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ネ
か ま の 誘 惑
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なりすます側の論理
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アレクセイ(田中幸一)
【註】……以下の文中で「おかま」という言葉を使用する場合、便宜的にこれを「女装した(女性になりたい、なりすましたい)男性」という意味で適宜使用いたしますので、「男性同性愛者一般 」を指さないものとご理解下さい。「おなべ」という言葉も、これに準じます。
「ネかま」とは、「ネットおかま」の略称。その名のとおり、ネットの「匿名性」を利用して「女性になりすます男性」のことで、一般 的には「嫌悪すべき」「否定的」な存在と理解されているようである。インターネットの入門書を読むと、時々「ネかまに気をつけよう」というようなことが、堂々と警告されていることがある。また、ネット上には「ネットストーカー」と同様、「ネかま対策」を目的とした専門のホームページというのもあるそうだ。パソコン初心者である私が、この種の記事を見て最初に感じたのは、強い「違和感」だった。
「ネかま」を批判する立場の人が、その批判の根拠として持ち出してくる実例としては、
(1)『ネット上で、女性だと思って(直接対面することなく、メールなどを使って)付き合って(交際して)いた相手が、実は「男性」だった。騙された。酷い目にあった』というのが、まずは平均的な形だろう。
しかし、こういう例は「ネット上」だけではなく「ネット外」でもたまに見られることで、
例えば
(2)『可愛い女の子を引っ掛けて、いざベッドインしようしたら、相手は女ではなく男だった。酷い目にあった』などというパターンである。通
常(2)の場合は、相手つまり「おかま」への非難を含んで語られることは、あまり多くない。たいてい、そのような話は『ちぇっ、すっかり騙されちゃったよ。恥ずかしいなあ。でも、あれは誰だって騙されちゃうよ』という「照れながらの言い訳」あるいは「自虐的な笑い話」として提出されることが多い。
たまに
(3)「おかま」を女性と間違えて誘い、いざベットインとなった時、『騙された!』と言って激怒し、暴行傷害事件にまで発展してしまい、冷やかし半分の新聞記事にされるなどということもある。
実際、「(女装の)おかま」と言っても、一見して「女装した男性」にしか見えない人もいれば、「女性にしか見えない男性」も存在する。当然、問題は後者の場合に発生するわけなのだが、こうした「誤認」事件の責任は、いったい誰にあるのだろうか? 女装をして女性になりすましている「おかま」の側には、当然「騙すことになるだろう」という認識はある、と言ってもよいだろう。もちろん、女性が「ミニスカートを履くのは(化粧をするのは)、男性を喜ばすためではない」と主張するのと同様に、「おかま」の女装は「他人を騙す」ことが目的なのではなく、自分が「女性になりすます」、つまり「自己の肉体を欺く」のが目的であり、「他者」を「騙す-騙される」というのは排除できない「付随的結果 」だという見解も当然出てくるだろう。だが、この「付随的結果」自体にまったく無自覚であったなどという例(女性になりすましているのに、女性だと誤認されるとは思わなかったという事例)は、ほぼありえまい。だから、外見的に「女性にしか見えない、女装の男性」には、たとえ「女装することそのもの」が目的で、他人に「誤認」されることが目的(主眼)ではなかったとしても、「結果 として、他人に誤解を与えることもあろう」というくらいの「未必の故意」は認められるはずである。そうした意味で、結果 としてではあれ「騙された」男性の「被害者意識」は「正当」なものだ、とされてもおかしくないなのだが、……なぜか(2)や(3)の事例に対する世間の反応は、「騙された(誤認した)男性」に対する「同情」よりも、むしろ「みっともない失敗に対する笑い」の要素が大きく、また「騙したおかま」に対する非難は、ほとんど見られない。だからこそ、「騙された男性」からの報告が「照れながらの言い訳」であったり「自虐的ギャグ」になるのだし、その手の新聞記事が「冷やかし半分」のものともなりうるのである。
