●●● BSS『アレクセイの花園』バックログ ●●●


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慇懃無礼と傍若無人 投稿者:園主  投稿日: 2月10日(木)22時34分45秒

みなさま、掲示板トップの「広告」にございますとおり、『teacup.レンタル掲示板のシステム移行作業』が、2005年2月14日〜2月末の期間中に、随時行われるそうでございます。
みなさまにお知らせしておくべき点は、

『移行作業中も掲示板は通常通り使用することが出来ますが、ごく稀に投稿エラーが生じる場合がございます。/その場合は、お手数ですが、再度投稿をして頂きますようお願い申し上げます。』

レンタルBBSシステム移行のお知らせ2月10日より

という一点のみでございます。

それにしても、「広告」の入らないのが「売り」のひとつである有料掲示板に対しても、このように一律に、デザイン無視の「広告」など、勝手に掲載しないでもらいたいものでございます。
管理人へはメールで知らせることが可能ですし、『投稿エラーが生じる場合』など、もともと、システムの移行作業が行われていない平素でも、『ごく稀に』はあることなのでございますから。
ともあれ、こうしたところにも、teacup.という会社の体質が、図らずも覗いていると申せましょう。





 時雨さま

> 遅れましたが、お父様のことお悔やみ申し上げます。

ありがとうございます。


> 葬式について感じられたものに対しては同感です。葬式というのは、本来「死者との別 れの儀式」であるはずですが、僕には「死の痛みを紛らわす作業」のように感じられました。

そうでございますね。ホランドくんが指摘していた点への配慮は必要でございますが、私に言わせれば『死の痛みを紛らわす作業』とすら思えない、それ以下の「義務としての葬儀」や「見栄としての葬儀」が多すぎるように存じます。

父の葬式では、香典の受け取りも遠慮しましたし、記帳すら行いませんでした。誰が来て誰が来なかったかなんて、問題ではないからでございます。誰がどのくらい本気で父のことを悼んだかは、来る来ないに関係なく、誰よりも父と追悼者本人が一番よく知っているはずで、義理だけで参加することも少なくない、通 夜や葬儀の参列者名簿を作ることなど、まったく無意味だと考えたのでございます。

そのほか、私を苛立たせたのは、葬儀会場に流された「いかにも」なBGM、葬儀の箔付けにしかならない面 識もない(肩書き上)偉い人からの弔電、その弔電の紹介を肩書き順にしてほしいという葬儀屋の説明などでございます。
こういうことに私はいちいち腹を立てていたのでございますが、それらにいちいち文句をつけていたのでは母も困るでしょうから、このあたりについては妥協いたしました。本当は、焼香順なんてものもくだらないと思ったのでございますが。

まあ、それやこれやへのささやかな抵抗として私が実行したのは、葬儀の直前まで、喪主の私が葬儀会場で、首をうなだれて―― 文庫本を読んでいたということでございます(笑)。
本当は最近買った『本棚探偵の冒険』(喜国雅彦・双葉文庫)を読みたかったのですが、喪服の内ポケットに入れておくには、すこし分厚すぎたので、しかたなく澁澤龍彦の『ヨーロッパの乳房』(河出文庫)で妥協することにいたしました。

> それに、「死」というも似さえ金勘定が関わってくるのもどうもいい気分にはなれないし・・・

結局、葬儀代は、80万円弱くらいになりそうでございます。試算より低くなったのは、抵抗の証のようで、何だか嬉しゅうございました。でも、もちろん葬儀屋はすこし高めに見積もっていたのでございましょうね。なにしろ、うるさい客だから、安く言ってて高かったら、どうゴネだすかわからない、なんて思ったんじゃないでしょうか(笑)。



 ホランド

さっき賢ちゃんから電話があって、カラオケは明日と決まったのでよろしく。

それにしても明日、『キングゲイナー』をどれくらい歌いこなせるかなあー(笑)。




それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


言葉の尊厳(4) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月10日(木)21時18分15秒


 時雨さま

> 葬式というのは、本来「死者との別れの儀式」であるはずですが、僕には「死の痛みを紛らわす作業」のように感じられました。それに、「死」というも似さえ金勘定が関わってくるのもどうもいい気分にはなれないし・・・

 そうですね。時には『死の痛みを紛らわす作業』であっても、それは故人の意に適うものでもあるでしょうから、それはそれでかまわないんでしょうが、本来の意味を忘れてはいけないんだと思います。

 それにしても『百万円』で安い方なんだったら、葬儀って、現実問題として「ぼったくり」っていう印象は否めないですよね。園主さまのお父様の葬儀を請け負った業者が、どうだというわけではないんですけど・・・。

 ボクもいずれ経験しなければならないことですから、そのへんの具体的な詳細について、園主さまに聞いておきたいと思っています。
 こういうことって、「縁起でもない」とか言って、日頃は考え語ることを避けがちな部分なんでしょうが、それを避けているからこそ余計に、いざという時にはお手上げとなって、業者まかせになってしまうんでしょうね。大切な人を送る葬儀に、自身の思いをきちんと反映させられるようにするためにも、現実的な手続きを知っておくというのは、とっても大切なことなんじゃないでしょうか。



 園主さま

 お父様が倒れられてから約一ヶ月、ホントにご苦労さまでした。

 お父様が倒れられた際、園主さまはご自身、「花園」への書き込みが滞るのではないかとご心配なさっていましたが、結果 的には、日頃よりもむしろ頻繁に書き込みをなさっていましたよね。これは、この「花園」が、園主さまにとって、いかに大切なものであったのかを証すものなんじゃないかと思います。
 お借りした『危ない格言』(榎並重行)にもありましたよ。

『そうすることでしか生を経験し得ない、少なくともそのようにしか感じられない者たちだけが、書くにふさわしい。自分を表現したいなどという甘ったれた欲求のためにそうすることは、書くことを手ひどく貶めるだけだ。』(P183)

 著作ではきれいごとを書いているけれど、実際の行動はそれに反しており、またそれを他人に批判されても恥じることを知らない人というのは、結局のところ、ホントの意味で「書くことでしか生を経験し得ないと感じている」人ではないんですね。だから、彼らは「空言」を平気で書けるし、まただからこそ、彼らの書くものは『書くことを手ひどく貶めるだけ』になってしまい、「所詮は口舌の徒」なんて評価に一定のリアリティーを与えてしまうんでしょう。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


言葉の尊厳(3) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月10日(木)21時17分11秒


 AOIさま

> ふくはうちーー!!
> おにはうちーー!!

 昔、本で読んだんですが、もともと「おに」というのは「霊魂」のような「姿の見えないもの」を指す言葉で、現在多くの人が思い浮かべる「頭に角を生やし、虎縞のパンツを履いている」ような「鬼」ではなかったみたいですね。こうしたイメージは、霊界との出入り口となる「鬼門」が丑寅(うしとら)の方向に開くという風水思想の考え方から、連想的に生まれたもののようです。
 
 で、「花園」は『おにはうち』だから、「おに」になられた園主さまのお父様も、安心して「花園」にお出でになったんでしょうね、きっと(笑)。



 Keenさま

> 「形式」にこだわり過ぎてわけのわからない混乱に陥るのは、私も大嫌いですが、そこにまだ残っているはずの「本質」を大切に、園主さま、耐えて下さいませ(笑)。

 そうですね。園主さまは当事者ですから、現在の葬儀の悪い面ばかりが目について仕方がないんでしょう。だけど、かなり『頽廃堕落』した現在の葬儀においてさえ、それなりに救われる人というのはいるんでしょうし、それをいちがいに否定するのも問題があるように思います。

 たとえば、園主さまのように、文章を書くことで、自身や自分の身の回りに起っていることを、相対化し整理し位 置づけていくことが出来る人は良いんですが、多くの人はそういう対応手段を持ちません。そうした場合、「喪失体験」というものは、人に突然に襲いかかり、翻弄し、混乱のなかに突き落とすだけのものとなる可能性が高いと思います。
 ですから、たとえどんなに形骸化したものであっても、それが遺族に、一時的な行動形式を与え、枠にはめることで無意味に大きな混乱をやり過ごす機会を与えるというんなら、それはそれで価値も意味もあると思うんですよ。つまり、葬儀の形式に癒される人たちを、いちがいに『弱い』とか『甘え』ているとか言ってしまうのは、やっぱり酷に過ぎると思うんです。

 もちろん、園主さまがおっしゃっているのは、そういう例外ではなく、形骸化した葬儀の形式に安易に乗っかってしまう、多くの人たちのことなんでしょう。でも、そんな形骸化した儀式にだって頼らざるを得ない人たちもいる、例外だってある、ってことには、充分に配慮するべきだと思うんです。



 賢ちゃん

 園主さまが新曲を披露したいと言ってますので、またおつきあい下さいね(笑)。
 追悼の思いをこめて、アニメ・特撮の主題歌を絶叫するというのも、園主さまらしい葬送の儀式なんじゃないでしょうか(笑)。
 『歌うものがあるとき それは必ずオルフォイスだ』というわけです。





( 以下は「言葉の尊厳(4)」につづく)


言葉の尊厳(2) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月10日(木)21時16分7秒


 周知のとおり、イラクへの自衛隊の派遣期間は、どんどんと延長されています。その背景には、アメリカがイラク駐留の負担を少しでも他の国に押しつけたいという思惑があるのと、現イラク政府が占領国アメリカの言いなりになって、民意を無視しているということがあります。つまり、スマトラ沖地震におけるインドネシア政府のような(外国部隊撤退)要望は、少なくとも現イラク政府からは出てくるわけがないということです。
 したがって、日本政府が「民間人への救援」を建て前にして、どちらへもおこなっている自衛隊の派遣は、実際のところ、進めるも退くも所詮は「アメリカの意向」に沿ったものでしかなく、本当の意味で「困っている人たちのため」のものではないんですね。

 実際、ボクが見たテレビニュースでは「アメリカ軍の撤収にともない、歩調をあわせて」自衛隊も撤収するという主旨の説明がなさていたと記憶するんですが、これが本当のところでしょう。つまり、インドネシア政府としては、主に「アメリカ軍の駐留」を好ましいものだとは思わなかった。でも、名指しで撤退を要望することはできないから『外国軍隊の駐留を3ヶ月以内にするよう求め』たんでしょう(あるいは、撤退を『要望する』よう、逆に要望されたのかも知れません)。
 もちろん、アメリカだって当面の利益に結びつく可能性の低い「本物の人道的救援」に、軍隊を派遣している余裕なんてないから、この要請を渡りに舟と受け入れたんでしょう。また、この場合、アメリカのポチと言われている日本が、独自に救援活動をつづけるわけがない。だって、アメリカと同様「銭にならん」救援活動なんて、本音では日本の政府もやりたくないんだろうし、どこまでもアメリカに追随するという姿勢を示すためには、スタンドプレーは好ましくないと考えるからです。つまり、今の日本政府・小泉純一郎首相は、日本独自の判断をする気なんかまったくが無くて、アメリカへの従順さを示すことしか念頭に無いんです。だから、スマトラ周辺ではまだまだ被害の爪痕は深く、困っている人も多いというのに、平気でさっさと引き上げてくるようなことが出来るんですね。

