと考えるようになり、自分が探偵小説の分野に移動したのは、意味があったとしています。しかし、これは後知恵であり、実のところ、彼の探偵小説は、普通 小説の代用品として要請されただけのことです。

 これはしばしば指摘されるところですけど、結局のところ笠井さんは、その時々「今の自分の居場所」を「(客観的に)最高だ」と自分で祭り上げちゃう人で、「ここが最高だなんて手前味噌なことは言わないけど、私はここが一番好きなんだ」というような語り方は、絶対にしない人なんですね。結局これは、笠井さんが、度しがたい「権威主義者」であり「評価されたがり屋」だということなんだと思います。

> しかし、笠井潔は、こんなことを書いてしまう作家なのです。「過去百年、あるいは千年にもわたり、読むにあたいする文学作品は例外なしに、飽くことなくおなじ主人公のおなじ運命を描いてきたともいえるだろう。」(『黄昏の館』徳間文庫版83ページ)笠井にいわせると、それは「不可能であると知りながら、それでも永遠の時をめがけて決死のジャンプを敢行してしまう」主人公であり、「仮設舞台」が変わるだけで、ダンテもファウストも、『失われた時を求めて』の話者も、『城』のKも、マルテもラスコーリニコフも、同一人物だというのです。
> 私には笠井潔の小説は、「仮設舞台」が変わるだけで、いつも似たようなタイプの人間を、くりかえし描いているように見えます。

 そうですね。似たような人物ばかり書いているというのは事実でしょう。でも、それは笠井さんが言うとおり、必ずしも欠点とは言えないと思います。
 笠井潔のように本来「求道的」な作家の場合、それは一種の必然であり、エンターティンメント作家における技巧としての多彩 なキャラクターの書き分けなど、さほど意味が無いと言ってもいい。つまり、笠井さんが「当初の志」どおりに、笠井さんなりの理想を目指してストイックに進んでいってくれていたなら、「いつものキャラクター」であっても、ファンは「毎度のことながら」しびれさせられる、ってことになったんだと思いますよ。

 ただ、笠井さんが言うとおり、ある種の文学作品における主人公は『「仮設舞台」が変わるだけで、ダンテもファウストも、『失われた時を求めて』の話者も、『城』のKも、マルテもラスコーリニコフも、同一人物だ』と言えるんですけど、それならば逆に、もともと別 シリーズだったものを、その「形式において」無理に結びつける必要(=内的必然性)は、まったく無かったということにもなるのではないでしょうか。
 で、結局これも『同一人物だ』ということを「読者にわかって欲しい」、矢吹駆も『ダンテもファウストも、『失われた時を求めて』の話者も、『城』のKも、マルテもラスコーリニコフも、同一人物だ』と「評価して欲しい」という過剰な欲望にうながされた「行き過ぎ」だったのではないでしょうか。





( 以下は「アジールとしての「花園」(12)」につづく)


アジールとしての「花園」(10) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時50分21秒


 Keenさま(続き)

> ところで、「瀕死の王」の作中人物のセリフに「マイホーム・パパ」という単語が見受けられたのですが、これは単なる偶然か、はたまた、笠井さんもナディア・モドーキ作カモン・ベイビーを読まれたのか……?もし、もしもそうなら、笑って頂けてたら嬉しいなあ(無理?)。

 無理でしょうねえー(笑)。『瀕死の王』でどういう使われ方をしていたのかは知りませんが、少なくとも昔の笠井さんは『マイホーム・パパ』的なもの、「小市民」的なものを、激しく嫌悪し否定してましたし、「笠井翔事件」でもわかるとおり、自身のそうした側面 を、揶揄されるのはもちろん、触れられるのも絶対に厭だって人だから。

 ま、でも、かつてはそうしたことで、相手に叱責の手紙を書き送り、謝罪まで要求して「筋を通 す」ことを求めたんだから、逆に自分が「筋」を通さなかったら、厳しく批判されるのは、当然のことですよね。

 ご存じのとおり、今や園主さまは、ネット上で公然と笠井さんを批判し、笠井さんだってこれを知らないなんてこと絶対にありえない。だけど笠井さんは、園主さまのこうした批判については、頑に沈黙を守って、決して反論しようとはしません。かつて、長谷部史親や縄田一男を批判した上で「仮にも評論家を名乗るのなら、堂々と批判に応えろ」と迫った笠井さんが、その言葉に反する沈黙を守り続けているんです。
 笠井さんのこの矛盾した行動から推すと、園主さまによる今の笠井潔批判は「筋が通 っており、正当なものと認めざるを得ない」ということなんでしょう。だからこそ、叱責の手紙や反論を書くわけにはいかないんですね。――つまり、笠井さんは、人を呪わば何とやら、ということになってしまったということです(笑)。





( 以下は「アジールとしての「花園」(11)」につづく)


アジールとしての「花園」(9) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時49分36秒


 Keenさま(続き)

 その文章の執筆当時、たしかにボクは、「カケル」というのは当然「駆」だと思ってたんですが、事実はそうじゃなかったんですね(つまり『サイキック戦争』の主人公、竜王翔と同じ「翔」だった)。それに当時、息子さんのお名前は公になっておらず、もっぱら私生活にかかわることだというのは事実だし、自身では言及しない子供のことを、すっぱ抜くような形で書かれたことや、それまで書いてきた「反・家庭的」なイメージに否定するようなことを揶揄的に書かれたことに、怒りを感じたんだろうというのは、容易に察せられました。

 でも、問題はタイミングだったんですよね。ボクの文章に不満があるんなら、どうしてその時すぐに言ってこなかったのか。園主さまが批判論文を投稿した後になって、なぜ今さらのように、こんな手紙を送りつけてきたのか、ということです。
 結局は、園主さまがまだ自分のファンだと思っている間は、少々のことは大目に見れたんだけど、正面 から楯ついてきたからには「容赦しない」と考えたんじゃないか、としかボクらに思えなかったんです。

 ただ問題は、園主さまの批判論文には一言半句触れずに、もっぱらボクの文章を問題視して、訂正と謝罪を求めてきたという点で、正直ボクは「狡い」という印象をうけました。実際、いくら腹が立ったって、批判論文を書くなとは言えないから、ボクが軽い気持ちで不用意に書いてしまった文章の方を問題にして、そこを攻めてきた、としか思えなかったからです。
(※ ちなみに、笠井さんが園主さまの論文に激怒したという事実は、法月綸太郎委員の選評に明記されています。曰く『これを読んだ笠井委員は怒り心頭に発して、破門を言い渡したそうである。』)

 でも、手紙の上で、笠井さんが問題にしているのは、あくまでもボクの文章であり、ボクの文章が配慮に欠けたものであったのは事実ですから、たとえ「江戸の仇を鎌倉で」とられるような形であったとしても、こちらとしては是々非々で筋を通 した対応をしようということになり、園主さまとボクの連名で、笠井さん本人に謝罪のお手紙を差し上げると共に、『群探』のほうには「訂正とお詫び」を載せたのでした。――これが「笠井翔事件」のあらましです。





( 以下は「アジールとしての「花園」(10)」につづく)


アジールとしての「花園」(8) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時48分36秒


 Keenさま

 遅ればせながら、あけましておめでとうございます!

> 園主さま、電話しようかとも思いましたが、いたずらにご家族を動揺させることにもなりかねないので、書き込みにします。

 園主さまへの、細やかなお気づかい、ホントにありがとうございます。助手として、お礼申し上げます。

> 最近の寒さは、心身ともにこたえます。私のお腹は、幸いよくなってきたようで、大分食べられるようになりました。お父様も、心臓ということは、やはり寒さのせいもあるのでしょうね。今は、園主さまとお母様が体調に気をつけられて、大事にお過ごし下さいませ。そうそう、食べる方もお忘れなく!

 よかった〜(^-^)。
 でも、Keenさまも、また風邪ひいたりしないでくださいよ(笑)。

> そういえば……笠井さんのご子息も、確か翔(カケル)さんとおっしゃるんでしたよね。

 そうですね。でも、翔くんについては因縁話もあるんです。

 もう随分前の話で、ボクと園主さまが「探偵趣味倶楽部」という同人に所属してた頃、ボクはそこの会誌『群探』に、「夢中夢通 信」という身辺雑記の連載してたんです。
 それで、ある時、園主さまが「こないだインタビュー原稿の校正のことで笠井さんのところへ電話したら、奥さんが電話に出たんで、笠井先生ご在宅ですかって言ったら、少々お待ち下さいって言った後、『カケルく〜ん、お父さん(パパだったか?)に電話だって言ってー』って声をかけているのが聞こえたんだよ。笠井さんの息子さん、カケルくんって言うんだな(笑)」っていう話を聞かせてくれたんです。

 笠井さんの息子さんが、「翔(カケル)」さんだというのは、一般には『ウロボロスの基礎論』に笠井さんご本人が登場したせいで知られるようになったんですが、ボクらがそれを知ったのはそれ以前のことだったので、これはなかなか面 白い話だなと、その時ボクは思ったんです。だって、当時の笠井さんは、文章上では「家庭」のことなんかほとんど触れなかったし、まして息子さんのことなんか書いたこともありませんでしたから。そのうえ、息子さんの名前が「カケル」と言うんだから、これはとても「意外なこと」だったんですよね。

 で、ボクはこの話から「笠井さんも世間並みのお父さんみたいなことをするんだな」と、笠井さんが文章上で見せないようにしている部分の存在と、笠井さんの人並みに人間らしい部分を、そこに見た思いがしたんです。で、このことを書いてもいいだろうかと園主さまに訪ねると「べつに隠すようなことじゃないから、構わないだろう」という返事だったんで、ここに書いたような経緯を紹介した上で、「笠井さんも、意外にマイホームパパだったんですね」と、ちょっとからかい気味に書いたんです。

 当時、園主さまが文章を書いている同人誌は、すべて笠井さんに直接郵送されていたんで、ボクの文章も当然笠井さんの目に触れることを前提として書かれていたんですが、掲載誌が郵送された後も、しばらくは特に何もありませんでした。
 ところが、園主さまが、笠井さんらが選考委員をつとめる「創元推理評論賞」の第3回に、笠井潔批判の論文『地獄は地獄で洗え…』を投稿してしばらくの後、笠井さんからいきなり、ボクの文章に対するお叱りの手紙が、園主さま宛てに届いたんです。当然、ボクも当事者として読ませてもらったわけですが、この時、笠井さんはかなり感情的になっておられたのか、その手紙は原稿用紙に校正用の赤ペンで書かれたものでした。内容は「息子の名前のカケルは、尊敬する学者の名前から取ったもので、矢吹駆から取られたものではない。個人的なことについて、勝手な想像で書かないで欲しい。あそこに書かれていたことは、下衆の勘繰りというものだ」という主旨のものでした。





( 以下は「アジールとしての「花園」(9)」につづく)


アジールとしての「花園」(7) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時45分17秒


 DHCさま(続き)

 例えば、DHCさまは「笠井潔の周辺人物」ではないかも知れないけど、「奈須きのこの周辺人物」である可能性は、その自己紹介からは否定できません。
 綾辻さんとの対談によると、奈須きのこは30歳だそうで、DHCさまは『二十代後半』だそうですから、同一人物ではないにしても(「金持ち喧嘩せず」とも言いますし)、「同じ業界の同世代」として、奈須きのこに共感を感じ(そのため園主さまに反感を感じ)ていても不思議ではありません。また、奈須きのこは「TYPE-MOON」というゲーム製作会社を経営しており、社員もいるというのですから、DHCさまが「TYPE-MOON」の社員だとしても、何ら不思議はないでしょう。

 そんなわけで、DHCさまが「ミステリ関係者」であるかないかに関わりなく、DHCさまが「客観的第三者」である可能性は薄い、と言わなければなりません。
 それは『業界の裏情報にまで通じる『ミステリーに造詣の深い知り合い』が身近にいたり、『このミステリーがすごい!』に読んでいない作品を投票した『ぼくの知り合い』がいたり』するのに、そうした事実を自己紹介のなかでは語らず、隠そうとした事実によって裏づけられるんですね。

 ちなみに、ここまで書いたことは、事実に基づく論理的な「推理」であって、決して『断定』でも『独断』でもありません。ひとつの「可能性」を示し「仮説」を提示しただけで、これが真実だなんて、無意味な断定をする気など、ボクにはまったくないのです。でも、この「推理」や「仮説」を否定するためには、DHCさまは「隠す必要のないはずの身元」をハッキリ示すしか、方法はないんだと思いますよ(笑)。





