『大西巨人文選を読む ― 第

 

「「真人間のぶる」物でない帽子・その他」について 

 

田中幸一(アレクセイ)

 「「真人間のかぶる」物でない帽子・その他」は、1946年4月上旬に執筆され、『文化展望』の同年6・7月合併号に掲載されたエッセイである。

『石川淳作『黄金伝説』〔略〕の一節を読んで僕が感じるのは、何を吐かすか、気の利いたことを言うな、という憤りである。「この異様なかぶりもの引用者註・戦闘帽)を」云云のごとき言いぐさは、現在の俗耳に入りやすい。だが俗耳に入りにくいことこそ、作家は、語るべきではないのか。(中略)いかなる戦争も窮極においてはよくないものだ、と僕は、固く信じているけれども、戦闘帽は「真人間のかぶる」物でない、というような、ただそれだけの無責任な表現の仕方を僕がしよう、などとは、さらさら考えぬ 。真実の愛情も真実の憎悪もない精神のみが、こんないい加減な表現を行うのだ。/ 戦闘帽は「真人間のかぶる」物でない、ということは、正しいかもしれない。しかし作家は、(中略)それを書くことによって痛手を負わなければならない。作家は、引用者補足・戦闘帽は「真人間のかぶる」物でない、ということの理由説明を)しなければならぬ のであり、作家は、多くの国民がそんな帽子をかぶって死んでゆくのを作家自身がいささかも阻止し得なかった、ということに、深く激しく責めを感じなければならぬ のである。作家は、「真人間のかぶる帽子を見つけたいと思った」などと平然と書き流すことはできないはずであろう。これは石川本人としては反戦・反軍国主義的文学表現のつもりかもしれないが、こういう安易な「過去への反逆」は、何人も一切止めるべきである。「真人間のかぶる」云云の文章(作家精神)に人間尊重(ヒューマニズム)の心がちっとでも流れているなんて考えることは、大まちがいだ。こんな所から新しい何物も生まれやしない。』

 このエッセイでの中心的な議論の部分をすべて引用した。論旨は明解であり、本来ならこれを解説するなどという行為は、文字どおりの蛇足でなければならない。にもかかわらず、これを読んだはずの多くの人が、石川淳の過ちをそっくりそのままに繰り返してしまう。私は以前「人は歴史に学ばない」と書いたけれども、その実例を私たちは情けないほどに何度も、身近に見ることができるのである。

 断るまでもないことを断るのが、ものを書くということなのかも知れない。だから書こう。
 ここで大西巨人の言う『作家』とは、大西が「独立喪失の屈辱」のなかで『知識人』と呼んだものと本質的には同じであり、その意味でこれを私の用語に言い換えると、それは私たち「意識人」のことだということになる。いや、むしろ「私たちは、そうした意味での「意識人」であらねばならない」と言った方が正確なのであろう。

 大西巨人のここでの論旨は明解である。ということは、誰でも「すこし考えれば」わかるはずのことなのである。ところが、それが往々にして「多くの人」にはわからない。能力的には理解「可能」であり実行「可能」であるはずなのに、なぜそれが実際的には「不可能」なのか。それは、人間の中に「考えること」を妨げる力が存在するからである。それは「弱い心・感情(薄弱な意志)」である。

 大西巨人は『作家は、(中略)それを書くことによって痛手を負わなければならない』という。これは「頭でなら」誰にでもわかる「正論」である。だが、ふつう人は『痛手』なんか負いたくはない。痛いのは御免なのだ。だが、そうした「弱さ」を乗り越えて語られたものだからこそ、大西の「正論」は「たかが正論」に止まらず、人の心を打ち、人を動かすのだ。……「正論」にも、本物と偽物がある。そしてその「違い」は、大西も言っているとおり、それが自らの身体をはった(痛手を覚悟の)「言葉」か否かなのである。

