同 行 二 人    
―― 私の「師弟論」

                 


アレクセイ(田中幸一)

 

 私の運営するウェブサイト『LIBRA アレクセイの星座』に掲載された、楽古堂主人こと大内史夫の文章には、方々から好意的な反応が寄せられている。先日、アップしたシュニトケ評鐘聲は反復されて ――シュニトケ・CD評にも同様の反応があったらしく、これまでの反響をも含めて、大内はその喜びを次のように報告してくれた(※ 以下の引用文は、すべて掲示板アレクセイの花園から)。

・ アメリカ、イギリス、オーストラリアや中国在住の方からもメールを頂きました。
 ・ 一つ文章を発表するごとに、友人知己が全国に(全世界に?)増えていくようです。
(02.10.19)

 これに対し私は、

同好の士との出会いはうれしいものでございますよね。しかし、私の理想を言えば、もっと横断的な広がりをも持ちたいものでございます。(02.10.20)

とレスしたのである。

 私がこれから書こうとしているのは、この『横断的な広がり』が「何によって疎外され、何によって実現するのか」ということである。


*


 前掲のレスに対し、大内は、

・ 議論の「横断的なひろがり」は、難しいことですね。
 ・ 特に『美食家の運命』は、実は反論を期待していました。
 ・ 生田耕作氏の読者の方から、ご教示を受けたかったのです。
 ・ 蒙を、開いてもらいたかったのです。
 ・ 今でも、何か大きな勘違いをしているのではないか、という疑問が拭えません。
 ・ 一読すれば分かるように、この文章の議論は、生田耕作氏が晩年に、一編の優れた泉鏡花論を書いていさえすれば、(周辺にいた方の、雑談の中の一言でも良いのですが。)それで、すべてが瓦解するように書かれています。
 ・ 撤回して、いささかも差し支えない文章です。
 ・ しかし、この文章に関してだけは、不思議に何の反響もありませんでした。
 ・ 「生田耕作」と「黒い文学館」で検索すると、拙作はかなり上位に来ます。
 ・ 目に入らないはずは、ないと思うのですが。
 ・ 黙殺は、悲しいものです。
 ・ これからも、専家のご教示を、伏してお願い申し上げます。
(02.10.23)

と書いているのだが、なぜ美食家の運命 ――書評『黒い文学館』生田耕作にだけは『不思議に何の反響も』なかったのか。おそらくそれは、大内のこの批評文が、大内史夫のものとしては「例外的に」批判文だったからであり、私の言う『同好の士』つまり「生田耕作の信奉者」からは、この場合、大内が『同好の士』と認知されなかったからであろう。だから、もし大内の書いた「シュニトケ評」が批判論文であったならば、たぶん大内の下には好意的な反響はもとより「反論」すら寄せられなかったであろうことは、決して想像に難くないのである。つまり、『同好の士との出会いはうれしいもの』ではあるのだが、また多くの人がその枠内だけに止まるのを好しとしている現実において、「横断的な(知の)広がり」は常に疎外されているとも言えるのである。

 『同好の士』が集まって、楽しく語らうこと、それ自体を否定する必要はない。事実、私自身もそれを楽しんでいる一人である。ただし、問題はそうした結束が「外」に向かった場合、えてして「反省を欠いた、自己正当化・自己防衛のシステム」と変じてしまうという現実である。

 自分の価値観を揺るがす意見に対しては、確固たる価値観を持っていない者ほど「拒絶的」になるものである。彼は傷つきやすく脆弱であるからこそ、少しでも他人の意見を入れれば、それで自分の価値観が「全壊」してしまうように感じられるのだ。だから彼は、他人の異論には、まず理屈抜きに「こいつはわかっていない」と拒絶しようとする。だが彼は、自分の脆弱さを世間に曝す結果 となることを恐れるため、決して「反論」はしない。もちろんネットの世界では正体を明かさず、つまり論駁されても大して恥を書かない形で「反論」することもできるから、彼は匿名あるいは「使い捨てハンドルネーム」を使って「反論」することも可能ではある。だが、もともと「確固たる価値観」を持っていない彼には、筋を通 した「反論」など不可能だから、匿名でなされるそれは、しばしば「反論」ではなく「悪口」の類いとならざるをえない。しかし、「拒絶」にせよ「悪口」にせよ、こうした態度は誰よりも彼自身のプライドを傷つけるだろう。そうした後ろ向きの選択しかできないところに、彼自身「自分の非」や「自分の脆弱さ」を見ないわけにはいかないからだ。