( 以下は「アジールとしての「花園」(8)」につづく)


アジールとしての「花園」(6) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時43分18秒


 DHCさま

 DHCさまの正体を推理してみましょう(笑)。

 「立場」を問われたDHCさまは、ご自身のことを、

> ぼくは二十代後半のゲーム制作関係者です。特に執着している作家はなく、どのサークルにも属してないし、作家との面 識もありません。

と自己紹介して、ご自身が「ミステリ界」や「出版業界」とは縁のない人間であることを強調なさいました。
 なぜ、そうしたのかと言えば、DHCさまの園主さまに対する否定的評価が、「党派的な批判・攻撃 」ではなく、「客観的な評価」であったり「単純な助言」であったと見せかけたかったからでしょう。

 でも、園主さまが

> 結局、貴方さまは『ミステリ界やミステリ出版界とまったく無縁な人間』どころか、実際には、業界の裏情報にまで通 じる『ミステリーに造詣の深い知り合い』が身近にいたり、『このミステリーがすごい!』に読んでいない作品を投票した『ぼくの知り合い』がいたりします。――こういうのを世間では「ミステリ界やミステリ出版界と縁のある人間」と言うのでございますよ(笑)。

と指摘したとおり、DHCさまは「自己紹介」と矛盾する「交友関係」を、後で自己暴露してしまっています。

 DHCさまが自己暴露したご友人は、どちらも園主さまの「批判対象」の圏内に入っており、そういう人たちとつき合いがあり、自分ではそういう人たちを「批判する気が無い」のだとすると、DHCさまがそういう園主さまの批判対象たちに肩入れして、園主さまにケチをつけようとするというのは、充分に考えられることだと言えるでしょう。またその際、その「党派的な動機」を隠蔽するため、「匿名により第三者を装おう」なんてことも、当然のごとくなされるでしょうし、そんな人は、その党派性を問われて、正直に「私は誰某の友人である」とか「誰某を信奉し、その批判者に敵意を抱く者である」なんて名乗ることは、皆無でしょうね。

 でも、だからと言って、DHCさまの、

> ぼくは二十代後半のゲーム制作関係者です。特に執着している作家はなく、どのサークルにも属してないし、作家との面 識もありません。

が、丸っきりの嘘だとは限らない。園主さまに敵意を抱くのに「年齢」は関係ありませんし、園主さまを敵視するのは「ミステリ関係者」とばかりも言えません。例えば、園主さまは最近、その論文、

 ・ 空虚に巣食う魔―― 笠井潔と『空の境界』

で、人気「ゲーム作家」である奈須きのこの(『空の境界』の)文章を「下手クソ」だと忌憚なく評価していますから、奈須きのこのファンや、奈須きのこの文章が上手いと思った人から憎まれる可能性は充分にあるんですね。つまり、DHCさまが「ミステリ関係者」ではなく『ゲーム制作関係者』であったとしても、それは「ニュートラルな立場」を保証する条件ではありえないんです。
 もちろん、園主さまは「特定のサークルへの所属」の有無に関わりなく「マニア」も批判しますから、『どのサークルにも属してない』というのも客観性を保証する要件ではないし、『特に執着している作家』や『作家との面 識』が無くても、自分が楽しんで読んでいる作家がいるという事実は否定できないし、それがこてんぱんに否定されれば、反感を持たないという保証もないでしょう。

 つまり、DHCさまの自己紹介は、「ミステリ業界」との関係を否定して、一見したところは「ニュートラルな立場」を強調するものなんですが、実際のところ、この自己紹介がすべて事実だとしても、それは「ニュートラルな立場」を保証しうるものではないんですね。





( 以下は「アジールとしての「花園」(7)」につづく)


アジールとしての「花園」(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時40分57秒


 時雨さま

 遅ればせながら、あけましておめでとうございます!

>> ――で、なに部なんですか? もしかして「占い研究部」???

> いえ、実は「心理学研究会」です。まあ、心理学のことなんて全然やってないんですけどね。

 なるほど! そういえば、時雨さまの当りの柔らかさって、カウンセラーのそれを思わせるところがありますよね。皮肉などでは決してなく、ホントにそんな感じがします。

> 実は近所の映画館を探したら『ULTRAMAN』は終わってしまっていて・・・
> それで感想はDVDを見てからにいたします。すみません。

 ええ、べつに急ぐ必要もありませんから(笑)。

> ところで『仮面ライダー響鬼』ですが、掲げている「完全新生」はあながちはったりではないと思いますよ。
> 平成仮面ライダーはプロデューサーの色が強く出るのですが、今回のプロデューサーは『仮面 ライダークウガ』の高寺氏。
> この人は自分の意向をかなり強く出す方であがってきた脚本に駄目出しで真っ赤にし、ストーリーのためならスポンサーの玩具展開すら無視するというかなりの兵です。
> そして実際の番組を作るスタッフ達も多少の入れ替わりはあれど「仮面ライダー」を作り続けてきたベテラン達。
> これはかなり期待できそうですよ!

 ええ、じつはボクが覗いたサイトでも、時雨さまと同じような視点から、期待してよいのではないかという意見が語られていました。でも、ボクは『クウガ』も見てないんで、そういう評価は下せないから、「響鬼」のデザインからうけた印象を、そのまま語ってみたんです。
 高寺プロデューサーは、今回もファンの期待に応えてくれるでしょうか。――その点に注目して、評判を見守りたいと思います。





( 以下は「アジールとしての「花園」(6)」につづく)


アジールとしての「花園」(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時39分44秒


 古田さま(続き)

『 アジールは存在できない――それが現代人の「常識」である。その常識はメディアや教育や家庭をとおして、子供の頃から私たちの心に深くすり込まれている。今日の歴史学者とて、その例外ではない。アジールの実在感を感じ取ることのできないままに、アジール的なるものへの感性を抑圧する教育システムをくぐり抜けて研究者となった彼らは、近代以前の社会に生き生きと実在していたアジールの息吹きを感じ取れなくなってしまっている。そういう抑圧された意識によって解読され、解釈された「歴史」なるものが、今日のアカデミズムを支配する歴史学を再生産する様式となっている。』(P69〜70)

 自分だけは「歴史」の外部にいるという謬見に、専門家は囚われがちだし、それはボクたちだって同じでしょう。だからこそ、ボクらは自ら主体的に歴史に参入する必要があるのではないか。そうした参入が『いわゆるウヨクとサヨクのドタバタ喜劇に巻き込まれてしまうのではないか』という怖れを惹起するというのは理解できます。しかし、それを恐れて傍観者でいるというのは、結局のところ、『アジールは存在できない』という「人間的=社会的・秩序」の側の教育(=洗脳)によって去勢された人間の、無自覚に権力の側に立つ態度なのではないでしょうか。

 問題は、自分の立場が「右翼か、左翼か」ではありませんし、無論「右翼と見られるか、左翼と見られるか」でもありません。
 園主さまはよく、「オレはオレだ。左翼の中に入れば右翼だと言われ、右翼の中に入れば左翼だと言われる。それがオレであり、オレの立場とは、すなわち永遠のノン(否)であり、アンチ(反)である」というような見栄を切ります。これは現実に参入しながら、しかし『いわゆるウヨクとサヨクのドタバタ喜劇』に参入しない・させられない「自由な個人」の立場表明なんではないでしょうか。そして、言うまでもなく、この立場は「反逆天使ルシファー」の立場であり、網野善彦言うところの「悪党」の立場であり、中沢新一言うところの「悪党的思考」というものなのではないでしょうか。

 ホントに、もう『アジールは存在できない』のでしょうか? たしかに物理的空間におけるアジールは、極端に少なくなりました。しかし、アジールを排除する最大の道具だった「高度情報化」のなかにも、よく見れば「アジール」は存在するし、アジールは個人の心のなかのアジールの反映として、現実社会の変化に適応しながら、形を変えて生き残っていくのではないでしょうか。また、それが失われる時こそ、人類の死滅する時なのではないのでしょうか。

 もう『アジールは存在できない』――そんなことはありません。その実例が「今ここ」にあります。この「アレクセイの花園」こそが、ひとつのアジールであり、ボクと古田さまの間でこうして繰り広げられている議論こそが、『僕の叔父さん 網野善彦』に描かれた中沢新一の父と叔父と網野善彦との間で繰り広げられた「アジール(=非制度空間)における、自由な議論」の再演なのではないでしょうか。

 「アジール」を不可能なものと感じさせるのは、現実の層においては、まず「国家という強固な管理統制制度」でしょうけれど、それを支えているのは、やはり「自由」の目くるめく開放感に、「非既知の空間」への参入に、怖れをなしてしまう現代人の、惰弱な保守性なんだと思います。

 飼い犬は、安心して暮らせるかも知れないけど、だからといって縛られることを良しとしたら、つながれたまま捨てられた場合、為すすべもなく飢え死にするしかありません。だから、いつでも逃げだせるだけの自由、つまりアジールだけは確保しておく必要があるんだと、ボクは思います。





( 以下は「アジールとしての「花園」(5)」につづく)


アジールとしての「花園」(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時38分40秒


 古田さま(続き)

> かつてアジールが存在したのは人間の根源にある自由意志によるとされていますが、これに私はあえて疑問を呈したいのです。アジールがかつてのような形ではありえなくなったのは、ひとえに高度情報化が成したことだと私は考えます。高度情報化と、そこから導かれた言語的ありかたの陳腐化、そこに国家権力がするりと浸透したのではないでしょうか。例えば、先の奈良女児誘拐殺人事件の犯人が逮捕され、顔写 真が公開され、「異常な」性癖が暴かれました。犯罪心理学のセンセイが出てきて、まるで台本通 りの分析を披露し、聴衆はポルノ規制だ性犯罪者データベースだと言い出す始末。あるいは「鬱病というのが最近流行しておりまして、鬱病になりやすい人はかくかくしかじかの性質を有しており云々」と娯楽番組で放送されたりしています。
> こういう「人を憎んで罪を憎まず」という姿勢は、宗教の不在や硬直化、人文系学問の価値の低下とつながって、お互いに強めあいます。

 ここで古田さまが書かれていることは、まったく正しいと思います。しかし、問題は、この現状をこのように分析してみせる古田さまご自身は、この状況の外に立っており、何の影響も受けないですむ立場にあるのか、ということです。
 古田さま自身の「アジール」であり「自然」であり「自由」が扼殺されようとしている現状にあって、古田さまはそれにどう抵抗しようとしているのか? そのひとつの答が、

> 先の『革命』の話と、アジールなしの共同体づくりということを考えて、ふとモーリス・ブランショの『明かしえぬ 共同体』を思い出したので、そこから引用すると、

>「伝統的革命」とは逆に、権力を奪取してそれをもうひとつの権力に置き換えることや、パスティーユなり冬宮、エリゼ宮あるいは国会なりを占拠するといったさして重要でもない目標があったわけでもなく、また古い世界を転覆することがねらいだったのでもなく、各人を昂揚させ決起させることばの自由によって、友愛の中ですべての者に平等の権利を取り戻させ、あらゆる功利的関心の埒外で共に在ることの可能性をおのずから表出させることこそが重要だったのである。(ちくま学芸文庫)

> こういう試みは不断に行われなきゃならないし、これこそが詩や文学などの芸術、人文諸学の役割であって、現在もっとも求められているものだと思います。

 ボクはモーリス・ブランショも読んでいないので、正確なことはわかりませんが、ブランショを引用して、ここで古田さまがおっしゃっているのは、「硬直した政治に回収されない、人間解放としての革命とその持続」の必要性、そしてそれの身近な実践として『詩や文学などの芸術、人文諸学』の重要性なんだと思います。

 ボクは、この理論の前半部分を、笠井潔が『バイバイ、エンジェル』で描いた「太陽を直視する特権的な一瞬としての革命」に近いものだと思いますし、後半の「実践規定の矮小化」は、そうした「革命」が、笠井潔の事例にも見られるとおり、結局は「人間の政治的欲望」に回収されるという「現実にたいする失望」から来るもののように思われました。

 これは『いわゆるウヨクとサヨクのドタバタ喜劇』という言葉に感じられる「党派政治への絶望」から来るものであり、それが「政治嫌悪」になっているのだろうと、たしかに共感はできるんですが、でも、最後は『これこそが詩や文学などの芸術、人文諸学の役割であって、現在もっとも求められているものだと思います。』というところに収まるのでは、あんまりだと思うんです。

