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題 討 議 ●●●
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★ 京
極 百 珍(1)★
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『課題討議 京極百珍』は、楽古堂主人(大内史夫)さまが、
当ホームページの掲示板「アレクセイの花園」に発表された
京極夏彦作品をめぐる40の設問『京極百珍』について、
随時、同掲示板で交わされた議論の記録です。現在も継続中ですので、みなさん、ふるってご参加下さい。
(管理人敬白)
みなさん、こんにちは! また「花園」に新しい仲間(^-^;)が増えて、いよいよ賑やかになってきましたね。楽古堂主人さまの『京極百珍』には圧倒されてしまいましたが、これを機会にボクも京極作品について再考してみたいと思います。「花園」の『京極百珍』は、すぐにバックナンバーに流れてしまうでしょうから、みなさん、一枚物のページとして作ってある『京極百珍』を、どうぞご利用下さい(こちらの方が読みやすいですよ)。そして遠慮なく、楽古堂主人さまにご意見・ご感想をお寄せ下さいね。
◆ 楽古堂主人さまさま
ようこそ、いらしゃいました! お噂はかねがね伺っておりました。でも、やっぱり凄いです。FIVEPLACESさまへのレスは、思いやりと励ましに満ちた、とてもいい文章ですし、『京極百珍』は細部をも揺るがせにしない「批評家としての厳しさ」みたいなものを感じました。これからのご活躍、心から期待しております!
『京極百珍』についてのボクの意見ですが、全部いっぺんはシンドイので5つずつ書かせて、いただきます。
あ、ちなみにボクも文庫解説は読んでおりませんので、その辺はパスしますので、よろしく。
「疑問1」について。
『解答のない疑問があってもいいだろう』というのは大賛成。って言うか、最終解答がハッキリしているものなんて案外少ないんじゃないでしょうか? やっぱりスポーツじゃないですが、謎に対しても「探究することに意義がある」んじゃないでしょうか? でないと、科学研究なんか、実用的でないのはやってられないですよね。
「疑問2」について。
正直言って『どすこい(仮)』は楽しめなかったんです。ですから「引用なんてどうでもイイや」って感じでしたから・・・。各章のタイトルに使われているもの以外はあまり気にしなかったし、気づいても忘れちゃったような気がします。
「疑問3」について。
ボクは発表順に読んでます。たしかにその方が京極さんの変化がわかりやすくて良いとは思いますね。
「疑問4」について。
『中禅寺秋彦も又市も詐欺師である。』というのは、賛成です。だけど彼らの「ペテン」は、「真実を覆い隠す」ためのものではなく、「真実を明らかにするため」の「ペテン」。つまり「正義のペテン」だと思うし、そこを混同しちゃいけないと思います。
「疑問5」について。
おっしゃっておられるような感じはあると思います。ですが、それがどう重要なのか、なぜわざわざ疑問として立てられたのかが、ボクにはよくわかりません。そのあたりの意図をご説明下さいませんか?
こんなところでご勘弁下さい。
ホランド 2001年1月23日
◆ 楽古堂主人さま
>てれます。田中幸一さんは、ホランド君にどんな噂をしていたのだろうか。誤解があるような気がします。
ベタ誉めですよ(笑)。でも、ボクはボクなり評価したつもりです。そこをお待ちがえのないように(笑)。
ちなみに園主さまの(口にする)評価は概ね三段階。『すごい!』『まあまあ(頑張ってはいる)』『ダメ(バカ・論外・どうでもいい)』。こういうところが榎木津っぽいかも知れませんね(^-^;)。
>ここで、難しいのは、「真実」「正義」というわかっているはずなのに、現代社会で、どうもよく解らなくなっている言葉の使用法です。この言葉に新しい力を与えるためには、どうすれば良いか。その試行錯誤が、京極の中禅寺にも又市の造型にも通 底してあるでしょう。その「正義」と「ペテン」の天秤の傾き方が問題だと思います。彼らを一面 的に「正義の味方」とすることは、「ペテン師」と断言することと同様、彼らの苦闘の意味を平面 的にしてしまうように思います。
そうですね。だから批評って、まどろっこしくなるんでしょうね。ひとことで言うしかない場合、どう思いきるか、それが現実の難しさ。「ちょっと待て。もう少し説明させろ」と言って、それが通 らないのが世間なんですもん。自己満足的に「苦闘」してる隙が無いと言うか、問題に置いてかれちゃうみたいな感じ・・・。それに堪えるのも大切だとはわかってるんですが・・・こういうこと、議論したことがありますよ、園主さまと。答は出なかったですけど、やっぱり。
>良い質問です。こういうのを待っていました。
やっぱり楽古堂さまって、学校の先生なんですね(笑)。
>それにしても、「ツインピークス」論を、読んでくれているあなたはどなたですか。
えっと、ここはM.Uさん宛ての部分ですが、これは思い違いをなさっているのでしょう。園主さまが『そういえば、私が最初に大内さまの作品に接したのは「『ツイン・ピークス』論」でございました。これもいずれ再録させていただくことにいたしましょう。』と書いたので、M.Uさまが『♪たのしみに、待ちます。』と書かれたんだと思います。園主さま、転載する時、気がつかなかったのかな?
さて『京極百珍』の続きです。
「疑問6」について。
「リアリティー」という言葉で表現するのは、かなり苦しいと思います。例えば、清涼院流水。いわゆる「リアリティー」は無いけど「キャラ萌え」した人は、結構いたみたい。「リアリティー」以前に、何か別
の「とり憑き易さ」みたいなものの有無が重要(問題)みたいですよ。いちど清涼院流水『コズミック』(講談社ノベルズ)をお読み下さい。ある意味で、すごい作品です。うん。
「疑問7」について。
忘れちゃいました。すいません。『鉄鼠』は『どすこい(仮)』とは違って面白かったんですが・・・。もともと引用とかに興味が薄いのかも知れませんね。
「疑問8」について。
う〜ん。「未来」とか「希望」とか言うと話が暗くなるだけだし、「国家」とか「民族」とか言うと話が大きすぎるし、政治的になっちゃうかも。京極らしい範囲で、って言われると難しいですねえー。
「疑問9」について。
デビューしたての頃「本ばかり読んでた。すでに一万冊以上の本を読んだ。自転車にも乗ったことがない。今も乗れない」みたいな、「らしい」けど、ホント?って言いたくなるような話をよくしてましたよ(笑)。
「疑問10」について。
園主さまは、わりと京極さんには批判的なんです。『鉄鼠』も「よく出来ているが、信仰というものを非信仰者に誤解させる内容だ。あれでわかったつもりになられたら困る」みたいなことを言ってました。「いかにも知識人に好まれそうな内容だ」とも言ってましたね。すっごい皮肉な言い方だと思いませんか?(^-^;)。
『俗世間と隔絶された修業生活への憧憬と称賛』というのは、確かにあると思います。それはアレだけ明晰な人ですから、逆に「認識」と「現実の自分」とのギャップに厭になることも多いんじゃないでしょうか? 俗世間に「あえて止まる(強さ)」と言うより、俗世間を「捨て切れない弱さ」に対する自己嫌悪の裏返しみたいな。・・・ちょっとイジワル過ぎるかな? これも園主さまの悪影響です。いちおう自分の判断ですが(^-^;)。
楽古堂主人 2001年1月24日
ホランド様へ。
>FIVEPLACESさまへのレスは、思いやりと励ましに満ちた、とてもいい文章ですし、『京極百珍』は細部をも揺るがせにしない「批評家としての厳しさ」みたいなものを感じました。これからのご活躍、心から期待しております!