では、いったいなぜ、ほぼ一方的に「騙された(と言って良い)男性」の方が「世間の物笑い」になって、結果 としてではあれ「騙す」ことに「未必の故意」があったと言っても良い「おかま」の方が、非難されることが少ないのであろう? 世間の大半を占めるのは、言うまでもなく「おかま」でも「おなべ」ない人たちである。つまり、世間の大半は、こうしたトラブルの被害者になることはあっても、加害者になることなど、ほとんど考えられない人々である。ならば、世間一般 は「騙された男性」に同情し「騙したおかま」を非難する方が、(ことの「正邪」は別 にして)心理的に「自然」だとは言えないだろうか? では、なぜ一般的に世間は(多くの人は)、そういう反応を示さないのか? それは世間一般 の「おかま」に対する認識が「(悪意の)欺瞞者」というものではなく、「(無邪気な)趣味の人」というものだからではないだろうか。
言うまでもなく「女装者」の大半は「他人を騙すため」に女装するのではなく、「女装」し「女性になった気分を味わうため」に女装するのである。もちろん例外はあるが、「女装者」は一般 に、「女性になりたい」という願望を、好むと好まざるとにかかわらず、抱え込んでしまった人たちなのだ。その意味で彼らは、肉体的には男性でありながら、精神的には「女性」であったり「女性に憧れ」ていたりして、精神としての「男性」に強い違和を感じている人たちである。
「性」の問題というのは、ややもすると「公の場」で論じることが避けられがちなのだが、近年、「性同一性障害」の問題なども大きく取り沙汰され、これまで国内では不可能だった「性転換」手術が、その是非をめぐって、専門家や「性の同一性」に悩む人たち、彼らを支持する人たちの間で、真剣に議論されている。ひと昔前なら「女装者」「おかま」と言えば「変態」や「異常者」として、一般 人からの蔑視を受け、彼らの「真情」が理解されることはなかったし、また「理解」しようとすること自体を「恥」だと思う人も少なくなかったはずだ。だが、今は違う。一般 に「おかま」に対する認識は、随分改善されていると言っても過言ではない。そうした背景があってこそ、「性同一性障害」などといったことが「社会的な問題」として議論されるようにもなったのであろう。……しかし、「おかま」ではない多くの一般 人が、なぜ「おかま」の心に「(共感ではなく)理解」を示すようになったのか? 私はその大きな理由のひとつとして、現代人にとみに高まっている「変身願望」に着目しているのである。
人には本質的に「今ここ」から離れて、どこか違う場所へ行きたい(自分という束縛から逃れたい)という願望がある。「知らない場所(時空)へ行ってみたい」「新しい何かが見たい」「新しい何かが聞きたい」そして「新しい自分になりたい(変わりたい)」。