 実際、中沢新一が危惧しているのも、『詩や文学などの芸術、人文諸学』こそが、そうした「人間的=社会的・秩序」に、真先に統制されてしまっているという点なんですね。その実例は、園主さまが問題提起している「ミステリ業界」の問題や、はらぴょんさまが吉本隆明の言葉を引用して紹介していた「詩人業界」にも、すでに明らかな事実だと思うんです。





( 以下は「アジールとしての「花園」(4)」につづく)


アジールとしての「花園」(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時37分17秒


 古田さま

> 『僕の叔父さん網野善彦』を読みました。
> 歴史学、ならびにあらゆる学問がアジールを念頭に置くべきだという考えと、それを実践した網野氏の姿に感銘を受けました。ただ気になったのは、アジールに対して国家を強調しすぎているのではないか(中沢新一氏の考えか?)、という事です。これは、網野氏が彼の歴史学を提唱した時には有効だったのかも知れませんが、現在、アジールが存在しえなくなったという現在では、こういう観点は、いわゆるウヨクとサヨクのドタバタ喜劇に巻き込まれてしまうのではないかと思います。

 『僕の叔父さん 網野善彦』が見つかりました! さっそく読みましたので、古田さまのご意見を参照しながら、ボクの感想を書かせていただきます。

 まず議論の前提として書いておきますと、ボクは網野善彦の本をぜんぜん読んでいないので、ここで議論の対象となるのは、中沢新一が理解したところの網野善彦の考え方だということです。
 ただ、これは網野善彦の考え方を対象にしていないということではありません。どんな人の理論であれ、それが論じられる際は、必ず論じる人の「解釈」を経たそれでしかありえませんから、網野善彦本人が死去した今、「正統な網野善彦理論」という特権的な解釈(=立場)は実質的に存在せず、問題は自ずと、網野善彦が書き残したことを、如何に有意義なものとして発展的に生かしていくかということになるんだと思います。

 そうした意味で、中沢新一の解釈は、明確なヴィジョンを備えた、ひとつの優れた網野善彦理解だと、ボクは思います。

 古田さまは『アジールに対して国家を強調しすぎているのではないか』と疑問を呈せられていますけど、ボクは、アジールとは「人間的秩序」によって囲い込まれた「(最後の)自然」であり、「国家」とは「人間的秩序」の現時点における最強形態だと思いますので、アジールに対して「国家」を対応させるというよりも、「国家」が人間(=個人)の自然(=自由)を取り囲み、窒息させようとしているこの時代において、その困難を打開する可能性の象徴として、「アジール」をもってくるというのは、戦略的に有効なものだと考えます。

 例えば、以前ここでも話題にのぼりましたが、東浩紀さんと大澤真幸さんの対談『自由を考える 9.11以降の現代思想』(NHK出版)では、マイケル・ムーアが『ボウリング・フォー・コロンバイン』で描いた「脅迫神経症的な安全病におかされた(アメリカ)国民」という問題が、日本でも着実に広がりつつあり、日本の国民も、「国家」から「安全」を保証してもらう代わりに、自らの「自由」を放棄するという傾向が強まっている、というような指摘がなされていました。

 つまり、「人間的=社会的・秩序」はボクたちの世界から「アジール」という「自由の場」を奪っただけではなく、個々の精神のなかに存在する「アジール」まで囲い込み、消し去ろうとしているのです。
 でも、人間は「精神のアジール」を失ってまで、ホントに生きていくことは可能なのでしょうか? たしかに人間は「ただの動物」ではなく、「人間的=社会的・秩序」を構築し、それによって「ただの動物」を超えてきた存在です。しかし、自分のなかの「自然」を「動物の部分」を扼殺して、はたしてホントに生きていくことができるのか? ――そこが問題なんだと思うんですね。

 古田さまは、「アジール」の対立物として「国家」を対置することは、結局のところ「反国家主義としての左翼」に結びつくだけのことなのではないかと危惧されているのでしょう。でも、ボクには古田さまのおっしゃる『いわゆるウヨクとサヨクのドタバタ喜劇』というものが、あまりにも観念的であり第三者的なものに思えて仕方ありません。





( 以下は「アジールとしての「花園」(3)」につづく)


アジールとしての「花園」(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月18日(火)23時35分54秒

 みなさん、こんばんは! 園主さまのお父さまのことではご心配をおかけしておりますが、昨日、園主さまから報告をうけたところによりますと、ひとまず人工心臓ははずして、残るは人工肺(呼吸器?)と心臓の機能を補助する機械の2つになったということです。まだまだ安心できないとはいうものの、人工心臓がはずせたという園主さまの報告には、たしかにすこしホッとしたような響きがありました。まだまだ大変でしょうけど、園主さまにもお父さまにも踏ん張っていただきたいと思います。

 さて、園主さまがこないだの書き込みでご紹介していた、鎌田哲哉さんのエッセイ大西巨人のダイナモに書かれていた、大西巨人さんが戦後すぐに編集にかかわった雑誌『文化展望』の復刻版を、園主さまは早速注文なさったそうです。
 版元は、そういう文化史料的な地味な本を刊行しているマイナーな出版社なので、最初、園主さまは、お父さまが入院なさっている病院に近い、関西では最大の売り場面 積を誇るジュンク堂書店大阪本店に行ったそうです。この店に入ってなければ取り寄せしかないってことだったわけですが、結局、入荷はされてなかったみたいで、店員さんから「取り寄せになりますが」と問われて、取り寄せなら会社からの帰りにいつも立ち寄る紀伊国屋書店梅田本店の方が好都合だと、そちらで注文することにしたんだそうです。

 紀伊国屋書店の売り場カウンターで、そこにいた若い男性店員に、書名や出版社名・出版社の電話番号・ISBNコードなどを書いたメモを手渡し、取り寄せを申し出たところ、その店員はカウンターの奥のパソコンで検索を始めたそうです。園主さまは、ジュンク堂に無ければ紀伊国屋には絶対に無いだろうと思いましたが、 店員が型どおり在庫確認するのを黙って見ていたそうです。
 ところが、戻ってきた店員は「この御本はお取り寄せができません」と言うので、園主さまは「こいつ、自分が聞いたことのない出版社だし、検索しきれなかったから、取り次ぎに乗らない小出版社だと思ったんだな。わからなかったら先輩にでも聞けよ、このド素人が」と思い、ムッとした口調で「そんなことはないはずですよ。その出版社のホームページで確認したんですが、書店で注文して下さいと書いてましたよ」と言うと、その店員はまた奥に戻っていって、今度は取り寄せ伝票を持ってきて「お取り寄せには一ヶ月ほどかかりますがよろしいでしょうか? また出版社に在庫のないこともございますので、その場合はご容赦下さい」とか言ったそうです。で、園主さまは「さっき、取り寄せできないと言ったのは、どうなったんだ」と思ったんですが、さすがにその言葉は呑み込んで、でも、やっぱり「その本は、夏に出たばかりだから、絶対に残ってますよ」と「絶対」を強調して断言したそうです(笑)。

 つまり、園主さまは「ろくに本のことも知らなければ、自分の仕事もこなせないようなひよっこが、こっちを素人だと思って、いい加減に誤魔化そうとしやがって」ということで怒ってらしたんですね。――で、このお話自体は至極もっともな話だったんですが、そんな店員に腹を立てている、いつもどおりの園主さまの様子に、ボクはホッとさせられて、ついニコニコしてしまったのでした(笑)。





( 以下は「アジールとしての「花園」(2)」につづく)


そういえば…… 投稿者:Keen  投稿日: 1月18日(火)15時34分52秒

笠井さんのご子息も、確か翔(カケル)さんとおっしゃるんでしたよね。
竜王っていうと、私は竹本さんの影響で棋士を連想してしまいますが……
今日はちと不調なので、これにて。


仮設舞台は変われども 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月18日(火)12時59分22秒

★園主さま
大変でしょうが、頑張っていただきたいと思います。今はただ状況が好転するように祈ることしかできませんが。

★Keenさま
ちなみに、笠井潔の『サイキック戦争』の主人公は、竜王翔(リュウオウ・カケル)です。
カケルを連発するのは、なぜなんでしょうか?
竜王は、どこから来たのでしょうか。私は、竜王というと、綜合ヨガ・竜王会を基にする神智学協会ニッポン・ロッジを連想します。(考えすぎかもしれませんが。竜王翔はサイキック能力があるということになっているので、ミステリアスな雰囲気を出すために、オカルト関連で出てくる用語を使っているのではないかと思うのです。)
無論、笠井潔の伝奇SF(コムレ・サーガ)の世界を、直接、矢吹駆シリーズの本格ミステリの世界に繋げることはできません。本格ミステリは、コード(物語を進める上での約束事)さえ決めておけば、山口雅也や西澤保彦が実作で試みているように、奇抜な設定でも本格のロジックを展開することは可能ですが、矢吹駆シリーズの世界の設定は、この世界と地続きですから。
しかし、笠井潔は、こんなことを書いてしまう作家なのです。「過去百年、あるいは千年にもわたり、読むにあたいする文学作品は例外なしに、飽くことなくおなじ主人公のおなじ運命を描いてきたともいえるだろう。」(『黄昏の館』徳間文庫版83ページ)笠井にいわせると、それは「不可能であると知りながら、それでも永遠の時をめがけて決死のジャンプを敢行してしまう」主人公であり、「仮設舞台」が変わるだけで、ダンテもファウストも、『失われた時を求めて』の話者も、『城』のKも、マルテもラスコーリニコフも、同一人物だというのです。
私には笠井潔の小説は、「仮設舞台」が変わるだけで、いつも似たようなタイプの人間を、くりかえし描いているように見えます。
[追伸]
http://web.thn.jp/kbi/zatu3.htm の1月6日の箇所に、中井英夫による笠井潔の『哲学者の密室』に関するコメントが載っています。


新年 投稿者:芙宮  投稿日: 1月18日(火)05時10分42秒

初の訪問です。こんにちは。
今年も、らしい、園主さまが居られる・・・と思いきや、でした。
園主さま方にむけて、心を送ります。
芙宮は、置き去りにされるの嫌だ。世の中の節理なんて関係ないよ。ねぇ?必要だもの。

今年は、和服を着られるようになりたいな。
理論をモノにする方法論が自分の中に宿ると良いな。
笑顔筋を育てています。 ・・・今年の抱負ともつかない3項目。

皆さまの心に暖かな陽が在り続けるよう、お祈りいたします。素敵!なお年を。




『人にやさしく』 投稿者:賢ちゃん  投稿日: 1月17日(月)21時00分40秒

僕が言ってやる!
大きな声で言ってやる!
聞えるか?
頑張れ!!

http://d.hatena.ne.jp/nai2003/


追伸 投稿者:Keen  投稿日: 1月17日(月)15時30分51秒

自らリンク貼っといてなんですが、昔の自分の書き込みを読むのって、なんともこっぱずかしいものですね〜。
特に「花園」に通い始めた頃の私は、ネット初心者ゆえに、思いっきりキャラ口調で書きまくってたんで……そう、現在は平常心で書き込みできるようになってるんですよ。本当ですってば。


この寒さか 投稿者:Keen  投稿日: 1月17日(月)15時24分29秒

園主さま、電話しようかとも思いましたが、いたずらにご家族を動揺させることにもなりかねないので、書き込みにします。
最近の寒さは、心身ともにこたえます。私のお腹は、幸いよくなってきたようで、大分食べられるようになりました。お父様も、心臓ということは、やはり寒さのせいもあるのでしょうね。今は、園主さまとお母様が体調に気をつけられて、大事にお過ごし下さいませ。そうそう、食べる方もお忘れなく!
一日も早いお父様のご回復を、お祈りしています。


はらぴょんさん、矢吹駆とムラキのつながりについて、詳細な情報をありがとうございました。私も園主さまと同じ考えで、カケルとムラキは類似・同種のキャラに過ぎなかったものを、ここにきて強引にくっつけようとしているのではないかな〜、と思うのです。ただ、笠井作品をそれほど読んでない私ですので、裏付けはありませんが。

ところで、「瀕死の王」の作中人物のセリフに「マイホーム・パパ」という単語が見受けられたのですが、これは単なる偶然か、はたまた、笠井さんもナディア・モドーキ作カモン・ベイビーを読まれたのか……?もし、もしもそうなら、笑って頂けてたら嬉しいなあ(無理?)。

 

