書影

書評 大西巨人著 精神の


  巨人の

田中幸一(アレクセイ) 


『神聖喜劇』で知られる大西巨人の「処女長篇小説」の復刊である 。

 『神聖喜劇』の主人公 東堂太郎は、超人的な記憶力と徹底した論理的思考、そして不合理に屈せぬ 強靱な意志力で、「軍隊」の持つ非合理と、軍隊の中で闘った主人公である。軍規に忠実な一兵卒として、軍規に不忠実な軍隊世間と闘う主人公の姿は、「文弱の徒」と開き直って憚らぬ 者の少なくない日本の言論人・知識人に、そのあるべき姿
をしめすものとして、まことにカッコよく、また迫力に満ちた、語の本来の意味おける「人間主義者(ヒューマニスト)」のものであると言えよう。そんな文学史にも残る超人的主人公のひとつの原型が、本作『精神の氷点』の主人公 水村宏紀なのである。

 『神聖喜劇』以降の作品しか知らない者は、得てして大西のことを単純素朴に「くそ真面 目な、観念的(非政治的)左翼」と決めつけがちである。それは大西作品の主人公が『精神の氷点』など限られたごく初期の作品以外は、おおむね「正義」と「論理」と「理想」に生きる、たいへん「真面 目な人物」であり、またエッセイや評論などで表明される大西自身の考えが、大筋において、これらの主人公の思考や行動を支持するものであったからだ。よく『大西巨人=東堂太郎(あるいは、他の主人公)』というような言われ方がなされ、その度に大西は「作者と作中人物を同一視するのは間違いである。また自分はそのように作品を書いてはいない」という主旨の言葉を口にしてきた。大西の主張は、完全に正しい。だが「印象として」は、大西とその主人公たちは確かに似ているというのも、これまた否定できない事実なのである。だから人は、だいたいにおいて「大雑把に」、そして時に「好意的に」、また時には「疎ましさの表明」として、大西を「 くそ真面目な、観念的(非政治的)左翼」と決めつけがちなのである。

 だが、やはり大西の言うとおり、ことはそんなに単純なものではなかった。それは本作『精神の氷点』を読めば一目瞭然である。主人公 水村宏紀のおかれた状況は、さながら復員した東堂太郎そのものである。だが、これがあの大西巨人の書いた作品なのか? 大西の生み出した主人公なのだろうか? ……「ニヒリスト」水村宏紀の思想と行動を見るかぎり、そこには「くそ真面 目な、観念的(非政治的)左翼」としての大西巨人の影はどこにも見当たらない。だが、これは間違いなく大西の作品。それも「処女長篇」なのである。「処女作には、その作家のすべてが表れる」という、かなり信憑性の高い「俗論」があるけれども、ならば我々は大西巨人という作家を、いや大西巨人という「人間」を、その「思想」の根拠を、ここで洗いなおさなくてはなるまい。大西巨人は、決して単純に「真面 目で、いい人」などではないのである。

 その動かぬ証拠が、大西巨人の「精神の原点」でもあろう本作、『精神の氷点』なのである。


   2001年1月9日

            
       (『精神の氷点』は、みすず書房 刊・定価2200円+税)



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