 スマトラ地震に対する日本(政府)の救援活動も、所詮は「偽善」でしかなく、それはサマワへの「人道支援」が「偽善」でしかないのと同じです。小泉首相が、いかに口先でご立派なことを言ったって、そんなのが「建て前のきれいごと」でしかないというのは、世界中の人々が知っていることでしょう。そのことを一番知らないのは、ほかならぬ 日本人なんじゃないでしょうか。





( 以下は「言葉の尊厳(3)」につづく)


言葉の尊厳(1) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月10日(木)21時15分16秒

 みなさん、こんばんは! すでにご承知のとおり、スマトラ沖地震の被災地に派遣されている、自衛隊の撤退が決まりました。わずか3ヶ月間の活動でした。

3月下旬に自衛隊撤収=スマトラ救援で防衛庁方針[02月08日 20時35分]
                                 共同通 信

 防衛庁は8日夕、大野功防衛庁長官や自衛隊幹部による防衛会議を開催し、スマトラ沖地震救援のため国際緊急援助隊派遣法に基づきインドネシアに派遣していた陸海空3自衛隊の約1000人を3月下旬で撤退させる方針を決めた。インドネシア政府が外国部隊などの駐留を3ヶ月以内にするように求めていたことに配慮した。
 同庁は8日夜、「3月26日までには派遣部隊を撤収する」と発表した。
 防衛庁は9日、統合幕僚会議の担当者をインドネシアに派遣し、同国と撤退に関する具体的な協議に入る。撤退には10日間程度を要するとみられ、実際の活動は3月中旬までとなる見通 し。大野氏は8日夜、記者団に対し、撤退の理由に関し「そろそろ民間中心の支援に移行する時期だ」と述べた。』

exciteニュースより

 見てのとおり、撤退の理由は『インドネシア政府が外国軍隊の駐留を3ヶ月以内にするよう求めていることに配慮した。』ということなんですけど、みなさんはどう思いますか?

 ボクは、昨年末に発生したこの大震災について、1月10日の書き込みに、

『「スマトラ沖地震・津波災害」では、未曾有の被害が出ているようです。日本政府も緊急支援や復興支援をすると言ってて、大変な資金援助を申し出ているようですけど、当然のことながら人的支援も求められている今回の災害で、自衛隊がどのていどの規模で投入されるのかは、注目に値するところですね。

 アメリカ軍の空爆によって破壊された上下水道などのインフラを不備を補うために、サマワに派遣された(というのが建て前の)日本の自衛隊。ですが、困っている人を助けるために自衛隊を海外まで派遣したというのなら、「スマトラ沖地震・津波災害」被災地とイラクの一都市であるサマワとでは、ぜんぜん被害の規模が違います。だから、サマワの人を助けるために、あの規模の自衛隊を派遣したんであれば、当然今回の「スマトラ沖地震・津波災害」被災地には、その10倍20倍の人員を派遣したって、決して多すぎるということはありません。でも、アメリカの要請が無い今回の支援では(アフガンへの復興支援同様)、たぶん日本はまた「お金」中心の支援で誤魔化すんじゃないでしょうか。つまり、人的支援は、その被害規模に比例することはなく、言い訳ていどになるんじゃないか。
 「金だけではなく人を」というのは、なにも「戦争」に対する支援には限らないはずだとボクは思うんですが、―― 結局、イラクへの人的支援(=自衛隊派遣)の本質は「戦争ができる国への布石」でしかなかった、ということなんでしょうね。』

生きているチャーリィ・ゴードン(4)より

と書きましたが、この予想はだいたい当っていたと言っていいんじゃないでしょうか。





( 以下は「言葉の尊厳(2)」につづく)


死と葬礼 投稿者:時雨  投稿日: 2月10日(木)01時15分47秒

>園主様

遅れましたが、お父様のことお悔やみ申し上げます。
葬式について感じられたものに対しては同感です。葬式というのは、本来「死者との別 れの儀式」であるはずですが、僕には「死の痛みを紛らわす作業」のように感じられました。それに、「死」というもにさえ金勘定が関わってくるのもどうもいい気分にはなれないし・・・


オルフォイスの墓(下) 投稿者:園主  投稿日: 2月 9日(水)23時59分12秒


 賢ちゃん

> 「死」は、誰にでも平等にやってきます。
> だからこそ「形式」というものが出来たのでしょう。
> その「形式」に疑問を感じるのも納得はできます。
> 自分も、祖父母の葬式では、そのように感じたものでしたから……

形骸化の著しい一般の葬儀に対し、私の念頭にあったのは、以前も紹介した『僕の叔父さん 網野善彦』(中沢新一)に引用されていた、次のような詩文だった。


   記念の石は立てないがいい ただ年毎に
   薔薇の花を彼のために咲かせるがいい
   なぜならそれがオルフォイス あれやこれやのなかの
   彼の変身なのだ ほかの名前を

   私たちは苦しんで求めることはない 歌うものがあるとき
   それは必ずオルフォイスだ 彼は来て行く
   時たま彼が二三日 薔薇の花より生き永らえるとき
   それはもう大したことではなかろうか?

         (『リルケ詩集』富士川英郎・役/新潮文庫)


これが私の理想。 ――本来ならば、父の死にあたっても、斯くありたかったんだ。

中井英夫が言ったとおり「人は死んだら、人の心の中に行く」。――これは間違いのないことなのだから、葬儀や墓など、そんなものはいらない・必要ない、というのが私の考えだった。そして、逆にいえば、それを必要とするのは、そういう形式を通 してしか、死者への気持ちを定められない、遺された者のどうしようもない弱さと甘えなのではないか、と感じられたんだ。

たしかに「想い」というものは、形が無い。だから、それを「生きた他者」に伝えようとすれば、言葉などの何らかの形に託さなくてはならないだろう。しかし、相手は死者なんだから、心のなかで語りかけさえすれば、彼は必ずそこにいて、きっとそれに応えてくれるはずなんだ。

しかし、人は弱い、形式が与えられなければ、死者に対してさえ、その想いが届くかどうか、覚束ないんだろうな。だから、そんな人たちのためには、たしかに「形式」も必要なんだろう。それは仕方のないことなのかも知れない。

しかしまた、人が、その弱さのゆえに、その形式を無条件に肯定したならば、その形式は間違いなく、時間の経過とともに、頽廃堕落していくことだろう。例えば、死者を追悼し、あの世へ送りだすための、仏教の葬儀における導師僧侶の存在が、いつの間にかケバケバしい飾り物と、世俗的な肩書きに彩 られた弔電や樒などによって構成される、俗悪きわまりない葬儀の「メインオプション=錦の衣まとった僧侶」に堕してしまうように。

だから、「形式」の存在を容認したとしても、それは常に問い返されなければならない。「それでよいのか? それが正しい追悼のあり方なのか?」――そう何度でも問い返すことによって、私たちは頽廃堕落の重力に抵抗しなければならない。「形式」に抵抗し、古い殻をを突き崩して再生させることが、まさしくトリックスターの「生気返し」の術なんだ。「シジフォスの神話」のような宿命を担い、世界を新たにする。世界の否定ではなく、世界を肯定するがゆえに、その頽廃堕落に抵抗すること。それが私のような人間に与えられた使命なのだろうと思う。

ともあれ、私たちが子供の頃から、葬儀に対して感じてきた違和感は、まったく正当なものなのだ。「形式」は、時間の経過とともに、必然的に頽廃堕落する。だからこそ、「形式」は常に問い返され更新されなければならない。――これはどのような「形式」についても言えることなんじゃないだろうか。



 ホランド

ちかいうちにカラオケに行く! 現在は新曲を勉強中。2002〜2003年に放送された、富野由悠季の最新テレビシリーズ『オーバーマン キングゲイナー』の主題歌とエンディングテーマだ。
カッコよくてノリも良い曲なんだが、それ以上に富野由悠季の絵コンテによるものと思われるオープニングの絵が、いかにも富野らしくてうれしい。ひとまずオープニングの方だけでも、早く歌いこなせるようになりたいものだ(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


オルフォイスの墓(中) 投稿者:園主  投稿日: 2月 9日(水)23時58分23秒


 Keenさま(つづき)

例えば、上記「高村薫論」では言及いたしませんでしたが、この評論の主な素材となっているテレビ番組『ETV特集 阪神・淡路大震災10年 作家 高村薫 思索の旅』には、高村薫が震災後10年を経て、初めて神戸のルミナリエを訪れるシーンがございます。

高村はここで、ルミナリエの美しさにうっすらと感動の涙を浮かべながらも「でも、この背後に震災の追悼が込められていると思うと、素直に感動できないんですね。これが単に美しいだけの遊園地とかだったら良かったんでしょうけど」という主旨の、微妙な感想を漏らします。
これは「高村薫論」にも引用した、『笑っている(※ 写真の)この後ろに、いろんな(※ 哀しい)記憶があるのかなと思ったら(※ 見ていてつらい)』という言葉に対応するものなのでございますが、私は、高村のこの感想にも、強い違和感を感じました。どういうことかと申しますと、それは、ルミナリエに不満をもらしながらも、その「追悼」性だけは認めている、という点なのでございます。

私にすれば、今のルミナリエは「楽しい遊園地」以上のものではございません。もちろん当初は「追悼」という意義もございましたでしょうが、現在、観光バスをつらねて見物に来る観光客には、到底追悼の意識などはございませんでしょうし、それを受け入れる側にもそれを期待する気などございませんでしょう。ですから、ルミナリエに不満を漏らすのならば、そんな現実に反して(=現実から目をそらして)「追悼の儀式」という建て前を、いつまでも同じ調子で語り続けている、その「偽善性」にこそ、不満を漏らすべきなのでございます。

しかし、神戸の人たちに「負い目」のある高村薫には、当然、そんなことはできません。しかしまた、高村薫には、観光客のようなこだわりのない「笑顔」も浮かべられない。なぜなら、そういう人並みの脳天気さは、「物書き」のものではないという、「中途半端な自負」を彼女は持っているからでございます。

私にすれば、今のルミナリエについて、十年一日のごとく紋切り型に「追悼」云々を語る、(高村薫を含む)テレビ・マスコミや、一部偽善的な地元の住民などよりも、きれいなものをきれいだと単純に喜んでいる観光客の方が、よほど好ましく感じられます。そしてこの感覚は、「高村薫論」のなかで引用した、島田荘司の文章と対応するものなのでございましょう。

したがいまして、私の批評の根底にあるものとは「忘れるべきことは忘れ、忘れてはならないことは決して忘れてはならない」ということなのでございましょうが、これが高村薫の例にも見られますとおり、現実には多くの場合、なかなかそうなってはおりません。実際には、「肝心なこと=忘れてはならないこと」というのは、たいがい「重いもの」でございますから、人はそこから『(目をそらして)忘れ去ろうとする』し、その上で「形式としての葬儀」や「ルミナリエ」といった「派手な示意(的演技)行動」によって「忘れていないぞ」というところをアピールして、自身の「アリバイ」にしようとするのでございます。そして、これは高村薫の「私は震災の悲劇を引き受けています」という殊更な態度と、まったく同質なものなのでございますね。