 だが、「仲間」がいれば、それを直視することが避けられる。「あいつは何もわかってないよね」「そうそう、何にもわかっていないバカ者だ」「本当に可哀想なやつだよ」と言い合っていれば、ひとまず「自分の価値観」は守れるからである。だが、ここで為されていることは所詮「根拠のたらい回し」でしかない。お互いに確たる根拠を持たない者どおしが集まって、お互いの中に「幻想の根拠」を見て安心しようとしているだけなのだ。自分のなかに「幻想の根拠」を見るのは困難だが、他人の中に「幻想の根拠」を見るのはわりあい容易である。だからこそ「マイナーな趣味の持ち主」ほど、お互いの「持ち上げ合い」をする。これは他人の知性に対して「謙虚」だというようなことではなく、ただ自分の趣味を正当化するために、他人にその「根拠」を押しつけるべく、他人を責任者へと「祭り上げ」ているに過ぎないのである。

 『同好の士』には、そうした側面のあることを、私たちは決して忘れてはならない。仲の良い村人たちが、外部の人間に対しては「結束して」冷淡になることがある、という事実を忘れてはならない。私たちは誰も皆、なんらかの形で『同好の士』の内部にいるが、そこで「外部の目」を失えば、後に残るのは「本物の知性」ではなく、村内の凭れ合いから生じる「村の先生(知性)」でしかなくなるのである。

 この事実に例外はない。貴い「わが仏」は何ででもありうる。それは「中井英夫」でも「大西巨人」でも「竹本健治」でも「生田耕作」でも「シュニトケ」でも「内田樹」でも「アニメ」でも「ミステリー」でも「文学」でも「哲学」でも「音楽」でも「キリスト」でも「池田大作」でも「麻原彰晃」でも「大川隆法」でも「ドロ団子」でも「フィギュア」でも「家族」でも「仕事」でも「国」でも「お金」でも何でもいい。人は例外なく何らかの『同好の士』ではあるのだが、そこで問題となるのは「外部の目」、つまり「相対化の視点」を担保しうるか否かなのだ。

 例えば、私が批判した、自称「レヴィナスの弟子」内田樹は、レヴィナスは「寛容」だから、それ(勝手な自称)を許してくれるだろうという主旨のことを書いたが、私は「何でも許すような存在は、もはや師たりえない(存在である)」と、内田の意見を否定した。私のこの批判意見は常識にも類するものであろうし、事実、レヴィナスの師であるラビは、内田が言うような「甘い師」ではなかった。また、何よりレヴィナスの思想から言えば、「師」とは「絶対的他者」たる「顔」のひとつの現れなのだから、自分に都合のいい(期待どおりの)答を与えてくれるような存在でないことは、論を待たないのである。……つまり、レヴィナスの言う「師」とは、ここで言う「外部の目」なのである。

 ここで、私が「心の師」と仰ぐ大西巨人と私の「師弟関係」について、説明してみよう。

 言うまでもなく、大西巨人には私を「弟子」にした憶えはない。大西はフリーシンカーとして現役であり、弟子を取るなどという発想からは、およそ縁遠い人だと言えよう。したがって私は、内田のレヴィナスに対するのと同様「勝手に・一方的に」弟子を名乗っているだけである。
 だが、内田はレヴィナスの著作を読んで『(弟子として、師の教えを伝える役目を担った者として)召還』されたと「主観的に」感じたところから、遠慮なく「レヴィナスの弟子」を自称するのだが、私の方は「客観的に」見て、勝手に弟子を名乗っているだけだという事実にそくして、大西巨人を『心に師』と形容するに止めたのである。

 その『心に師』に対する私の態度は、内田がその「師弟論」(『レヴィナスと愛の現象学』第一章)に説いているもの、そのままであると言って良い。つまり「師は無謬である」と「仮定」し、その「物語(フィクション)」を受け入れるところから思考を開始するという態度である。

