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 赤 気 の 歌 1
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小野不由美
黒祠の島 
ノート 
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    楽古堂主人・大内史夫   

 

注記:紹介文ではありません。批評文として「ネタばらし」に近いことを書きます。未読の方は、読まないようにお願いします。

 

 「青雲の歌」の続編となる「赤気の歌」を始める。『十二国記』のファンとして、他の小野不由美の作品がどのように読めるかを、ゆっくりと試してみたい。

 『黒祠の島』を取り上げる。「祠」の字は、現在はあまり使わない字である。犠牲を板に乗せて神に捧げる。その板の左右に、二本の「欝ちゅう酒」(うっちゅうしゅ)という酒を潅ぐ。犠牲を神聖化する祭壇の象形文字が、「しめすへん」の原型である。「神」や「祝」と陽の漢字となる。これに対して、「司」は、古代の中国の文字では一説によると、人間の「脊」椎の反対側にある口のことを示す。つまり肛門である。中国では、醜い印象のある陰の文字であるという。それを、神聖な「しめすへん」と合体させた。良くも悪しくも、陰陽の二重性を持つ漢字である。小野不由美の意図的な選択だろう。

 『黒祠の島』は、ぼくにはとても面 白かった。しかし、これを楽しむためには読者の方に、ある条件が満たされていなければならない。そうでない場合に、それほど面 白くなかったという感想があっても、ぼくはあやしまない。当然だろう。

 その条件とは、『十二国記』の愛読者だということである。『屍鬼』や、推理小説のファンとして、この作品に辿り着いた方には、かなり当惑させられる作品である。『十二国記』ファンには、むしろ分かりやすい作品である。物足りなささえ、残るかもしれない。

 後世の批評家は、この作品の価値を『十二国記』に展開される主題の、模索の過程として定めるような気がする。推理小説としては、高い評価は望めないだろう。

  『十二国記』は、どこに行こうとしているのか。最初は、それを考える資料としてぼくは読んでいった。断っておきたいが、『魔性の子』のように『十二国記』の外伝として、主張するつもりはない。再読して分かったのは、「異邦の土地と異人の物語」を作者によって定義された、『十二国記』と同じ構成を持つ作品であるということだった。

 『黒祠』とは、明治時代の国家神道という政策の流れの中で、その統制に服さなかった神社を指すという。これが、歴史的な事実であったか、ぼくは知らない。ただ『黒祠の島』が、国家権力の側から見れば、「異邦の土地」であっただろうと考える。相当な差別 や弾圧があったはずである。それにも関わらず、島民が信仰を保持しえた理由は何だろうか。その秘密の解明も、重要な再読の動機となるだろう。

 今は名前も異なるが『黒祠の島』は、昔は「夜叉島(やしゃじま)」と呼ばれていた。この「異邦の土地」で消息を断った、ノンフィクション作家の葛木志保(かつらぎしほ)を、探偵事務所の男、式部剛(しきぶたける)が捜しにくるところから物語は始まる。そのような推理小説的な筋立てを、表面 的には取っている。しかし、その膜は薄い。動機、アリバイ、凶器、トリックともにそれほどの工夫がされているとも思えない。この点からの点数は低いだろう。

 主人公の私立探偵役の男は、その年令も容貌もほとんど書かれていない。『黒祠の島』の暗黒の中を探索する、意識の光点のような印象しかない。その限りで、この個性の光は強い。

10 冒頭から、陰陰滅滅とした世界である。重い空気の密度感がある。色彩 も黒と灰色の諧調に限定される。妙な言い方だが、小野不由美の筆は陰気を描くと、生彩 を帯びる。 式部は地図に従って歩き出した。辺りには喧騒も人気もなく、ただ寂しげな雑音が満ちていた。見れば方々の軒先に様々なものが下がっている。あるものは竹筒を使った鳴子のようなものだったし、あるものは貝殻を綴り合わせたものだった。それらが立てる、乾いた音に混じって、硬く高い音がする。硝子や金属性の風鈴が立てる音だった。(24ページ)  風車や風鈴という昔懐かしい遊び道具が、この島では魔を払う呪器をして使用されている。払わなければならない悪鬼羅刹が、この島にはいることを暗示している。  主人公も追い詰められていく。 どうあっても、風車に両側を挟まれた山道を通 る気になれなかった。(42ページ)  異常に研ぎ澄まされた感覚である。それは、天敵の接近を察知し、過敏になった小動物の神経と同じものだ。  式部を拒むのは風景だけではない。住民たちも同様である。 この島では、誰も本当のことを言ったりはしないのだ。(57ページ)  閉塞感が凄まじい。主人公は、生きてこの『黒祠の島』を出ることは出来ないだろう。リンチにあって、闇から闇に葬られるに違いないと思えてくる。