私にとって、「形式としての葬式」=「高村薫にとっての震災」=「追悼という建て前を問い返せないルミナリエ」は、同じ穴のムジナだと感じられるのでございます。本当に忘れてはならないことを忘れるために、殊更「忘れていないぞ」という態度を誇示してみせる偽善。それが私には許せない。ですから、私の評論文とは、彼らが忘却の彼方へ捨て去ろうとしているものを召還し、彼らにとり憑かせようとするものなのでございます。まただからこそ彼らは、私のそれに「とても嫌な感じ」を受けるのでございましょうし、できれば無視したいとも思うのでございましょう。

ちなみに、私の批評が『彼ら(※ 批評批判対象)が忘却の彼方へ捨て去ろうとしているものを召還し、彼らにとり憑かせようとするもの』であるというのは、例えば笠井潔の「過去の言葉」を引っ張ってきて、現在の笠井潔を批判するといった「手法」に端的なものだと申せましょう。

先日も『初志』の忘却という話が出ましたが、私がこだわるのは、不当に捨て去られ・忘れ去られて・顧みられなくなっていく存在なのでしょうし、私が怒りを感じるのは、不当に捨て去り・忘れ去り・顧みようとはしなくなっていく人々だ、ということなのでございましょう。





( 以下は「オルフォイスの墓(下)」につづく)


オルフォイスの墓(上) 投稿者:園主  投稿日: 2月 9日(水)23時57分11秒

みなさま、通夜・葬儀・骨上げ・初七日を終え、やっと一段落いたしました。
結局と申しますか、やはりと申しますか……、通夜・葬儀における「喪主の挨拶」は、いわゆる「俺流」で、他所ではちょっと聞くことのできないものとなったのではないかと存じます。もっとも、自分としてはずいぶん配慮し妥協して、角の立たない表現に努めたのでございますが(笑)。

ともあれ、面倒な手続きがひととおり済んだので、ほっとひと安心いたしました。これよりは早急に、もとの生活に復帰したいものと存じます。





 Keenさま

一昨日、父の死で慌ただしい最中のエアポケットを利用して拙論見えない情炎 ―― 高村薫 論をアップいたしました。こんな時期に書いたものであれば、とうぜん何らかのかたちで私の現状と連絡しているであろうということは、自分でも予想しておりました。それが、Keenさまのお言葉で、ハッキリしたようでございます。

> 形式についてはまあいろいろとあれ、「葬儀」というふさわしい場を設けて存分に嘆き悲しみ、故人への思いをありったけぶちまけ、それを一つの区切りとして精神的に立ち直って行く、という過程を「グリーフ・ワーク」と言うそうです。これが充分でないと、不必要なまでに長くひきずってしまうとか。なお、その程度は個人差が大きいので、葬儀の後にもいろいろと自分が納得できるまで、いろんな活動をする人もあるということですね。
> で、まずは葬儀です。園主さまの苛立ちもあるようですが、お母様はじめ、お父様のご友人の方々にもたっぷり「グリーフ・ワーク」をして頂くための絶好の場でもありますよね。「故人の遺志」というのはむしろ口実として、残された人々の胸の内が少しでも軽くなるよう

『グリーフ・ワーク』という言葉はよく存じ上げませんが、ご説明からすると、これは心理学方面 で「喪の儀式」と称されているものと、ほぼ同じもののようでございますね。つまり「喪失を受け入れていくための儀式」という意味でございます。
で、このことで私が気づきましたのは、私は「形式的な葬儀」を疑問も持たずに受け入れている人たちに対し、「そんなことで忘れさせるものか」と強い反発を感じていたということでございます。


知ってのとおり私は、自身を「呪う評論家」だと称しますが、これはかなり私の本質を突いたものなのでございましょう。つまり、私は、人が(目をそらして)忘れ去ろうとするものを、忘れさせまいとする評論家なのでございますね。

例えば、

 ・ 茨冠の輝き―― 映画『日本鬼子 リーベンクイズ』の14人特攻隊神話の保存装置
 ・ 「知覧特攻平和会館」―― 展示された、戦争への無自覚と無反省

などの「過去の戦争」についての文章、特に「加害体験」をテーマとしたものは、そうした(忘れさせまいとする)ものの典型でございましょうし、現代を扱った、

 ・ お伽話の崩壊 ――砕かれた平等社会の夢想

なども『人が(目をそらして)忘れ去ろうとするもの』に目を向けさせようとしている点では、まったく同じでございます。また、一見、まったく趣の異なる、

 ・ ,仮面 ライダーSPIRITS!――わが胸に受け継がれし魂

にしても、「人が子供の頃には持っていたはずの、理想や正義感」に対する私の希求の念と、それを忘れ去った人たちに対する怒りとによって書かれたものだと申せましょう。


今回書き下ろした見えない情炎 ―― 高村薫 論では、私は、「震災を忘れまい」とする高村薫を批判しておりますが、なぜ私が、そんな高村に苛立ちを感じるのかと言えば、それは高村が「見たくないものから目をそらすために、震災を利用している」と感じたからでございましょう。その意味で、私は、高村薫の震災への関り方が、二重に苛立たしく不満だったのでございます。





( 以下は「オルフォイスの墓(中)」につづく)


心よりお悔やみ申しあげます。 投稿者:賢ちゃん  投稿日: 2月 8日(火)14時54分43秒

「死」は、誰にでも平等にやってきます。
だからこそ「形式」というものが出来たのでしょう。
その「形式」に疑問を感じるのも納得はできます。
自分も、祖父母の葬式では、そのように感じたものでしたから……
ともあれ、「形式」的な言葉で、大変恐縮なのではございますが、
御父堂のこと、心より御悔やみ申しあげます。


訂正 投稿者:Keen  投稿日: 2月 8日(火)14時10分50秒

(誤)「グリーフィング・ワーク」
 ↓
(正)「グリーフ・ワーク」

ちゃんと確認してから書けばよかったのですが、失礼しました。 


形骸化した中にも 投稿者:Keen  投稿日: 2月 8日(火)09時15分2秒

>それにしても、自分でもここまで「葬儀という形式的儀礼」に嫌悪を感じているとは思ってもみませんでした。「こんなものは形式に過ぎない」と思いつつも、やはり(すでに不在の)その人を送る「最後の儀式」だと思えばこそ、形式に流される安易さが我慢ならなかったのでございましょう。

園主さまのその気持ち、もしかしたら、私が胸の奥に持っている重たいモノと似ているのかもしれません。幼少の頃から、今どきの私の年代には珍しく多くの葬儀に関わってきた私は、そこで繰りひろげられる「大人の世界」がつくづく嫌でした。今から思うと、失った人への思いがそんな形で発散されていたのか、とも考えてみるのですが、当時は些細なことで口論したり、見栄を張ったり、身内でない弔問客に対してすら陰口叩いたり……という一連の「お約束」がイヤでイヤで。自分の葬儀で身内がモメて絶交するなんて、故人も決して喜ばないでしょうにね……
あ、これはもしかして、煩雑な遠縁の親戚関係をある程度整理するという意味もあったりするのでしょうか?

それはともかく、形式についてはまあいろいろとあれ、「葬儀」というふさわしい場を設けて存分に嘆き悲しみ、故人への思いをありったけぶちまけ、それを一つの区切りとして精神的に立ち直って行く、という過程を「グリーフィング・ワーク」と言うそうです。これが充分でないと、不必要なまでに長くひきずってしまうとか。なお、その程度は個人差が大きいので、葬儀の後にもいろいろと自分が納得できるまで、いろんな活動をする人もあるということですね。
で、まずは葬儀です。園主さまの苛立ちもあるようですが、お母様はじめ、お父様のご友人の方々にもたっぷり「グリーフィング・ワーク」をして頂くための絶好の場でもありますよね。「故人の遺志」というのはむしろ口実として、残された人々の胸の内が少しでも軽くなるように、と仕立てられるものなのでしょうか。

「形式」にこだわり過ぎてわけのわからない混乱に陥るのは、私も大嫌いですが、そこにまだ残っているはずの「本質」を大切に、園主さま、耐えて下さいませ(笑)。

……なんだか、余計なことを書いてしまった気もしますが、私としても、園主さまのお父様への「グリーフィング・ワーク」が必要なのです。押し花付き弔電なんて、それこそ「形式」めいたものは園主さまも喜ばないだろうことは容易に察せられますから、私なりのやり方で書いてみました。もし、お気を悪くされたなら、ゴメンナサイ☆


見えない情炎 投稿者:園主  投稿日: 2月 7日(月)23時18分7秒

みなさま、明日に父の通夜をひかえ、本日は特にこれといって何もすることがございませんでしたので、先日ご報告いたしました「高村薫論」、

 ・ 見えない情炎 ―― 高村薫 論

を完成させ、アップさせていただきました。
今回は書き下ろしですので、ぜひご笑読いただきたいと存じます(笑)。


さて、いよいよ明日が通夜で明後日が葬儀。「面倒だなー」というところが、正直なところでございます(^_^;)。





 Keenさま

> 「友人葬」ならば、ご子息の友人として、心からのお悔やみを申し上げます。
> あ、でも、電話の取り次ぎをして頂いたこともありますから、全くの無関係というわけでもないですね。では堂々と!(笑)

> 宗派云々に関わりなく、死者を悼む気持ちは同じだと思いますから、遠方からではありますが、私も合掌させて頂きます。

ありがとうございます。私が偏屈なことを言いましたため、何かと気を使わせてしまったこと、本当に申し訳なく存じます。

それにしても、自分でもここまで「葬儀という形式的儀礼」に嫌悪を感じているとは思ってもみませんでした。「こんなものは形式に過ぎない」と思いつつも、やはり(すでに不在の)その人を送る「最後の儀式」だと思えばこそ、形式に流される安易さが我慢ならなかったのでございましょう。
――そう言えば、私は、子供の頃から一貫して、「出会いの儀式」より「別 れの儀式」を重要視してきましたからね。つまり「入学式よりも卒業式」「歓迎会よりも送別 会」というように。

私の体調については、今のところ、まったくご心配にはおよびません。このように、自分のやりたいようにやっておりますから、一般 的な遺族よりは、体力気力ともに、よほど楽なのではないかと存じます。……それにしても、葬儀は、考えただけでも面 倒でございますなあー(笑)。



 ホランド

>  たぶん、園主さまを苛立たせているのは、通俗的なかたちで葬儀を行うのは「俗情との結託」でしかない、という気持ちなんでしょうね。お母様への配慮からだとは言え、妥協が嫌いな園主さまとしては、腹立たしいことだとお察しします。でも、その思いをその後に生かしていけば、決して無駄 ではないと思いますよ。その「初志」は、きっと生かされるはずです。だから、もうしばらく我慢して頑張って下さいね。

うむ。じつは「喪主の挨拶」でひとこと言ってやろうかとも思ってるんだが……。まあ、程々にしといてやるか(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