危篤の父(4) 投稿者:園主  投稿日: 1月17日(月)04時42分12秒


 AOIさま

> それで、なぜ、『映画化と聞いて、最初に名前が浮かんだのは澤井信一郎だった』のかということになるんですが、『神聖喜劇』の東堂と安芸の彼女とが『野菊の墓』の政夫と民子にスライドしてしまったからなのではないかと思うんですよ。おそらく。
> 全く状況はちがうけれど、時代に抗うことのできないまま、断ち切られてゆくふたり。
> それしかないかなあとおもいます。

なるほど。『東堂と安芸の彼女』というのが、大きなファクターとなっているのでございますね。あの「剃毛」のシーンは、インパクトが強いのか、多くの人が言及しておりますよね。

> なんだか、園主さまの言われるものを読んでいたら、出版だけで映画化はないのかと思えてきますね(笑)。それはそれでしかたがないですが、でも私はやはり、映画化されるの方に賭けます(笑)。

本当にお金を賭けるんなら、私は躊躇なく(今回は)映画化できない方に賭けます。こんなところで変に義理立てするようなファンではございませんから(笑)。


なお、今月、大西巨人の『五里霧』が 講談社文芸文庫に入り、解説を書いた鎌田哲哉が『IN・POCKET』2005年1月号の「もうひとつのあとがき」コーナーに、大西巨人のダイナモと題するエッセイを寄せております。ご存じでなければ、どうぞご確認下さいまし。



 ホランド

まあ、しばらくはどうなるかわからないが、フォローの方、よろしく頼むよ。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


危篤の父(3) 投稿者:園主  投稿日: 1月17日(月)04時41分12秒


 Keenさま

せっかくご復帰していただいたところですのに、おちつかなくて申し訳なく存じます。

父がどうなるのかはわかりませんが、いずれにしろ誰もがいずれは経験することですから、そう心配いただく必要はございません。それよりもKeenさまの方が、はやくお元気になってくださいまし(笑)。



 はらぴょんさま

> 笠井潔の『ヴァンパイヤー戦争7蛮族トゥトゥインガの逆襲』(講談社文庫)が刊行されましたが、今回の表紙を見て、なぜか荒俣宏の『地球暗黒記』(角川文庫、全3巻)を連想してしまいました。アフリカの密林に立つ美少女と、ハワイの密林に立つ美少女……。それだけの共通 点ですが。

これで美少女オンリーの表紙画が、3巻続きましたね(笑)。

それにしても『地球暗黒記』とは懐かしい。例によって読んではおりませんが、私もこの本は刊行当時に購入して所蔵しておりますよ。
そういえば、『地球暗黒記』の装丁画も、角川文庫版『ヴァンパイヤー戦争』と同様、天野喜孝でございましたよね。また、荒俣宏の代表作『帝都物語』の文庫版の装丁は何度か変わりましたものの、天野喜孝が(途中まで?)担当したこともあったと記憶いたします。ま、それほど、当時、天野喜孝は売れっ子で、伝奇アクションと言えば天野喜孝という感じだったのかも知れません。――そうそう、講談社文庫版『江戸川乱歩全集』の装丁画も天野喜孝でございましたが、聞くところによると、天野は特に乱歩ファンというわけでもなく、小説も読まずにイラストを描いていたそうでございます。

今度『帝都物語』が再文庫化される際は、『ヴァンパイヤー戦争』にならって、武内崇さんに描いてもらうことになるかもしれませんね。しかし、武内さんの加藤保憲ってのは……。また、『帝都物語』の表紙画が、美少女ばっかりというのも、なんだかまずい気がいたします(笑)。

> 矢吹駆の構想段階では、<明日香(アスカ)>や<矢吹志駆摩(シグマ)>だったことがあるということです。

今さらながら、笠井潔のネーミングセンスには唸らされますね(笑)。

> <明日香(アスカ)>と<ムラキ>が、矢吹駆であることは、『瀕死の王』より前から設定されていたことなのです。

この表現は適切ではないと存じます。つまり、当初から矢吹駆とムラキが「同一人物」だと設定されていたかどうかは、疑わしいのではないでしょうか。

たしかに、矢吹駆とムラキは「パラレルな関係」にあるとは思いますが、果 たして最初から「同一人物」と設定されていたのかどうか?
例えば、矢吹駆とムラキが同一人物だとすると、「矢吹駆シリーズ」の世界と『ヴァンパイヤー戦争』などの「コムレ・サーガ」の世界も「同一」ということになってしまいます。しかし、そうだとすると、そもそも初期「矢吹駆」3部作の世界は、矛盾なく成立するのか? 吸血鬼や超能力者が跋扈する世界において、あのオーソドックスな本格ミステリの世界が成立しうるのだろうか? 矢吹駆の「現象学的本質直観による推理」のその依って立つ世界とは、そんな世界だっただろうか? ――とそういうことなのでございます。単純な話、「首切り殺人」とか「密室殺人」なども、吸血鬼や不死者や超能力者が存在していたのでは、ああいう推理は成り立たないのではないでしょうか? 

そうしたことから私は、「矢吹駆シリーズ」の世界と『ヴァンパイヤー戦争』などの「コムレ・サーガ」の世界は、酷似した別 の世界(=パラレルワールド)であり、矢吹駆とムラキは「同一人物」ではなく、「パラレルな関係」にある、と考えるのが順当だと思うのでございます。

つまり、笠井潔自身も、当初は2つの世界を、パラレルなものとして「設定」していた。しかし、いまや笠井潔は、作家の晩年にありがちな欲望にとり憑かれ『自分の小説作品を全部つなげて、一大笠井ワールドを構成しよう』と、個々の(シリーズの)作品世界を破綻させかねない、無理なつなげ方をしようとしているのではないかと、私は斯様に危惧しているのでございます。





( 以下は「危篤の父(4)」につづく)


危篤の父(2) 投稿者:園主  投稿日: 1月17日(月)04時40分10秒


今、私はかなり冷静と申しますか、父が死線を彷徨っているという実感がほとんど湧いていないように感じられる状態でございます。頭では状況を理解しているのでございますが、どうもそれに応じた感情が湧いてこない。これはたぶん、無意識にそういう感情を押さえている部分があるのと、あとは父のことよりも、もしかすると後に残されることになる母のことが心配で可哀想で、父の方に感情が向かないのかも知れません。


ともあれ、私としては状況がゆるす限り、このサイトと「花園」は、これまでどおりに続けていくつもりでございます。ですが、ことによると、しばらくは活動停止状態になるかも知れませんので、あらかじめご報告させていただきました。その点、あしからずご了承くださいまし。

なお、みなさまにあっては、今回のことについて、あまりお気づかいなく、これまでどおりにやっていただきたいと存じます。たとえば、こんなときにマンガの話をするのは気が引けるとか、そういう遠慮は無用に願います。むしろ私としては、みなさまがいつもどおりの書き込みをして下さった方が、励まされるのでございますから。

なお、私も父が危篤状態だからといって、書き込みを控えるつもりはございません。物理的に書き込めない状態になれば致し方ございませんが、時間的・心理的に可能な状態であれば、いつもどおりの書き込みをさせていただくつもりでございます。

私が今こうして書き込みをするのは、あるいは一種の実験なのかも知れません。私にとって書くこととはどういうことなのか、それを自分に試しているように存じます。そしてまた、今ここに書き込みをしておくことは、将来の私のために残す記録でもございましょう。今の自分にはわからない今の自分の状態を、将来の自分のために残しておきたいとも思っているのでございます。

私の、頭の中では、いろんな思いが錯綜しておりますが、それをひとつひとつ書いていては切りがございませんので、この件については、今日のところはこのくらいに止めておこうと存じます。また、状況が落ち着きましたら、その段階でおいおいご報告できるものとも存じます。

なお、何もなくとも遅れていた年賀状が、これで決定的に遅れることになってしまいました。それでも状況がおちつけば寒中見舞いとしてでも出したいとは思っているのでございますが、出せない場合は(誰よりも私自身が残念なのですが)悪しからずご勘弁下さいまし。





( 以下は「危篤の父(3)」につづく)


危篤の父(1) 投稿者:園主  投稿日: 1月17日(月)04時39分2秒

みなさま、あまり驚かないでいただきたいのでございますが、今月14日の夕刻、私と同居している74歳の父親が、急性心筋梗塞で倒れ、現在、救急病院の集中治療室で治療をうけております。

救急車で病院へ運ばれた際、病院のエレベーターの中でいったん心臓が停止いたしましたので、ただちに外付けの人工心肺を取り付けた上で、心臓の冠動脈につまった血の塊を除去し、腿から動脈に挿入したカテーテルの風船により血管が細くなっている部分を押し広げて、血流を確保する手術を行いました。手術により一命は取り留めたものの、一時、血流がストップした為に左心室が相当ダメージをうけており、現在心臓は通 常の3割程度しか機能しておらず充分な血圧が保てない状態で、人工心臓によって血流を確保しております。しかし、この人工心肺と、もうひとつ取り付けられている心臓を補助する機械(名称不詳)は、救命のための短期決戦的な使用を目的としたもので、長く使用すれば合併症などをひき起す可能性が高く、できれば3日ほどではずしたいとの医師の説明だったのですが、ダメージをうけた心臓の回復が充分ではなく、本日はどちらもはずせなかった、とのことでございました。
また、心臓が停止していた間は血流も停止しておりますので、その間に脳がどれだけダメージをうけたのかも心配なところなのでございますが、ひとまず現在は生命を維持するだけの心肺機能の回復が先決問題であり、そのために父は薬で眠らされておりますので、脳のダメージについては確認できない状態なのでございます。

正直申しまして、救急車に同乗した私は、病院へ向かう救急車のなかで「背中が痛い」と悶え苦しんでいた父が、病院に着いたあたりで急におとなしくなった際、これは危ないと思い、すぐに救急隊員が(符丁だったかも知れませんが)心停止というようなことをもう一人の隊員に告げた時に、ああもうダメかも知れないと覚悟をいたしました。
いまのところ、父はいちおう生きてはおりますものの、まだまだまったく予断を許さない状態であり、仮に幸運にも心臓が人工心肺を取り外せるまでに回復したとしても、今度は脳や心臓などの後遺症の問題などがあり、この先どうなるものやら、まったく見当がつかない状態でございます。

ただ、今はすべてを医師の手に委ねて父の回復を祈るのみで、私にできることは何もございません。当然、会社は休んで、いつでも対応ができるようにしているのでございますが、父と同い歳の母を、家に独りで残しておくわけにもいきませんし、母には必要以上に心配をさせても仕方がないので、心臓がいったん止まったことは伏せ、手術は一応成功して一命はとりとめたものの予断を許さない状態が続いている、とだけ伝えております。そんなわけで、昨日今日(15、16日)は、私が病院へ父の様子を見に行き、それを家で待つ母に伝えに帰るのみの、ほとんど自宅待機状態で、どちらかと言えば、今は時間を持て余しており、母を不安にさせないように、一緒にテレビを見たりなどしております。





( 以下は「危篤の父(2)」につづく)


矢吹駆のキャラクター設定はいかに為されたか 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月15日(土)19時44分1秒