・ てれます。田中幸一さんは、ホランド君にどんな噂をしていたのだろうか。誤解があるような気がします。
・ 京極が一段落ついたら、竹本健治をやりましょう。一緒に、びしびし論争しましょう。
・ 「疑問1」から「疑問3」については、その通りだろうと思います。同感です。
・ 「疑問4」について。 〉「真実を明らかにするため」の「ペテン」。つまり「正義のペテン」だと思うし、そこを混同しちゃいけないと思います。
・ これも、半分以上同感です。ここで、難しいのは、「真実」「正義」というわかっているはずなのに、現代社会で、どうもよく解らなくなっている言葉の使用法です。この言葉に新しい力を与えるためには、どうすれば良いか。その試行錯誤が、京極の中禅寺にも又市の造型にも通
底してあるでしょう。その「正義」と「ペテン」の天秤の傾き方が問題だと思います。彼らを一面
的に「正義の味方」とすることは、「ペテン師」と断言することと同様、彼らの苦闘の意味を平面
的にしてしまうように思います。
・ ちなみにぼくも天秤座です。昭和30年10月11日生まれは、郷ひろみと麻丘めぐみと同じです。(だから、どうだというのだろうか?)作家の岡野満里安さんが、10月13日生まれだったかな。確か、二日違いぐらいだったように記憶していますが。
「疑問5」について。
> おっしゃっておられるような感じはあると思います。ですが、それがどう重要なのか、なぜわざわざ疑問として立てられたのかが、ボクにはよくわかりません。そのあたりの意図をご説明下さいませんか?
・ 良い質問です。こういうのを待っていました。
・ 「京極百珍」は、ぼくにとっても疑問の提示の場です。正味二時間程で、頭に浮かぶ解らないことを、自動筆記のように書いていきました。あらかじめ解答が用意してあるわけではないのです。
・ ある疑問と、どれかを組合せてもらうと別な展望が開けると思います。
・ 「京極百珍」は、いわば批評に入る前の段階のメモの集積です。
・ これらのメモの中から、自分が論証したい話題を限定して、詳細に追求していくのが、ぼくのやり方です。
・ ぼくの「嗜好性」は、後の疑問で明らかになるように、友情の物語として妖怪小説を評価するということです。
・ その友情の質に中、高校生の頃、悪友達と悪巧みをしようとしていた自分と似たものを感じます。頭の良い若者が、汚れた世間を相手にして大勝負に出ようとしたら、京極の作品のような大騒ぎを、一度は想像するのではないでしょうか。
・ 榎木津礼二郎の行動に明らかなように、京極の全作品世界に、現代日本という大人の世界に対する、子供らしい批判的な距離の取り方があるのではないか、という予想があるのです。
・ つまり、秘めた意図としては、「妖怪小説」をあまり真面目に受け取るのも、野暮ではないかという「指向性」を示したかったのです。現代的な深い意味を探っていくにしても、(それはあると思うのですが)、距離をとったスタンスをとっていくべきだということです。
・ 竹本健治作品との付き合い方と、同工異曲の工夫が必要になるということです。
園主様へ。
>以下のような形で転載させていただきました。いかがでございましょうか?
・ 満足しています。丁重で迅速な対応に感謝します。
>「京極百珍」については、また今度、書けるところから好き勝手なことを書かせていただきます。
・ よろしくお願いします。期待しております。
>……私は以前、自身のことを榎木津礼次郎に喩えましたが、私にとっての大内は、正に榎木津にとっての中禅寺秋彦でございます。「トリックスター」としての私と、緻密明晰な常識人としての大内。
・ すごい喩えです。
・ 敵に隙あらば切り掛かる名剣士のような榎木津は、直感の批評家田中幸一と相似な存在なのでしょう。榎木津の力が、彼独自のものであるように、田中幸一の批評は、他の人に真似できないものでしょう。
・ 常識人ということでは、ぼくは慥かに中禅寺に近いでしょう。
・ だれでも自分と同じような考察が出来て、その推論の過程を検証できるように書くというのが理想です。
・ つまり、ぼくの批評は、啓蒙活動でもあります。
・ 実際。中禅寺の、不機嫌も解るような気がする時があります。みんなが自分と同じような考え方をしてくれれば、日本も今よりもずいぶん住みやすい世の中になるのに、そうはならないことが、彼には、はっきりと分かっている。
・ 「塗仏の宴」の終幕での、中禅寺の覚悟は胸を打ちます。 「人が滅びようとするなら、一緒に滅びますよ。止める気はない、それも天の意志でしょうからね。止めたって騒いだって滅びるものは滅びるんです。しかし、残るときは残るでしょう。僕はね、天の意志には従いますよ。」
(「宴の始末」・六二九ページ)
・ 中禅寺秋彦が、キリスト教徒の「天の意志」というのを名言するのが衝撃でした。もちろんこの言葉も、いつもの中禅寺のやり口で、「天」という語句の選択には、胸にユダヤ教の「ダヴィデの星」を抱く相手への、二重三重の効果
を考えた牽制があります。しかし、「この世に不思議なことなど何もない」という彼が、人類の総意の存在をこのような言い方でも認めるとは。「残るときは残る」「天の意志に従う」という言葉を、絶望の淵で踏み止まった男の覚悟と読みます。ぼくは、中禅寺に賛成します。彼の側で戦うでしょう。
〉文庫版の解説も未読な上、あまり疑問の答えにはなっていないのですが、(その上記憶も曖昧なのですが)疑問16について参考になれば。京極夏彦が、インタビューか何かで、探偵が出てくればそれは「探偵小説」なのだ、だから榎木津が出てくれば「探偵小説」だ。みたいなことを言っていた覚えがあります。・・・うーん、やっぱりあんまり関係のない情報だったかな(^^;
・ いや、それは大いに関係があります。いかにも、京極夏彦的な台詞です。妖怪という名前が出てくれば、それは「妖怪小説」なのです。簡明な小説のジャンル分けです。いや、ジャンルそのものの解体でしょう。たぶん、自作を「探偵小説」か否かとする喧しい議論に、嫌気がさしたのではと想像します。文庫版の解説を流用したのは、これが園主の最近の関心と重ね合わさると思ったからです。それに、他に京極の作品を解説した文章が手元に何もありませんでした。
2001年1月24日(水)
園主 2001年1月26日
みなさま、見てのとおり、私の秘密兵器 楽古堂主人さまが張り切って書き込みをしてくれております。もう、私の出る幕など無いのではないか……などと思いつつ、私はそんな私自身を観察しながら「かって、私がHP『名張人外境』の掲示板「人外境通 だより」に書き込みを始めた頃も、ちょうどこんな感じだったな。だとすると、今の私の感情の動きを観察することは、当時の人外境主人の心の動きをトレースするのに近い行為であるに違いない。こいつは面 白いことになってきたぞ」などとも、メタレベルで考え、イジワルに面白がっているのでもございます。こうなると益々 楽古堂主人さまに活躍してもらわなければなりません。みなさまも積極的に『京極百珍』に対してご自分の意見を表明なさって下さい。合意など求めず、相容れない感性のぶつかり合いから、知的核爆発を引き起こすのでございます(笑)。
★ 楽古堂主人さま
>・ すごい喩えです。
>・ 敵に隙あらば切り掛かる名剣士のような榎木津は、直感の批評家田中幸一と相似な存在なのでしょう。榎木津の力が、彼独自のものであるように、田中幸一の批評は、他の人に真似できないものでしょう。