 例えば、大西巨人はある時こんなことを言った。「『暗涙をはらはらと流す』というようなことを書いた者があるが、暗涙とは見えないものであるから『はらはらと流す』というような表現は形容矛盾であり間違いである」(大西の言葉として正確ではないと思うが、ここはひとつの譬え話としてご容赦願いたい) ……大西のこの言葉を聞いた時、大抵の人がどう考えるかは想像に難くない。すなわち「べつに論理矛盾でもかまわないだろう。矛盾的表現によって、表現の幅が広がるのなら、それはそれで良いではないか。人間の思考とはしばしば矛盾したものなのだから、それを表現する言葉が、矛盾を有効に取り込むのは、むしろ好ましいことである。大西巨人は度し難いコチコチ頭だ」と、こう考えるのではないだろうか。また、かく言う私の頭にも、当然のことながら、こうした意見は去来した。だが、大西巨人の「弟子」ではない人には「それでいい(それで済む)」かも知れないが、大西の「弟子」たる私の場合には、それでは済まされない。なぜなら私にとっての大西巨人は「絶対知の持ち主」であるから、大西の一見「コチコチ」な意見、「硬直しているかのような意見」は、じつはそれだけのものではなく、それは初めから前掲のような反論を承知のうえで発せられたものである……と考えなければならないからである。つまり「師」である大西巨人の意見は、「すべての反論」を承知の上で、それを乗り越えたところから発せられたものであるという「物語」を、「弟子」である私は受け入れ、そのレベル(前提)で思考を開始しなければならないのだ。だが、これが「師」から与えられた容易ならざる「課題」であることは、容易に理解できよう。さながらそれは「この世には善も悪もない。だが、おまえは地上に還って、悪と戦え」と師から申し渡されたようなものなのである。
 ともあれ「師」がレヴィナスが言うところの「顔」であり「絶対的他者」だというのは、こういうことなのである。「師」は常に「私の思考の限界」を越えたところに在り、私の理解の及ばないものである。また、だからこそ「師」は、私が私の限界を越え出る契機を与えてくれる存在なのだ。

 さて、ここで話を大内史夫と生田耕作の話に戻そう。生田耕作は「名翻訳家」「名文家」として知られる人である。しかし、生田耕作その人は、私や大内が批判したとおり、決して人格的に立派な人でもなければ「論理的」な人でもない。屈折したエリート意識に発するルサンチマンを、絶えず燻らせていた人だと評価してもかまわない。だが、ここで問題となるのが、生田耕作の「人と文体」の関係である。

 「文は人なり」とよく言うが、私はこの「原則」信じている。もちろん、人には「隠蔽的」「欺瞞的」テクニックというものがあるから、一見しただけで「文は人なり」と言えるような保証はまったくないのだが、「原則」的には、読み手にそれ相応の読解力があれば、その文章の中に書き手の人柄を洞察することは可能だと考えるのである。したがって生田耕作の「名文」にも、彼の「精神的な脆弱さ」は必ず現れている、と私は考える。ただ、それが容易に洞察できるレベルで現れてはいないだけだ、と考えるのである。

 さて、そんな私は、つい先日、こんな文章を書いた(文体は「である」に改めた)。

『この二人(※ 大西巨人と澁澤龍彦)はおよそ違ったタイプの作家だが、すこし視点を変えてみると、ひとつの共通 点のあることがわかる。それは、その「徹底性」で、大西巨人は「徹底して論理的」、澁澤龍彦は「徹底して洗練されている」と言えよう。そうした性格において、どちらもそれぞれに熱心な読者を持っているのだが、逆にその「徹底性」のゆえに、大衆的な人気を得るにはいたっていないようにも思われる。
では、どういうものが大衆的な人気を得ることができるのか? 私はそれを「適度なもの」に見い出す。つまり「適度に論理的で、適度に洗練されているもの」。大西ファンや澁澤ファンの視点から言うと、それは「中途半端に論理的で、中途半端に洗練されているもの」ということにもなろう。これを、さらに手短に言い換えると、「ぬ るい(お手ごろな)」ものが大衆的な人気をはくしやすい、ということなのだ。もちろん「慰撫」を目的とするもの(エンターティンメント)は概ね「ぬ るい(お手ごろな)」ものではあるのだが、それに止まらないものは、時に「熱く」、時に「冷たい」。しかし、そうした「過酷」さこそが人を鍛えるし、人はそうした「鍛え」のなかにも快楽を見い出すことが出来るのである。』
(02.10.10)

 周知のとおり澁澤龍彦は生田耕作の「翻訳」を高く評価した。それだけではなく、三島由紀夫に代表される「華麗な文章家」を賞揚する傾向が強い。それに対し、大西巨人は私の先の紹介(「暗涙」の件)でもわかるとおり、おおむねそのタイプの文章には厳しく、三島由紀夫の文章にも「装飾過剰」的な評価を与えることが多い。この、意見をまったく異にする二人の作家の双方のファンである私は、ではどのような意見を持っているのだろうか?