「本質的な停滞」とは、端的に言って「死」である。「変化」の「刺激」を求めるからこそ、「生物」は生きていけるのだとも言えよう。ことに人間は他の動物とは違って「空想する動物」だから、その「変化」の願望は、「物理的制約」を簡単にとび越えてしまう。人間はそうした「変化への願望」を満たすべく、これまでにも様々なものを作り出してきた。「化粧道具」や「仮面 」などが、その典型例だし、実用の域を越えた「衣裳」も同様で、それらは、それを身に付ける者を、付ける以前とは「別 の者」に「変身」させてしまうのである。つまり、こうした変身のための「呪具」が、人間の歴史とほぼ同時にあらわれることからもわかるとおり、人間は本質的に「空想する動物」であり、おのずと「変身願望」をその本質として持っているのである。ところが「化粧道具」や「仮面 」「衣裳」で、人は完全に「自分以外のもの」になれるだろうか? たしかに「一時的」にはそれも可能であろう。だが、他者に対して半永久的に「自分以外のもの」になってみせるのは、これまでは主に「技術的な問題」として、まずは不可能であった。「化粧」は落とせば「素顔」が現れるし、「仮面 」は外せばお終いである。同様に「衣裳」も脱げば「正体」がバレてしまうのである。
人には「変身願望」がある。そして、それはしばしば「一時的な変身」に止まらず「半永久的に、今の自分以外のものになってしまいたい」というものである。だが、「今の自分(素顔、正体)の拘束」というのは、途方もなく強い。『人は精神のみにて生きるに非ず』……。にもかかわらず、現実的肉体の拘束は、その「物理的」現実性において、これまでは「技術的」に、容易に克服できるものではなかった。だから人は「変身願望」の充足に「自主規制」をかけ、過剰な「空想」を自らに戒め、「失望」の予防に努め、さらにはそうした「自主規制」ができない「意志薄弱」な一部の人間を「蔑む」ことにより、「充足されない願望」への「不満」から、自ら目を逸らし続けてきたのである。
ところが、現代医学の進歩により、「形成外科」を中心とした「物理的・外見的-肉体改造技術」が大いに進歩し、近年たいへんな勢いで「一般
化」した。経済的問題を抜きにすれば、今や技術的には、外見上「男を女に」「女を男に」改造することは、ほぼ完璧になし得るだろう。だから、人は現代においては、種々の困難は伴うにせよ、少なくとも物理的-技術的-現実的-限界を理由に、自己の「変身願望」を「自主規制」する必要がなくなってきたのである。
また、それと同時に、映画などではコンピュータ・グラプィックの進歩により、もはや外見上は「現実」と「虚構」の継ぎ目が完全に見えなくなるという自体を、見る者の前に圧倒的な説得力を持って突きつけはじめた。そしてその結果
、『見掛けだけなら、どうとでもしうる』という観念を、ビジュアルイメージとして人の心に植え付けはじめたのである。
つまり『人は今の自分以外のものになりうる』し、『そうした願望は決して「不自然」なものではない』という認識が、既に一般 化しはじめている。そして、それまでは「願望垂れ流しで、自制心に欠けるやつら」だと感じられていた「女装趣味者」「おかま」などに対する評価も少しずつ変化し、今や「俺(私)個人は女(男)になりたいとは思わない。けれど、自分以外のものになりたいという願望は俺(私)自身にもあるから、その部分では、俺(私)は彼らを理解することが可能だ。共感は出来ないまでも変わりたいという気持ちは理解できる。ただ、その変わりたい対象が異性だという点で、俺(私)とは趣味が合わないだけだ。当然、趣味は人それぞれで、善悪の問題ではない」というような感じ方が、一般 化しつつあるのである。つまり、一般人の間においても、もはや「おかま」は蔑視すべき対象ではなく、単に「変わった趣味の人」たちという認識が普遍化しはじめていると言ってよい。だから、逆に言えば「女装すること」自体は、通 常のファッションと同じ「趣味の問題」であり、「紛らわしく」はあっても、それで「性差」を示す「義務」などないと考えられるようになりはじめているのだ。そして、さらに それは『何も「昨日今日にはじまったこと」ではなく、ずいぶん昔から「ボーイッシュな服装」とか「中性的ファッション」などと呼ばれ、一般 にも受け入れられ「流行」にすらなっていたことであり、「女装」も所詮はその延長線に上に位 置付けられる行為でしかな』……ということにもなっていく。