安らかな眠りを 投稿者:ホランド  投稿日: 2月 7日(月)11時22分42秒


 園主さま

 ボクもお父様の冥福を祈らせていただきます。理由は、すべての人に分け隔てなく、その死だけは安らかなものであってほしいと思うからです。

> そもそも「僧侶による葬儀」という形式が「無意味である」と認めたればこそ、「友人葬」という(権威によらない)形式も正当化されたはずなのに、他宗派とのそれと大差のない「葬式」だけは(おおむね最低百万円もかけて)執り行うという慣習依存を、私は「本来の創価学会の信仰」に反する(汚す)ものだと考えております。なにしろ、創価学会の初志は「病人と貧乏人の宗教」であることを、誇りとするところにあったはずなのでございますから。
> ともあれ、結局のところ、このあたりの無難な「形式」に依存してしまうところが、信仰の本義を顧みない、世俗信仰の限界なのでございましょう。

> いずれ母の葬儀の際にも似たような、くだらない妥協をするのでしょうが、私が死ぬ 時には残った者に無駄金をつかわせないように「葬儀はするな。死体は(放置して腐るに任せるわけにはいかないので)火葬して、こっそり庭にでも散骨して、土に戻してくれ)」と遺書を残しておきたいと存じます。もちろん、悲しむ者さえいなければ、死体を放置されても結構で、私自身は痛くも痒くもないのでございます(笑)。

 たぶん、園主さまを苛立たせているのは、通俗的なかたちで葬儀を行うのは「俗情との結託」でしかない、という気持ちなんでしょうね。お母様への配慮からだとは言え、妥協が嫌いな園主さまとしては、腹立たしいことだとお察しします。でも、その思いをその後に生かしていけば、決して無駄 ではないと思いますよ。その「初志」は、きっと生かされるはずです。だから、もうしばらく我慢して頑張って下さいね。


 では、お帰りをお待ちしております。


「友人葬」ならば 投稿者:Keen  投稿日: 2月 7日(月)10時46分23秒

ご子息の友人として、心からのお悔やみを申し上げます。
あ、でも、電話の取り次ぎをして頂いたこともありますから、全くの無関係というわけでもないですね。では堂々と!(笑)
園主さまは、しばらく慌ただしいことと思いますが、お母様ともども、どうぞお体を労って下さいませ。これくらい大丈夫、というような無理はなさらないよう。一番寒い時期ですし、疲れは後から来るでしょうから。

宗派云々に関わりなく、死者を悼む気持ちは同じだと思いますから、遠方からではありますが、私も合掌させて頂きます。


父の死と葬式儀礼について(下) 投稿者:園主  投稿日: 2月 7日(月)02時08分54秒


 AOIさま

> 2日『トニー滝谷』を観に行ったら、なんと!大西巨人さんがいらしていました。(ホント!)

おお、それはラッキー! ……?

> 映画はなかなか面白かったですよ〜。坂本龍一のピアノもよかったし、宮沢りえの足が美しくて可憐でした(フェチ必見/笑)。
> たそがれ清兵衛での宮沢りえもよかったけれど、今回の少女っぽい宮沢りえもいい。イッセイ尾形はちょっと違和感。

う〜ん、でも、坂本龍一も宮沢りえも、あんまり興味ないですねえー。もちろん、脚フェチでもございませんし(笑)。

> 「理解できない」ということをどのレベルで言っておられるのかは分かりませんが、『地獄奏鳴曲』のつづきはこれから読む予定なので「理解できないのでございましょう」って言ってほしくないです(ぷんぷん)。
> 体験主義的すぎるのでは?人間には想像力があるのだから、「理解できない」なんて言っては人に語る必要なんてなくなってしまう。

これは失礼いたしました。
AOIさまが『まどろっこしいというか・・・苦痛なのです』とお感じになられた部分について、私はそのようには感じなかったので、そのあたりの事については、AOIさまが実感が持てず「理解できないのであろう」と理解して、そのあたりの違いについて、私見を述べさせていただいたのでございます。

したがいまして、私は「体験至上主義」を言ったのではなく、「体験という要素」は大きいと言っているだけで、まただからこそ「体験の不足」を補うための「説明」をさせていただいたのでございます。


>> 両者に共通しているのは「組織の目的とその意義を、本当に深く理解していれば、組織の方針に疑義を挟むようなことはありえない」という「問答無用」の思想が、その組織の根底に横たわっている

> というのも、部外者がみていてもそうだと思う。内部にいても分からない人にはわからないでしょう。当然だと思ってしまう人はいるのだし、「戦争を体験していなければ戦争は理解できない」というのと同じで、戦争体験があってもなくても理解できないものはできないし、できるものはできるはずです。よりリアルに感じられるかということはあるにしても。
> 組織への依存が強ければ強いほどそうなるのじゃないでしょうか。

要するに、正しく「理解」するためには、まず「正しく理解しようという意思」が無くてはなりませんし、次にはその「能力」も必要でございましょう。それらがあってこそ、素材・資料としての「体験」も意味を持ってくるのでございます。

> 市民運動であれ、どのような組織であれ、政治力を持つものがリードするということはあることで、それがはっきりとした形でシステム化していないだけじゃないでしょうか。

ひとまず組織の「規模」が問題でございましょうね。
一定の規模を越えれば、組織は否応なくシステム化しますし、規模が大きくなれば、一般 (末端)参加者の目が役員の言動に直接届かなくなりますから、直接民主主義的なフレキシビリティー(柔軟性.適応性.融通 自在)を失って、システムの硬直化を促すことになりましょう。
したがいまして、市民運動団体でも、規模が大きくなれば、代表を含めた役員改選を積極的におこない、組織の硬直化に楔を打ち込むべきでございましょう。代表がスターになったりカリスマ的になったりして固定化すれば、その組織は間違いなくダメになっていくことでございましょう。


ちなみに『地獄変相奏鳴曲』の最終章にあたる第4楽章「閉幕の思想 あるいは娃重島情死行」は、後に『迷宮』でもテーマ化される「積極的な自死」を扱った作品でございますが、これについては『迷宮』を読んだ時と同様、私には十全に理解できませんでした。
たしかにそういう考え方もあり得るとは思いますものの、やはり「自死」というものを肯定する気にはなりません。しかし、それを否定し切るほどの確信や論理的な根拠も今のところございませんので、ひとまず「課題」として心に止めておく、といった感じなのでございます。ただ、いずれにしろこの問題は、大西巨人という人を評価する上で、もっとも根底的な要素となる部分ではないかと存じますので、軽々には答を出せないという感じがございます。



 ホランド

というわけだ。――今のところ、父の死については、実感がないのだろうと思う。早く落ち着いて、ゆっくり泣きたいものだ(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

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父の死と葬式儀礼について(中) 投稿者:園主  投稿日: 2月 7日(月)02時04分39秒


そんなわけで、葬儀は近所の創価学会系の葬儀社に任せることにしました。私は先ほど、枕経をあげに来てくれた近所の学会の人たちの前で「葬儀は父が信仰していたということで、いつもお世話になっていた皆さんにお願いすることにしました。しかし私個人は、葬式なんかしなくてもいいという考えなので、葬儀については形式的なことはなるべくしたくないし、親戚 にも会社の方にも、来なくていいと言っております。こじんまりと身内だけでやりたいと思っていますので、みなさんもそのような感じでご協力下さい」と言っておきました。

葬儀については、参列者数も近所の学会員の方を除けばごく少人数になり、規模としてはそこそこ程度のものになると予想されます。また葬儀社との打ち合わせでは、 祭壇を「最低の40数万円」のものでとお願いしました。しかし、それでも送迎バス代だ骨上げの後の精進料理だなんだと諸雑費を含めると、おおむね100万円くらいになるということでございました。
通夜・葬儀の会場は、間違いなく安い地域の自治会館を利用してこの値段。ベルコなどの業者(の会場)を使う場合にくらべれば、たぶんかなり安いのでございましょうが、しかし、生き残った者の気慰みが2日間で百万円とは、たいへんな浪費でございましょう。先ほど、下の居間兼仏間で眠っている父に「百万円だって」と報告したのでございますが、語らぬ 父に、もし口が利けたならば「もったいない。そんなものやめとけ」と言ったのは、間違いのないところでございましょう。ここでも「故人の遺志および意思」は蔑ろにされているのでございます。

ところで、私が葬儀屋の男性に「最終的にいくらくらいになるんですか?」と問い、あれこれ試算して「百万円弱です」という金額を聞いた後、その葬儀社の男性が「葬儀の費用については、落ち着いてからで結構ですので」と尋ねもしない説明を二度ほどされたのには、ハッキリ言ってムッといたしました。言うまでもなく私は、お金が無くて葬儀費用を抑えようとしたのではございません。所詮は、生き残った者の自己満足と虚飾(「それなりの葬儀をしないと世間体が悪い」という見栄)に金を払う(無駄 金をつかう)のが不愉快なので、最低限に止めたいと思ったのでございます。ところが、そうした主旨についての説明を、学会の人たちの横で聞いていたはずの、彼自身創価学会員である葬儀社の男性に、その主旨がまったく伝わっていなかったというのは、なんとも不愉快でございました。

そもそも「僧侶による葬儀」という形式が「無意味である」と認めたればこそ、「友人葬」という(権威によらない)形式も正当化されたはずなのに、他宗派とのそれと大差のない「葬式」だけは(おおむね最低百万円もかけて)執り行うという慣習依存を、私は「本来の創価学会の信仰」に反する(汚す)ものだと考えております。なにしろ、創価学会の初志は「病人と貧乏人の宗教」であることを、誇りとするところにあったはずなのでございますから。
ともあれ、結局のところ、このあたりの無難な「形式」に依存してしまうところが、信仰の本義を顧みない、世俗信仰の限界なのでございましょう。


いずれ母の葬儀の際にも似たような、くだらない妥協をするのでしょうが、私が死ぬ 時には残った者に無駄金をつかわせないように「葬儀はするな。死体は(放置して腐るに任せるわけにはいかないので)火葬して、こっそり庭にでも散骨して、土に戻してくれ)」と遺書を残しておきたいと存じます。もちろん、悲しむ者さえいなければ、死体を放置されても結構で、私自身は痛くも痒くもないのでございます(笑)。





( 以下は「父の死と葬式儀礼について(下)」につづく)


父の死と葬式儀礼について(上) 投稿者:園主  投稿日: 2月 7日(月)02時03分35秒

みなさま、先日来ご心配をお掛けしておりました父でございますが、本日(2/6)午後6時15分に静かに息をひきとりました。享年74歳でございます。

私は今朝から病院で待機していたのでございますが、葬儀社の車で帰宅した父と前後して、午後9時頃に帰宅したところでございます。火葬場の関係で、通 夜は明後日8日、葬儀(告別式)は9日ということになり、しばらくの間、書き込みはできないかも知れませんが、もうひと踏ん張りですので、頑張って乗り越えたいと存じます。

なお、葬儀について書いておきますと、父と母は創価学会の信心をしておりましたので、「母の意向」を尊重して創価学会の葬儀、つまり「友人葬」で行うことにいたしました。「友人葬」というのは、その名のとおり「故人の友人によって執り行われる葬儀」という意味でございまして、僧侶は呼ばない葬式でございます。
知ってのとおり、創価学会は本山日蓮正宗と喧嘩分かれいたしましたので、その後、このような形式で執り行われるようになったのでございます。ですから、僧侶は来ないものの、もちろん無宗教無宗派というわけではなく、創価学会式の仏式ということでございます。