 私は三島由紀夫の文章にそれほど魅力を感じない。これは「大西巨人の意見」以前の問題である。だから三島の評価については、大西巨人に賛同しても不都合はない。しかし、その一方私は、澁澤が評価する中井英夫や、その中井英夫が評価する赤江 瀑の文章が大好きである。だから、原則としては澁澤好みの美文家を評価しても良いという気持が強い。だが、こういう安易な評価を大西は許さないであろう、という予測は容易に立つ。……つまり私個人としては「論理的かつ華麗な文章がベストだとは思うけれど、それはなかなか困難だろうから、ひとまず大西巨人的な論理重視の明晰な文章も、赤江 瀑的なイメージ先行の華麗な文章も、どっちも個性として尊重したら良いのではないか」という感じになるのだが、……しかし、ここで「守られているもの」が何かと言えば、それは「澁澤好み」でもなければ「大西好み」でもない。ここで守られているのは「私の好み」なのである。

 つまり私はここで「私の好み」を正当化するような「無難な」文体論を語っているに過ぎない。元来、両立しがたいものを両立しがたいものだと承知しながら、(個人的に)どちらを捨てるのも忍びないので、「ひとまず」とか「個性」といった言葉をつかって総花的に正当化し、そこで「思考停止」させてしまおうとしているだけなのだ。……だが、これは自堕落な「現状肯定」に過ぎない。こうした態度に固執しているかぎり、私は「外部の目」を持つことができず、「自己の築いた村の論理」に安住して、小さく「自閉」するだけだろう。だからこそ、私には「外部の目」が必要なのだ。村の外部から訪れる「他者」であり「異邦人」である「無謬の師」が必要だったのである。そして、その師は私に言うのだ。「澁澤龍彦を疑え。中井英夫を疑え。赤江 瀑を疑え。彼らの文体を、論理的に疑い、検証し、思考してみよ。そこから何かが発見できるはずだ」と。

 つまり、私にとっての「師」とは、私が目を逸らしたいと感じる対象(闇)を暴き出し、それに「目を向けよ」と命令する「絶対的な存在」なのである。

 大内史夫は先に引用したところで、

・ 特に『美食家の運命』は、実は反論を期待していました。
 ・ 生田耕作氏の読者の方から、ご教示を受けたかったのです。
 ・ 蒙を、開いてもらいたかったのです。
 ・ 今でも、何か大きな勘違いをしているのではないか、という疑問が拭えません。

と書いているが、ここで大内が求めているのは「外部の目」ではない。大内はここで「より説得的な、もう一人の自分の声」を求めているのだ。つまり、大内がここで求めているのは「外部へ越え出る」ことではなく、自分を「懐かしい内部に呼び戻してくれる」存在なのだ。だが、そんなものは存在しない。行くも戻るも、それを決めるのは、いつでも「自分」なのである。

 大内のここでの心理は「転向者(背教者)」に共通のものである。「思想」でも「宗教」でも良い。それが絶対的な「真理」だと信じ、それに生きているものは幸せである。しかし、ある時、その「確信」に罅が入ると、彼はそれが絶対だと信じるあまりに、かえってそこから目が話せなくなり苦悩する。そして完璧を求めるがゆえに苦悩する彼の期待に充分に応ええないそれを、彼は時に憎悪し、そこから離れようとしたりする。しかし彼は、それを望んだわけではない。できれば「疑いたくなどなかった」「そこから出ていきたくなどなかった」できれば「昔のように何の屈託もなく、その安らぎの中で微睡んでいたかった」……しかし。だから、彼はいつでも「呼び戻しに来る者」を待っている。「ゴメンゴメン。私の不注意で君に誤解をさせたようだね。でも、それは単なる誤解であり、君が心配したようなことではないんだよ。だから戻っておいで。彼も彼女もあの人も、君のことを心配して、君が戻るのを心待ちにしているんだよ」と言い、村からの使者は「温かい手」を差し伸べ、「厳格な外部の風」に凍えた彼の手を、そっと取ろうとするのである。