私の場合、『敵に隙あらば切り掛かる名剣士』というよりも、「気に入らない。鉄拳制裁だ!」「そりゃあ無体というものですよー。大義名分も何もないじゃないですかあ……」「わははははっ! 僕は神だ。理由は僕だ! まいったか!」というようなところが榎木津なんだと存じます(笑)。
>・ 常識人ということでは、ぼくは慥かに中禅寺に近いでしょう。
>文庫版の解説を流用したのは、これが園主の最近の関心と重ね合わさると思ったからです。
私の認識では「常識人」は稀有なのでございます。笠井 潔や山口雅也の文庫解説に見られる「不自然な偏向」……それに書いた本人も周囲のミステリ村の住人(作家・評論家・編集者・読者)の誰も気づかない。こと程左様に物事を当たり前に見ることができる「常識人」は稀有な存在なのでございますな。ですから、私は「常識人」を最高に評価いたします。私自身は明らかに「変人」でございますが、案外……「非常識」ではないのでございますよ(笑)。
>「人が滅びようとするなら、一緒に滅びますよ。止める気はない、それも天の意志でしょうからね。止めたって騒いだって滅びるものは滅びるんです。しかし、残るときは残るでしょう。僕はね、天の意志には従いますよ。」
こういう言い方に榎木津は納得いたしません。「僕は人間と一蓮托生なんてしないぞ。死にたい時は死ぬ し、眠たい時にはかってに寝る。滅びるものでも僕がそれを望まないのなら、かってに滅びることは許可しない。残るものでも僕が気に入らなければ残さない。でも、もし僕の言うことを聞かなかったら、みんな不幸になるぞ。なぜなら僕は神だからだ。……だから眠い話は止せ。僕の目玉 を腐らせる気か!」
では、私もホランドのひそみに倣って、5つずつ「疑問」に対して「疑問」を重ねたいと存じます。
『疑問1』
『京極夏彦(文中敬称略)は、「作品の善し悪しを決める基準など、とどのつまりは嗜好性でしかない」と、明確に断定している。』と、こういう京極の言い方が、私は好きではございません。こういう言い方はわかりやすい。それ故に多くの人を安易に安心させてしまってウケが良い。ですが、もとよりいったい「好悪」以外に、いったいどんな「判断基準」があるというのでございましょう? すべて根っこは「好悪」しかない。でも、そう言ってしまっては「誤解」を招くのが目に見えているから、先人は人々を中吊りの不安定に置き去りにしてでも「自分で着地点を模索せよ」と言ったのではございませんでしょうか?
『疑問2』
これは私もホランドに同感でございます。ペダントリーは好きですが、パロディーと大差ないような引用には、興味がございません。評価しないというのではなく、そういうのは「アニパロ」などで、すっかり飽きてしまったという感じでございます。
『疑問3』
これもホランドと同感。けれども、発表順の「権威」に惑わされる怖れを感じないわけでもございません。
『疑問4』
『中禅寺秋彦も又市も詐欺師である。それで良いか。』良いと思います。詐欺師・ぺてん師は私と同じ「トリックスター」の系譜に連なる存在。ですから「正義と悪の両義性」の存在なのでございます。ホランドが「正義」を強調したのは、一般
的に「悪」と考えられている「詐欺師」が、京極の権威によって、「悪」のまま権威付けられることを懸念したからでございましょう。彼が言いたかったのは、中禅寺秋彦や又市が「正義」の人であるということではなく、もともと「詐欺師」という存在が「正義たりうる(正義の性質も潜在的にもっている)」ということだったのではございませんでしょうか?(……穿ち過ぎだろうか、ホランド?)
『疑問5』
この質問は、読み返してみないと、なんとも申せません。
楽古堂主人 2001年1月26日
ホランド様へ。
>「疑問6」について。「リアリティー」以前に、何か別 の「とり憑き易さ」みたいなものの有無が重要(問題)みたいですよ。
・ あはははは。憑物落としの「妖怪小説」のキャラが、読者に「とり憑き易い」というのは、とても面
白い。ホランド君は、ユーモアの才能があります。「リアリティー」という言葉が曲者なのです。「妖怪小説」の世界の「リアリティー」は、次の一文に支えられています。
「記憶が脳という蔵に納まっているのではなく、物質自体の属性だとすると、僕らの記憶が空気や地面
やいろいろな物質を通じて漏れているという想像もまた難くない」文庫版「姑獲鳥の夏」165ページ
・ 京極堂が関口と妹に、榎木津の能力を「京極理論」を使って、解説しているところです。仮説ですが、榎木津がこの世界に存在し、その能力が立派に機能している訳ですから、この世界では真であるわけです。ここに「リアリティー」を感じるかどうかで、作品にたいする反応が二つに別
れてしまうと思います。
・ キャラの「リアリティー」も、たとえば榎木津の容貌は次のように描写されています。
「整った顔立ち。驚く程に大きい目。鳶色がかった瞳。皮膚の色も東洋人とは思えない程に白い。日に透かすと、髪の毛の色さえも栗色を通
り越して茶色である。」同上・114ページ
・ 少女マンガの主人公程度の描写です。「リアリティー」は希薄です。しかし、サイトでみると、若い読者は、これでけっこう榎木津のイラストを作成することができる。マンガ世代の、たいした画像作成能力です。いや、京極はあらかじめそれに期待して、これぐらいの描写
しかしていないのかもしれません。同様に、中禅寺の容貌の描写の希少さによって、主に若い女性読者は、京極夏彦の顔写
真(写真で見るかぎり、なかなかの美男子ですが)を、そこにはめ込み合成して楽しんでいるのではないでしょうか。これも、「とり憑き易さ」に繋がるでしょうか。
>「疑問7」について。もともと引用とかに興味が薄いのかも知れませんね。
・ ホランド君は、純真ですから、ペダントリーとしての「引用」は拒否するのでしょう。ぼくは、好きなのです。ぞくぞくします。
・ なんとなくですが、中井英夫や竹本健治を好む人は「引用」を好むと思っていました。「黒死館殺人事件」は、「引用」が勝負でしょう。大西巨人の「神聖喜劇」も、あの日本文化全般
の博覧強記の「引用」を、どう解釈するかが重要だと思います。
・ 何か思い出したらよろしくお願いします。
>「疑問8」について。 う〜ん。「未来」とか「希望」とか言うと話が暗くなるだけだし、「国家」とか「民族」とか言うと話が大きすぎるし、政治的になっちゃうかも。京極らしい範囲で、って言われると難しいですねえー。
・ そうでしょ?次回作では、何の憑物を落とすのか楽しみですよね。
>「疑問9」について。デビューしたての頃「本ばかり読んでた。すでに一万冊以上の本を読んだ。自転車にも乗ったことがない。今も乗れない」みたいな、「らしい」けど、ホント?って言いたくなるような話をよくしてましたよ(笑)。
・ 京極が、大の読書好きであるのは、確実でしょう。一万冊は、謙遜ではないかな。もっと多いでしょう。「引用」にこだわるのは、ブッキッシュな作家だと思うからです。
>「疑問10」について。園主さまは、わりと京極さんには批判的なんです。『鉄鼠』も「よく出来ているが、信仰というものを非信仰者に誤解させる内容だ。あれでわかったつもりになられたら困る」みたいなことを言ってました。「いかにも知識人に好まれそうな内容だ」とも言ってましたね。すっごい皮肉な言い方だと思いませんか?(^-^;)。
・ 解ります。園主様に同感します。「鉄鼠の檻」は、仏教の禅宗論、宗教論、信仰論であり、信仰の所産ではないでしょう。京極は、いかなる意味でも無心論者であろうと思います。仏教への接近の仕方は、あくまでブッキッシュで知識人のものです。ただ、ぼくは、次の中禅寺の言葉をよく考えられた禅宗論として、評価します。
