| 『大西巨人文選』を読む ― 第7回 |
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「籠れる冬は久しかりにし」について
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田中幸一(アレクセイ)
「籠れる冬は久しかりにし」は、1946年8月に執筆され、『文化展望』の同年10月号に掲載されたエッセイである。
大西巨人は、冒頭に『降り立ちてなじまぬ 下駄のおもみにも籠れる冬は久しかりにし』という明石海人の歌を引いて、このように語っている。
『敗戦以来、一年は過ぎた。ふたたび生きて渡ることはあるまいと僕自身にも思われた蒼波の水平線を超えて、僕が、復員用海防艇から郷国の土に降り立った日の一周年も、すぐそこに近づいている。悲痛と歓喜と、その相反する二つの心情を胸に抱いて僕が目のあたりに見た敗戦の日本、その中に僕がなお生きねばならぬ 祖国の現実を、僕は、日本の「立春」と信じようとして帰ってきた。いまも僕は、そう信じたく思っている。けれども、「籠れる冬」は、ほんとうに去ったのか。あるいは仮に「冬」は去ったにしても、「立春」の代わりに、実は「新しい別 の冬」が、日本に忍び寄っているのではないか。あるいは仮りに「立春」は到来したにしても、その「冬」から「春」への移行は、そこでは何事も単なる 政治的合言葉のみによっては済ませられぬはずの「深淵としての人間」の内部では、どのように行なわれたのか――行なわれようとしているのか。』
まさに予言的な問いかけであったと言えよう。今の日本は、大西の危惧した『新しい別 の冬』の時代にある。
2001年の「9.11」・ニューヨーク同時多発テロがきっかけとなって表面 化し全面化した、アメリカの帝国主義的侵略戦争に追従する形で、日本はアメリカの「アフガン空爆」を支持し、アメリカの「イラク戦争」に協力して、自衛隊を海外派兵し、さらにその協力(軍事同盟)体制を固めるべく「有事法制」関連三法案が成立させ、さらには「愛国心」を養うための教育基本法の改正(改悪)を行われようとしている。日本国憲法の眼目であった第9条「戦争の放棄」は実質的に空文化し、日本は「戦争ができる国」になった。世界第二位 の軍事費を誇る日本は、その軍事力をもはや「自衛」に限定せず、外国へ向けることも善しとする国となった。つまり世界に冠たる「軍事国家」になったのである。
本論文の後半で、大西は知人『E・F夫人』の歌『日の本に栄光(はえ)ありし日の終りゆく象徴(しるし)と燃えし家を忘れず』を引いて、こう書く。
『(略)問題は、「日の本に栄光ありし日」という言葉(あるいはそういう事態把握の仕方)にある。「日の本に栄光ありし日」という現象の捕え方は、今日ひそかに大多数の人人の心の中にも存在していながら、未解決のままに押し伏せられている。それを明るみに出すことは、意識的にか無意識的にか回避せられている。「日の本に栄光ありし日」は、そういう事態の推移のうちに余命を保つことによって、将来の大きい反動の支柱になり得る可能性を持つ。「冬」から「春」への移行が「深淵としての人間」の内部で安易に行なわれ得たかのような錯覚、政治的合言葉で万事を形式的・表層的に集結させてしまうこと、文学者自体の内部剔抉の放棄、よろめきの表現のへの怠慢が、自由を「配給された自由」の状態に、民主主義を「外から与えられた民主主義」の段階に、引き留めるとともに、後退の素地を作り、「日の本に栄光ありし日」という思い違いを、今日なお生命あるものとして民衆の中に根強く潜行せしめている。(略)
「日の本に屈辱ありし日」という言葉は、今日どこででも大声で語られている。それは、まるで礼儀のようである。その裏側に「栄光ありし日」が潜んでいる。そのことは、触れられずに通 り過ぎられつつある。しかし文学は、それを抉らなければならぬ。「日の本に栄光ありし日」と一般 に誤解せられてきた(いまも誤解せられている)過去の一時代が、実は「栄光ある日本」が「恥辱の日本」によって覆われた日であって、真の「日の本に栄光ありし日」は現在改めて始まろうとしている・始まらねばならない・始められるべきである、ということを、文学は全力的に語らねばならぬ 。 』
『日の本に栄光ありし日』という誤った認識は、確実に生き延びていた。だから、近年「戦後民主主義」を攻撃して「日本はいつから、こんなにだらしない国になったのか」などと語り、戦争へと雪崩れ込んでいった「戦前」を賛美する論調が高まり、それが一大潮流となってしまった。
第二次世界大戦に敗戦した日本は「一億総懺悔」をした。しかし、その直前までは「一億玉 砕」が呼号されていた。まさに手のひらを返すがごとき「変節」であった。このあまりにも簡単な「変節」は、とても「反省」と呼べるものではなかった。そこには、あるべき『よろめき』が、まったく語られなかった。あるべき「悔悟」が微塵もなかった。だから、大西巨人は、軍国日本を支えた「冬」の精神性が去ったと、信じることができなかったのである。
『日の本に栄光ありし日』という言葉は、今日どこででも大声で語られている(「歴史教科書」問題がその好例であろう)。それは、まるで国を愛する日本人の礼儀のようである。当然「靖国の英霊」も国を挙げて讃えられなければならないという論調になる。しかし、その裏側に「屈辱ありし日」が潜んでいる。「一億総懺悔」し「平和国家を築くと誓った」記憶が隠蔽されている。だが、そのことは、触れられずに通 り過ぎられつつある。しかし文学は、それを抉らなければならぬ。『日の本に屈辱ありし日』と一般 に誤解せられている(かつても誤解せられていた)戦後の一時代が、実は「屈辱ある(軍事国家)日本」が「栄光ある(平和国家)日本」によって翻された日々なのであって、真の『日の本に屈辱ありし日』は現在改めて始まろうとしている・始めさせてはならない・始められるべきではない、ということを、文学は全力的に語らねばならぬ 。……ということになろう。
大西の言う『「深淵としての人間・民衆」を剔抉すること』、それは中野重治言うところの『国民の側の弱さ、足りなさ、不充分さ』という現実を剔抉していくことであろう。では、わが日本国民は、かつても、そして今も、いったい何についての『弱さ、足りなさ、不充分さ』を持っているのであろうか。
それは「強さ」「正しさ」「美しさ」といった、本来の意味における「日の本に栄光ありし日」の、日本人の徳目であろう、と私は思う。
すなわち「強さ」とは、「腕力(軍事力)」を意味するのではないということ。強国アメリカにへつらうことしかできない国が、弱小国北朝鮮に威張って見せても、そんなものは「強さ」の証しでも何でもないと言うことを、日本人はしっかりと理解しなければならない。「腕力」と「虎の威を借りて」、我意を通 した方が「正しい」のだなどという考えは「間違い」であるということを正しく理解しなければならない。 無論、「腕力」と「虎の威を借りて」威張る者など、間違っても「美しい」とは言わないということを理解しなければならない。
本当に「強く」「正しく」「美しい」人は、どんなに居丈高な相手に対しても卑屈にへつらうことはしないし、またどんなに下劣な相手に対しても威丈高になったりはしない。
人間は獣ではないのだから、「腕力」には拠らず、人間の尊厳である「知性の言葉」に拠って、「対等な立場」で正々堂々と渡り合おうとするであろう。たしかにそれは面
倒なやり方ではあろうけれども、あえてその面倒な「人間としての尊厳」を貫くところにこそ、人間としての「強さ」「正しさ」「美しさ」も輝き出すのである。
2003年9月1日