| 『大西巨人文選』を読む ― 第1回 |
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序
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田中幸一(アレクセイ)
全4巻の編年体エッセイ集『大西巨人文選』(みすず書房)を読み、その感想を書くという今回の連載を始めるにあたり、まず初めに、私はこの連載における私の基本姿勢を、以下に示しておきたい。
大西巨人は、そのエッセイ「知的な甘え所」(『文選』非収録)に、こう書いている。
『「老人」と「青年」とは、事柄の論議を、おなじ土俵の上の五分と五分で公明正大に行うべきである。「老人」は、「なんだ! この若造め……」というような言辞・態度で「青年」に臨んではならず、「青年」は、「なにを! この耄碌が……」というような言辞・態度で「老人」に臨んではならぬ 。それが、「先行世代」と「後行世代」との関係の有るべき姿であり、そこに、「老人」と「青年」との語の真義における「切磋琢磨」が、成立する。』
私の「連載」は、如上のような姿勢態度で貫かれるであろう。つまり、この連載は大西のエッセイの「解説」ではない。大西に対する「私の格闘の記録」である。だから「という意味であり、全く同感。大西は素晴らしい」を連呼するようなことはない。時に「承服しかねる」「わからない」といった感想を、正直に列ねるであろう。
私が「承服しかねる」「わからない」点について、読者諸兄のご意見・ご感想がいただければ幸いである。それが私にとって「幸い」なのは論を待たぬ
が、そうした議論が読者諸兄や、ひいては大西巨人にとって「幸い」なのも、また確かなことであろう。
「共感」することと「理解」することとは、別物である。文物を読んで「共感」するのは所詮「好み」の問題に過ぎぬ が、「理解」にはその文物との「格闘」が必要である。つまり、ただ「読む」だけではダメなのだ。「理解」するためには、そこに書かれていることを「自分が」生きなければならない。これを仮に『身読(頭でではなく、身体で読む)』と呼ぼう。
私は、この連載を、大西巨人という途方もなく巨大な人間を「身読」するための、ひとつの掛け橋に出来ればと願っている。この場合、私という凡庸な人間の「大西に対する不満や疑問」は決して無駄 にはなるまい。
私は一個の「青年」として、「心の師」大西巨人の胸を借りるつもりである。私は遠慮なく、この特等席を取らせてもらう。これを羨む人は、私に続いていただきたい。さすれば、この連載は、かつてない、大西巨人の『道場』となることであろう。
2001年4月16日
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