「つまり、数ある宗教の形の中で、殆ど唯一、生きながらにして脳の呪縛から解き放たれようとする法が禅なのだ。」「鉄鼠の檻」747ページ
・ なかなかこうは言えません。「京極理論」とも首尾一貫します。この人は、本当に頭が良い。インテリであり、そこにおそらくひとつの限界があるでしょう。
>俗世間に「あえて止まる(強さ)」と言うより、俗世間を「捨て切れない弱さ」に対する自己嫌悪の裏返しみたいな。 ・・・ちょっとイジワル過ぎるかな? これも園主さまの悪影響です。いちおう自分の判断ですが(^-^;)。
・ この意見は、京極の限界を鋭敏に指摘していると思います。彼は、山田正紀が文庫版解説で指摘するように、一時代を画す作家でしょうが、松本清張には絶対に戻れないのです。社会性は持てるでしょうが、社会派推理は書けないでしょう。
2001年1月25日(木)
ホランド 2001年1月26日
◆ 楽古堂主人さま
>憑物落としの「妖怪小説」のキャラが、読者に「とり憑き易い」というのは、とても面
白い。
う〜ん。・・・って言うか、それは逆で、読者の方が「キャラにとり憑く」んです。つまり、やおいマンガとか描く人は、既成のキャラにとり憑いて自由自在に世界を広げていく(歪めていく?)わけでしょ。だいたい、そういう「妄想」を刺激するキャラに人気があって、それが無いと、いくら作品が良く出来ててキャラが立っててもダメなんですよ。つまりキャラの「自己規定」が強すぎちゃいけない。むしろ「依り代」としての能力が問われるんですね。それを僕は「とり憑き易さ」と表現したんです。だから「リアリティー」の話とは違うんじゃないかと思ったんです。
>・ 少女マンガの主人公程度の描写です。「リアリティー」は希薄です。しかし、サイトでみると、若い読者は、これでけっこう榎木津のイラストを作成することができる。マンガ世代の、たいした画像作成能力です。いや、京極はあらかじめそれに期待して、これぐらいの描写 しかしていないのかもしれません。同様に、中禅寺の容貌の描写の希少さによって、主に若い女性読者は、京極夏彦の顔写 真(写真で見るかぎり、なかなかの美男子ですが)を、そこにはめ込み合成して楽しんでいるのではないでしょうか。これも、「とり憑き易さ」に繋がるでしょうか。
だから、おっしゃっていることは間違いではないんですが、それが主因だとは思えない。そんな単純なものではないと思うんです。もちろんボクにも「とり憑き易さ」の正体はつかめていません。でも、これってすごく興味深いテーマなんですね。物語読者の受容形式の変容を読む・・・みたいな感じで。
>ホランド君は、純真ですから、ペダントリーとしての「引用」は拒否するのでしょう。
そんな風に言われると、なんだか子供扱いされてるみたいですよおー(ぶりぶり)。
園主さまも書いてますが、ペダントリー自体は好きなんです。でもそれは「こんなの知ってるよー」とか「あれだよ、あれのことだよねー」みたいな感じのものじゃなくて、引用内容がその部分に「一番適切な文章」みたいな、それ自体が引用か否かにかかわらず「魅力的な文章」みたいなのが好きなんです。
>一万冊は、謙遜ではないかな。もっと多いでしょう。
でも、計算したら凄いですよ。京極さんがたしか昭和38年生まれで、デビューしたのは平成6年。つまり30歳くらいでデビューしたわけでしょ。てことは、一万冊読むためには、2歳から読み始めても、年に357册読まなくちゃなりません。つまり2歳の頃から、雨の日も風の日も病気の日も受験日も含めて、コンスタントに毎日1冊、本を読まなくちゃならないんですよ。そりゃ学生の頃は日に3冊ずつ読むってことも出来たかも知れませんが、それはいくら長く見積もっても6年ってところでしょう。一万冊が謙遜なら、とんでもない生き方をしてきたと言ってもいいと思います。普通 は「読書家といわれる人でも、一生かかって一万は読めない。一万冊の蔵書は読むためのものじゃない」って言いますものね。それとも楽古堂さまも、それが非常識に思えない程、本をたくさん読んでおられるんですか? ・・・読んでおられるのかも知れないなあー(ブルル)。
>「鉄鼠の檻」は、仏教の禅宗論、宗教論、信仰論であり、信仰の所産ではないでしょう。京極は、いかなる意味でも無心論者であろうと思います。
それはそうでしょうね。ただ「ブッキッシュな宗教論・信仰論って、それはそもそも宗教論・信仰論なのか? そうじゃないだろう。それは別 なものだろう」ってところがあるんだと思います。園主さまは信仰者と非信仰者の両方を友人に持っている人だし、もともと現場主義みたいな感じの強い人だから、趣味的な議論だということを前提としない、ブッキッシュな議論には反感をおぼえるんだと思います。「いい気なもんだ」みたいな。それはボクらだって思いますよ。ミステリを読んだことのない人のミステリ論や、ミステリの面 白さがわからない人のミステリ論にたいしては、そういう感じを受けますもん。理屈としては、良く出来ているし面 白い。だけど「違う」っていうの。
>(京極は)松本清張には絶対に戻れないのです。社会性は持てるでしょうが、社会派推理は書けないでしょう。
松本清張の誠意は疑いませんが、でも清張が「あえて俗世間に止ま」りえていたかどうかは難しいところだと思います。それは社会運動家が「現実」を直視しているかどうか、というのと同じですよ。園主さまは「現場主義」者だけど『社会運動家みたいな「社会正義」の盲信者じゃあない』と、よく言ってますもん。たとえば『人間は霊長だ。ほかの動物にはない禁断の知性を天から授けられた。だからこの世界をも破壊しうるんだ。だけど、だからこそ人間は霊長としての重責を担わなくちゃならない。人間だって動物の一種だ、というような逃げ口上は許されないんだ』なんてことを言ってますからね。・・・話を清張に戻しますと、清張は「社会告発小説の限界」をどこまで意識して、それをやっていたのかということですね。それがウケたから、お金儲けになるから、あえて疑わずに続けたという部分は本当に無かったのか。あったとすれば、それはある意味で、書物世界への逃避でしかないのではないか・・・ということなんです。だから京極のブッキッシュさに、松本清張を単純に対立させるのは、ボクの場合はできないんですよ。・・・人はじっと籠ることで現実から逃避する場合もあるし、動き捲ることによって逃避する場合もある。そのどちらにも偏せず、現実の危うい峰を歩くことが大切なんだと思うんですね。京極には、それを断念している風があるのではないでしょうか。だからこそお話のなかのキャラは、胸のすく大活躍をするんじゃないかって疑ってしまうんです。
長くなっちゃったので、今日は『京極百珍』は休ませていただきますね。
楽古堂主人 2001年1月29日
ホランド様へ。
>う〜ん。・・・って言うか、それは逆で、読者の方が「キャラにとり憑く」んです。
・ これは失礼しました。表現の面白さに、それほど深くは事態を考えていませんでした。考えれば、ここは慥かに重要です。「京極夏彦・小論」は、ここから書けるかもしれません。ぼくと同じように、問題が大きすぎてホランド君も混乱していると思います。以下に整理してみます。これは、双方向で考えないといけないんじゃないでしょうか。「読者」の方が「キャラ」にとり憑く。これを「とり憑き易さ1」とします。「読者」から「キャラ」へという方向性です。でも、ホランド君は、こうも言っています。