つまり、結論的にまとめれば『現代において「女装(男装)」は「完全な自由」であり、そのことで人(おかま、おなべ)を非難するいわれ(正当な理由)は無い。だから、彼らが「女装(男装)」していたという「その一点」を持って、彼らが他人を「騙した(騙している)」と非難するのは、非難する方のお門違いである』ということになる。つまり今や人は『人を外見だけで勝手に決めつけてはいけない』のであり、それは「性別
」についても然りなのだ。
したがって「女性だと思って引っ掛けたら、男性だったので、びっくりした」といトラブルは「女装者」の方に「悪意の欺瞞」がない限り、「騙された」のではなく「間違った」方の「不注意」ということになり、「勘違い男」である彼は「同情」されるどころか「笑い者」にされたり「冷やかし」の対象になってしまう、ということになるのである。
さて、ここで問題となるのは「悪意の欺瞞」という点である。「女装者」が何も言わないのに、相手が一方的に「女性だ」と決めつけたのなら、それは「外見だけで決めつけた」方が悪い(過失が大きい)。けれども、「勘違い」によって引っ掛けた後、その男性が「女装者」に対し「君は女性だよね?」と確認は取らないにしても「君みたいな可愛い女性は知らない」とか「君は最高の女性だよ」などと言い、それをその「女装者」が「否定しなかった」場合はどうだろう。「否定」しなければ、たしかに「誤解」は助長される。しかし「勝手な誤解」を解かねばならない「義務」が「女装者」の方にあるのかといえば、それは「無い」と言えるのではないか? 「女装」の問題だけではなく「間違い(間違われ)やすい」状況というのは世の中にいくらでも存在する。そして、それが人為的に作られている場合も決して少なくはない。けれども、それですべての人が「間違う」わけでもないし、間違ったところで「被害を被る」わけでもない。また場合によれば「騙して楽しませる-騙されて楽しむ」ということも、いくらでもあることなのだ。だとすれば、「特殊例外的に、自ら被害者になる者の側にこそ、本質的な問題がある」とは言えないだろうか? 例えば、「女装者」を引っ掛けた男性が、その「女装者」に「君は本当に女性なのか?」と問い、「女装者」が「私の肉体はどうあれ、心は女性だ。私の本質は女性だ」という信念の下に「はい、私は女よ」と答え、男性が完全に「生物学的肉体的女性」だと思い込んでトラブルとなった場合、これはどちらに、より「責任」があるだろうか? 問題となるのは「女性」という言葉に対する、両者の「定義」の食い違いである。引っ掛けた男性の方は当然「肉体的に女性なのか?」と言う意味で問うている。なぜなら、この場合、彼の主目的は「女性の肉体」だからである。一方、引っ掛けられた「女装者」にとって重要なのは「女性としての心」であり、決して「肉体」ではない。さて、こうした「価値観」の食い違いによりトラブルが発生した場合、どちらにより多くの責任があるのだろう。これはかなり難しい問題かも知れない。と言うのも、引っ掛けた男性の質問が「肉体的」なことを意味しているのは常識的に了解できるからで、「女装者」の答は「わざと質問の意図を逸らし、意識的に相手を騙した」とも言えるからである。だがしかし、それでも私は「女装者」の「返事の責任」を問う気にはならない。なぜなら「女装者」がこの段階で男性の質問の意図に気づいていたとしたら、このままこの男性とベッドインすれば、男性が「騙された」と怒り出すのは目に見えているはずだからである。なのに「女装者」は、なぜ男性についていって「肉体」を男性に曝してしまったのか? それは「女装者」たる彼が「精神的には女性」であることを考えれば、容易に想像できることではないだろうか? つまり彼は自分を引っ掛けた男性に、男性としての魅力を感じた。だから「女性として」抱かれたいと考えた。「抱かれうるかも知れない」とその可能性に賭けた、とは考えられないものだろうか?