ここ「花園」をロムしていただいている方ならご承知のとおり、私も昔は創価学会員として活動をしておりましたが、やがてこの信仰および宗教全般 に疑問をもち、自ら創価学会の信仰を捨てた人間で、今は一応「無宗教者」でございます。しかし、個別 の宗教は否定しているものの、宗教そのものの意義は一定の範囲で認めておりますし、私の気持ちとしては「そんじょそこらの既成宗教に帰依する信仰者などよりも、私の方がよほど敬虔な信仰者だ」というような気持ちもございます。つまり、もし神や仏と呼ぶべき(超越的かつ人間への慈愛に満ちた)存在が、人間に「非知のものとして実在」していたとしたら、私の生き方はそうした存在の意思にかなりの程度応えたものだという自負を持っている、ということでございます。

ですから、葬儀を創価学会の「友人葬」でやるというのは、一応は「故人の遺志」ということにしておりますが、私の本音としては、
「故人は自ら信仰をやっていたのだから、その信仰が正しければ、葬儀などやらなくても成仏するし、信仰そのものが間違っていたり、故人の信仰が到らなかったのなら、成仏はできないだろう。それは本人の信仰の問題で、他の者が後でどうこうできるような軽いものではない。いずれにしろ、葬儀の形式で成仏できるのなら、生前の信仰など不必要ということになるだろう。また、故人の遺志としての意思(気持ち)など、今はもう存在しないのだから、それに拘泥するのは無意味である。しかし、母は故人の意思というものを信じているだろうし、父の友人である創価学会の仲間たちは、その形式が最高だと思っているのだから、母や創価学会の友人たちのために、創価学会式の葬儀をすることにした。つまり、この葬儀は、私以外の、生き残った者たちのための葬儀、厳しく言えば、生き残った者の自己満足・気慰みのための儀式である」
というようなことなのでございます。





( 以下は「父の死と葬式儀礼について(中)」につづく)


ほんとう 投稿者:AOI  投稿日: 2月 6日(日)23時51分16秒

2日『トニー滝谷』を観に行ったら、なんと!大西巨人さんがいらしていました。(ホント!)
映画はなかなか面白かったですよ〜。坂本龍一のピアノもよかったし、宮沢りえの足が美しくて可憐でした(フェチ必見/笑)。
たそがれ清兵衛での宮沢りえもよかったけれど、今回の少女っぽい宮沢りえもいい。イッセイ尾形はちょっと違和感。

☆園主さま
>たぶんそれは、AOIさまが経験しておられる市民運動団体の組織が、日本共産党や創価学会の組織と、大いに違っているからでございましょう。
(中略)
下手をすれば、役員が下からの批判に曝され、自分の立場を危うくしかねない「平等=民主的」な市民運動団体と、本質的にそうではありえない創価学会や日本共産党とは、「組織」として、その体質をまったく異にしており、だからこそAOIさまには、権威主義的(一方向的)な共産党組織というものが、なかなか理解できないのでございましょう。

「理解できない」ということをどのレベルで言っておられるのかは分かりませんが、『地獄奏鳴曲』のつづきはこれから読む予定なので「理解できないのでございましょう」って言ってほしくないです(ぷんぷん)。
体験主義的すぎるのでは?人間には想像力があるのだから、「理解できない」なんて言っては人に語る必要なんてなくなってしまう。

外側から見ていても権威主義的(一方向的)な共産党組織というのは全くそうだと常々思っていて、だから、選挙で共産党に投票する気にならないんですね。前回の選挙の地方区で入れたのは例外中の例外でした。

>両者に共通しているのは「組織の目的とその意義を、本当に深く理解していれば、組織の方針に疑義を挟むようなことはありえない」という「問答無用」の思想が、その組織の根底に横たわっている

というのも、部外者がみていてもそうだと思う。内部にいても分からない人にはわからないでしょう。当然だと思ってしまう人はいるのだし、「戦争を体験していなければ戦争は理解できない」というのと同じで、戦争体験があってもなくても理解できないものはできないし、できるものはできるはずです。よりリアルに感じられるかということはあるにしても。
組織への依存が強ければ強いほどそうなるのじゃないでしょうか。
市民運動であれ、どのような組織であれ、政治力を持つものがリードするということはあることで、それがはっきりとした形でシステム化していないだけじゃないでしょうか。

>それにしても、さすがに此処では、『おに』も『うち』なのでございますね(笑)。

花園はアジールですから(笑)


権威主義的パーソナリティー(下) 投稿者:園主  投稿日: 2月 4日(金)00時20分36秒


 はらぴょんさま

> 読者プレゼントというのは、『透明な貴婦人の謎〜本格短編ベスト・セレクション』と『紅い悪夢の夏〜本格短編ベスト・セレクション』の2冊を買って、抽選で、東京都内で行われる本格ミステリ大賞の開票現場に立ち会う権利を取得するというものです。

私も書店で確認いたしましたが、抽選で『10名』だそうでございますね。
こんなものに応募するからには、当選者もきっと、かなりコアなミステリ読者なのでございましょう。そういう当選者ならば、きっと、結果 のわかりきった選考会など、さほど楽しみにはしていないことでしょうから、選考会に出席した作家・評論家のみなさんは、せいぜいこの当選者のみなさんに、サインでもなんでもして差し上げていただきたいものでございます。

まあ、いずれにしろ応募者は少ないでしょうから、はらぴょんさまが応募して、万が一当選したならば、選考会で結果 が発表された瞬間に「やっぱりな。アレクセイが予言してたとおりだ」なんて、ボソッと呟いたりなんかして下さいまし。――きっと会場には、曰く言いがたい、凍りついた空気が流れることでございましょう(笑)。

残念ながら私の場合、面も名前も割れているので、そういうわけにもいかないのでございますが(笑)。



 ホランド

> 「アウシュビッツの後に、『哲学者の密室』を書くことは、優れて本格ミステリ的である」
>「戦争の最中に、「本格ミステリ大賞」を受賞することは、さらに優れて本格ミステリ的である」

> ともに、テオドール・ホランドの言葉です(笑)。

テオドール・W・アドルノの有名な言葉『アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。』のもじりだな(笑)。

そう言えば、アドルノは『権威主義的パーソナリティー』ということを言った人でもあったと記憶するんだが、この言葉も、笠井潔と「探偵小説研究会」会員、および「本格ミステリ」の信者たちと、無関係な概念ではないようだな。

とくに「現代日本における権威主義的パーソナリティー」という問題に関して言えば、現代日本の若者のナルシズムにおける権威主義という興味深い論文を見つけたから、ぜひみなさんにも読んでほしい。
もちろん、『笠井潔と「探偵小説研究会」会員、および「本格ミステリ」の信者たち』には、特にしっかりと、反省的に読んでほしいと思う(笑)。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

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権威主義的パーソナリティー(上) 投稿者:園主  投稿日: 2月 4日(金)00時19分44秒

みなさま、現在、ICU(集中治療室)において、心筋梗塞による心不全の治療をうけている、私の父の、その後の容態について、ご報告させていただきます。

本日も見舞いに行きましたところ、担当医が替わっており、その新しい担当医から、父の現状について総合的な説明がございました。
父は、2回目の止血処置により、腸からの出血が止まって、ひとまず最悪の事態はまぬ がれたそうでございます。しかし、腸がかなり痛んでおり、そこから滲出液が出ているため、その水分を点滴で補っているのだそうでございますが、このバランスがまた難しいそうでございます。と申しますのも、小水とは違い、その排出量 が計り難いから、だそうでございます。また腎臓もかなり弱っており、ほとんど小水を生産しない状態で、いまは透析機の助けを借りております。また左足の親指への血行不全が見られ、これも要観察だという話でございました。
つまり、命の危険については若干遠のいたものの、各所に問題が発生しており、「回復に向かっている」とまでは、まだまだ言えない状態だそうでございます。したがいまして、これから先、肺炎などの合併症が発生しないとも限らず、それが発生した場合、総合状態が前よりも良くないために、また命の危険におよぶ可能性も充分にあるとのこと。ただ、一時期の最悪状態にくらべれば、本当に微かではあるけれども、希望の光も見えたと言えるとのことで、結論としては、やはり「2、3日、様子を見ないといけない」とのことでございました。

この説明を聞いて私が考えましたのは「命を落すという最悪の事態とは別に、長期戦の覚悟もしておかなければならないな」ということでございました。
ともあれ、このところ、父の際どい状況のために仕事を休みがちでございましたが、そろそろ本格的に職場復帰もしなければならないようでございます。



さて、本日は父の見舞いに出た時間以外は、ずっと家におりましたので、先日友人が送ってくれた『ETV特集 阪神・淡路大震災10年 作家 高村薫 思索の旅』(NHK製作・2005年1月15日放送)の録画ビデオを見たことが切っ掛けとなって着想を得た、私の「高村薫論」を書いておりました。先ほど、第一稿が書き上がったばかりですので、これから何度か推敲を加えなくてはなりませんが、近いうちに公開できると思いますので、どうぞご期待下さいまし。





 AOIさま

> ふくはうちーー!!
> おにはうちーー!!

> パラッ、パラッ、パラッ、パラッ、パラッ。。。。。。
> たくさん召し上がれ!
> 大きな口あけてるのだあれ!?(^0^)/

ありがとうございました。
それにしても、さすがに此処では、『おに』も『うち』なのでございますね(笑)。

先日『サザエさん』を見ておりましたところ、磯野家の子供たちが、波平に「歳の数だけ、まめを食べるんだぞ」と言われ、タラちゃんが「僕は3つしか食べられないです。もっと食べたいですー」と嘆いておりました。――幸いなことに私は、もう、まめを歳の数ほども食べたいとは思いません。それに、そんなに食べると、後でおならが出て、たいへんでもございましょうし(笑)。





( 以下は「権威主義的パーソナリティー(下)」につづく)


豆まきにきましたよー! 投稿者:AOI  投稿日: 2月 3日(木)23時28分7秒

ふくはうちーー!!
おにはうちーー!!

