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★ 京 極 百 珍 ★
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京極夏彦をめぐる40の設問
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世に言う妖怪小説は、「姑獲鳥の夏」「魍魎の箱」「狂骨の夢」「鉄鼠の檻」「絡新婦の理」「塗仏の宴」。すなわち是れなり。その令名読書界に高くとも、本巻解説をつぶらにせず。いと惜しむべきことならずや。よりてアレクセイ園主の協力を受け、この庵「京極百珍」を作り設け、因を推し、果
を説きて、婦女子の眠りをさますものなり。
楽古堂主人・大内史夫識
疑問1:「京極夏彦が選ぶ!水木しげるの未収録作品集(ちくま文庫)」の「怪説」で京極夏彦(文中敬称略)は、「作品の善し悪しを決める基準など、とどのつまりは嗜好性でしかない」と、明確に断定している。ぼくたちは野暮を承知で、各自の「嗜好性」を開陳して試行錯誤するしかない。そんな「試行性」を持っているのがこの場所だ。名付けて「京極百珍」とする。どの疑問でもいい。知っていることや推理していることがあったら、BBS「アレクセイの花園」にメールをもらいたい。あなたの疑問を付け加えてもらってもいい。楽古堂(らっこどう)と気軽に呼び掛けてもらってかまわない。解答のない疑問があってもいいだろう。この「指向性」で間違っていないだろうか。ご協力を願う。
疑問2:ぼくが、いわゆる「新本格」の作家で真剣に読んでいるのは、竹本健治ぐらいである。京極は「どすこい(仮)」で分かるように、「引用」の名人である。「新本格」からは、どんな作品のどんな場面 が、「引用」されているのだろうか。
疑問3:ぼくは「鉄鼠の檻」から読み始めた。しかし、今は、「姑獲鳥の夏」から発表順に読み始めた方が、分かりやすかったと思っている。あなたは、どうだっただろうか。
疑問4:「詐欺師の起源は、遠く人類の発生期に求められる。多分、最初の詐欺師はアダムであろう。」エドガー・アラン・ポー。中禅寺秋彦も又市も詐欺師である。それで良いか。
疑問5:「我々は、だれしも少年時代、偉大だとは言っても、恐らく作り物の偉大さにすぎないのだけれど、それでもやはり、重々しくのしかかってくる人物や事件に、なんらかの賛嘆を感じたのではないか。」バルザック。中学高校時代に、先輩達に感じた威圧感を思い出してみよう。京極のキャラクター群像には、この関係が潜在していないだろうか。たとえば、榎木津とその探偵チームに。
疑問6:ネット・サーフィンをしていると、それぞれのキャラクターのファンの人たちが、まるでテレビのタレントやアイドルの噂話をするように、楽しく彼を話題にチャットしている光景に出会う。それを可能にするのは、まず京極の作品世界のリアリティーだろう。他には何か。
疑問7:学生に薦められて昨年末に「鉄鼠の檻」から読み始めた。京極版「薔薇の名前」と呼べる作品だった。楽しかった。他に映画からの「引用」には何があるか。鈴木清順の「ツゴイネルワイゼン」と、黒沢明の「天国と地獄」の刑事達の捜査会議の現場を見付けたが。
疑問8:正月休暇に、妖怪小説6編を一気に読破した。「母」「科学」「カルト」「仏教」「男女・性・ジェンダー」そして「家族」。日本人にとりついた妖怪のような大問題を、つぎつぎと祓い落とす。京極の力技を、堪能させてもらった。「金」という妖怪の憑物落としが残っている。他には何があるか。
疑問9:絵、書、写真と多彩である。江戸の文人を思い出させる才人である。京極の才能は、生来の感覚の鋭敏と個人の克己心の結果 であろう。その子供時代の環境は、どのようなものであったか。伝記的な事実が明らかになるのは、いつのことだろうか。