11 葛木志保と思われる女の惨殺死体と、式部は対面 することになる。地獄絵図であるが、読者は直視する必要がある。足を釘で木に打ち付け逆さ吊りにする過剰な残虐さには、神の行為としたいというアリバイ作りと同じぐらい強く、犯人の「私はここから動けない」というメッセージが、篭められているのだから。小野不由美は、書くべきことは書く。容赦はしない。

12 式部は、島民の行動のパターンを次のように分析する。 そもそも死体が発見された時から、島の中には、事件を隠蔽しようという意識がありはしなかったか。それも、あれだけ凄惨な死体を前にしても揺らがないだけの強い総意だ。(166ページ)  異常である。しかし、この異常性には、どこかで見覚えはないか。  エイリアン(余所者、異邦人、外人等々)に対して、けして心を開かず、臭いものには蓋をして、知らぬ 存ぜぬを決め込む、旧弊で偏屈な村人たち。どこかで見たことはないか。会ったことのある人々ではないか。そう、これは、自分自身も含めて日本人の自画像である。

13 ぼくたち日本人は、友邦の「凄惨な死体」を目にしても、「事件を隠蔽しようという意識」を「揺らがないだけの強い総意」を持っている。いや、歴史の話などではない。現代も、今、ここで「いじめ」という「事件を隠蔽しようとする意識」を、教室という単位 で「揺らがないだけの強い総意」を保持している。

14 つまり、『黒祠の島』という「異邦の土地と異人の物語」も、『十二国記』と同じく「もうひとつの日本と日本人の物語」である。それは、背中から異様な戦慄を伴って迫ってきた、あの恐怖感の正体である。ぼくたちは、近親憎悪の感情を小野に掻き立てられていたのだ。

15 陰陽五行説にしたがっての、作中世界の解釈は文中にある。(166〜167ページ)それを読んでもらえばよいだろう。二重性の世界である。島には、馬頭観音(ばとうかんのん)と、馬頭夜叉(めずやしゃ)という二重性を持った神がいる。もちろんこれには、さらに奥がある。単純ではない。真犯人の二重性に収斂 されていく。葛木志保と真理の二重性は見易い。志保は、さらに二重に分身していく。

16 『十二国記』の読者にとって重要なのは、この島が罪あるものを告発するものである人を裁く精霊(ともに168ページ)の支配する場所であるということである。『十二国記』は、常に自己実現の場所であったが、それを裏返せば「罪あるものを告発する」神が存在するということである。

17 小さな宗教集団の場合、信仰の中心人物――司祭や教組はそれ(神)と盲信しているのが常だし、周囲の者は、いわばその妄想に巻き込まれる形で結束するものだ。(223ページ)  この式部の観察は、ぼくたちが、つい最近、いくつかの新興宗教の行為で、衝撃的に見せ付けられてきた事実と同じである。それは、未開の部族という遥かな土地の、「原住民」にだけ見られる情況では決してない。小野は、現在の日本人にとって信仰とは何かということを、問題にしている。

18 『黒祠の島』は、『十二国』の原型となる単体の島(その構造は大夜叉と小夜叉という二重性を持たされているが)で、「人を裁く精霊」が君臨する場合に、人間はどのように行動するのかというシュミレーションをしている。

19 『十二国記』の天帝も、条理に背けば激烈な罰を与える(170ページ)神である。ぼくたちは、この「条理」という同じ言葉で、『黄昏の岸 暁の天』の賢者延麒が「天の一部」と考える女仙と、虚々実々の舌戦を交わしたのを目撃している。手に汗握る迫力のある場面 だ。彼の一語の失言によって、天の「条理」を外れれば、盟友延王に死という厳罰が下るのである。

20 『十二国記』には天帝が、『黒祠の島』にはカンチがいた。それでは、日本においては何がそれにあたるのか。国民の総意という名前の黒い豚だろう。この怪物は、何の儀式によっても鎮魂できない。

21 闇夜の山道で、カンテラを付ける。もし、それが霧の深い日であれば、手に持った光源の光で、背後に巨大な影ができる。式部剛は、日本人である自身の影に挑んでいったのである。ぼくは、彼を意識の光源のような存在といった。それは、以上の視点からは有効であった。しかし、彼のこの存在様態そのものが作品の魅力の限界になっている。

22 式部は、なぜこの『黒祠の島』という忌まわしい場所に留まり、真実を追求していったのか。小野不由美にとっては明快でも、読者にとってはそうとは言えないのだ。たしかに彼には、葛木志保への尊敬の念があった。