パラッ、パラッ、パラッ、パラッ、パラッ。。。。。。
たくさん召し上がれ!
大きな口あけてるのだあれ!?(^0^)/


ミステリ作家ほど素敵な職業はない!(下) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月 2日(水)03時05分29秒


 アーニャ

> 大阪は雪は大丈夫かもしれないけど、全国的にこの冬一番の寒波だそうね。
> もちろん、私はアリョーシャのお察しの通り、こたつでぬくぬくしてますけど、Keenさまは買い物に出かけたりもしてるわよ(笑)。

 大阪でも昨夜から今朝(1/31から2/1)にかけて結構降ったし、日中も時々降ってたよ。昨夜の冷え込みでアスファルトが冷えてたのか、舞い落ちた雪がそのまま溶けるんじゃなく、アスファルトの上を吹き流されてたんだ。これって、大阪ではめずらしい光景だと思うな。でも、やっぱり、全国的に見れば、大阪なんかぜんぜんで、ものすごく積もっているところがあるよね。ニュースを見て、びっくりしちゃった。

 今夜も降るそうだから、雪の多い地方の方は、通勤や除雪作業なんかで、怪我などしないように気をつけてくださいね☆



 園主さま

> 「第五回 本格ミステリ大賞」

もし『臨場』が単独で受賞したら、私は「逆立ちで世界一周」をしてみせましょう(笑)。

 さすがは「負ける喧嘩はしない」「博打は打たない」「『神聖喜劇』の映画化については、できない方に賭ける」という、園主さまらしい「公約」ですね。せっかくだから、目立つようにしときましたよ(笑)。

 でも、調子に乗ってこんなこと言ってたら「アレクセイの奴に恥をかかせてやろう」って、「探偵小説研究会」票が『臨場』に集まったりして・・・。なんて、――そんなこと有り得ないですよね(^-^;)。





 ではでは、みなさん、おやすみなさい(ハート)。


ミステリ作家ほど素敵な職業はない!(中) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月 2日(水)02時50分4秒

 はらぴょんさま

> TeacupとFC2について

> Teacupは、FC2には、違法宣伝などの迷惑行為を行うサイトが多いので、一律書き込み禁止にしているようです。
> しかし、TeacupとFC2の両方を借りている者は、どうなるのか。また、迷惑行為かどうかを自主的に判断しようとしている掲示板管理者に対して、この一律な措置は何なのか。Teacupの措置も、結構迷惑だったりするのですが……。

 園主さまは、この問題を「中国人犯罪者問題による中国人蔑視問題」にからめ、類比的に語っておられましたが、管理者が個々の顧客の意向を無視して『一律な措置』を行い、「セキュリティー」という金看板の陰で、顧客の「自由を制限する」というのは、大澤真幸と東浩紀が対談『自由を考える――9・11以降の現代思想』(NHKブックス)で問題にしていたこと、そのままですよね。

 たしかに、誰か他人が(自分の)安全を守ってくれたら楽でいいんだけど、そういう「あなたまかせ」の姿勢は、結局のところ、その他人に、自己の行動について「指図する権利」を与えてしまうことになる、というのは当然の結果 でしょう。その意味でも、人間は原則として「自分の身は自分で守り、自分の行動は自分で考え自分の責任において決める」というのが必要なんですよね。それと「国家システムによるサービス」とが両輪のごとくバランスよく回っている状態が、本来の姿なんだと思います。

 ですから、はらぴょんさんの『迷惑行為かどうかを自主的に判断しよう』という態度は、とっても大切なことなんだと思います。当たり前の事だって言えば当たり前の事なんだけど、その当たり前の事をしない人や、当たり前だとも思わなくなった人が、あまりにも多くなっているから、いろいろと問題が出てくるんでしょうね。

 たいがいの大人は、子供に対し「自分の事は自分でしなさい」と躾けるはずなんですが、その大人がどうなのかというと、実は「自分の事を他人任せにしている」って人が少なくないんですよね。


> 人はそれを既視観と呼ぶ

 皮肉ですねえー(笑)。
 でも、このタイトル、もしかして「日本における本格ミステリの巨匠にして恩人」である鮎川哲也の『人それを情死と呼ぶ』のもじりなんでしょうか? だとすると、二重に皮肉ですよね。なぜなら鮎川さんは、「本格ミステリ、冬の時代」に、独り、実作によって本格ミステリの火を守り続けた「無欲の人」でしたけど、その弟子筋にあたる人たちは、ブームによってもてはやされた後、今度は「勲章」まで求めだしたんだから。・・・しかも、その勲章も「贋勲章」だっていうんだから、「本格ミステリの歴史」に泥を塗ってますよね。


> 読者プレゼントというのは、『透明な貴婦人の謎〜本格短編ベスト・セレクション』と『紅い悪夢の夏〜本格短編ベスト・セレクション』の2冊を買って、抽選で、東京都内で行われる本格ミステリ大賞の開票現場に立ち会う権利を取得するというものです。

 でも、そこで前々回(第3回)の時みたいに、票の数え間違いなんかやったら、カッコつきませんよ(笑)。

> しかも、開票なんていう地味な現場を見せるというのは、<この賞が不透明な密室政治によって決められていると思われているのじゃないか>という疚しい意識がもたらしたもののように思えるのです。
> しかし、この人は勘違いをしています。私は事件は開票現場で起こっているんじゃなく、八ヶ岳のスキー合宿現場で起きているのだと考えます。

 『事件は開票現場で起こっているんじゃなく、八ヶ岳のスキー合宿現場で起きている』――名セリフですね!(笑) でも、事件は「探偵小説研究会の月例会」でも起きていると思います(笑)。


 では、ボクも、はらぴょんさんのマネをして、もじり格言を。

「アウシュビッツの後に、『哲学者の密室』を書くことは、優れて本格ミステリ的である」
「戦争の最中に、「本格ミステリ大賞」を受賞することは、さらに優れて本格ミステリ的である」

 ともに、テオドール・ホランドの言葉です(笑)。





( 以下は「ミステリ作家ほど素敵な職業はない!(下)」につづく)


ミステリ作家ほど素敵な職業はない!(上) 投稿者:ホランド  投稿日: 2月 2日(水)02時48分54秒

 みなさん、こんばんは! 「最近読んだ本」のことを書こうと思ったですが、あんまりこれってのが無くって困ってます。シオドア・スタージョンの短編集『海を失った男』(晶文社)とか、島田荘司の『ネジ式ザゼツキー』(講談社ノベルズ)とかも、けっこう面 白くは読んだんですが、特に書きたいことも無いんで、――ここではネタとして感想の書きやすい東野圭吾の『超・殺人事件 推理作家の苦悩』(新潮文庫)について書こうかな。

 この作品集、タイトルに「超(=メタ)」とあるとおり、推理小説と推理作家業界を扱った、皮肉な笑いの入った「メタ・フィクション」集です。収録作をご紹介いたしますと、

   (1) 「超税金対策殺人事件」
   (2) 「超理系殺人事件」
   (3) 「超犯人当て小説殺人事件」(問題篇・解決篇)
   (4) 「超高齢化社会殺人事件」
   (5) 「超予告小説殺人事件」
   (6) 「超長編小説殺人事件」
   (7) 「魔風館殺人事件」(超最終回・ラスト五枚)
   (8) 「超読書機械殺人事件」

 (1)は、節税の口実のために、作品を無茶苦茶にしてしまう推理作家の話。
 (2)は、読者の「理系」度がわかる作品。――ちなみにボクは、理系じゃありませんでした(笑)。
 (3)は、わりあいオーソドックスなメタ・ミステリ。作中作家のモデルは、内田康夫と見た!
 (4)は、痴呆が入った推理作家による作品がすごい! 一瞬「難解?」とも思ってしまうほどの「天然シュール」の描写 に感心。
 (5)は、「売れっ子になりたい」と、悪魔に魂を売った作家の末路を描く。ホントは、けっこうリアルな話なのかも知れません。
 (6)は、――本書の親本が刊行されたのが2001年なので、連載時にはまだまだ「大長編ミステリ」ブームの余韻が残ってたんでしょうね。ボクの印象に残っている「厚いミステリ本」は、お馴染み『哲学者の密室』、箱入りの『アトポス』、一冊本最厚の『鋼鉄の騎士』など。
 作中には、作家に水増し大長編を強いる編集者の『何が無理なんです。いいですか。若手の二月堂隼人さんは、総数五千枚を超える作品に着手したという話です。完成すれば本格推理小説としては世界最長だそうです。』なんてセリフもあります。そんな東野圭吾さんなら、綾辻行人さんの『暗黒館の殺人』をどう評価するのでしょう。――もしかしてこんな感じかな?
 (7)は、オチだけの小説だけど、ちゃんと伏線は張られています。ちなみにこのタイトルは、たぶん綾辻行人さんか二階堂黎人さんあたりを意識したんでしょうね(笑)。
 (8)は、「ミステリ評論家(書評家)」を扱った作品。こんな便利な機械が出来たとしたら、ホントにこんなことにもなりかねないんじゃないか、と思いました。

 ま、全体に軽いので、すぐに読めてそれなりに楽しめ、そのうえ東野圭吾という作家の考え方がよくわかる作品集だと言えるでしょう。――東野圭吾って、大阪の人ですけど、大阪ってこういう「皮肉な(毒のある)批評性」のある人が出やすい土地柄なんでしょうか?(^-^;)


 のれんさま

 はじめまして! ボクたちの「花園」へようこそ!

> ネットサーフィンでオタクの定義みたいなの見ました。
> ちょっと面白かったので足跡残していきますね。
> また遊びに来ます

 園主さまの論文「オタク」の定義についてを読まれたんですね。

 のれんさまは「出会い系サイト」を運営管理なさっていたそうですけど、そんな人と「オタク」って、もっとも縁遠いように思えるんですが、どういうところで興味を持たれたんでしょうか? また、読まれた感想などもお聞かせ願えれば幸いです。

 園主さまは、「出会い系サイト」について、けっこう懐疑的なことを書いていましたけど、あれは現実問題に対する批評の、一種のデモンストレーションみたいなもの、なんじゃないかとボクは思ったんですが、いずれにしろ、のれんさまに興味をもっているのは確かだと思いますよ。できれば、商売っ気は抜きにして、ここ「花園」で遊んでみませんか?(笑)





( 以下は「ミステリ作家ほど素敵な職業はない!(中)」につづく)


事件は開票現場で起こってるんじゃない  投稿者:はらぴょん  投稿日: 2月 2日(水)00時05分15秒

本格ミステリ作家クラブ編『透明な貴婦人の謎〜本格短編ベスト・セレクション』(講談社文庫、解説笠井潔)http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2749629 の帯に、「アンソロジー刊行記念、読者プレゼント!」の文字があります。
この本は、以前刊行された『本格ミステリ01』(講談社ノベルス)を2分冊にしたものの後半部分で、先月刊行された本格ミステリ作家クラブ編『紅い悪夢の夏〜本格短編ベスト・セレクション』(講談社文庫)http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2749416 が前半部分にあたります。
読者プレゼントというのは、『透明な貴婦人の謎〜本格短編ベスト・セレクション』と『紅い悪夢の夏〜本格短編ベスト・セレクション』の2冊を買って、抽選で、東京都内で行われる本格ミステリ大賞の開票現場に立ち会う権利を取得するというものです。
ところで、この文庫の帯を始めて見た時、少し不快感を覚えました。これは、いつもの講談社のプレゼントではなく、本格ミステリ作家クラブの、さらにいえば、この文庫解説者の持ち込み企画ではないかと思いました。講談社のプレゼントは、舞城のフェイスタオルだとか森博嗣のバッグだとか、こたつ組のマグネットとか、ビーチボールとか、バルーン型のいすとかです。それは、どこかほほえましいものです。ところが、この企画は、「これこれこーゆう偉い賞があるんだ。それに立ち会えるだけでも名誉なことなのだ。」と考えている人によってもたらされたものです。
しかも、開票なんていう地味な現場を見せるというのは、<この賞が不透明な密室政治によって決められていると思われているのじゃないか>という疚しい意識がもたらしたもののように思えるのです。
しかし、この人は勘違いをしています。私は事件は開票現場で起こっているんじゃなく、八ヶ岳のスキー合宿現場で起きているのだと考えます。そこで、脱コード派(脱格系)ミステリへのあからさまな嘲笑を耳にした人が、その価値観を内面 化し、自分もまた嘲笑する側に立つようになると考えます。なぜなら、そうしないと自身が嘲笑される側に立つことになるからです。
初期の矢吹駆三部作を書いていた笠井潔は、こういう日本的なシステムを対人恐怖症的な社会だと侮蔑していました。しかし、その後、彼自身が権威と化してしまい、しかも、そのことに自覚的でないのです。
彼は、おそらく誰の作品に投票せよとは言わないでしょう。しかし、彼がどう考えているかを知っている感化された者たちは、彼の無言のまなざしによる圧力で、彼の意中の作品に投票するのでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/dzogchen/