>つまりキャラの「自己規定」が強すぎちゃいけない。むしろ「依り代」としての能力が問われるんですね。それを僕は「とり憑き易さ」と表現したんです。
・ これも、真実ですね。「自己規定」の強すぎない「依り代」としての能力。これは、「読者」ではなくて、明らかに「キャラ」の属性であり能力です。つまり、「キャラ」から「読者」へという方向での「とり憑き易さ2」が存在するわけです。
>もちろんボクにも「とり憑き易さ」の正体はつかめていません。
・ 正直な感想だと思います。これは、1と2が重なる領域で、改めて考えてみるべき問題でしょう。そうしないと解けないと思います。
>でも、これってすごく興味深いテーマなんですね。物語読者の受容形式の変容を読む・・・みたいな感じで。
・ 同感です。大きく見るとそうでしょう。京極の人気の秘密の分析は、このあたりの視点から可能になるのかもしれません。ホランド君は鋭いですね。さすがに園主田中幸一さんの薫陶を受けているだけあります。今に、ホランド名で評論を書き始めるでしょう。「物語読者の受容形式の変容」を「とり憑き易さ1」の方向の問題だとすると、「とり憑き易さ2」から「物語作者のキャラ創造様式の変容」も考えられるでしょう。これは、山田正紀が文庫版「狂骨の夢」の解説で指摘していた、京極の「キャラ萌え」とも関係してくると思えます。前者は、ぼくの守備範囲を越えます。園主田中幸一さんは、どうお考えですか。「物語読者の受容型式の変容」は、「新本格」のミステリーの読者ということに限定しても、「根源的アポリア」の成立する基盤を分析することになると思います。後者は、実は、ぼくの関心のあるテーマです。クラークの「海底牧場」論のテーマもそこにあります。二月中旬には送稿します。そちらも読んでみてください。
>そんな風に言われると、なんだか子供扱いされてるみたいですよおー(ぶりぶり)。
・ 失礼しました。どうもぼくには、才能のある若者を見ると、からかってやりたく(いや、もとい)鍛えたくなるという悪癖があります。教師としての習性でしょう。
>園主さまも書いてますが、ペダントリー自体は好きなんです。でもそれは「こんなの知ってるよー」とか「あれだよ、あれのことだよねー」みたいな感じのものじゃなくて、引用内容がその部分に「一番適切な文章」みたいな、それ自体が引用か否かにかかわらず「魅力的な文章」みたいなのが好きなんです。
・ それは、ぼくも好きです。大西巨人で驚くのは、どうしてここで、このような和歌が「引用」できるのかという適切さです。多くの和歌を読んで、長い時間をかけて心の糧として発酵させていないと、ああはいきません。情報としての浅薄な知識と、見識の相違でしょう。後者が豊富であればあるほど実に魅力的です。でも、見識を示してくれる作家が少ないのです。京極にも、時間をかけて発酵させていないための無理が時々あります。
>一万冊の蔵書は読むためのものじゃない」って言いますものね。それとも楽古堂さまも、それが非常識に思えない程、本をたくさん読んでおられるんですか? ・・・読んでおられるのかも知れないなあー(ブルル)。
・ うふふふ、そうかもしれません。でも、たとえば、中学、高校から大学に進学しているとすると、10年間は、読書の期間があります。京極夏彦は早熟でしょうから、本格的な読書の開始時期は、小学校の低学年のいつかではないでしょうか。
・ 冊数は、問題ではありません。その深さです。それは「嗤う伊右衛門」(中央公論新社・C−NOVELS)の解説「京極夏彦と「四谷怪談」と」で、高田衛先生が驚嘆している次のような点です。
「打首になった与力の名が、伊東(藤)喜兵衛、もしくは伊右衛門であったということ、さらにはそれと「四谷怪談」の関係については、国文学の世界でもほんの数名しかしらない事実であることを申しそえておく。」
・ 国文学者でも知らない事実の発見。
「実際、「嗤う伊右衛門」を読んでいて、驚くのは、この物語のどんな細部にも根拠(文献的根拠)があるということであった。」
・ 文献の狩猟範囲の広さと、それを物語に活用するパスティーシュの能力。
「作家の想像力において伊東喜兵衛という形象の奇怪な本質を見ぬき、またきわめて独自に、典拠をはるかに越えた、典拠とは異なる、諸悪の源泉ともいうべきおそろしい妖人の姿を書ききったのだ」
・ テクストの読解力と、これをすら「キャラ萌え」と呼ぶべきか分かりませんが、時代小説の「物語作者のキャラ想像様式の変容」を痛感させる高度な達成。
>ミステリを読んだことのない人のミステリ論や、ミステリの面白さがわからない人のミステリ論にたいしては、そういう感じを受けますもん。理屈としては、良く出来ているし面 白い。だけど「違う」っていうの。
・ これは、ぼくにもよく分かります。長い時間、SFファンだったものですから。SFが好きでない人のSF小説、SF論は、本能的に分かります。「匂い」が「違う」のです。ただ、これは「匂い」であるだけに、言語化が非常に困難です。ぼくには、SFの定義がいまだにできません。ホランド君はミステリーを、みんなを賛成させる簡単な言葉で定義できますか?そのために、トートロジーに落ち込みやすいという危険性を常に胎んでいます。「SFはSFだ」「ミステリーはミステリーだ」「女は女だ」「学生は学生だ」「日本は日本だ」。この種の議論を、何度、ぼくたちは見てきたことでしょう。それは、民主主義的な議論の否定であり、言論の自由の拒否です。あなたの師匠田中幸一さんを、ぼくが評価するのは、「トリック・スター」としての資質から、この高い境界を軽々と越えていくところにあります。いや、むしろ境界を「わっはっはっはっ」と破壊していくのかもしれないな。「根源的アポリア」は、自由な場所に立っている人でないと書けないのです。
>・・・人はじっと籠ることで現実から逃避する場合もあるし、動き捲ることによって逃避する場合もある。そのどちらにも偏せず、現実の危うい峰を歩くことが大切なんだと思うんですね。京極には、それを断念している風があるのではないでしょうか。だからこそお話のなかのキャラは、胸のすく大活躍をするんじゃないかって疑ってしまうんです。
・ 後半同感です。痛快現代活劇には、京極夏彦の諦念があるでしょう。前半は、「現実の危うい峰」が、やはり困難極まる場所です。京極には、そこを歩き続ける自信がないと思います。だから書物の世界に遊び、「妖怪小説」を書いているのだと思います。現実から逃避していますね。ただ、ここでまたしても「現実」という言葉が厄介です。
園主さまへ。
>私自身は明らかに「変人」でございますが、案外……「非常識」ではないのでございますよ(笑)。
・ 「トリック・スター」田中幸一は、つねに両義性をもつ存在です。常識も、反常識、脱常識も豊富に持ち合わせているでしょう。非常識ではないのです。むしろその過剰が問題なのです。人よりも多くの常識を持ち合わせているために、非常識に対して怒り、批評などというものを、書かなければならない羽目になります。ぼくも、「常識人」の仮面 を何とか被ろうとしている、ものすごい「変人」ではないかと自分を考えています。
>『疑問1』もとよりいったい「好悪」以外に、いったいどんな「判断基準」があるというのでございましょう? すべて根っこは「好悪」しかない。でも、そう言ってしまっては「誤解」を招くのが目に見えているから、先人は人々を中吊りの不安定に置き去りにしてでも「自分で着地点を模索せよ」と言ったのではございませんでしょうか?