※『熾天使の夏』、『エディプスの市』、『ヴァンパイヤー戦争1』の内容に触れています。未読の方は、ご注意願います。
★Keenさまへ
『バイバイ、エンジェル』から始まる矢吹駆シリーズのキャラクター造形がいかに生まれたかについては、『熾天使の夏』(講談社文庫)、短編集『エディプスの市』第三部に収められた「超越へ」で知ることができます。
まず、『熾天使の夏』は主人公となる話者が、左翼ラディカリズムによってテロリズムに走り、現在植民地都市に逃れてきた人間という設定であるために、話者の名前は周到に消されていますが、一箇所だけ<カケル>と呼ばれる瞬間があります。この作品は、矢吹駆シリーズの第0作として出版されたため、読者はこの主人公が若き日の矢吹駆であることはわかっているわけですが。
『熾天使の夏』には「完璧な自殺それが問題だ。」というセリフが散見しますが、このあたりは大江健三郎の『われらの時代』(新潮文庫)を連想させます。また、「すべてよし」は、ドストエフスキーの『死霊』のキリーロフのセリフから来ていると考えられます。生硬で観念的な文体は、埴谷雄高等の実存主義系の文学の影響が顕著です。
『エディプスの市』第三部「超越へ」は、普通小説のかたちで、左翼テロリズムに帰結する思想の難問(アポリア)を描こうとした未完の作品ですが、この作品の主人公は<明日香>となっています。こちらの文体は、おそらくマルセル・プルーストの模倣だと思われます。
矢吹駆の構想段階では、<明日香(アスカ)>や<矢吹志駆摩(シグマ)>だったことがあるということです。
笠井潔は、当初、普通小説で左翼テロリズムの問題を描こうとし、挫折しています。彼は、探偵小説という様式化されたジャンルの形式でやっと、この問題を描くことに成功したのです。(本当は純文学でデビューしたかった人間だということです。)
後年、彼は、探偵小説という形式には、戦争中の大量死と戦後の大量生という生きる意味を奪われた時代に抗するという意味があるのだと考えるようになり、自分が探偵小説の分野に移動したのは、意味があったとしています。しかし、これは後知恵であり、実のところ、彼の探偵小説は、普通 小説の代用品として要請されただけのことです。
ちなみに、現在刊行されている『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)は、主題に沿った文芸作品を批評するというスタイルで書かれていますが、当初「観念論」というタイトルで構想されていた段階では、文芸評論ではなく、純然たる理論書を書く予定だったようです。
『ヴァンパイヤー戦争』の主人公、九鬼鴻三郎は、笠井潔が<黒木龍思>という名前で新左翼の活動をしていた頃の仲間の活動家ネームだそうです。『ヴァンパイヤー戦争』には、ムラキという元左翼テロリストが出てきます。ムラキの経歴は、矢吹駆とそっくりであり、ムラキの持っているレコードの枚数は、矢吹駆のそれと一致します。ムラキは、かつて自分が属した左翼ラディカリズムに対して、「反・観念」の立場をとっています。この「反・観念」の思想は、『テロルの現象学』で示された「集合観念」と同一であり、観念の内にあって観念自体を浄化する観念とされています。(この浄化とは、岡本太郎の言っていた芸術の「爆発」と同じことを指しています。どちらもバタイユの呪われた(過剰な)部分の蕩尽ということと重ね合わされた意味をもっています。)ムラキの行動的分身が、九鬼鴻三郎であり、九鬼鴻三郎がマッチョなのは「反・観念」だからです。
(しかし、マッチョは観念の外なので、九鬼鴻三郎は、『テロルの現象学』の思想を十全に表現しているわけではありません。笠井潔は、自著『テロルの現象学』における観念の内側から観念を浄化する点を強調し、形而上学に対し、内部から、形式化を徹底し、これを脱構築=ディコンストラクトするジャック・デリダや柄谷行人に相当する仕事を、マルクス主義に対してやっているのだと主張していましたが、その主張に反する安直な表現に走っていることになります。)
『ヴァンパイヤー戦争1』で、ムラキは吸血鬼に対する現象学的態度を示します。現象学という言葉を使用していませんが。吸血鬼は実在するのかどうかと迫る九鬼に対し、ムラキは実在するかどうかという問題をかっこでくくり、それがどうであろうと、吸血鬼がいるとして話を進めないと、現前する生命の危機を回避できないとします。ムラキは、思考法まで、矢吹駆なのです。
<明日香(アスカ)>と<ムラキ>が、矢吹駆であることは、『瀕死の王』より前から設定されていたことなのです。

http://d.hatena.ne.jp/dzogchen/


※「瀕死の王」ネタバレ注意! 投稿者:Keen@やや回復  投稿日: 1月15日(土)12時08分13秒

はらぴょんさん、先日立ち読みした『メフィスト』最新号の「瀕死の王」で、矢吹駆の本名が「アスカムラキ」だとハッキリ書かれていたのが、とても気になってます。
私は『ヴァンパイヤー戦争』は未読ですが、ムラキというのは、その作中人物なのですよね?笠井さんは、本当に自分の小説作品を全部つなげて、一大笠井ワールドを構成しようとしてるのかなあ……


雪。。。。。。 投稿者:AOI  投稿日: 1月15日(土)10時03分1秒

☆園主さま

>AOIさまが、どのような点で『映画化と聞いて、最初に名前が浮かんだのは澤井信一郎だったので、多少の衝撃とともに、大いに期待しています。』とおっしゃるのかわかりませんが、映画に詳しくない私が、澤井信一郎の経歴を見ますと「あまりぱっとしないな」と印象をうけるのでございます。

たしかにぱっとしませんね(笑)
なぜ、『映画化と聞いて、最初に名前が浮かんだのは澤井信一郎だった』のか自分でもよく分からないんです。澤井信一郎の映画は一本しか観ていないし・・・。
最初に浮かんだのが澤井信一郎で、でもそんなことはないだろうな。いわゆる社会派と言われる映画監督になるのじゃないか。と思ったんですけれど。
澤井信一郎の一本だけ観た映画というのは『野菊の墓』で伊藤左千夫の原作の映画化です。この映画、松田聖子主演で当時歌手として人気が出始めて、絶好調の松田聖子の人気を盛りたてよう、また、低迷な映画会社としては人気を当て込んだ映画つくりだったといえると思います。また、澤井信一郎が助監督から監督になったはじめての作品のようです。
松田聖子のファンだったわけでもないのに、なぜこの映画を観たのかといえば、映画好きの友人がこの映画がとてもいいという批評を目にして、誘われたからなんですが、期待して観たというわけではなかったけれど、これがよかったんです。情景も印象的で、古風のほどに真正面 から撮るというか、美しく哀しい映画でした。
松田聖子も下手なんだけれど一生懸命『民子』になりきっていた。まだ、15歳と17歳の親戚 同士のふたりの恋だとも意識しない関係が断ち切られてゆく哀しさが涙を誘いました。シナリオのよさということはあったのだろうと思います。
それで、なぜ、『映画化と聞いて、最初に名前が浮かんだのは澤井信一郎だった』のかということになるんですが、『神聖喜劇』の東堂と安芸の彼女とが『野菊の墓』の政夫と民子にスライドしてしまったからなのではないかと思うんですよ。おそらく。
全く状況はちがうけれど、時代に抗うことのできないまま、断ち切られてゆくふたり。
それしかないかなあとおもいます。

>つまり、総じて言えば『軍隊の内務班だけの三ヶ月、ドンパチがあるわけじゃない。そんな映画、誰が観るという声が聞こえてくる。』ような企画が実現するような、強力な推進要因がどこにも見当たらないのでございますね。

なんだか、園主さまの言われるものを読んでいたら、出版だけで映画化はないのかと思えてきますね(笑)。それはそれでしかたがないですが、でも私はやはり、映画化されるの方に賭けます(笑)。
『そんな映画、誰が観るという声が聞こえてくる』というのは自嘲的に言っているわけだし、観たいという人の存在は推進力(笑)
それに、大西さんに映画化の許諾までさせておいて、それはないんじゃないでしょうか。もちろん、そんなことはもとより無謀だと言われていたわけだし気にされないでしょうし、中途半端な作品はみたくないですけれどね。

それでは、これから、出かけます♪


コムレ・サーガをひっくり返す 投稿者:はらぴょん  投稿日: 1月14日(金)22時29分44秒

笠井潔の『ヴァンパイヤー戦争7蛮族トゥトゥインガの逆襲』(講談社文庫)が刊行されましたが、今回の表紙を見て、なぜか荒俣宏の『地球暗黒記』(角川文庫、全3巻)を連想してしまいました。アフリカの密林に立つ美少女と、ハワイの密林に立つ美少女……。それだけの共通 点ですが。
ところで、先日、時雨さまから『無底の王』の内容について質問がありましたが、残念ながらよく知らないのです。(知らないので、気になっているのです。)これは『SFマガジン』1995年2月号〜1996年2月号に掲載された伝奇SF小説で、コムレ・サーガに属する作品ということは確かなんですが、笠井潔の小説で雑誌掲載の段階からコンプリートしていたのは、『オイディプス症候群』だけで、この作品の掲載された『SFマガジン』は購入しておりません。それどころか、雑誌掲載の段階で読んでしまうと、単行本になったとき、有難味がなくなることを恐れ、あまり内容をチェックしておりませんでした。曖昧な記憶で申し訳ないのですが、この作品はコムレ教のダーク・サイドを描いていたように思います。少し本屋で立ち読みして、「おや?」と思った記憶があるのです。(このサイトをご覧の方で、当時の『SFマガジン』をお持ちの方、もしくはこの連載をしっかり読んでいたという方は、お教えください。たぶん、このサイトは笠井派の方もチェックされていると思いますので、是非ご教示を。)
笠井潔は『巨人伝説』・『ヴァンパイヤー戦争』等で、コムレ教を善玉として扱っています。ただ、そこに留まっていては「ウラ日本史観」になるという柄谷行人の批判があって、笠井潔も、当時、コムレ・サーガをもう一回ひっくり返す必要があることを認めていました。したがって、コムレ教ですら、テロリズムに転化する逆説を描く必要があるのです。ただ、くり返しますが『無底の王』の内容を、私はよく知りませんので、『無底の王』がそのねらいで書かれたものなのか、なんとも言えません。また、『瀕死の王』となんらかの関係があるのか(<王>シリーズ?)もわかりません。


もう1月半ば 投稿者:Keen@バテ☆  投稿日: 1月14日(金)17時49分16秒

皆さま、年末年始のご挨拶にも上がらず、失礼しました。
遅まきながら、今年もヨロシクです。

私、年末は例によって湯治に行ってたのですが、信州であの雪に見舞われては、さすがにちょっと焦りましたね〜、なんとかなりましたけど。
で、年明けにやられたウィルス性胃腸炎がまだスッキリせず、普通食が食べられません(泣)。あっさりしたものとリンゴ、ヨーグルト等でつないで生きてます。揚げ物なんか匂いだけでもたまらない〜☆
文章を書く気にもなれず……そのくせ、言葉は体内で渦巻いているような気もするという、情けない状態であります。
今日、病院で新しい薬を出してもらったので、これでいくらかでも楽になれればなあ、と思います。

ネット落ちに近いこの頃なので、もっと元気になったら、また書き込みに来ますね。


結晶化する精神(7) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)02時07分25秒


 DHCさま(つづき)

貴方さまが、ご自身おっしゃるように、なんら「隠さなければならない(ミステリ界との)関係」などもっていないと言うのなら、業界の裏情報にまで通 じる『ミステリーに造詣の深い知り合い』や、『このミステリーがすごい!』に読んでいない作品を投票した『ぼくの知り合い』の名前を明かしてご覧なさいまし。
貴方さまはご自身で、

> どこの誰とも知れないハンドルネームの人間が書いた情報を、どうして裏付けもなくそのまま採用することができるのですか?

とおっしゃってますが、当然のことながら、貴方のような方のおっしゃることを、私は鵜呑みにはしませんよ。
『双葉社』のことについては、仮にそういうことがあったとしても何ら問題ではない、と説明しただけのことで、『どこの誰とも知れない』貴方さまが信用できないのはもとより、貴方さまが、さも実在するかのように紹介なさっている「匿名」の二人の『知り合い』だって、その実在すら疑わしいと申せましょう。――実際この二人は、貴方さまの「分身」である可能性だって充分にあるのでございますからね(笑)。

ですから、貴方さまが、いくら、

> 十数人の回答者が、本も読まずに一票を入れたのだそうです。未読の本に投票した回答者に、編集者が直接電話で確認し、締切り日までに読めないのなら、他の作品に再投票するように迫った。ぼくの知り合いがその一人だったというのだから、この情報は真実です。

などと『真実』を訴えても、何の意味もございません。

読まずに投票したのが貴方ご自身だとか、誰某だと書かれているのならばともかく、『どこの誰とも知れない…人間』からの得たという『どこの誰とも知れない…人間』による情報を、どうして信じられましょう。貴方のおっしゃることは、自己矛盾だらけではございませんか。

時間がないので、今日はここまでにしておきますが、「ミステリ界との(隠さなくてはならないような)つながり」など無いとおっしゃるのであれば、次回は貴方の『知り合い』の名前をご紹介下さいまし。そうすれば、貴方がどの程度、ミステリ界に縁のある方かも、ハッキリいたしましょう。

次回は、他の点についても説明させていただきましょう。書かないと誤魔化したみたいに言われますからね。――もっとも、あんまり理詰めで追い詰めると、ますます正体を明かしていただけないであろうと予想される点が、ジレンマなのではございますが(笑)。



 ホランド

探してみたけど見つからなかったなあー。そもそも、そっちに貸してたっけ?