俗物世間(7) 投稿者:園主  投稿日: 2月 1日(火)02時41分32秒


 アーニャ

> 大阪は雪は大丈夫かもしれないけど、全国的にこの冬一番の寒波だそうね。

一昨日が異常に温かかっただけに、今日はたしかに寒かったな。雪までは降っていなかったようだけど。

家に来ていた姪に『よつばと!』(既刊3巻)をプレゼントしたら喜んでいたよ。
以前に来た時、退屈そうにしてたんで読ませたら、とても気に入ってくれたんだ。でも「これはおじちゃんのだからあげないよ。でも、今度買ってきてあげるから」って約束してたんだ。では、どうして先にやらなかったのかと言えば、―― 子供に「初刷」本は無意味だからだ(笑)。



 ホランド

それにしても、「本格ミステリ大賞」の派閥的偏向は、露骨もいいところだよな。さすがここまで来れば、関係者なら(恥ずかしくって)「見たいものしか見(られ)ない」という硬直状態になるのは、当然の心理だよ。





それでは、みなさま、おやすみなさいまし。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm


俗物世間(6) 投稿者:園主  投稿日: 2月 1日(火)02時40分51秒


 はらぴょんさま(つづき)

> 本格ミステリ作家クラブの公式サイト

http://honkaku.com/

> に、1月30日、第五回本格ミステリ大賞の候補作が掲載されました。
> (すでに、小説部門は決まっていたような気がしたのですが、選考はこれからだったんですね。)
> 候補作は、以下の通り。
> ◆小説部門
> 『暗黒館の殺人』綾辻行人(講談社)
> 『紅楼夢の殺人』芦辺拓(文藝春秋)
> 『生首に聞いてみろ』法月綸太郎(角川書店)
> 『螢』麻耶雄嵩(幻冬舎)
> 『臨場』横山秀夫(光文社)
> ◆評論・研究部門
> 『子不語の夢』浜田雄介編(皓星社)
> 『探偵小説と日本近代』吉田司雄編著(青弓社)
> 『天城一の密室犯罪学教程』天城一、日下三蔵編(日本評論社)
> 『名探偵ベスト101』村上貴史編(新書館)

「小説部門」については、「アリバイとして『臨場』を入れたんですね」とだけ言っておきましょう(笑)、


> ※ここで、「ほほう、そうきたか」と思ったのは、『天城一の密室犯罪学教程』が、評論・研究部門にノミネートされているが、小説部門にはノミネートされていないということです。

私も、この「奇策」には関心いたしました。たしかに、私が約1年前に「ブラックホース的存在」と評価した作品だけのことはございますね。こういう扱いにしましたか(笑)。

> ◆予想
> 小説部門 『生首に聞いてみろ』、(次席:『暗黒館の殺人』)

これはもう「既定の路線」でございましょう。ただ公にはなっていないだけでございます。
もし『臨場』が単独で受賞したら、私は「逆立ちで世界一周」をしてみせましょう(笑)。

>  ※笠井派の組織票が動くと予想される。また、「このミス」一位、「本ミス」一位 により「文句はないだろう」となると考える選者がいるだろう。(但し、「本ミス」もまた、笠井派の探偵小説研究会によるもので、手前味噌な感じですが。)

ええ。『本格ミステリ・ベスト10』と「本格ミステリ大賞」は、「探偵小説研究会」という部分で癒着した、本物の「シャム双生児」でございますから(笑)。

> 評論・研究部門 『天城一の密室犯罪学教程』
> ※小説部門でノミネートされなかったのは、評論・研究部門で大賞を与えるためではないか。仮に、小説部門でもノミネートされていたら、一位 ・二位にはならないが、組織票の票割れを起こす可能性があるのではないだろうか。

そうでございます。『生首に聞いてみろ』と『暗黒館の殺人』、さらには『螢』という「京大ミス研3部作」の下に措いたのでは、一部に顰蹙を買う怖れがございますが、評論賞を与えて丁重に遇すれば、またもやその「権威を取り込める」――という計算でございましょう。

ちなみに『天城一の密室犯罪学教程』以外の「評論部門」の3冊について検討してみますと、

> 『子不語の夢』浜田雄介編(皓星社)
> 『探偵小説と日本近代』吉田司雄編著(青弓社)

の2著は、ともに「探偵小説研究会」の小松史生子が関わっておりますので、当然この2著は「本格ミステリ大賞」選考委員・予備選考委員などの関係者に献本されてもおりましょう。

> 『名探偵ベスト101』村上貴史編(新書館)

の方は、編者の村上貴史の他、執筆者は梅澤佳奈子・川出正樹・小池啓介・不来方優亜・霜月蒼・杉江松恋・南波雅・羽取慶治・福井健太・古山裕樹・与儀明子となっており、いちおう「探偵小説研究会」のメンバーはいないように見えるのですが、裏の事情はなんとも申せません。また、この先「探偵小説研究会」に加わる予定の人がいないとも限りません。
ともあれ、授賞はさせなくても、候補作に名前を上げることで、別方面の「顔を立てておく」というのは、政治的に言って、(勢力拡大の意味で)決して無益ではないと申せましょう。「候補作選び」というのは、連立与党の組閣人事みたいなものなのでございましょうね(笑)。





( 以下は「俗物世間(7)」につづく)


俗物世間(5) 投稿者:園主  投稿日: 2月 1日(火)02時38分26秒


 はらぴょんさま(つづき)

もちろん、FC2についてのTeacupの対応もこれと同じで、Teacupの言い分は「苦情があったから対応した」「FC2に問い合わせをしたが回答がなかった」だから「FC2については、一括拒否で対応した」「FC2が改善すれば対応するが、それがなければ対応しない」したがって「当方に落ち度はない」というものなのでございますが、この説明はTeacup側の一方的なもので、信憑性は薄いと申せましょう。なぜなら、誰もが正当だと納得しうる理由をもって拒否しているのであれば、そもそも拒否設定の対象を隠す必要など無いのですが、Teacupは『これらの内容の詳細は非公開です。』と、あくまでも「説明なしの秘密主義」を固執するのでございます。しかし、このように「説明責任など無い」と開き直れるのであれば、すこしでも不都合な相手は、すべて「排除」の対象となるのは、当然の成り行きでございましょう。

こうした態度は、喩えて申しますならば―― 日本において中国人による犯罪が増えたならば、中国政府が日本に渡航してくる中国人犯罪者を撲滅しないかぎり、中国人の入国は「一律拒否」する ――というのと同じでございましょう。同じ中国人(FC2のサイト)というだけで、すべてを一律に犯罪者(違法宣伝・迷惑行為サイト)扱いにし、そのことで日本国民(Teacup利用者)の安全を確保したと、Teacupはその「差別 主義」を自慢しているのでございます。

しかし、はらぴょんさんのような「犯罪者は許さないけれど、中国人とのつきあいは続けたい」という真っ当な意見は、Teacupの「事なかれ主義」によって黙殺されます。ある顧客の要望には応えるのに、別 のある顧客の要望は無視する。では、この差が何に由来するのかと言えば、結局それは、判断の基準が、じつはTeacup自身の「保身」にしかない、ということなのでございますね。

Teacupは「お客様の要望により」「お客様のために」と主張するのだが、それが大義名分の「建て前」でしかないことは、そうしたやり方によって犠牲を強いられる人たちの存在に目を向ければ、あまりにも明かなことなのでございます。





( 以下は「俗物世間(6)」につづく)


俗物世間(4) 投稿者:園主  投稿日: 2月 1日(火)02時37分31秒


 はらぴょんさま

> TeacupとFC2について

http://blue.ap.teacup.com/applet/planting_field/msgcate6/archive
> の2004/12/17の記事「FC2とTeacup」に、その理由が書かれていました。
Teacupは、FC2には、違法宣伝などの迷惑行為を行うサイトが多いので、一律書き込み禁止にしているようです。
> しかし、TeacupとFC2の両方を借りている者は、どうなるのか。また、迷惑行為かどうかを自主的に判断しようとしている掲示板管理者に対して、この一律な措置は何なのか。Teacupの措置も、結構迷惑だったりするのですが……。

さすがでございますね。この調査能力、まったく感服いたしました。

私も、Teacupの「無責任体質」に基づく「事なかれ主義」には、前々から怒りを感じておりました。

と申しますのも、ご承知のとおり、私が管理する掲示板は、これまで何度となく「掲示板荒らし」の被害にあい、私はその度にささやかな抵抗を繰りひろげてまいったのでございますが、私に論破された「掲示板荒らし」が、論理や言論では勝てないと見て、サーバ管理者への泣きつき作戦に切り替えたところ、事なかれのTeacupは「苦情が来たので削除して下さい。削除されない場合は、掲示板の使用を停止をします」と、事実関係の調査をすることもせず、ひたすら機械的な対応をくりかえしました。

例えば、自慢げに本名で荒らし行為をし、自ら経歴をまで公開していた、この常習の「掲示板荒らし」に対し、私がそれを逆手に取って「こいつはこういう男です」とフレームアップ攻撃したところ、その「掲示板荒らし」は「プライバシーを暴露された」と訴え、Teacupは即座に「当該記事を削除して下さい」と言ってきました。そこで私が「何が問題なんだ」と削除の根拠を問い返すと、しばらくして「本名が記載されていますので、削除して下さい」などという間抜けな説明をしてきたりするのでございます。
またこの他には、この同じ人物に掲示板を荒らされ、閉鎖を余儀なくされた被害者がいて、私が彼に「貴方が行う報復を私は承認します。許せないのなら復讐すればよい」というようなことを書きましたところ、この「掲示板荒らし」がまた泣きついて、Teacupはまたも削除要請をしてまいりました。で、根拠を尋ねますと「犯罪教唆をしている」と、こういうのでございますよ。

被害者への同情や配慮など欠片もなく、ただただ自分のところに届いた「苦情」を形式的に処理して済まそうとする、下劣で自己中心的な保身主義。これがTeacupという会社の、偽らざる姿なのでございます。
もちろん、これはTeacupにかぎらず、どんな会社・役所・組織にでも見られることなのでございましょうが、折からの「国家権力による、ネット社会の自由制限」に便乗する形で、彼らは露骨に「弱者へのしわ寄せ」を強いて、これっぽっちも恥じようとはしないのでございます。つまり、ことの是非善悪にかかわりなく「イヤなら、よそへ行きなさいよ」という態度を取るのでございます。そういう問題ではないことなどわかりきっているのに、それでもそういう態度を取るのは、彼らが結局は「人間として恥知らずだから」だと申せましょう。





