坂爪厚生の不穏な世界

アレクセイ(田中幸一)

 坂爪厚生という画家が、どういう経歴の持ち主で、どういう評価を受けている人なのか、今のところ私は、そういうことにはまったく興味がないし、知りたくもない。また事実、知りはしない。

 ときどき届く画廊からの案内状を見て、興味がひかれたら見に行く。絵を観るのに画家の名前など必要ないので、純粋に興味本意で覗きに行くのだ。坂爪の作品とも、そうして出会ったのである。

 初めて坂爪の個展を観に行って「これはいい」と思った。人の評価はいざ知らず、そこに展示されていた版画群は、明らかに私好み。坂爪は私好みの画家だということが、一目でそれとわかったのである。私はその日4枚の版画を注文して帰った。いくら坂爪の版画が「割安」だとしても、稼ぎについては一介の平凡なサラリーマンに過ぎない私には、それはかなり大きな出費であった。また、展覧会を観に行って、一度に何枚も絵を購入するなどという暴挙を、それまでは一度も犯したことは無かったし、その後も絶えてそんなことはしたことがない。それは異例中の「異例事」だと言うことができる。つまり……それほどまでに坂爪の作品は、私にとって魅惑的であり、「どれか一点」で済ませられない多彩 な魅惑に満ちていたのである。

 回りくどい書き方になってしまったが、これからその「多彩 な魅惑」について書いてみる。まず「多彩」というのは、坂爪の作品の題材がその時々によってかなり大きく変化する、ということである。おなじ題材を描き続け 、齢を重ねるごとに画風の方だけが変化していくタイプの画家も少なくない。無論、そういう画家がダメだとは思わない。だが、すくなくとも坂爪はそういうタイプの画家ではないようだ。製作時期がさほど離れていなくても、おなじ画家のものとは思えないくらいに、違って見える作品も少なくない。……にもかかわらず、当然の事ながら、坂爪も自らの体質から自由なわけではない。つまりそれぞれに濃淡はあるにせよ、一貫した「個性」としての、「雰囲気」としての画風があるということである。

 坂爪作品の「雰囲気」。その代表的な性質を、私は「不穏」と表現したい。上に掲げた『菜食主義者の部屋』でもわかるとおり、坂爪の作品は「迷宮的」であり「エロチック」であり……という私の好みにピッタリである。だが例えば、その「エロティシズム」は、決して「明るく」もないし「激しく」もない。あきらかに「陰微」な、それでいて「蠱惑的」なエロチシズムなのだ。『菜食主義者の部屋』に描かれた、空色にくり抜かれた隠れ去る人影のように、この妖しい部屋から、さらに此所でもない「どこか」へと観る者を誘う……そんなエロティシズムなのだ。

 その先とは、いったいどんな場所なのだろう? ……まだ見ぬ 「そこ」を想像し、私たちは「不安」に駆られながらも、そこに魅惑されてしまう。

「いったんそこへ踏み込んだら、もう戻ってはこれないかも知れない……」

 坂爪の作品は、そういう「不穏」な誘いに満ちているのである。


2001年1月29日



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