もちろん、中には引っ掛けた男性を驚かせて喜ぶ類の不届き者もいるだろう。だが、そういう者は論外として、大抵の「女装者」は大真面 目に、「止むに止まれず」女装しているのである。だから、そんな彼らが「私は女よ」とあえて言った時のその気持ちを、私は一概に「嘘」だとは言えないし、それを責める気にもなれないのである。それよりはむしろ女性を「性欲の対象」としか見ず、そのために「女装者」の心を慮ることができずに、単純に「騙された」と怒り出した男性の「自分勝手」の方を、私は責めたいと思うのである。
たしかに「不用のトラブル」は避けるべきだろう。「君はホントに女性か?」と問われれば「肉体的には男だけど、心は女よ」と答えるに越したことはあるまい。しかし「私は男なのか女なのか? でも私は女でありたい」とそのことで苦しんでいる人に「肉体は男だけど、心は女よ」と答えろと言うのは、あまりに酷な注文なのではないだろうか? 私には「そんなことを問うことの方に問題がある」としか思えない。「君は本当に日本人か?」「君の本籍地は、本当にここに書いてあるとおりなのか?」。……「君はホントに女性なのか?」という質問が、こうした質問と本質的にどれだけ違っていると言えるのだろうか? だから、私に言わせれば「君はホントに女性か?」と問い「そうよ」と答えられ、その後その「女装者」から「男性の肉体」を見せられたとしても、そこで単純に「騙された」と怒るのではなく、せめてもう一度「君はさっき女性だと言ったよね? これはどういうことなんだい?」と説明を求めるくらいのことはしてほしいと思うのだ。そうすれば「女装者」は「肉体は男だけど、心は女よ。私は女のつもりよ。決して嘘を言ったとは思ってないわ」と答えることもでき、ここでお互いの食い違いも判明して、「そういうことなら申し訳ないが、私にはそういう趣味はない。済まないが、勘弁してくれ」と言うことも可能なのである。「趣味」が違うと一方的に怒るのではなく、「違う」のなら「残念だが交流は出来ない」と、そう考えるべきなのである。「女装者」は、その肉体を曝し、その結果 、相手から拒絶された段階で、拒絶者の態度がどうあれ、その「心」は傷ついたことだろう。厳しく撥ねつけられようが、やんわりと断られようが、傷つくことに違いはなかろう。だが彼がそういう「引き裂かれた」生き方を自ら選んだ以上、そういうことで傷つく覚悟も、ある程度はしていたはずだ。だからこそ逆に、私はそういう彼らを「抱けない」にしろ、せめてもう少しその「心」を察しってやっても良いのではないか、と思わずにはいられないである。
さて、やっと話は「ネかま」まできた。「ネかま」の問題点は、普通の「おかま」つまり「女装者」とは違って、「姿が見えない(声も聞こえない)」という点にある。私たちに与えられるのは、ただ「文章」のみ。「女性」であることを「匂わせたり」「明言したり」する「文章」のみである。だから「ネかま」は「おかま」に比べて、極端に垣根が低い。「おかま」は、世間にその姿を曝すことになるため、世間の物笑いや差別
の対象となる覚悟なしには、なかなかなれるものではない。だからこそ、それほど彼らの「女性化願望」は切実であり、「おかま」としての覚悟も半端なものではないと言えるのである。ところが、ネットは基本的に「匿名」だから、自分が「ネかま」だとバレても、ネット外の自分が「おかま」呼ばわりされる恐れはほとんどない。だから「おかま」になるほどの覚悟はないが、それでも「女性化願望」のある人などが「ネかま」になるし、中にはそんな「願望」など全く無いのに、興味本意で「ネかま」をやってしまう人も出てくるのである。
そうなると「タチの悪い」輩が出てくるのは、もはや必然である。例えば、どこかで読んだ話だが、ある男性が女性の振りをして標的の男性に近づき、少しづつ好意のある素振りを見せて、標的の男性をその気にさせていく。一方で女性を演じているその男性は、自分が女性を演じて、標的の男性を誑かしているのだと言う事実を、周囲の友だちの漏らしておいて、標的の男性を意図的に笑い者にしたという事例がある。これが「人間として許されない行為」であることは論を待たない。だが、この種の人間はネットに匿名性がある以上、決していなくなりはしないだろう。つまりネットの世界には、こういう「悪質なネかま」というのも、残念ながら存在するのである。だからネット界の特殊性を知らない初心者に「ネかまに気をつけてください。女だと名乗っているものが、本当に女だという保証はありませんよ。騙されないように」と注意喚起すること自体は決して間違いではないと思う。しかし、そういう「最悪の事態」を恐れるあまり、「ネかまという行為」自体が絶対的「悪」であるかのように言ったり、「ネかま」の人はすべて「人を騙して喜んでいる悪人」だと決めつけたりというような、短絡的「誤解」が語られてもならないのだ。だが、残念ながらネット界の言説のなかには、そうした短絡的言説が少なからず存在するのも、また否定し難い事実なのである。