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


結晶化する精神(6) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)01時56分15秒


 DHCさま(つづき)

貴方さまは、

> ぼくが指摘したかった園主さんの欠陥部分なのです。サイトの評論文を読むと、せっかく良いことを論じているのに、肝心かなめなところで、非論理的で独断的な言動がちらほらとうかがえます。どんなに素材や立脚点がすばらしくても、料理の仕方が間違っていれば、できあがったものは不良品とならざるをえないでしょう。

と、私の非論理性を証明できたかのようなことをおっしゃっておりますが、それが可能なほど貴方さまが論理的でもなければ明晰でもないというのは、このように貴方さまご自身の文章に明らかでございます。

> 園主さんはぼくが指摘した
>> 自分の知っていることにはいろんな深読み、裏読みをするけど、自分の知らない情報については、それをありのままに受け取りすぎではないか?
> という言葉を無視して、情報の真偽のほどを問いただすこともなく、出版社の売り込みの正当性について論じた。どこの誰とも知れないハンドルネームの人間が書いた情報を、どうして裏付けもなくそのまま採用することができるのですか?

と鬼の首でもとったようなことをおっしゃっておられますが、私がそこを無視したのは、説明するまでもないと考えたからに他なりません。
『自分の知らない情報については、それをありのままに受け取りすぎではないか?』って、私は自分のよく知らないことについては、何の判断も下さないだけでございますよ。貴方さまは、「判断を下さない」ということと『ありのままに受け取』ることの区別 がついていないだけなのでございます。つまり、

> 問題にしている不公平感とは、園主さんのそういった態度です。詳細な分析(笠井関連の深読み)と、断定的で不確かな部分(『犯人に告ぐ』の評価が、『生首に聞いてみろ』や『暗黒館の殺人』への評価を圧倒しており、そういう票がこの作品に集まった結果 だということなのでございます。という独断)が玉石混交しているところです。

ここで貴方さまに『独断』だと断定なさっている、

> 『犯人に告ぐ』の評価が、『生首に聞いてみろ』や『暗黒館の殺人』への評価を圧倒しており、そういう票がこの作品に集まった結果 だということなのでございます。

という私の言葉は、私の『独断』でもなければ『断定』でもない。単なる、投票結果 としての「事実(=書店員の票が、『犯人に告ぐ』に集まって、他の作品を圧し、第一位 となった)」ではございませんか。これは、投票結果をみれば誰にでもわかることで、私の推理でも判断でも何でもないのでございます。私は事実を整理して報告しているだけですし、その内容の是非については何ら自己の判断を語ってはいないのでございます。それを『断定』だとか『独断』だとかおっしゃるので、何を寝ぼけたことを言っているのか、と相手にしなかっただけなのでございます。





( 以下は「結晶化する精神(7)」につづく)


結晶化する精神(5) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)01時54分37秒


 DHCさま

私は先日(1/5)、一般に「掲示板あらし」と認められるであろう(し、貴方さまもたぶん同様に認めるであろう)「いっちょがみ」さまについて、次のように書きました。

> 「掲示板荒らし」をするような方というのは、おおむね「文体」について無自覚であり、それはたいがい自分自身についての無自覚・無認識に発するものなのでございます。しかし、無自覚・無認識というものは、決して自身へのこだわりの無さからくるものではございません。むしろ、他者から充分に評価されていないと感じる「度しがたい自己執着」、つまり「自意識過剰」から来るものなのでございます。
> しかしまた、そのような方が、その虐げられた欲望のゆえに、人前に出られない(匿名)人間になってしまうというのは、何とも皮肉な逆説だと申せましょう。

と書きましたが、これは貴方さまにも、ぴったり当て嵌まります。例えば、貴方さまは、私に、

> 貴方さまはどういうおつもりで、どこの誰とも知れないハンドルネームをお使いなのでしょうか? もし、貴方さまがご自身の発言に責任を持つおつもりなら、どんな作家のファンで、どういうサークルに所属しているとか、どんな作家と面 識があるといったことくらい、書いても良いのではございませんか?

> こういう業界裏話に興味をもたれているからには、貴方さまもミステリ界やミステリ出版界とまったく無縁な人間ではないはずでございます。少なくとも、好きなミステリ作家の一人もいないというわけではないはず。

と尋ねられて、

> ぼくは二十代後半のゲーム制作関係者です。特に執着している作家はなく、どのサークルにも属してないし、作家との面 識もありません。

などと、トボケた回答をなさっておられます。

私は、貴方さまが、八百屋であろうと、アメリカ人であろうと、両親が健在であろうと、そんなことに興味はございませんし、そんなことを尋ねたのでもございません。
『貴方さまもミステリ界やミステリ出版界とまったく無縁な人間ではないはず』だから、そのあたりを明かせるものなら明かしてみせよ、と言ったのでございます。

結局、貴方さまは『ミステリ界やミステリ出版界とまったく無縁な人間』どころか、実際には、業界の裏情報にまで通 じる『ミステリーに造詣の深い知り合い』が身近にいたり、『このミステリーがすごい!』に読んでいない作品を投票した『ぼくの知り合い』がいたりします。――こういうのを世間では「ミステリ界やミステリ出版界と縁のある人間」と言うのでございますよ(笑)。

つまり、貴方さまはご自分が「第三者」的な立場から発言しているかのように見せ掛けたいがために、

> ぼくは二十代後半のゲーム制作関係者です。特に執着している作家はなく、どのサークルにも属してないし、作家との面 識もありません。

などと無意味なことを書いて誤魔化された。

しかし、自分の発言に信憑性を持たせようとしたために、間抜けにも「ミステリ界やミステリ出版界と縁のある人間」であることを自己暴露してしまったのでございます。





( 以下は「結晶化する精神(6)」につづく)


結晶化する精神(4) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)01時52分46秒

 時雨さま

> 白倉伸一郎『ヒーローと正義』

>> よく勉強なさっている方のようで、なかなか教えられるところが多かったのでざいますが、読み終えた時の印象は「思想家としては、どこか何かが足りない」というものでございました。

> 少し残念ですが、少しうなずける気もします。
> 「そもそもこの人はプロデューサーであり思想家ではない」とも思いましたが、園主様がおっしゃいたいことはそういったレベルのことではないのでしょうね。

私は、白倉がこの本を「テレビプロデューサーの余技」として書いたのではないと感じました。白倉もまた、そんな軽い気持ちで書いたつもりはございませんでしょう。ですから私は、この本を一人の思想家の「正義論」(の思想書)として読み、そのつもりで評価したのでございます。――そうでないと、白倉に失礼ではございませんか。

> これは推測ですが、僕が見てきた限り白倉氏の思想の根本には「日常の肯定」と「あらゆる他者の許容」が存在します。
> 一方園主様はご自身の確固とした価値観で物事を断じる所のある方ですから、その態度が中途半端に感じられたのではないでしょうか。

私にも「日常の肯定」と「あらゆる他者の許容」が存在いたします。ただ、「肯定」や「許容」が、そのまま『中途半端』に直結するものだとは思いません。私の感じたものは、白倉の「肯定」や「許容」が中途半端だったということのように存じます。

ただ、このように書いたからといって、私が白倉を評価していないということではございません。よく頑張っていると思えばこそ、思想家として評価したのでございます。

> 僕自身は内容についてより「ああ、こういう人だからあの作品が生まれてたのか」という納得が強かったです。
> ただ、この本は内容そのものよりもむしろ現職の特撮番組製作者が自分の仕事について真剣に考え、本にまとめ意見表明したということそのものが大きな意義を持つのではないでしょうか。

そう言っては、私より数等、残酷なのではないでしょうか?(笑)


>> そして、その安彦が表紙画・挿絵を描いていたせいで、高千穂遥の「クラッシャージョウ」そして「ダーティーペア」シリーズの読者にもなったのでございます(早川書房が主催していた「ダーティーペア」ファンクラブにも入会して、今もその会員証を持っておりますよ/笑)。

> す、すごい!凄すぎます!
> じゃあ、風に聞く「アニメ新世紀宣言」とかイデオン劇場版公開の騒動なんかもリアルタイムで見ていらっしゃったわけですか!?

そうでございますね。しかし、そうしたことは、同時代人にとっては、さほど凄いことのようには感じられないものでございます。

「アニメ新世紀宣言」などは「なんか、つまんないことやってるなあ」という感じで横目で見ておりましたし、『伝説巨神イデオン』の劇場版については、当時は「打ち切られたスタッフによる弔い合戦だった」などという内部事情は知らず、ただ当時たくさん公開されていた劇場用のアニメの一本という感覚しかございませんでした。ですから、私は前売りを買っておきながら、とうとう劇場へ行かなかったのでございます。――かの『発動篇』を劇場で観なかったのは、後に痛恨の極みとなったのでございますが……。

ちなみに、今でも印象に残っているのは、テレビで観た『発動篇』における、ユウキ・コスモの『こんな甲斐のない生き方なんて、俺はみとめないぞお!』という痛切な叫びでございます。

なお、時雨さまが持たれた「感じ」については、私にも類推することが可能でございます。例えば、時雨さまにとっての『「アニメ新世紀宣言」とかイデオン劇場版公開の騒動』などは、私にとっての「力石徹の葬式」にあたるのでございましょうね。
原作漫画で力石が死んだ際、講談社の主催で行われ、大勢のファンが参列したという、伝説の葬儀。――私は、それに参列したという方に、まだ直接会ったことはございませんが、もしそんな方と出会えたなら『す、すごい!凄すぎます!』と言うことでございましょう(笑)。





( 以下は「結晶化する精神(5)」につづく)


結晶化する精神(3) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)01時49分15秒


 AOIさま

> 日本映画の話が出ていたのでちょっとね。
> 園主さまは関心がないようですが、『神聖喜劇』のシナリオが出来、すでに出版されて、映画化は着々とすすんでいるようですね。監督は澤井信一郎。映画化と聞いて、最初に名前が浮かんだのは澤井信一郎だったので、多少の衝撃とともに、大いに期待しています。
> 大西さんは「無謀なことをする無謀な人たち」と笑顔で許諾されたとか。
> 映画によって、新たに何かがつけ加わることはもちろんないけれど、『神聖喜劇』がどのように映画化されるのかということには大いに興味があります。
> 映画好きでもある大西さんが出来上がった映画をどのように評価されるのかというのも(笑)。

ご承知のとおり、私は映画化については特に興味はないのですが、映画化されるのが嫌だとかいうこともございませんし、映画になれば観に行くことでございましょう。ただ、現実問題として、映画化は難しいのではないかと存じます。

先日購入した『シナリオ 神聖喜劇』(原作 大西巨人・脚本 荒井晴彦・太田出版)の、荒井晴彦による「あとがき」に寄りますと、

『 二年前の十一月、『昭和の劇 映画脚本家笠原和夫』の「お疲れ」の席で、高橋幸途さんが、笠原さんは庶民の側から戦争を描いたけれど、荒井さん、インテリの側からやってみませんかと言った。何ですか、それと訊くと、『神聖喜劇』をシナリオにしませんかと言う。まず出版、それから映画ということでいかがでしょう。高瀬さん、大西巨人の本を作りたいんだなと思った。映画化はおまけかも知れない。しかし、今の映画界からは絶対に出てこない企画だ。軍隊の内務班だけの三ヶ月、ドンパチがあるわけじゃない。そんな映画、誰が観るという声が聞こえてくる。私は、原作を読んでもいないのに引き受ける気になっていた。』

この経緯からも明らかなとおり、このシナリオは映画化の話が持ち上がり、それが企画として進行する過程で書かれたものではなく、まずは出版を目的として書かれたものなのでございますね。

『 俺の仕事は短くすることだと居直るしかなかった。引用を捨て、時制の錯綜を時系列に直す作業を始める。(中略)四百字詰めで三千枚。千九百枚になったのが去年の九月三十日。二十九日に千六百、十月十五日に千二百五十、十一月十日に千百五十、十二月、千百枚を持って行くと、六百枚にして下さいと高瀬さん。キレそうになった。
 酒場で、ある編集者に『神聖喜劇』のダイジェスト版なんてナンセンスだよと言われ、へこんだ。私は監督が無断で私のシナリオを改竄することに怒ってきた。それなのに、今、私は大西さんが二十五年かけて書いた四千七百枚を切ったり貼ったりしている。とんでもないことだと思う。大西さんが読んだら激怒するに違いない。出版停止になるかもしれない。しかし、観客を気にしなくていい仕事は楽しいとも思い始めていた。
 五月に九百五十、六月十一日に八百五十枚で入稿。0稿ゲラで何枚切れたのだろうか。注を作り始め、初稿ゲラで「剃毛」を復活。三校を戻したのは十一月十一日だった。
   (中略)
 このままだと十二時間の映画だ。更なる野蛮な作業を思って暗澹となる。』