 つまり「村からの使者」とは、彼を「外部」に連れ出そうとする「厳格な師」とは正反対の働きをする存在なのである。だからもし、大内に、「村」の外部に出て、村々を「横断」する「孤独な旅人(異邦人)」になろうという気があるのなら、彼は「自分を説得する者」(自説を追認する者)を求めるのではなく、「今の自分を否定する者」を求めなければならない。つねに「その小さな殻を懐疑せよ。おまえは不十分なのだ」と言い放つ「師」を持たねばならない。もちろん、この際に「自戒」など無意味であり「言い訳」でしかないのである。

 なぜ「横断的広がり」を持つことが困難なのか? なぜ「反論」がないのか?
 その答は、……普通は、自分をも含めて誰もが、本気では「そんなものを欲してはいない」からなのだ。

 「師」を持つこととは、もちろん内田樹のように「師に依存する」ことではない。私の例で言えば、大西巨人を「師」と仰いだ瞬間、私は「現実の大西巨人」を捨て去っているのである。つまり、「師」は私の「外」にあって「実在しない」。「師」は私の「内(中)」だけに住む、私の「外部」なのである。そして「内部」に「外部」を取り込んだものだけが、その「外部」という通 路を辿って、あらゆる「内部」を横断することができるのである。

 もちろん、この時、私は孤独な「遍歴者」であり、ただ「心の師」との同行二人なのである。

 

  2002年10月23日

 


 

◆ ◆ ◆ 補遺・その後の議論 ◆ ◆ ◆


論文『同行二人―― 私の「師弟論」』に関して、掲示板「アレクセイの花園」で交わされた議論を、該当部分のみ抜き書きにして、以下にご紹介いたします。

 

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園主さまへ 投稿者:Keen  投稿日:10月25日(金)14時31分16秒

『同行二人 ―― 私の「師弟論」』も拝読しました。
聖書か何かからだったか、「……熱くも冷たくもなく、ぬるきによりて、我、汝を吐き出さん」というようなドラゴン(?)のセリフの引用を、最近読んだ記憶があるのですが、思い出せません。
何か書きたいのですが、本日はこれにて。

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園主様へ。 投稿者:楽古堂主人  投稿日:10月25日(金)20時13分44秒

・ 『同行二人』読了。
・ うーむ。痛烈ですね。
・ 少し長くなりますが、感想を述べます。
・ 今の、小生の問題を簡明に整理して頂いたような気がします。
・ 感謝致します。
・ 楽古堂が、四重の同心円の中心にいることが分かりました。
・ 自分で意識していたのは、一番目の「挽歌モード」の円でした。
・ これは時間によって、自分で越えていくしかないでしょう。
・ 二番目が、作品の円でしょう。
・ 『美食家の運命』が、批判の例として珍しいという指摘は、意外でした。
・ 楽古堂は、もちろん、その時々で評価に値する作品を、選んで書いています。
・ いわゆる賞める批評です。
・ しかし、評価の視点については、かなり挑戦的なつもりでした。
・ あの作品を、みんなは、このようには賞めていないぞ、という批判の表明なのです。
・ 『千と千尋の神隠し』や、『ロード・オブ・ザ・リング』のような短い映画評でも、楽古堂は自分と同じような視点での評価を、ほとんど目にしていません。
・ 別に、殊更、奇異を狙っているつもりはありません。
・ あれが、初回の正直な感想です。
・ 毎回、そのずれを書いてきたつもりでした。
・ 三番目の、放浪の旅人にならないという円は、ぼくは若い学生たちと、半徹夜の議論をすることで、かなり欲望を充足してしまっているのです。
・ ただネット的には、定点にいすぎるでしょうか?
・ パソコンを購入すれば、相当程度、改善できるだろうと思っています。
・ ワープロでネットしている限界から、自由に掲示板に書き込めません。
・ メールを掲示板に添付して頂く手間は、友人でないと頼みにくいことです。
・ パソコンを手に入れたら、もっと自由に外に出て行きたいと思っています。
・ たとえば、シュニトケのCD評が、「音楽関係のHPにないので、気が付かずにいるところだった」、というある方からの意見は、当然のご指摘だと思います。
・ 『ロード・オブ・ザ・リング』の批評も、映画関係にない訳です。
・ ある方が辿り着くまでに、たいへんな数の文章とHPを、サーフィンされたようです。
・ 四番目が、趣味嗜好の円でしょう。
・ それが、たいへんに狭いものだろうということは、年を取るごとに明確に分かってきています。
・ しかし、具体的な細部としては、ピアノよりもチェロの音が好きだ、というような形でしか見えていません。
・ 周辺は、自分にも、ほとんど、はっきりとしません。
・ 作品として、内側の意見を表現にして書くということと、外からの意見との擦り合わせという、内外の双方からの長い時間を掛けて、相互に確定していくしかないことだと思っています。
・ 『美食家の運命』の答えが、自分の中にしかないというのは、そうなのかもしれません。
・ 今回、いちばんに反省させられました。
・ そのようには、考えていませんでした。
・ あれ以来、生田耕作氏の訳で、マンディアルグを楽しむことが、どうにも出来なくなっていました。
・ 翻訳された「作品」と「翻訳者」を、混同していたようです。
・ 「作品」と「作家」と「読者」と「登場人物」を混同しないというのが、楽古堂の批評のアルファであり、オメガなのに。
・ そして、この四重の円の中心には、楽古堂の師がいます。
・ それは、ぼく自身の内面の理想化された像と等しいでしょう。
・ ここで、批評家田中幸一は、師弟論を展開しているのでしょう。
・ 師とは、自分の内にいる。
・ 外にいる師は、内面的に消化された自己の像だ。
・ それが、大内を例として、ここで主張したい点であるように思います。
・ ただ、やや明晰を欠くのは、田中にとっての「師」、大西巨人との関係の説明が不充分だからでしょう。
・ それは、同時に、内にもいるし、外にもいる。
・ 大内の例よりも、おそらく、より複雑です。
・ 初等数学では解けません。
・ 位相幾何学が、必要なのでしょう。
・ クラインの壷的な関係性が、ここからは見えてきません。
・ 主要な論文としての、『神聖喜劇』論を要求し、予告している論考なのだと思うのです。
・ それが、すぐには困難であれば、レヴィナスと内田樹の関係を論じることが、ひとつの過程として、今、必要になっているのだと思いました。