 では、なぜ人は往々「身の程知らずの正論」を吐こうとするのだろうか。そういうことを言いたがり書きたがる人でも、それが他人事であってみれば、それを「過ち(悪)」であると認識できるはずなのに、どうして自分の場合には、その「抑制」が利かないのであろうか。
 それは、他人事を「他人事」としか見ず、自分の事を自分の事としか見られないからであり、即ち自己を「客観視」できないからである。自分を客観視すれば、突き放して評価すれば、人は往々にして「自己の小ささ・弱さ・見苦しさ」の直視という「苦痛=痛手」を負わなければならないはずだ。創られた小説中の人物でもない、現し身の人間であってみれば、自分の心を隅々まで鏡に映してうっとりすることなど、とうてい出来る話ではないのである。
 だが、だからこそ人は鏡を歪めてでも、色眼鏡をかけてでも、自分を美しく見たいのである。「美しい自分=幻想」が見たいのである。まさに、それこそが目的であるからこそ、他者に対する責任になど毛頭興味はなく、ただ自己陶酔に耽るための「道具」として、他者を「利用」するに過ぎないのだ。当然、「道具(非・人間)」に対する「責任」や「誠意」など、あろうはずもないのである。

 誰のなかにも「ナルシシズム」はある。そして「ナルシシズム」というものの存在自体は、必ずしも否定抹殺されるべきものではなかろう。端的に言って、それ無くしては、人は正しくは生きていけないからである。だが、ただその「快楽」のみに溺れる者は、当然のことながら「痛手=苦痛」を自ら求めたりはしない。そういうものからはできるだけスマートに距離を措いて、独りよがりのファッションショーを演じ続けるだけなのだ。
 いや、こう表現するだけでは充分ではなかろう。彼は他人に犠牲を強いてまで、自己陶酔の世界を求める。それは「自己本意(のみ)」という「悪」なのである。そして「悪」の根源にあるのは、いつだって「自己本意(のみ)」なのだ。

 「言論」が「正義」たりえるのは、少なくとも「言葉」という道具を介して「客観・中立」を確保しうるからである。「自・他」を越え得るからなのだ。私たちはそのことを、片時も忘れてはならないのである。

『君は、自分のことを無私の革命家だと信じているだろう。確かに君は殉教の聖女を思わせる。しかし、とんでもない話だ。君の魂は傷ついた自尊心から流れ出す血と膿で溢れ返っている。なぜ君は人民を、生活者を、普通 の人間たちを憎むのか。真理のために彼らの存在が否定されねばならないのだと君はいう。嘘だ。君はただ、普通 に生きられない自分を持てあました果てに、真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ。いや、君だけではない。すべての殉教者がそうしたものだ。(中略)殉教者こそが高利貸よりも計算高く自分の所有物にしがみつくのだ。高利貸が積みあげた金貨を卑しげな笑いを浮かべて撫で回まわすように、殉教者は自分の正義、自分の神を舐めまわすのだ。高利貸が、財産を奪うならむしろ火刑にしてくれと騒ぐように、殉教者は自分の財産、自分の所有物である正義の方がよほど大切なんだ。喜んで火刑にもなるだろう。ギロチンにもかかるだろう。守銭奴が一枚の金貨にしがみつくように、君は正義である自分、勇敢な自分、どんな自己犠牲も怖れない自分という自己像にしがみついているだけなんだ。(中略)君はなぜ怖いんだ。ほんとうの勇気があるなら認めてしまうんだ。君が、いや僕たちが、彼ら以下であるという事実を。彼らが豚なら、僕たちは豚以下だ。彼らが虫けらなら虫けら以下だ。豚以下、虫けら以下だからこそ、どうしようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ。それを認めてしまうんだ。その時にこそ、微かな希望が、救済の微光が君を照らすだろう。そう、希望はある。身を捨てて、誇りも自尊心も捨てて、真実を、バリケードの日々を昏倒するまで生きることだ。太陽を直視する三秒間、バリケードの三日間を最後の一滴の水のように味わいつくすことだ。僕たちは失明し、僕たちは死ぬ だろう。しかし、怖れを知らぬ労働者たちが僕たちの後に続くことだけは信じていい。』

(笠井 潔『バイバイ、エンジェル』より)

 この小説のこの部分を、私はこれまでにもう20回ちかく引用紹介してきたはずである。私が、ものを考え、書くという行為は、常に「この小説のこの語り手のこの批判」との格闘であったと言っても過言ではない。そして、私はいま、この語り手の意見に必ずしも全面 的同意するわけではない。けれども、基本のところでは今も昔もまったく同感しているのである。

 

 

  2001年6月14日


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