つまり、まだ四分の一の長さにまで縮めなければならないということでございます。これだけでも、そうとう無理のある話でございますし、さらに私が心配するのは、荒井晴彦が監督に指名したという澤井信一郎。
AOIさまが、どのような点で『映画化と聞いて、最初に名前が浮かんだのは澤井信一郎だったので、多少の衝撃とともに、大いに期待しています。』とおっしゃるのかわかりませんが、映画に詳しくない私が、澤井信一郎の経歴を見ますと「あまりぱっとしないな」と印象をうけるのでございます。

つまり、総じて言えば『軍隊の内務班だけの三ヶ月、ドンパチがあるわけじゃない。そんな映画、誰が観るという声が聞こえてくる。』ような企画が実現するような、強力な推進要因がどこにも見当たらないのでございますね。

まあ、私は映画化にこだわっておりませんから、結果はどちらでも良いのでございますが、AOIさまが澤井信一郎を評価する理由を、ご教示願えれば幸いでございます。





( 以下は「結晶化する精神(4)」につづく)


結晶化する精神(2) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)01時48分17秒


 はらぴょんさま

> 齋藤さんの文章を読みながら考えたことは、例えば笠井さんが『天使/黙示/薔薇』(矢吹駆初期三部作)と『テロルの現象学』だけを書いただけで夭折していれば、埴谷雄高・中井英夫らの系譜に立つマイナーな作家として評価することも可能だったのかも知れませんが、現在のポジションはそれとは正反対の本格ミステリ界のインサイダーであり、理論を用いて本格ミステリ界を組織化しておこうという立場であり、権力として機能してしまっているということです。

齋藤慎爾が笠井潔を引用するのは、おっしゃるとおり笠井潔に『埴谷雄高・中井英夫らの系譜に立つ』作家であることを期待したことがあったということでしょうし、今の笠井潔がダメだとしても、それで過去の文業がまったくの無価値になるとは考えなかったからでございましょう。

たしかに笠井潔は、小説であれ評論であれ、それなりに面白いものを書いておりますし、その部分はただしく評価されるべきでございましょう。また事実その部分は、現在のミステリ界でも評価されておりますし、見てのとおり齋藤慎爾だって評価しております。ですからこそ、問題となるのは「誰も触れたがらない、笠井潔の現状」なのでございましょうね。

ご承知のとおり、齋藤慎爾は、評論家であり歌人であり編集者でございます。そして、そんな齋藤慎爾の批評は、笠井潔への評価にも表われておりますとおり、多分に「編集者」的なものだと申しましょう。つまり、「見せたいところだけ」を切り抜き、見栄えよく並べかえた上で見せるという「編集」がなされており、「その本質を剔抉し、現状を正確に映しだすもの、ではない」ということなのでございます。

齋藤慎爾は、綾辻行人も評価していたと記憶しておりますが、この二人に共通 するのは「見たいものしか見ない(見られない)」という弱さなのでございましょう。
先日も書きましたとおり、私は綾辻行人の新作『暗黒館の殺人』に、綾辻の自己防衛的(=自己賛美的)なものを感じておりますが、私は同様のものを、北村薫の『朝霧』(創元推理文庫)に対する、齋藤慎爾の解説に感じさせられました。
私とて、二人が、人間的には良い人であり、それなりに才能のある人だというのを認めるに吝かではございません。ただ、一般 的な「人柄」や「才気」だけでは、人間は衰えゆく自己の現実を直視することなど、どだい不可能なのでございましょう。そしてその典型が、二人がそろって評価する、笠井潔その人なのでございます。



 賢ちゃん

こないだはご苦労さんでした。
それにしても、そろそろ新曲を開拓しないと、ちょっとマンネリ化してきたなあ……。

>  入手したいものを入手してしまうと、ちょっと気が抜けます(苦笑)。

たしかにね。手に入れた瞬間が一番うれしんであって、その後はもうどおってことはない。つまり、結婚と同じようなものだ――なんてことを、独身男が言っても、あまり説得力は無いんだが(笑)。

> 今は、TV番組の『相棒』に夢中です。
> 水谷豊の、話し方が耳に心地よいんです。
> あ、勿論番組の内容も好きですけどね。

ああ、あの2週1話でやっている刑事ドラマだね。なんどか見たけど、なかなか力の入った番組だと思ったよ。水谷豊は、いつもどおり水谷豊だったけど、それで納得させるところが、彼の魅力だろうな。ただ、もうすこし茶目っ気のある芝居の方が、好みではあるんだけど。





( 以下は「結晶化する精神(3)」につづく)


結晶化する精神(1) 投稿者:園主  投稿日: 1月14日(金)01時47分30秒

みなさま、私、昨日は、最近文庫落ちした澁澤龍彦のエッセイ集『夢のある部屋』(河出文庫)を読んだのでございますが、このエッセイ集、全体に感心しないものが多いように感じられました。この文庫本は、1973年に刊行された単行本に、文庫未収録の短編エッセイを増補したものでございますが、1928年生れの澁澤が、四十代前半の男盛りに書いたもののせいか、妙な「力こぶ」がしばしば感じられ、晩年の悠揚迫らざる魅力が感じられなかったのでございます。
もちろんこれは、私が澁澤晩年のエッセイや小説のファンだからで、当然この時期のものに魅力を感じる読者も大勢おりましょう。ただ、私がこのことから感じたのは「澁澤龍彦も、最初から(=若い頃から)澁澤龍彦(=高丘親王)だったわけではないんだな」――つまり、彼もまた、歳を重ねるごとに自分を練り上げたいった人間だったんだな、ということなのでございます。

こう思えるのは、私が歳をとって、一種カリスマ的な存在であった澁澤龍彦を、相対化できるようになったからでございましょう。もし若い頃にこのエッセイ集を読んでいたなら、なぜそこに「澁澤龍彦らしさ」が感じられないのかがわからず、きっと単に「面 白くない」と思ったことでございましょうね。

人間は、多かれ少なかれ誰でも、いずれは枯れてくるものでございます。いまだに重厚さを失わない、かの大西巨人でさえ、やはり若い頃の作品にくらべれば、どこかある種の「枯れた味わい」を漂わせております。
澁澤龍彦や大西巨人あるいは中井英夫といった作家に惹かれる私は、もとより枯れた作風の作家が好きなわけではなく、むしろ個性の強い、「濃い」作家こそが好きなのだと申せましょう。しかし、そういうエネルギーがあり余って沸々と煮えたぎっているような作家の、全盛期における怪物的な作品が魅力的なのはもちろんのこと、そういう作家が「枯れ」て研ぎ澄まされてきた時の「晩年の魅力」というのも、またたいへん貴重なものと感じられるのでございます。
初めから「薄味」の水ぶくれ作家が枯れれば、単に「スカスカ」になってしまうだけでございますが、澁澤龍彦や大西巨人といった作家は、その晩年において「枯れる」と言うよりも「結晶化」を見せるのでございましょう。加齢によって何かが失われるのではなく、凝縮し、その純度を増していったのでございます。

そして澁澤龍彦が結晶化の果てに辿り着いたのは、「枯れる」という言葉とは正反対とも言える、無心に戯れる「童子」の境地だったのだと、私は斯様に感じるのでございます。





( 以下は「結晶化する精神(2)」につづく)


余計なお世話でした 投稿者:DHC  投稿日: 1月13日(木)16時29分41秒

ぼくは二十代後半のゲーム制作関係者です。特に執着している作家はなく、どのサークルにも属してないし、作家との面 識もありません。ぼくは基本的に小説もゲームも芸術品ではなく、商品だと考えています。だから、笠井さんが仲間の本の売り込みに業界内での自分の権力を行使したとしても構いません。本を買うときの目安は権威者の推薦文や受賞作品といった付加価値ではなく、本の内容だからです。選択の失敗もありますが、どんな愚作でも金額分の娯楽を与えてくれれば、それでOKです。
園主さんの考えと異なり、本の提供者という意味でぼくにとっては、編集者や書店員も作家と同列な存在です。よって、笠井さんたちを批判する必要性を感じていません。前の投稿の趣旨は、出版社を批判しているのではなく、園主さんが双葉社の件を知らないようだったから情報を提供し、園主さんの弱点だと思われる面 を指摘しただけのことです。ぼくの目的は掲示板荒らしではなく、園主さんへの建設的なアドバイスのつもりでした。でも、レスから判断して、どうやら余計なお世話だったようですね。
初投稿に関して、ぼくが園主さんに期待した反応は、まず第一に、双葉社についての情報が正しいかどうかを確認するため、ぼくに情報源を問いただすことでした。でも、園主さんはぼくが指摘した
>自分の知っていることにはいろんな深読み、裏読みをするけど、自分の知らない情報については、それをありのままに受け取りすぎではないか?
という言葉を無視して、情報の真偽のほどを問いただすこともなく、出版社の売り込みの正当性について論じた。どこの誰とも知れないハンドルネームの人間が書いた情報を、どうして裏付けもなくそのまま採用することができるのですか?
問題にしている不公平感とは、園主さんのそういった態度です。詳細な分析(笠井関連の深読み)と、断定的で不確かな部分(『犯人に告ぐ』の評価が、『生首に聞いてみろ』や『暗黒館の殺人』への評価を圧倒しており、そういう票がこの作品に集まった結果 だということなのでございます。という独断)が玉石混交しているところです。第一、書店員や他社の編集者の間で話題になったのは、作品への評価ではなく、双葉社の売り込み方に関してだったのです。
こういった点こそ、ぼくが指摘したかった園主さんの欠陥部分なのです。サイトの評論文を読むと、せっかく良いことを論じているのに、肝心かなめなところで、非論理的で独断的な言動がちらほらとうかがえます。どんなに素材や立脚点がすばらしくても、料理の仕方が間違っていれば、できあがったものは不良品とならざるをえないでしょう。
ホランドさんの投稿の『このミス』の投票者たちへの事前配布に関して、ミステリーに造詣の深い知り合いに確認したところ、次のような返答をもらった。このミス編集部が白表紙本を配布したのは、前年の『暗闇坂の人喰いの木』がアンケート対象の十月末の発刊日にもかかわらず、実物が書店に並んだのが十一月中旬以降で、初旬の締切りに間に合わないと考えた十数人の回答者が、本も読まずに一票を入れたのだそうです。未読の本に投票した回答者に、編集者が直接電話で確認し、締切り日までに読めないのなら、他の作品に再投票するように迫った。ぼくの知り合いがその一人だったというのだから、この情報は真実です。この問題を踏まえて翌年、編集部が講談社に参加したかったら発刊日を守るか、無理なら島田本を事前配布するように求めたのが事の真相です。よって、園主さんが一番に責めるべき相手は、前年に読んでもいない島田本に投票した一部の回答者たちです。園主さんはこれをご存知でしたか? 園主さんの批判文は未見ですけど、ホランドさんの要旨から判断して、この真相を知っていたら論点が異なっていたのではありませんか?
ぼくはネットで双葉社の件を知りましたが、活字では大型書店の売上ベストテンにも入ったロッキング・オン社の『日本一怖い! ブック・オブ・ザ・イヤー2005』で、大森望さんが詳しく触れています。


インターミッション(2) 投稿者:時雨  投稿日: 1月13日(木)03時09分39秒

>はらぴょん様

お久しぶりです。今年もよろしくお願いいたします。

>TYPE-MOONによる全面的なバック・アップ体制により、毎回、武内崇さんのイラストを文庫のカバーにつけ、あたかもライトノベルであるかのように、とらのあなをはじめとするアニメ・ショップに文庫を置くことにより、新規読者の開拓を図ろうとしているわけですが、その割には「『ヴァンパイヤー戦争』って凄いね」なんて声は聞いたことがありません。

そうですね、僕がたまに見るTYPE−MOONのファンサイトでも随分前の日記で「『ヴァンパイヤー戦争』買いました。読んだら感想アップします」って日記に書いて、それっきりだし。

ところで『無底の王』というのはどういった作品なのですか?
笠井氏の作品でオウムというと『天啓の宴』が浮かびますが・・・
よろしければもう少し詳しく教えていただけないでしょうか。

>ホランド様

>あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!