  2002年10月25日(金)

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冬をまじかに。 投稿者:AOI  投稿日:10月26日(土)09時50分36秒

☆園主さま

> 『同行二人 ―― 私の「師弟論」』
>ご笑読くださいまし。

とても、笑っては読めませんでしたわ。
風がぴゅうぴゅう吹きすさぶようです。

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厳しさと優しさの両立 投稿者:ホランド  投稿日:10月26日(土)20時18分11秒


 楽古堂主人さま
> 『同行二人 ―― 私の「師弟論」』

 この評論では楽古堂さまがひきあいに出されておりましたが、これは園主さまの中心的テーマである「人間の普遍的な弱さと、その克服」という問題を考える場合、身近にいる信頼できる人を例にとった方が「無害な一般 論」にならなくて良いとの判断が、園主さまにあったのではないでしょうか?
 いぜん園主さまは、チョムスキーの「一般に、知識人の仕事とは、自由に生きようとする民衆の牙を抜いて、為政者に管理しやすいように馴致することだ」というような言葉を紹介してましたけど、園主さまはここで言う「知識人」を「どこかにいる知識人」ではなく「私や君」の問題として捕えているんだと思います。つまり自分が「被害者」なのではなく、「加害者」になる怖れのある問題なんだと。そして園主さまの論説が、しばしば持つ残酷なまでの厳格な響きは、そうした「他人事」性を峻拒して、読者それぞれの喉元にその切っ先を突きつけるという身ぶりに発するものなのではないでしょうか。

 

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問い 投稿者:園主  投稿日:10月27日(日)20時35分22秒


 楽古堂主人さま
> 『同行二人 ―― 私の「師弟論」』

・ 『美食家の運命』が、批判の例として珍しいという指摘は、意外でした。
・ 楽古堂は、もちろん、その時々で評価に値する作品を、選んで書いています。
・ いわゆる賞める批評です。
・ しかし、評価の視点については、かなり挑戦的なつもりでした。
・ あの作品を、みんなは、このようには賞めていないぞ、という批判の表明なのです。

たしかにそのとおりでございましょう。しかし「村の論理」というものは「誉める者は、みな味方」という「敵味方二元論」でございまして、あまり中身は問われないのでございます。喩えて申しますと、「天皇」は「神様だ」と誉めても「素晴らしい人(人間)だ」と誉めても歓迎されます。そこに「矛盾」を見るような「節操」は「村の論理」には無いのでございますよ。

