| 『大西巨人文選』を読む ― 第4回 |
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「「過去への反逆」のこと」について
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田中幸一(アレクセイ)
「「過去への反逆」のこと」は、1946年3月に執筆され、『文化展望』の同年5月号に掲載されたエッセイである。
『文学は、所詮、反逆精神の所産にほかならぬ、と僕は、信じている。とはいえ、過ぎ去った時代に反逆したとて何になろうか。僕のとぼしい文学史の知識でも、洋の東西を問わず、偉大な先人たちは現実世界への反逆に生死している。しかし一時代前、一時代前と時代遅れに反逆して作家活動を続けることができるのは、「賢明」なことに違いない。日本文壇には、この種の「賢明」な文学者が多い。ただ、芸術家の悲惨も、その栄光も彼らの物ではないだけだ。(中略)(※ 彼らの反逆の)その手軽さ、苦労のなさに、僕は、憐憫と嫌悪とを禁じ得ない。』
このエッセイで大西が言わんとしていることは明白である。身体を張った「本物の反逆」をしないで、安全を確保した後に「見せ掛けだけの反逆」をしてみせる『多くの「文学者」への「嫌悪」と「侮蔑」そして「批判」』……それがこのエッセイのすべてだ、と言っても決して過言ではあるまい。
私が長らく関わってきた日本の推理小説界(文壇)でも、これを同じ現象を典型的な形で観ることが出来た。
現在の日本の推理小説界は、綾辻行人デビュー以来の「新本格」ミステリブームであり、それはすでに一過性の「ブーム」を越えて、時代の「支配的体制」となっている。これ以前の「支配的体制」と言えば、それは松本清張に代表される「社会と人間が描かれたミステリ」である「社会派ミステリ」が、それであったと言えよう。その「体制」下では、E・クイーンに代表される「本格ミステリ」やレイモンド・チャンドラーに代表される「ハードボイルド」などは、「アナクロニズムの回顧趣味的産物」つまり「時代と切り結ばない趣味的・非文学的産物」などと否定的に評価されがちだった。だから綾辻行人がデビューした時も「時代錯誤」「幼稚」「非社会的な、学生趣味」といった言い方で厳しい批判に曝されたのである。ところが、時代は綾辻行人らの登場を待っていた。綾辻行人は多くの若い読者から支持され、その中から綾辻に続く作家が続々とデビューした。その結果 、形勢は逆転し「社会派ミステリ」とその「至上主義者」たちは「過去のもの」として葬りさられたのである。
そして今、多くのミステリ評論家は「本格ミステリ」を「時代の必然」として「肯定的にのみ」評価している。まるでそれは、かつての「社会派ミステリ」至上主義者のそれとそっくりである。したがって彼らは、当然のごとく「今や、清張型の社会派ミステリは時代錯誤である」と「過去に反逆」して、恥ずるところを知らない。
いま、「支配的体制」である「本格ミステリ」を批判するものはいない。それを代表する綾辻行人や有栖川有栖を、そしてその理論的守護神である笠井 潔を、公然と批判するものは、今の日本のミステリ文壇には一人もいない。少なくとも、そんな「ミステリ評論家」は一人もいないのである。……もし、そんな発言をする者がいたとしたら、それは郷原 宏に代表される旧体制の提灯持ち評論家。自業自得の結果、実質的に表舞台から葬り去られた「過去の亡霊」たちだけであろう。 (※ かつて笠井 潔を「クサイ ケツ」とまで揶揄して批判した左翼評論家 野崎六助も、日本推理作家協会賞を受賞したあたりから、笠井 潔と仲直りしたようだ(笑))
本当の意味で「この時代に反逆する者」は、今の日本の推理小説界には、一人も存在しないのである。
事ほど左様に、人間とは「体制順応」型が「基本」なのである。「反逆者」はいつでも「少数例外」でしかない。若き大西巨人は「文学者ならば反逆者たれ」と主張したかったわけだが、私がいつも主張しているとおり「どこの集団だって、基本的には同じ」であり、まさに「いずこも同じ、秋の夕暮れ」なのである。
もちろん、大西とてそれは承知の上であったろう。承知の上で、あえてそれを言わなければならなかったのは、それが「文学者の使命感(思想・信条)」からと言うよりも、むしろ同じ「文学者」を名乗る者として、彼ら「似非・文学者」を許せないという「感情」からであったように、私には見受けられる。それが『嫌悪』という言葉に端的に表象されたのである。
だから、大西巨人がここで言っていることは、じつは「文学者」の問題ではない。「凡人」の問題なのだ。「凡人」とは「時代に反逆」しているつもりで、じつは悪い意味で浅ましくも「死者をむち打つ」だけなのだ。だからこそ、私たちはこれを「我がこと」として反省しなくてはならない。その反省なくしては、このエッセイを読んだことにはならないのである。
それと、もう一点、どうしても外せない重要なポイントがある。それは、ここで大西巨人が批判しているのは、単純に「過去への反逆」だけではない、という点である。
「過去」とは「時間的に隔たった場所」だと言い換えてもよい。ここで大切なのは「時間的」の方ではなく「隔たった場所」の方なのだ。つまり、「隔たった場所」や「隔たった場所にいる者」への「批判・攻撃」は「陰口」と同じで、「反撃」されることがなく「安全」である。だからこそ「凡人」にも、それが実行可能なのだ。そして、そうしたものだからこそ、そこには『悲惨』も『栄光』も生起しえないのである。つまり、「本物の反逆」とは本来、「隔たった場所」への「反逆」ではなく、「今ここ」での「反逆」を意味するものなのだ。だから、それは「時間」の問題ではない。本質的には、それは「場所(距離)」の問題なのである。
そして、これは私が『一ヶ月論争』で注意を喚起し続けてたことなのである。「磁場に捕われるな」「場の力学に注目せよ」……「磁場に囚われ・場の力学に加担した者」が、「今ここ」から目を背けて、「過去への反逆者」となるのである。
したがって「反逆者(文学者)とは、畢竟『今ここでの異端者』なのである」。
2001年6月5日