こちらこそ、よろしくお願いいたします。

>手相とか人相とか、占う相手(=被占者)を前にしての占いっていうのは、人間観察力の問題って部分があるんでしょうね。で、それは訓練による部分もあるんでしょうが、持って生まれた感受性みたいなものが大きいんじゃないかと思います。

確かにそれはありますね。占い師同士でもやり方はぜんぜん違いますし。
実際僕なんか完全に直感だけでやってますし。

>わあ〜っ、ずるいなあー。・・・どうせなら2冊買って、ボクにプレゼントするとか、そこまでやってくれたら「やるなあー」って、感心されることになるのに(←犯罪教唆?)。

さ、さすがにそこまでは・・・うちの予算も結構厳しいので。

>――で、なに部なんですか? もしかして「占い研究部」???

いえ、実は「心理学研究会」です。まあ、心理学のことなんて全然やってないんですけどね。

>観察力のある人なら、ある程度は直観的に面接相手の傾向を把握できるし、いくつかの試問をすれば大体の方向性も見えてくる。それにそってある程度の幅をもたせた回答をすれば、後は被占者の方がかってに「思い当たる節」を自分の中から探し出してくれる――って、そんな感じじゃないのかな

これに関してはまったく同感です。
しかし、基本的にはその通りだと思うんですが・・・
「付き合っていた女性が年下だった」とか結構細かい所まであたってしまうんですよ。
やるほうもちょっとゾクッとしますね。

>映画『ULTRAMAN』をご覧になったら、ボクの意見に惑わされず、率直なご感想をお聞かせ下さいね。ボクは『ネクサス』を見ていないんですが、見てる人なら、また違った評価もあり得るでしょうし。

実は近所の映画館を探したら『ULTRAMAN』は終わってしまっていて・・・
それで感想はDVDを見てからにいたします。すみません。

ところで『仮面ライダー響鬼』ですが、掲げている「完全新生」はあながちはったりではないと思いますよ。
平成仮面ライダーはプロデューサーの色が強く出るのですが、今回のプロデューサーは『仮面 ライダークウガ』の高寺氏。
この人は自分の意向をかなり強く出す方であがってきた脚本に駄目出しで真っ赤にし、ストーリーのためならスポンサーの玩具展開すら無視するというかなりの兵です。
そして実際の番組を作るスタッフ達も多少の入れ替わりはあれど「仮面ライダー」を作り続けてきたベテラン達。
これはかなり期待できそうですよ!

>古田さま

明けましておめでとうございます。
『閉じ箱』のご紹介ありがとうございます。在庫切れということですが・・・
実は我が家の近所には日本最大規模を誇るBOOK−OFF町田店があるのです!
というわけでそこに行けばきっと見つかるはずなので探してみます。

それでは皆様、今夜はこの辺で。重ねて今年もよろしくお願いいたします。


インターミッション(1) 投稿者:時雨  投稿日: 1月13日(木)03時08分56秒

やっと実家より帰ってこれました。
大学生は休みが長くて幸せです。

>園主様

>お忙しい中、わざわざ年の瀬のご挨拶をくださり、まことにありがとうございました。
>時雨さまとは、昨年からのおつきあいとなりましたが、末永くおつきあいくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

こちらこそよろしくお願いいたします。

>この本については、刊行直後に読ませていただいておりますよ(笑)。

なんと、もうお読みでしたか。

>よく勉強なさっている方のようで、なかなか教えられるところが多かったのでざいますが、読み終えた時の印象は「思想家としては、どこか何かが足りない」というものでございました。

少し残念ですが、少しうなずける気もします。
「そもそもこの人はプロデューサーであり思想家ではない」とも思いましたが、園主様がおっしゃいたいことはそういったレベルのことではないのでしょうね。
これは推測ですが、僕が見てきた限り白倉氏の思想の根本には「日常の肯定」と「あらゆる他者の許容」が存在します。
一方園主様はご自身の確固とした価値観で物事を断じる所のある方ですから、その態度が中途半端に感じられたのではないでしょうか。

僕自身は内容についてより「ああ、こういう人だからあの作品が生まれてたのか」という納得が強かったです。
ただ、この本は内容そのものよりもむしろ現職の特撮番組製作者が自分の仕事について真剣に考え、本にまとめ意見表明したということそのものが大きな意義を持つのではないでしょうか。

>ええ、忌憚のないご意見をお聞かせ下さいまし。
>つまらなければ「つまらない」とおっしゃってくださいね(笑)。
>ただし、できればどのようなところが、つまらないとか趣味にあわないとかご説明いただけると、たいへん有難く存じます。

わかりました!
とはいっても『虚無への供物』から読み始めていまだ第二章。何時の話になるかはわかりませんが・・・
もう少し待ってください!

>豊崎由美と組んだ『文学賞、メッタ斬り!』で読書界の話題をさらった大森望が、今度は三村美衣と新たにタッグを組んで『ライトノベル☆めった斬り!』(太田出版)という、機を見るに敏な本を刊行いたしましたが、この対談本のなかでも、『スレイヤーズ』『創竜伝』『ロードス島戦記』といった作品が、今日のライトノベルブーム確立期の代表的作品として取り上げられているようでございますね。

どれも僕にとってはかすかな痛みと郷愁を感じさせる名前です。

>時雨さまの場合、読書にかんして早熟だったということでございましょうし、京極夏彦や森博嗣にしても、ライトノベル的なものの洗礼を受けた後の作家であるというのは、否定できないところかと存じます。

うーん、まあ僕も知り合いに進められて読み始めたから偉そうな事は言えないんですよね。
だから早熟なのは僕ではなくその薦めてくれたやつなんですけどね。

>そして、その安彦が表紙画・挿絵を描いていたせいで、高千穂遥の「クラッシャージョウ」そして「ダーティーペア」シリーズの読者にもなったのでございます(早川書房が主催していた「ダーティーペア」ファンクラブにも入会して、今もその会員証を持っておりますよ/笑)。

す、すごい!凄すぎます!
じゃあ、風に聞く「アニメ新世紀宣言」とかイデオン劇場版公開の騒動なんかもリアルタイムで見ていらっしゃったわけですか!?

>ともあれ、若い時雨さまからは、現代の特撮や小説の話(に限らず)、その率直なご意見ご感想をお聞かせ願いとうございますし、そのかわりに爺は「神話的な時代」の話を聞かせて差し上げたいと存じます(笑)。

是非お願いします。歴史の勉強してるせいかどうかは知りませんが、こういうの大好きなんですよ。


目先の感情に囚われない知性(5) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月13日(木)01時36分19秒


 古田さま(続き)

> 『アメリカの階梯』についても書くつもりだったのですが、目下卒業論文と格闘中につき、ご容赦下さい。

 了解しました。卒論、頑張って下さいね!

 なお、ボクの印象を書かせていただきますと、帯に、

   『  進化とは何か、進歩とは何か、
      アメリカに象徴される現代文明とは何か。
      『アメリカの階梯』は
      常識が覆される修羅場だ。
             ――三浦雅士    』

なんて書いてあるわりには、わりあい普通な印象をうけました。

 ボクの印象に残ったのは、ワシントン博士の「自負に由来する偏見」と、それが実は「劣等感」に由来するものだったという点です。

 人間にとっての「進歩とは何か」という難問はさておくとして、一般に「白人種が、現代文明をここまで進歩させてきた」というのは、衆目の一致するところでしょう。これを「否定できない事実」と言い換えてもかまいません。ただ、だから「白人が優れている」とか「これからも世界をリードする(役目を担っている)」なんて保証はどこにもありません。「今までがそうだから、これからもそうだ」なんて考え方は、ぜんぜん論理的ではない。でも、ワシントン博士に代表される白人種、そしてアメリカ人は、そんな偏見を捨てられないでいるようなんですね。
 エドワード・サイードが分析したように、ヨーロッパ・アメリカの白人は、東洋(オリエント)を「遅れた地域」であり「自分たちが導いてやらなければ、自分たちでは成長できない地域(=人間)」だと考えました。それはアメリカがイラクに戦争を仕掛けた時の、後づけの言い訳である「イラクに自由と民主主義をもたらす戦争」という言葉にも如実に表われています。

 ボクにしてみれば、本当の「自負」を持っている人(=個人)なら、「今までは我々が世界をリードしてきたけど、それは我々が人種的に優れていたということを、意味したり保証したりするものではない。それは、論理的に考えれば自明のことだ」と認めることができたはずだ、と思うんですよね。それができないというのは、結局、本当の「自信=自負」をその人(個人)が持ちえなかったということですし、だから「優性人種という観念」にすがらざるを得なかったということなんでしょう。それは、この作品では、ワシントン博士の「出自に関する劣等感」によって明らかにされます。

 で、これはワシントン博士によって象徴された「理想的なアメリカ」についても、同じなんでしょうね。彼らの理想主義は、どこかで劣等感に発している部分が無くもない。だから、おかしな歪みや極端さが出てくるんでしょう。これは、アメリカ以前の「帝国」であるイギリスやフランスだって同じで、どうして彼らが「東洋」を見下したのかと言えば、それは東洋に「魅せられたから」なのかも知れません。自分たちに無いもの、例えば「悠久の歴史」に由来する「駘蕩たる文化」に、西洋にない魅力を感じたからこそ、それを「遅れたもの」としなければ安心できなかったのでしょう。

 「進歩」とは、何を「理想」とすべきかで自ずと変わってくるものだから、ある種の「変化」を「進歩」と名指すのは、本来、容易なことではないはずです。ただ、作中にも語られているとおり「より多くの人の幸福」を目指すという理念は、間違いではないと思います。そこで問題なのは「人間を幸福にするもの」とは何なのか、という点ですね。それが現在の超資本主義の世界では、あまりにもなおざりにされ過ぎていると思います。



 園主さま

 『僕の叔父さん網野善彦』、どうしても見つかりません。お手数ですが、もう一度そちらも探してみていただけませんか。ダメなら、こちらで買うことにしますので・・・(T_T)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。

 

目先の感情に囚われない知性(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 1月13日(木)01時31分13秒


 古田さま(続き)

 例えば、「生まれてこなかった方が良かった」ような人生の存在を否定するのであれば、そんな人生を生きる人を殺し、その苦しみに満ちた人生を終らせてやるのが、論理的に正しい「慈悲の行為」ということになるのか。それとも、それこそが「ニヒリズム」なのか。
  少なくとも、山下和美はそれを「慈悲の行為」だとはしません。それこそが「ニヒリズム」だと感じるから、どのような人生であれ、その事実は根底において肯定するんじゃないでしょうか。たとえそれが、ヒトラーのような大量 虐殺者や奈良の幼児殺害者のような人生であったとしても、です。

 もちろん山下和美は、ヒトラーや奈良の幼児殺害者の「やったこと」を好ましいことだと評価(=肯定)しているわけではありません。当然ですが、そんな人生でなければそれに越したことはないと思っているはずです。しかし、現実には、そんなことをせざるをえない人も存在するでしょうし、彼を社会に適応した人間に作りかえることも出来ないかも知れません。ではその場合、そんな人は、存在しない方が良いのでしょうか?
 生まれてくる子供たちは、将来、マザーテレサのような人になるかも知れないし、サイコパスだなんて呼ばれる殺人鬼になるのかも知れません。しかし、それでも彼らの誕生は祝福されるべきだし、すべての過去の「存在」も、やはり祝福されるべきなんではないでしょうか。――くり返しますが、これはすべての「過去の事件・行為」を肯定するということではありません。まず、良いことも悪いことも、喜ばしいことも悲惨な出来事もすべて引っ括めて存在する(存在せざるを得ない)この「世界」という「存在そのもの」は肯定せざるをえないということなんじゃないでしょうか。

 じっさい、この世界で、豊かな生活を送っている人と、悲惨な生活を送っている人を、「数」の上で比較すれば、後者の方が圧倒的に多いでしょう。一人の人生においても「愉しい時期」よりも「苦しい時期」の方が多いというのが普通 なんじゃないでしょうか。そうした場合、「この世界なんか無くなってしまえばいい」「人間なんか滅んだ方が、人間のためだ」ということにはならないでしょうか?

 ボクは、山下和美の根底にあるのは、こうした「論理的なニヒリズム」を否定する「存在の全肯定」だと思うんですね。だから、「末次家の三人」が「過去の歴史」を全肯定していると捉えるのは、たぶん誤読だと思います。ただ、そのように取られかねない、舌たらずな作品であったという印象はありました。一度『不思議な少年』第1巻第1話の「万作と猶治郎」を読んでみて下さい。すこし印象が変わるかも知れません。





( 以下は「目先の感情に囚われない知性(5)」につづく)


目先の感情に囚われない知性(3) 投稿者:ホランド<