・ 「好悪」以外にないですね。どんな高尚に見える批評もそうでしょう。笠井潔は、歴史的にものを見るという立場が好きだから、推理小説の展開にも、歴史を読む訳です。「嗜好性」から人間は自由になれません。恐いです。(「トランプ殺人事件」竹本健治・新潮文庫・昭和60年度・解説)
・ 「安定」よりは、「不安定」。爆発力がある批評は、解答よりはホランド君のような素直な疑問の提示なのかもしれません。必要な答えは、自分で探すしかないものですから。
>『疑問2』ペダントリーは好きですが、パロディーと大差ないような引用には、興味がございません。評価しないというのではなく、そういうのは「アニパロ」などで、すっかり飽きてしまったという感じでございます。
・ ああなるほど。ぼくは、アニパロのたぐいがまるっきり解りません。見ていません。そうすると、食傷するという感覚もわからないのです。その世界に生きている若い人には、さぞかし「非常識」な仙人に見えるのだろうなあ。
>『疑問3』これもホランドと同感。けれども、発表順の「権威」に惑わされる怖れを感じないわけでもございません。
・ 「鉄鼠の檻」ではなくて「姑獲鳥の夏」から読み初めていたら、ぼくは、京極を読み続けていなかったかもしれない。冒頭の延々とした、例の「京極理論」が読みにくいのです。投げ出していたでしょう。ぼくの成功は、学生の推薦という偶然の産物です。「順番」は恐いです。初読の人には、文庫版三冊を手元に置くという条件付きで、「魍魎の箱」から読むことをすすめるでしょう。これがいちばん、いわゆる事件の展開が早い。次が大作「狂骨の夢」。三番目に「姑獲鳥の夏」という順番が良いと思います。ベートーベンの交響曲を、二番、三番、一番と聞いていくようなものでしょうか。ぼくは、第四番から読んだことになります。渋い選択でした。女性は、第五番「絡新婦の理」からでも良いのでは。とにかく、「姑獲鳥の夏」は避けたほうが賢明でしょう。
>『疑問4』詐欺師・ぺてん師は私と同じ「トリックスター」の系譜に連なる存在。ですから「正義と悪の両義性」の存在なのでございます。ホランドが「正義」を強調したのは、一般
的に「悪」と考えられている「詐欺師」が、京極の権威によって、「悪」のまま権威付けられることを懸念したからでございましょう。
・ そうだと思います。納得します。
>『疑問5』この質問は、読み返してみないと、なんとも申せません。
・ 余裕がある時に再読してみて下さい。
>みなさまも積極的に『京極百珍』に対してご自分の意見を表明なさって下さい。合意など求めず、相容れない感性のぶつかり合いから、知的核爆発を引き起こすのでございます(笑)。
・ 爆発しましょうね。(笑い)。ぼくは、ウランの原石でしょうか。核を平和目的のみに利用することは、ありえないと思う人間なので、風力発電ぐらいにしておいてもらうとうれしいです。議論の面
白いところは、学校のテストのように、唯一の正解がありえないことです。ここでの経験を、たとえば自分の京極夏彦の読書経験に、活用すれば良いだけのことです。勝敗などありえません。恥ずかしくもありません。ぜひぜひご参加下さい。
2000年1月29日(月)
園主 2001年1月29日
★ 楽古堂主人さま
>・ 「鉄鼠の檻」ではなくて「姑獲鳥の夏」から読み初めていたら、ぼくは、京極を読み続けていなかったかもしれない。冒頭の延々とした、例の「京極理論」が読みにくいのです。投げ出していたでしょう。ぼくの成功は、学生の推薦という偶然の産物です。「順番」は恐いです。初読の人には、文庫版三冊を手元に置くという条件付きで、「魍魎の箱」から読むことをすすめるでしょう。これがいちばん、いわゆる事件の展開が早い。次が大作「狂骨の夢」。三番目に「姑獲鳥の夏」という順番が良いと思います。ベートーベンの交響曲を、二番、三番、一番と聞いていくようなものでしょうか。ぼくは、第四番から読んだことになります。渋い選択でした。女性は、第五番「絡新婦の理」からでも良いのでは。とにかく、「姑獲鳥の夏」は避けたほうが賢明でしょう。
そうかも知れませんね。私は『姑獲鳥の夏』の冒頭部の『どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道を登り詰めたところが目指す京極堂である。梅雨も明けようかという夏の陽射しは、あまり清々しいとはいい難い。坂の途中に樹木など日除けになる類のものは何ひとつとしてない。ただただ白茶けた油土塀らしきものが延々と続いている。』という部分を読んで、作家の才能に引き込まれてしまいました。そこだけで「こいつは凄いやつが出てきたのかも知れない……」と思い、その当時、ミステリ研究家の山前譲さまが「SRの会」の会誌『SRマンスリー』東京版の編集をなさっており、私はしばしば投稿していたせいでございましょう、山前さまに電話で「いま講談社ノベルズの新刊の『姑獲鳥の夏』というのを読んでるところなんですが、この作家は凄いかも知れませんよ。ぜひ読んでみて下さい」というような話をした記憶がございます。たしかに『姑獲鳥の夏』は当時、評価を二分いたしました。「京極は凄い」という評価は『魍魎の匣』が出てから定まったもので、「京極なんて」という評価が良くも悪くも口にされなくなったのは『狂骨の夢』(文庫版は未読)が出た頃でございましょう。『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』を「読みにくい」と言った人も『狂骨の夢』で「読みやすくなった」と好意的評価に転じ、私は「ちょっと薄くなったかな?」と案じたのでございます。ですが、京極は『鉄鼠の檻』でその危惧が杞憂であったことを立証し、さらに『絡新婦の理』でその才能の底知れなさを見せつけてくれました。たしかに京極は10年、20年に一人の逸材であり、並ぶところの無い「天才」でございましょう。……けれども『百鬼夜行 ― 雨』『塗仏の宴』『どすこい(仮)』などを読むと、その天才にもそろそろ限界が見えてきたかなと思わないではいられません。むろん水準以上の作品ではございますが、私が京極に期待しているのは、そんなレベルではないのでございます。京極は、もういちど私の危惧を、杞憂であると「作品」で示してくれますでしょうか?