「女装者」が他人の「誤解を招く」部分があるように、「ネかま」という行為はたしかに人の「誤解を招く」行為である。しかしネット外の世界で「おかま」や「女装者」が「趣味の問題」であり、「個人の自由」として認められている以上、ネット界での同様の行動が「自明の悪」だとされてしまうのは、どう考えてもおかしいのではないか。 ネット外の世界では他人と上手にコミュニケーションを取れない人が、ネット上でだけコミュニケーションを取ることが出来、それで救われているというような例が決して少なくないように、「性転換」や「女装」をするほどの勇気はないが、ネット上でだけでも「女性として生きる」ことで慰められている人だってきっといるはずなのだ。そうした、いわば小心で真面 目な「ネかま」の存在を無視して、「最低の部類」だけを問題視し、「ネかま」を一括りにして排除してしまおうという「粗雑」な考えを、私は決して容認することはできない。
たしかにネットの世界は、稀有に「自由な世界」であるにもかかわらず、その歴史の浅さから「良識」や「常識」「モラル」といったものが確立していない。そのために、個人的な判断(都合)により、かえって「(オフの世界よりも)極端に厳しいローカル・ルール(自主規制)」が設定されてしまったりもしているのだ。「黎明期」にあるネット界では、こうした混乱や試行錯誤は避けられないものだろう。だが、話を「ネかま」に限っていえば、たとえそれが一般 人には関係のない「特殊な趣味の人たち(少数者)」のことだとしても、彼らに行為に「悪意」がない限り、我々は彼らの存在を、粗雑な認識によって一括りにし「排除」したりすべきではないのである。「他者としてのネかま」に対する「粗雑」な思考と態度の裏には、「旧弊で硬直的な倫理観」「想像力の欠如した道徳観」が隠されているとは言えないだろうか。
ネット界の「自由」を、その「両刃」性ゆえに「規制」することは簡単だろう。だが、それでは我々がやっと手にした「可能性」を、自らの手であっさりと放棄することにはならないだろうか? 少なくとも「ネかま」に関して言えば、ネット外の世界(つまり規制の厳しい世界)の方では「誤解の可能性」も含んだ上で、それでもなお「おかま、女装は自由」ということで、すでに公認されているのである。それが「より自由」であるはずのネット界おいて、「より厳しく規制」され「排除」され「侮蔑」されるのは、どう考えても「おかしい」。たしかにネット界特有の「匿名性」ゆえに、「ネかま」は「おかま」や「女装者」よりずっと大きな危険を孕んではいるだろう。しかし「匿名性」ゆえに「危険」だから「規制」「排除」するというのなら、それは何も「ネかま」に限った話ではなく、「ネット・コミュニーション」のあり方そのものが、根底から問われざるをえないはずだ。
「匿名性」が無くなれば「犯罪行為」は確実に減る。けれども、はたしてそれで良いのか? 「管理された不自由だが、安全な世界」を取るか、「危険はあるが自己責任の下に生きる、自由な世界」を取るか。これは我々が真剣に取り組まねばならない難問だとは言えよう。……ただし、「ネかま」の問題だけが、そうした本質論から切り離され、自明の選択であるかのように「規制」「排除」されるとすれば、それは「ネかま」や「おかま」や「女装者」という少数者に対する「想像力の欠除」であり、それに由来する明白な「差別 」、不当な「迫害」をしか言えないのである。
「人間の想像力の自由と、その実現」という意味でも、「ネかま」の問題は決して軽視してよい問題ではない。いや、「他人事ではない」……と言っておきたいのである。
2000年 5月 8日
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● 私の「男女」観 ●
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私は、ことの『是非善悪』を曖昧にするのが嫌いである。安易な相対主義は、頭の悪い意気地なしの恥知らずな言い訳でしかないと思っている。ハッキリさせられることはハッキリさせる。相対論は、そこから先の話なのだ。