23  彼女のノンフィクション作家としての心情は、彼の言葉で冒頭に次のように説明される。 加害者を特異な人間として排除することをせず、全ての人間と均質な、理解可能で共感可能な人間として扱う。かと言って決して罪を庇うこともない。加害者の罪はあくまでも加害者の過ちであると捉え、軽はずみに加害者の近親者、あるいは社会にその元凶をもとめることもしなかった。(14〜15ページ) この二律背反する情況を克服しているとしたら、たしかに誠実で強靭な性格の女性なのだろう。式部の尊敬を、現代の若い読者も共有できるところだ。 (なお、この引用の直後にあるどこかの岸辺に罪を押しやることなく(15ページ)の「岸辺」という用語の唐突な選択には、『黄昏の岸 暁の天』の余韻があるだろう。)

24 この作品の推理小説としてのトリックは、葛木志保の描写 を最小限にするというところに成立するものである。詳細な描写は、あってはならない。それとのバランスで、式部も意識の光点のような存在にならざるを得ないのだ。

25 小野の力量ならば、式部を「理解可能で共感可能な人間」として描写 できたのではないか、と思うのだ。書いてはある。無残な死体を見せられてもいる。しかし、分量 がとても少ないのだ。たとえば、次のような部分。 遺体も埋葬されてしまったようで、遺骨を連れて帰ることもできません(206ページ)  ここは、式部が熱い心情をもっとも吐露する場面である。遺骨を「持ち帰る」のではなくて「連れて帰る」という表現。すでに尊敬という知的な対象ではなくて、より重要な意味を葛木が式部に持ち初めていることが、読者に分かるところである。しかし、それは強風に煽られた蝋燭の光のように、捜索の背後に消えていってしまう。

26 だから、この小説は読者を選んでいるのだ。『十二国記』の愛読者であり、『黒祠の島』を再読、三読できるまでに、小野不由美が好きという読者を。

27 『黒祠の島』では、『十二国記』の読者の中心であった、若い女性層に作者の顔は向いていない。一般 的な推理小説の読者だろうか。だとしたら、計算違いがあるように思う。京極夏彦を体験してきた読者の要求は複雑である。ジグソーパズルの比喩を使えば、もう少しピースの数の多い物語を求めるだろう。

28 まとめてみよう。  『十二国記』の最新刊である『黄昏の岸 暁の天』から、『黒祠の島』を通る補助線が引ける。その先に『十二国記』の新しい展開があるだろう。『黒祠の島』は、『十二国記』の未来の縮図である。天帝という、厳罰を下す神が存在する世界で、人はいかに戦うか。

29 本当か、と理性は促す。(308ページ)  『黒祠の島』でもっとも美しい一文である。闇黒の中に、小さな光が揺らいでいる。が、決して消えることはない。小野不由美の創作態度を、簡潔に示している。この人は、つねに本当かと問い掛ける。理性の人である。日本の現実に対して。家族に対して。自作に対して。この文は、小野のクレド(信仰告白)だろう。小野は、理性の声に耳を澄ましている。

30 作中人物の汚れて曇った窓(159ページ)から、海の一部が望める。「外」に開いた「内」なる心の窓だろう。人間の内面 の心理の探求は、この物語でも執拗に継続されている。

31 式部剛は、日本人の心の闇に下降していった。そこでの苦闘の記録が、『黒祠の島』である。孤独ではなくて連帯があった。泰田、大江、安良らである。終幕の開放感は、閉塞感からの脱出を示して感動的である。『月の影 影の海』では下巻からだったが、この小説では、最後の2ページまで待たなければならなかった。失踪前に、彼女が彼に「鍵」を渡していったのは象徴的である。式部は正しい扉を開いたのだ。それには、愛という名前が書いてあるはずである。少女が麒麟と再会したように、青年は一人の女を発見した。

32 大夜叉、小夜叉という島の形の二重性も、最後の最後で生きてくる。白と黒と灰色のモノトーンの世界の中で、最後にきらめく色は目の覚めるように鮮やかな黄色である。黒は水星の色である。黄色は、土星の色である。土剋水。土は水と相剋である。しかし、今回はかろうじて勝利したのだ。

33 どうも面白くなかったという読者には、再読を勧めておこう。『黒祠の島』は、黒い漆塗りの椀のように、日本人の心の陰影を深く湛えた、仕上がりの丁寧な言葉による工芸品である。この作品の支持率は、おそらく今が底である。再読、三読した読者が、多数存在するようになれば、徐々に上昇していくだろう。                   

 

黒祠の島

 小野不由美・著

     祥伝社 NON−NOVEL
       
平成13年2月23日 初版第一刷発行 
  


   2001年6月1日(金)




 関連論文「選択の表裏 ――『黒祀の島』と『十二国記』(碧川 蘭・ホランド)

 
 
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