……私は京極を評価していないのではありません。評価しているからこそ、期待し、辛くも当たるのでございます。ですから、私が「あの人はもう充分立派な仕事を残したよ。これ以上、多くを求めるのは酷と言うものだ」などと物わかりの良いことを言い出したら、なかば「見捨てた」とご理解いただいても良ろしかろうかと存じます(笑)。
『京極百珍』についての第2回でございます。
『疑問6』
「リアリティー」という言葉は、たしかに難しゅうございますね。なにしろ「リアリティー」を翻訳すると普通
は「現実感」ということになりますが、これもおっしゃるとおり「現実」なるものが定かならぬ
ものでございますから、ましてその「現実」についての「感じ」など、定かであろうはずもございません。しかし、それでも人は「自分の現実感」を足場にして言葉を紡ぐよりほかない存在なのでございます。さて、どうしたものでございましょうか?(笑)
『疑問7』
これはホランドと同じで、まったく記憶にございません。ただ『鉄鼠』では、横溝の『犬神家の一族』の引用だかパロディーだかがあったのは憶えております。が、これは周知の事でございましょうね。
『疑問8』
これも難しい。私こそ聞かせてもらいたいくらいでございます(^-^;)。
『疑問9』
おっしゃるとおり読書は数ではございません。ですから数を誇るのは恥ずかしい行いだとも申せましょう。ホランドが10000という「数字」にこだわったのは、たぶん「なぜ京極は、そんなことをわざわざひけらかすのか? たとえ、それが真実であり、かつ10000という数が自慢にはならないという自覚があったればこそ、むしろ自虐的に自分の偏頗さを語ったのだと考えても、やはりそれは歪んだ行いである。だが、いずれにしろ……どうもそういうことでもなさそうだ」という感じを受けたからでございましょう。その「数字」の真偽が問題なのではなく、それを「あの聡明な京極」があえて「数」を語る、その「心理」に疑問を感じたのではございませんでしょうか? ホランドの真意はいざ知らず、少なくとも私にはそういう不審感がございます。
『疑問10』
私にとって「信仰」の問題は抜き難いものでございます。私のハンドル(ペンネームでもある)が「アレクセイ」で、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の末弟アレクセイ・カラマーゾフに由来するのも、中井英夫が「アリョーシャ(アレクセイ)のようでありたかった」と語った言葉に、アリョーシャの「信仰者」としての部分をも含めて、共鳴したからでございます。私の「信仰」に対する気持ちは、多分にアンビバレンツなものでございます。「神や仏に逃避するな。自分で現実を受け止めろよ」と苛立つ反面
、そんな信仰者たちを「知的に」嘲笑う世間の人々を、より以上に憎悪していると申せましょう。私に言わせれば「彼ら信仰者はたしかに弱い。それゆえに愚かだ。だが、あんたらはただ無神経なだけで、弱いのも愚かなのも、彼らとまったく変わらないじゃないか。そのあんたらが、彼らを笑うなんて、なんとあさましいことなんだ。その意味では、彼らの方が、まだマシだというものだ」ということになります。言い換えれば「この世に確かなものなど何もないのだよ。ただ信じたいものが違うだけなんだ。何も信じないで生きていける奴なんて一人もいないさ。そのことに自覚的であるか無いかが、盲信者か否かの分かれ目だ。世の中は無宗教の盲信者に満ちている。それが俺は不愉快だ」ということなのでございます。ですから私は、ブッキッシュな宗教論や信仰論に苛立ちを憶えるのでございます。無論、そのあたりに自覚的な真面
目な研究者には、頭が下がる思いをさせられるのではございますが。
ホランド 投稿日: 2月14日(水)21時27分55秒
◆ 楽古堂主人さま
こないだは、ああ書きましたが、今日は『京極百珍』の続きを書きます。「今日から」と書かないところが、ミソですが(笑)。
「疑問11」について。
ボクは笠井さんの「解説」をザッとしか読んでないので、正確なことはわかりませんが、これまで笠井さんの評論をいくつか読んできた印象から言いますと、笠井さんは「話をまとめあげ過ぎる」きらいがあって、その弊害がそのあたりにも出てるんだと思います。笠井さんの意見って、いつも「迷い」が無くって「これが真実だ!」みたいな感じで、それがまた説得力があるのが凄いんですが、でも「そうだとも言い切れないでしょう。反論しろと言われても出来ないけど・・・」みたいな感じが、ボクにはあるんです。そこいらが園主さまに言わせると「笠井潔の批評家としての難点・政治屋としての力量
」なんてことにもなるんでしょうね。笠井さんの場合は、園主さまの言う「根源的アポリア」であるよりもむしろ「意識的」な部分があるんではないでしょうか? 「京極は、ミステリとして評価しておきたい」というような。このへんは楽古堂さまのおっしゃるとおりで、そのへんが園主さまをして前述のような評価をさせるのでしょうね。まあ、園主さまの評価は、たぶんに「可愛さ剰って憎さ百倍」の気はあるんですが。・・・なにしろ、元信者ですからね(笑)。
「疑問12」について。
それはきっと山口さんが「言霊」に使役されているのでしょうね(笑)。
「疑問13」について。
上記の理由で『「京極作品という妖怪に取り憑かれている」ためなのだろうか。』というのは違うと思います。そうであれば「使役」なんて言葉は使わないはずです。使い慣れない「言葉」に魅せられて、それを「濫用」しただけでしょう。拳銃を初めて手にした人が、使い方もよく知らないままに、ひとまず「撃ってみたい」と思うのと同じだと思います。
ちなみに園主さまは、ボクやナイルズのことを「護法童子」だと言ったことがあって、ボクは「ボクらは式神とか使い魔みたいなものなの!」って言ったら、「「護法童子」は使われて「人」を護るわけじゃない。護法は、その名のとおり「(仏)法」を護る、「神仏(守護善神)」の仮の姿なんだ。だから、彼らは仏法を正しく奉ずる人を護りはするけど、仏法に反する人を護りはしない。おまえたちだって、俺が間違ったことをしたら、擁護したりはしないだろう?」なんて言ってました。・・・まあ、場合によっては擁護するかも知れないので、ボクはやっぱり「護法童子」じゃあないなと思ったんですが(^-^;)。
「疑問14」について。
「偶然の一致」ではないと思います。つまりかなり「自覚的」ではあるでしょうね。でも、分身というものには限界がありますから、ある程度はそういう図式に「結果
としてハマる」ということはあるでしょうね。
「疑問15」について。
山田正紀さんの「解説」は、まったく読んでいませんので、どうもよくわかりません。「ブラインドサイト」という言葉が、今ひとつ
ピンとこないんです。ごめんなさい。
楽古堂主人 投稿日: 2月17日(土)20時10分03秒
ホランド様へ。
>「疑問11」について。これまで笠井さんの評論をいくつか読んできた印象から言いますと、笠井さんは「話をまとめあげ過ぎる」きらいがあって、その弊害がそのあたりにも出てる
・ そうなのですか。ぼくは、笠井さんの評論はほとんど読んでいません。しかし、「矢吹駆」シリーズ三作は、ある人に推薦されて読みました。たいへん、面
白くて感動しました。今回の解説は、小説ほどの切れ味がないように思えました。笠井さんは、全体の構想力(まとめ方)には、素晴らしいものがあるのでしょう。しかし、細部の詰めが粗いのです。
・ たとえば、最初625ページでは「京極堂理論」と言っていたのに、最後の630ページでは「京極理論」になっています。これも、登場人物である中禅寺秋彦の言葉を、作者の京極夏彦の意見と同一視する、表面
的にはあまりに素朴なミスです。しかし、それが「京極理論による作品世界の記述者」関口巽という存在の強調になるのですから、重要な用語の誤用でもあります。
・ 被疑者が言ってもいないことを、確信犯的に自供とするような詐術が、そこにはないでしょうか。「まとめ過ぎて」いると思います。ぼくは、ホランド君と違って、笠井さんの評論は、中井英夫論以外は、ほとんど読んでいないのですが、反論できないとはとても思えません。
・ まあ、しかし、語句の上では、作品を読んでいる担当編集者が気が付いて、著者に確認できるレベルの、一字だけの素朴なミスです。が、訂正されていません。
・ 初めて文庫化された作品に、この程度の粗雑な「解説」しか掲載してもらえなかった作家が、ちょっと可哀相になります。
・ 単純に、製作の時間が不足していたのでしょうか。
園主 投稿日: 2月18日(日)01時09分19秒
★ 楽古堂主人さま
>「矢吹駆」シリーズ三作は、ある人に推薦されて読みました。たいへん、面白くて感動しました。今回の解説は、小説ほどの切れ味がないように思えました。