疑問10:時に、京極はこっけいなぐらいに真面目である。たとえば「鉄鼠の檻」。終幕に、つぎつぎと悟っていく僧侶達。その光景には、異様な迫力があった。京極の祈りを聞いた。作品のリアリティを犠牲にした、俗世間と隔絶された修業生活への憧憬と称賛。めったに聞けない京極の歌がある。「どすこい(仮)」でも、そんな文章があった。ぼくの感想は、これで正しいか。これもまた、京極の「呪」にかかっているのか。
疑問11:文庫版の解説は、現代の推理小説の世界を代表する知性の文章だと思うが、それにしては、どうもおかしい。笠井潔は、「京極理論」による小説の記述者としては、関口巽のように「見えるものが見えない」曖昧朦朧とした視点が、どうしても必要であるかのように書いている。それは主に「姑獲鳥の夏」と「魍魎の箱」の場合であろう。六編を読了しているのに、どうしてこんなことを言うのか。
疑問12:文庫版「魍魎の箱」の解説の山口雅也は、榎木津、木場、関口を京極堂が「使役」する「式神」だとする。「使役」とは、「使役する」という動詞になって、人を使って仕事をさせること。働かせることの意味になる。これは、実情とはかなりずれがある観察ではないか。
疑問13:山口雅也は、第二次世界大戦を経験し、傷ついた男たちの厚い友情の物語に「式神」という表現を使う。「京極作品という妖怪に取り憑かれている」ためなのだろうか。
疑問14:ユングのタイプ論を使って、思考(京極堂)と直感(榎木津)の縦軸に、感情(木場)と感覚(関口)の横軸を作る十字形を考え、それぞれが京極という人間の分身だと言える。京極はユングを読んでいる。偶然の一致ではないのではないか。
疑問15:山田正紀は、「ブラインドサイト」の探求者として関口一人を強調する。これも「姑獲鳥の夏」と「魍魎の箱」はそうであろう。しかし、以下の作品では、木場、鳥口、伊佐間、今井、久遠寺老人等々と重心が移って行く。「絡新婦の理」では、関口は冒頭と最後で重要な役割を持たせられるが、後はほとんど出て来ない。「塗仏の宴」では、関口も木場も、そればかりか中禅寺兄妹も、それぞれの「ブラインドサイト」を凝視させられている。ここでは、ほとんど全員が「見えるものが見えない」状態だ。「ブラインドサイト」とは何だろうか。
疑問16:文庫版解説のお三方とも、関口の存在を強調することで、次のことを言おうとしているだけのように思える。関口はワトスンである。京極堂は、ホームズである。ワトスンと、ホームズがいるのだから、京極の小説は「探偵小説」である、つまり、ジャンルの区別 に、やっきになっている。彼の世界は、そんな従来の分類におさまらないくらい巨大だから、水木しげる先生が、わざわざ「妖怪小説」という、新しい呼称を与えてくれているのではないか。
疑問17:「この世には不思議なことなど何もないのだよ」という、京極堂の決めの台詞を、一般 的な命題のように扱っても別に構わない。が、そこからは、彼は単純な合理主義者ではないという、当たり前の結論が導かれるだけだ。そんなことは、読者のみんなが分かっている。同じ分かり切ったことを言うのならばどうして、この言葉の尻尾についている「関口君」という文句を無視するのだろうか。恥ずかしいとでも言うのか。ここには、精神を病む友人をねぎらい、いたわる京極堂のやさしさがある。彼は、友人に与える慰撫の効果 を計算して、この言葉を使っている。言葉には、それが発せられる時と場所と機会がある。そこに友情を読めば良い。ごく普通 の読者が共感していることだ。血肉の通った生きたキャラクターのそれぞれに、各サイトでファンが大勢いることがなぜ見えていないのか。
疑問18:解説には字数制限という厳しい制約がある。出版社の意向もある。自由な発言の場所ではない。書き足りないことがあって当然である。解説者は、推理小説の世界を代表する高い知性の持ち主である。それでも、そういうものとして読むしかないのだろうか。