( 以下は「俗物世間(5)」につづく)


俗物世間(3) 投稿者:園主  投稿日: 2月 1日(火)02時36分7秒


さて、なぜこんなことを書くのかと申しますと、それは私が「今のこの感情」に負けたくないからに他なりません。ここで、今の自分の感情を赤裸々に文章化し、そのことによってそれを対象化して突き放し、そのうえでこの苦難を乗り越え「プラスの経験」にまで転じたいと考えて、「愚痴」にしか見えないような内心の苛立ちを、このように公にすることにしたのでございます。


例えば、私は、今の自分の状態を、「宙吊り=蛇の生殺し」状態だと言語化することによって、これは笠井潔が『哲学者の密室』で、ユダヤ人哲学者レヴィナスの思想を援用しながら語った「生の宙吊り状態」、つまり絶滅収容所の中で生への希望を絶たれ、それでも形態的には「まだ生かされている」ユダヤ人収容者たちの「生きながら死んでいる状態」に近いものなのではないか、などと考えてみることが出来るのでございます(これは、あくまでも「私の現状」であり、意識のない父の話ではございません)。

もちろん、私の現状など、絶滅収容所のユダヤ人たちの経験には比べるべくもないものなのでございます。しかし、その「苦痛の度合い=程度」を捨却すれば、そこに共通 して見えてくるのは、人を「殺すでもなく生かすでもなく」といった中途半端な(決定不可能)状態に措き、「覚悟」や「決断」や「対抗意識」を無効化して、人にその無力を突きつける、「とらえどころのない無気味な力」のようなもの、ということになると思えるのでございますね。

こうした現状把握が正しいのかどうかはわかりませんが、ただこのように言語化することで、自分のなかに発生した「やり場のない怒り」を、かなりの部分、相対化して弱めることができるのは、事実実感なのでございます。
例えば、「絶滅収容所の、あるユダヤ人の囚人が、本来その怒りを向けるべきドイツ兵監守よりも、むしろ別 のユダヤ人囚人を憎む」とか、「看病に疲れた家族が、病人をつい憎んでしまう」とかいった「筋違いの怒り=憎悪」という「倒錯現象」も、今の私のように「どこへ怒りを持っていったらよいのかわからない」状態におかれてみると、「なるほど、こういうことだったのか」と頷けるのでございます。

ですから、今の私は、この文章を書くことによって「やり場のない怒り」を対象化し、それを「敵」視することで、この宙吊り状態を逃れようとしているのでございますし、それはわりあい上手くいっているのではないかと、少なくともこの文章を書きながら、斯様に考えているのでございます。

人間にとっていちばん苦しいのは、たぶんこうした「見通しの立たない、不安に満ちた、宙吊り状態」なのでございましょう。いいえ、それが「いちばん苦しい」とは言えないのかも知れませんが、「かなり苦しい」ものであることは間違いありません。――このように、その「強敵」を「敵」として「見定めれられれば」、あとは「負けるものか」と「 決意」し、そこで一定の「自信」と「安心」を取り戻すことも出来た、と斯様に今の私に思えるのでございます。





( 以下は「俗物世間(4)」につづく)


俗物世間(2) 投稿者:園主  投稿日: 2月 1日(火)02時35分10秒


それから、数時間後、館内放送で呼ばれたので、「やっぱりダメだったのか」と思い、弟と二人でICU(集中治療室)へ向かいましたところ、先ほどとは別 の、もう一人の担当医が、私たちに資料を示しながら「先ほど簡単にご説明しましたように、出血が若干おさまってきており、血圧も70くらいまで回復してきておりますので、輸血と投薬を再開しております。また内視鏡の検査を行った結果 、前に止血したところから出血があるのがわかりましたので、再度、止血措置を行いました。血圧が戻ってきているので、何とかしたいのですが、ただ他の臓器が弱っていることに変わりはありませんし、このまま出血が止まってくれるかどうかもハッキリしません。とにかく2、3日様子をみたいので、ずっと待機してもらっているのも何なので、いったん引き上げてもらっても結構です。なにかあればすぐお知らせしますので」という説明でございました。
それを聞いて、私としてはひとまず「段取りが狂った」ということがございましたので、「2、3日はもつのですか?」と尋ねると、医師は「ひとまず現状では今晩は大丈夫だろうと思いますが、状況は決して好転したというわけではないので、保証の限りではありません」という説明でございました。そこで、私と弟は今後の対応を建て直すべく、いったん家に帰り、そのうえですでに昨夜「明日か明後日までの命だ」と伝えてあった、親類や会社に状況の変化を報告せねばならなくなったのでございます。


この時の、私の気持ちを正直に申しますと「イライラしていた」ということになろうかと存じます。なぜかと言えば、父の病状はもとより、私たち自身が決定的な「宙吊り」状態におかれており、見通 しも持てなければ予定も立てらない状態にあったからでございます。
親戚も含め、人は、ひとまず父が死ななかったことを「(ひとまず)良かった」と思うのでございましょう。しかし、当事者である私としては、「父の死」という目前の、ほぼ避けがたい可能性むけて、この2週間、自分自身と母の気持ちの整理をおこない、なんとかその覚悟ができたところで、見事にそれを「はぐらかされた」という感じなのでございます。もちろん、これが「快方に向かっている」ということならば喜びもするのでございますが、状況は単に「死の一歩手前で止まったまま」というもので、まったく楽観はできません。幸い、父に意識はございませんので、それで苦しみが長引くということはない(と信じたい)のでございますが、それを見守るわれわれ家族としては、正直これは「蛇の生殺し」状態なのでございます。

もちろん、これは父が悪いわけではないし、医師のせいでもございません。申すまでもなく、医師としては、若干でも回復の可能性があるのであれば、必要な手を尽さないわけにはいきません。たとえ家族が「このまま死なせてやってくれ」と言ったとしても、ことはそう簡単にはいきませんでしょう。もちろん、私としても、医師が何とかしたいと言っているものを、この段階で、あえて「もういい」とまで言う覚悟はございませんので、医師を責めるわけにもまいりません。
結局、だれを責めるわけにもいかない状態にありながら、まるで自分が父の死を願ってでもいるかのような気分に捕らわれているのが自分でもわかり、それが罪悪感ともなれば、そんな状況におかれてしまったこと自体が苛立たしく、何ともやり場のない怒りに捕らわれていたのでございます。





( 以下は「俗物世間(3)」につづく)


俗物世間(1) 投稿者:園主  投稿日: 2月 1日(火)02時34分12秒

みなさま、現在、ICU(集中治療室)において、心筋梗塞による心不全の治療をうけている、私の父の、その後の容態について、ご報告させていただきます。

一昨日(29日)ご報告いたしましたとおり、腸からの出血のため、28日に内視鏡を使った局部への直接止血処置をうけた父だったのでございますが、翌29日の夜には「やはり出血が止まりません。最終的な判断をしていただきたいので、明朝、病院のほうへ来ていただけますか」との連絡が、病院からが入りました。そこで覚悟を決めた私と弟が、昨(30)日、病院へまいりますと、担当医からは「先日は内視鏡検査により見つかった出血部に対し止血処置をおこなったのですが、全体に腸粘膜が薄れているせいか、そこらからの出血もあるようで、やはり出血の改善が見られず、血圧まで低下してきています。血圧は、通 常150位で、一時110位まで持ち直していたものが、昨日は60まで下がり、現在はさらに下がって40前後になっております。通 常60まで下がると血液が行き渡らず、各所に障害が出て来るのですが、今はそれをも下回っているんです。すでに全身の血液量 の2倍の量を輸血しておりますが、輸血した分がそのまま流れ出ている状態で、肝臓も腎臓も肺も弱っており、輸血も投薬も限界ぎりぎりまで来ております。そこで輸血に関しては、現在ある分を使い切ってしまったら、それで止めようと考えているんですが……」と、概ねこのような話がございました。つまり、出血は止まらないし、内臓はあちこち弱ってきており多臓器不全の状態になりかけている。そのうえ、肝心の心臓まで弱ってきて、補助気付きでも血圧を保てなくなってきたから、もうお手上げだ、という話だったのでございます。

私も弟も、このような説明を予期しておりましたから、私が「わかりました。先生方がそう判断なさったのであれば、私としてはもう何も言うことはありませんから、その様にして下さい。ただ、おっしゃりにくいことでしょうが、あとのことがあるのであえてお聞きします。輸血を打ち切れば、あとは身体が弱って死ぬ のを待つだけだと理解したんですが、それは具体的にいつ頃になるんでしょうか?」そう尋ねましたところ「今日か明日……」という返事でしたので、私が「明後日はないんですね」と尋ねますと「そうですね」という回答でございました。

そこで私は、この決定的な事実を母に伝え、父が亡くなった場合の善後策を話し合うために、弟と共にいったん帰宅いたしました。
帰宅した私の顔を見て、母は「どうやった?」と尋ねましたが、私は「やっぱり、もうあかんそうや(ダメだそうだ)。今日か、明日までいう話や」と率直に伝えました。さすがに母は、この時「そうか」と言って涙をこぼしましたが、すぐに気持ちを切り替えてくれました。
葬儀の話や、それまで伏せていた親類への連絡、職場への休暇願いなどの段取りをし、家には義妹と姪(弟の妻子)に来てもらい、私と弟は父の最期を見届けるため、ふたたび病院に取って返しました。

それが昨日の正午頃で、それから夕刻までは、一般の待ち合い室で本を読んだりして待機しておりましたところ、看護婦さんが見えて「泊まり掛けで待機されるんでしたら、お部屋を用意しましょうか」と申し出て下さったので、お言葉に甘えさせてもらう旨お願いしたところ、しばらくして、開いている個室にベットを余分に入れて、私たちに提供してくれたのでございます。

その部屋でに入った後、弟は疲れていたのか午後9時ごろにベッドに横になると、すぐに寝込んでしまいました。私はしばらく起きていようと深夜0時過ぎまで本を読んでいたのでございますが、「多少は眠っておかないと、肝心な時の対応に差し障る」と思い、思いきって寝ることにいたしました。
結局、朝まで何の動きもなかったのでございますが、午前11時頃、担当医の一人が、私たちが待機している部屋に顔を見せました。私は「とうとう来る時が来たか」と観念したのでございますが、豈図らんや医師の説明は「すこし出血が減って、血圧も若干もどってきているので、輸血を再開しました。また、これからもう一度、内視鏡検査を行い、出血部への直接止血処置を行いますので、しばらくお待ち下さい」という意外なもので、説明する医師も、話が二転三転して申し訳ない、という困惑気味の表情でございました。
もちろん、私たちとしては「わかりました。よろしくお願いします」と言うしかなかったのでございますが、――この予期せぬ 説明を聞かされた時の気持ちは、正直なかなか微妙なもので、少なくとも「うれしい」というものでは全然なく、「なんだそれは?」という感じに近うございました。





( 以下は「俗物世間(2)」につづく)



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