かつて笠井潔は、理論的に負けるはずのない戦いに敗れました。連合赤軍の悲惨な末路は、彼自身の思想の敗北を意味しました。そして笠井は、その敗北を直視するところから「矢吹シリーズ」を書き始めたのでございます。……そして笠井は、勝利いたしました。かつて敗北者であった彼は、「矢吹シリーズ」で高い評価を得、
ミステリ界では、批評家としても並ぶ者とてない地位を確保し、今や斯界の動向を左右する「政治的有力者」になったのでございます。……しかし「勝利の美酒」は、いつの時代にも「魔物」なのでございます。笠井潔は、「敗北」によって成長し、「勝利」によって堕落した……と、私は考えます。「粗雑さ」は、その証でございましょう。たまたま「矢吹(初期)3作」が素晴らしかったのでもなければ、たまたま
あの「解説」が粗雑だったのでもございますまい。「時間の有無(量的差異)」の問題ではなく、これは「時間の経過(質的変化)」の問題だと、私は見ているのでございます。
ホランド 投稿日: 2月20日(火)12時08分33秒
◆ 楽古堂主人さま
>反論できないとはとても思えません。
そうかも知れませんね。前回は、園主さまのことを『元(笠井)信者』なんて書きましたが、ボクだって「矢吹三部作」の頃は、笠井さんのファンでしたから。今では、まともに読む気力すら起こらないということもあって、なんとなく「反論できない」なんて書いたんだと思います。
「疑問16」について。
園主さまが「根源的アポリアについて」で書いているように、今の日本の「本格ミステリ作家」の人たちは、「党派」意識が強すぎるんでしょうね。だから「有力者」を自党派に引き入れたがるんでしょう。で、なぜ党派意識が強いのかと言えば、かつて「今どき、名探偵もあるまい。時代錯誤も甚だしいよ」なんて感じで虐げられた記憶が、トラウマになって焼き付いているからでしょう。差別
が差別を再生産するのと、同じ構造なんだと思います。
「疑問17」について。
>この言葉の尻尾についている「関口君」という文句を無視するのだろうか。恥ずかしいとでも言うのか。ここには、精神を病む友人をねぎらい、いたわる京極堂のやさしさがある。彼は、友人に与える慰撫の効果
を計算して、この言葉を使っている。言葉には、それが発せられる時と場所と機会がある。そこに友情を読めば良い。ごく普通
の読者が共感していることだ。血肉の通った生きたキャラクターのそれぞれに、各サイトでファンが大勢いることがなぜ見えていないのか。
この着眼点は素晴らしいと思います。恥ずかしいんですが、ボクは単純に「関口君」という「呼びかけ」を見落としていました。だからボクと同様に、単純に見落としていた人もいると思います。
だけどそういう評価をするのが「恥ずかしい」とでも思っている人(作家・評論家)も、きっといると思います。「そういうミーハー的な読み方は、プロの本読みの沽券にかかわる」と、すくなくとも無意識にそう考えている人は少なくないでしょう。最近のミステリ評論家、たとえば笠井さんが主導する「探偵小説研究会(だったかな?)」の若手評論家の方には、妙な衒学趣味があるように感じられるんです。そのあたりが、まず間違いなく「反・ミーハー」「知的エリート意識」の現れなんじゃないかと疑ってしまいます。
また「本格ミステリ作家」特有のトラウマとして、「人間を描くことにこだわる」ことに後ろめたさを感じているということもあると思います。なにしろ、これも昔「人間が描けてない」と非難されて「ミステリの主眼はそこにはない。時にはそれを犠牲にして良い、特殊な文学ジャンルなんだ」と抗弁した手前ということも、きっとあることでしょう。
「疑問18」について。
そういうことではないと思います。それらは解説者の意識的選択であり、彼らの主体的限界であると思います。イヤなら書かなきゃ良いんですから、書いた以上は彼らがプロとして責任を負うべきことでしょう。そう認めてあげなくては、逆に、あまりに彼らをバカにしている、と言えるかも知れません。
「疑問19」について。
これは前述した「人間を描くこと」に対するトラウマが大きいと思います。「友情の物語」というような視点を持ちえないところが、「論理の小説」を書いていると自負している人たちの、「知的片輪」ぶりの、何よりの証なのではないでしょうか?
「疑問20」について。
『十分』かどうかは人それぞれでしょうが、そうした美点を認めないのは、客観性に欠ける評価だろうとは思います。
ホランド 投稿日: 2月23日(金)16時43分26秒
◆ 楽古堂主人さま
「疑問21」について。
『解説者は、「推理小説」「探偵小説」という妖怪に、憑かれている。』というご指摘は、まさにそのとおりだと思います。彼らは「憑いている」つもりで「憑かれている」だと思います。まあ、だいたい「憑かれている」人というのは、そういうものなのでしょうが。
『今までになかった新しいタイプの面白い小説があるだけではないか。』というご指摘については、「新しい」という言葉の定義が問題になるでしょうね。もちろん楽古堂さまは、そんなこと先刻ご承知でしょうが、ボクはどっちかって言うと「世に新しきものは無し」っていうことを強調したい方ですので。
「疑問22」について。
『という定義は、簡潔で美しい。』ということは、裏を返せば、山口雅也さんが「いかにも本格ミステリマニアらしいセンスの持ち主」であり、言い換えれば「現実の割り切れなさにこだわりきれない観念論者」であり「図式主義」に陥りやすいタイプだということでもあるのでしょう。山口さんが、京極堂と友人たちの関係を「使役」という言葉で「図式」化してしまったのは、「使役」という非日常的な言葉の魅力に「憑かれ」て、それに隷属してしまったということだと思います。見えやすい「鋭さ」「美しさ」「明晰さ」といったものは、よく検討してみると、じつは「派手な看板」であり、あんがい「奥行き」が無かったりするものなんじゃないでしょうか?
「疑問23」について。
はっきり覚えてないので確かなことは言えませんが、まあべつに関口で「なくてはならない」ということはないと思います。「ブラインドサイト」ってのは、今ひとつよくわかっていませんが、どっちにしろ多かれ少くなかれ誰にでもある部分だと思うからです。
「疑問24」について。
これは上に書いたのと同じ意見です。
「疑問25」について。
『「ブラインドサイト」の一面とは、己れの忘れ去ったふりをしている過去の記憶でもあろうか。』・・・そうかも知れません。自己防衛本能から、無意識的に「記憶」を抑圧し、「無意識」層に押し込めてしまった部分であるというような性格はあるでしょうね。匣の「蓋が開きかけている」といった描写
は、だから「怖い」んだと思います。
ホランド 投稿日: 2月25日(日)21時58分08秒
◆ 楽古堂主人さま
「疑問26」について。
関係はあると思います。だけど、それがすべてではないかも知れませんね。『「隠棲」の理由』は、自分がかかわっても基本的には世界を変えることは出来ないという「諦観」や、かかわることによって余計に不味いことになるかも知れないという「怖れ」や、そうした事態に責任を負いかねるという意識やが、関係しているんではないかという気がします。
「疑問27」について。
ここは憶えてないので、なんとも言えません。
「疑問28」について。
それは間違いないと思います。「言葉」にこだわる人は、だいたい「明晰」な人が多いような気がします。だから、作家だといっても、案外「言葉」にこだわらず、「プロット」だとか「話の流れ」「心理の動き」といった面
にしかこだわれないという人も多いのではないでしょうか?
「疑問29」について。
『精読の喜びを感じさせてくれる。それを、娯楽小説で実行していること』に、大きな価値があるのは間違いないでしょう。でも、それが『彼の推理小説での現在のところ最大の存在価値』かどうかは、人それぞれだと思います。そういう『存在価値』を有した作品は「過去にもそれなりにあった」と思います。ですが、京極さんほどの「一般
的成功」をおさめたものは、かつて一度も無かったかも知れませんね。
「疑問30」について。
『絡新婦の理』は、とても面白い作品でした。だから「あの厚さ」を感じさせなかったのは事実ですが、でも明石さんの言い方は「ちょっと大袈裟だなあー」と思ったのも事実です(笑)。だから、明石さんのことはよく知りませんが、当代随一の人気作家を誉めるのに、ああいう言葉を『書くことが難しい』とか、特に『勇気のある発言』だとは思いませんでした。ボクの正直な感想です(^-^;)。
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