疑問19:それにしても、男達の友情の物語という作品の美点を、どうして無視するのか。普段は、関としか呼ばない名探偵榎木津が、友を関口と正確な名前で呼び掛けるのは、彼なりの励ましの機会だ。「塗仏の宴」で、強敵モリアーティと対峙するホームズ中禅寺秋彦を、全身全霊を上げて守る快男児、榎木津礼二郎のなんというかっこよさ。そうではないか。
疑問20:現代の小説では、藤沢周平や池波正太郎の時代小説でしか、描かれていなかった友情だ。京極は、推理小説の良いところも、時代小説や映画のそれと同じように、自家薬篭中のものとして、十分に活用している。それで十分ではないのか。
疑問21:関口はワトスンでなければならず、京極堂はホームズのような論理的な名探偵でなければならないのか。解説者は、「推理小説」「探偵小説」という妖怪に、憑かれている。そうではなくて、今までになかった新しいタイプの面 白い小説があるだけではないか。
疑問22:山口雅也の京極堂と山片燔桃の比較は鋭い。誰も言えなかったことである。「合理(陽)と非合理(陰)の熾烈な攻防の果 てに弁証法的に立ち現われる超合理主義者」という定義は、簡潔で美しい。その彼が、どうして、友人を「使役」しなければならないのか。そんな場合がないとは言わないが、自発的に動いている(陽)の場合の方が圧倒的に多い。それとも、操られて動いているのか。(陰)に一方的に偏したことにならないか。
疑問23:「絡新婦の理」では「ブラインドサイト」の主要な探求者は、伊佐間一成ではないか。関口巽は、最初と再度で重要な役割を果 たす。京極は、関口巽がいなくても、自分の世界が成立するという証明をしたかったのではないか。
疑問24: 「自分は中身の入っていない箱だ」五五ページ文庫版「魍魎の箱」 「少し揺れる。木場という箱の蓋が開きかかる」文庫版「魍魎の箱」六三一ページ 「魍魎の箱」で、「ブラインドサイト」を探索する中心は、関口ではなくて木場ではないか。
疑問25:今井と久遠寺老人が「鉄鼠の檻」では、「ブラインドサイト」を凝視するその役割を負う。「ブラインドサイト」の一面 とは、己れの忘れ去ったふりをしている過去の記憶でもあろうか。
疑問26:「まったく、君達はどうして隠棲している僕をこうしてひっぱりだすんだ」中禅寺秋彦。中禅寺の、「隠棲」の理由は、戦時中の彼の研究とその上司の存在のゆえか。
疑問27:「魍魎の箱」で、鳥口に霊能者の摘発のために「お知恵を拝借させて下さい」と頼まれた中禅寺の表情を、「私にしか解らなかっただろうが京極堂は慥かににやりと笑った」と関口が古い友人として鋭い観察をしている。これは、鳥口の「妹」敦子に寄せる好意を彼が知っているためだろうか。
疑問28:小さなことだが、京極は「慥かに」と書く。これは、普通は「確かに」である。ぼくのワープロではこれしか変換しない。しかし、「確」は、石へんであるように、もともと心の意味はない。だから、りっしんべんの「慥」方が、心の意味に近い。同様に京極の「たとえ」は、常に「仮令」であって「例え」とはならない。「例えば」はよいが、「例え」は誤用であるからだ。言葉使いひとつをとっても、京極はたいへん神経質に細部に拘泥する人である。この性格が、重厚長大な作品にリアリティを与えている第一の原因ではないか。
疑問29:疑問27であるように、京極では細部の意味を、前のページをめくり直して確認していく発掘作業が可能である。そして、それはたいてい発見の喜びで報われるのだ。京極の小説は、ドストエフスキーやバルザックでは、当然であった精読の喜びを感じさせてくれる。それを、娯楽小説で実行していることに、彼の推理小説での現在のところ最大の存在価値があるのではないか。それとも、それだけの作品は、過去にいくらでもあったのか。
疑問30:「絡新婦の理」の裏表紙で明石散人が、「これほどの長編を僅か二、三十枚の短編と錯覚してしまう。」と書いている。卓見である。多くの人が実感していることだ。マスコミ媒体では、だれでも普通 に思うことを、普通に書くことが難しい。勇気のある発言ではないか。