「男女」の問題も同じで、私は「男性」と「女性」が、まったく同じだとは思わない。「歴史的」に作られたものを「性別 的本能」だと思い違いしてきた部分(歴史的事実)というのは確かにあると思うが、それが全てでもないはずだ。「男性」と「女性」とでは、その「肉体的構造」が違っている以上、「脳」に働きかける「ホルモン」にも当然「物理的な差」がある。だから「物理的理由」によって、「男性」と「女性」に「性質上の差」があるのは自明のことだと、私は考えるのだ。
このように、私は『物理的事実』を無視することはしない。だが、それだけで「物事の本質」が決定されるとも思わない。『先輩後輩』『年上年下』『男女の性別 』といったものは確かに「存在」する。だが、またそれは単純に「二分されたもの」「相容れない・2つの性質」として存在しているとも考えない。それらは相補的に「連続的変化」する2つの性質の、仮定的2極点(観念上の2極点)でしかない。だからこそ、「性別 」の場合には、「中性」としての両性具有者も実在するのである。そして、それはいたって「自然」なことなのだ。そういうものこそが「自然」だと言い換えても良い。つまり、逆に言えば……「きれいな二分」の方こそが、じつは大衆的に理解しやすい「フィクション(観念)」だったということなのである。
「男女性別」について、私のイメージモデルをもう少し具体的に書かせてもらおう。
私の考える「男女」のイメージモデルは、その両極を「男性性100%・女性性0%」の人間と「男性性0%・女性性100%」の人間、という具合に考える(設定する)。これが「補完項」に向かって段階的バリエーションをなしているのです。つまり「男性性99%・女性性1%」、「男性性98%・女性性2%」……「男性性50%・女性性50%」……「男性性2%・女性性98%」「男性性1%・女性性99%」、という感じである。しかし、ここで注意してもらいたいのは、これはあくまでも『両性の含有比率』であり『保有量
』ではない、ということである。つまり同じ「男性性50%・女性性50%」であったとしても、ある人物のそれを「男性性1・女性性1」とすると、別
のある人は「男性性100・女性性100」であり、また別のある人は「男性性0.1・女性性0.1」であるといった「保有量
の違い」があるということなのだ。つまり「男性性100%・女性性0%」の人間が、必ずしも「男性性1%・女性性99%」の人間より、常に「男性的」とは限らない。その100%の量
が「1」の人より、1%の量が「30」の方が、「男性性」の『量』は絶対的にも相対的にも多いからである。
さらに言うと、この『両性の含有比率』は「精神面」と「肉体面 」の両面に存在する。つまり「精神面」では「男性性99%・女性性1%」なのに、「肉体面 」では「男性性1%・女性性99%」という場合もあるということだ。こうした場合が「性同一性障害」と呼ばれるのであろう。もちろん「精神面 」と「肉体面」はリンクしているので、大抵の場合は、ここまで極端に食い違うことはない。けれども、必ず「例外」のあるのが「自然」というものなのだ。
つまり人間には、「精神面」と「肉体面 」の両面で、その『両性の含有比率』と、それぞれの『保有量』において、千差万別 のバリエーションがある(さらに言うと、それが「時間的にも変移する」)……というのが、私の「男女性別 」観なのである。だから、私は「誰よりも男性的でありながら、かつ誰よりも女性的でもある」というようなことが、矛盾なくありうると考えるのだ。
そういう意味でも、単純な「ニ分法」というは「自然の複雑多用さ」についていっていない「粗末な観念」であると思う。
……ちなみに、ここではイメージモデルとして、あえて図式化をしたので、『「男性性100%・女性性0%」の人間と「男性性0%・女性性100%」の人間』という『両極』が示されたが、実際の自然には「100%」も「0%」も存在しないものと私は思う(あったとしても、それは測定し確定することが「不可能」である。なぜなら無限精度の計器など、この世には存在しないからだ。「100%」とか「完全」とは、常に「仮」のものでしかない)。つまり、「ある」のはそう見える(人間には、そうとしか認識できない)「99.99999…999999%」や「0.00000…000001%」なのだ。
したがって、『多かれ少なかれ、誰の中にも、男性と女性は存在する』というのは、間違いのない「事実」なのである。
2001年 4月 9日