疑問31:疑問30の感想の理由は何か。それは、京極の作品がその構成を畢竟すると、ごく明快な図形として読後に印象づけてくれることがある。二重性と三重性。同心円。円錐。箱。檻。蜘蛛の巣。そして数学モデル。解放系と閉鎖系。複雑系。リゾーム。どれをどれとするとネタばらしになる。それこそ野暮であろう。探してみると他にもあるのではないか。
疑問32:例えば、「漸修」という単語を読むと、禅宗にいささかでも関心のある読者は、反射的に「頓悟」という単語が浮かんでくる。北州と南州の禅を比較する。(「自己と超越」入谷義高・岩波書店参照)京極には、とても危ない橋を、喜んで渡っているように思える時がないだろうか。
疑問33:京極は、中禅寺に「順番」の大切さを強調させている。京極作品の読書では、自分で作品の順番を並べ変えるという、パズルのような面 白さが、特に二回目以降の読書の際に重要になる。「姑獲鳥の夏」と「魍魎の箱」はそうでもないが、文庫版「狂骨の夢」からは、そこに楽しみの重点がかかっていないか。もちろんキャラクターの行動を追っても、精読できるのだけれども。
疑問34:小松和彦の民族社会の心性を分析する言説を、京極もほとんどそのままに使っている部分がある。小松がいなかったとしたら日本の怪奇、恐怖小説の世界の光景は、ひどく変わっていただろう。「蠱毒」の紹介の衝撃ひとつをとっても、その波紋の広がりは大きい。しかし、京極には多田克巳がいる。この博学多識の妖怪研究者の存在が、持つ意味とはなんだろうか。その研究は、小松和彦とはどう異なるのか。
疑問35:笠井の言う「京極理論」には、「唯脳論」の養老猛司の影響が強いのではないか。ぼくは、この点を中心に読んでいきたいので、言及は今は差し控えたい。
疑問36:中禅寺秋彦は読書家である。知識を蓄積している面もあるが、心に虚無を抱えた人間が、自分の無意識に形を与えようとして、本を読むという行為が成立することもあるだろう。それは、無意識の広大な洞窟の壁に落ちて、巧く行けばそこに砂金のようにへばりつく。光苔のように、それが積もり積もると、闇のなかにばんやりとした無意識の形という光景を、浮かび上がらせてくれる。彼の読書には、そんな必死のものがあるのではないか。彼は、なぜ読書するのだろうか。「この世には、不思議なことなど何もない」のに。
疑問37:京極には、茫洋とした大人物に傾倒するところがある。水木しげるへの愛情も、個々の作品としてよりは、その全体の風格にあるのではないか。
疑問38:京極の女性像には、どこかに人形じみたところがある。ピグマリオンだとは言わないが、それはなぜか。その美しき女性群像の中で、鉄火な女将肌の「狂骨の夢」の朱美だけが異色である、それはなぜか。
疑問39:自分とは何か、世界とは何か。京極の登場人物たちは、みんな悩み考える存在である。ぼくたちと同じだ。だから、共感できる。自分と世界との間のずれが大きくなりすぎると、そこに妖怪が入り込む隙が生じる。京極堂が憑き物を落とせるのは、こうした人間の機微に通 暁しているからだ。「それでも人間は考えることができる」。京極堂たちは、そう行動で示すことで、読者を鼓舞してくれる。ぼくの感動は、これで正しいのだろうか。あなたは共感してくれるか。
疑問40:榎木津が一歩引くとき、中禅寺が一歩前にでる。「鉄鼠の檻」で少女に虚無を見たとき。「塗仏の宴」で、敵におそらく中国での虐殺の所業を見たとき。間合いを見切る天才美剣士もひるむとき、言葉の陰陽師が前に出る。時代小説流行以前。立川文庫のかっこよさ。柳生宗矩と清明が協力して妖怪と対決する。荒唐無稽を言えば言え。時代劇の快感が、京極の魅惑の一面 ではないか。これが楽古堂の「嗜好性」である。
(ここに掲載されている疑問は、あくまで楽古堂個人のものです。アレクセイ園主との見解の一致を得ていないものであることを、あらかじめ明記しておきます。したがって文責は大内のみにあります。楽古堂再識)
(平成十三年一月二十二日)