・ 三番目の、放浪の旅人にならないという円は、ぼくは若い学生たちと、半徹夜の議論をすることで、かなり欲望を充足してしまっているのです。
・ ただネット的には、定点にいすぎるでしょうか?
・ パソコンを購入すれば、相当程度、改善できるだろうと思っています。

私の申します『村々を「横断」する「孤独な旅人(異邦人)」』『孤独な「遍歴者」』は、主としてその「精神のあり方」の比喩でございますから、額面 どおりに受け取っていただく必要はございません。

「内部」に「外部」を取り込んだものだけが、その「外部」という通 路を辿って、あらゆる「内部」を横断することができる』と言った場合、ここに示されているのは「内外不二」ということであり、それは「一所不在」であり「遍在」ということでもございます。つまり大切なのは「外部の存在でありながら、内部との通 路を常に保持していること」であり、「内部にありながら外部性を失わない」ということでございます。「知」とは、そういうものであるべきでしょうし、それでこそ「来訪神」「マレビト」としての意味もあるのではないでしょうか。

・ たとえば、シュニトケのCD評が、「音楽関係のHPにないので、気が付かずにいるところだった」、というある方からの意見は、当然のご指摘だと思います。
・ 『ロード・オブ・ザ・リング』の批評も、映画関係にない訳です。
・ ある方が辿り着くまでに、たいへんな数の文章とHPを、サーフィンされたようです。

その意味で楽古堂さまの批評は、「内部の外部」とは反対の「外部の内部」として求められ珍重され、「内部」性の強化に供されることにもなりやすい、とも申せましょう。

・ 師とは、自分の内にいる。
・ 外にいる師は、内面的に消化された自己の像だ。
・ それが、大内を例として、ここで主張したい点であるように思います。

楽古堂さまのおっしゃられていることを充分に理解できているのかどうか、いささか心許ないのでございますが、私の実感から申しますと、私の考える「師」とは、「闇」であり「私をうつさない鏡」であり「答のない問い」といった感じでございましょうか。その意味でそれは「理想とは正反対にあるもの」のようにも思われます。そして、これは「絶対的な外部」であるとも申せましょう。

もちろん私は、「師」に関して、最終的な了解を得てはおりません。

 AOIさま
> 『同行二人 ―― 私の「師弟論」』

とても、笑っては読めませんでしたわ。
風がぴゅうぴゅう吹きすさぶようです。

そうかも知れません。しかし、AOIさまは最近そうした「村」と対峙したばかりでございますから、人の心に宿る「村」意識を頑迷さと、それとの戦いの困難さを、実感をもって読んでいただけたのではないでしょうか?

しかし、私の比喩は、やや悲壮に過ぎたかも知れません。たとえ師と同行二人で生きる道を選んだとしても、それがただちに村人としての生き方より孤独なものだとは言えないと存じます。
 

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「師」という双面神 投稿者:楽古堂主人  投稿日:10月29日(火)14時18分30秒

園主様へ。
・ 「同行二人」論の感想を再論します。
・ 重複してくるのは、ご勘弁ください。

もちろん私は、「師」に関して、最終的な了解を得てはおりません。

・ そうだろうなと、思います。
・ そう簡単に答えの出る質問ではありません。
・ その理由を書きます。
・ 田中幸一の思考が白熱するときには、いつでも複数の、それぞれに意味の微妙に異なる比喩が登場して来ます。
・ 面白いです。

・ 「師」は、次の3つの言葉で定義されます。

  1・「
  2・「私をうつさない鏡
  3・「答のない問い

・ そして、以下の二つの性格を持つものとされます。

  A・「理想とは正反対にあるもの
  B・「絶対的な外部

・ つまり、Aから「理想」とは、「光」であり、「私を映す鏡」であり、「問いに対する答」です。
・ そして、Bから、このような意味での「理想」を、「絶対的な内部」とすれば、「師」は、Aからして「絶対的な外部」という場所にいます。
・ これは、ある意味で大変に分かりやすい説明です。
・ 素朴な二分法だからです。

・ ただし、分かりにくいのはここからです。
・ 以上は「敵」の定義に、そっくりあてはまります。
・ それは、「闇」であり、「私を映さない鏡」であり、「答えのない問い」です。
・ 「敵」が、体現しているのは、田中幸一の「理想とは正反対」にあるものであり、「絶対的な外部」にいるはずです。
・ 「敵」と「師」の相違はなんでしょうか?
・ やや明晰を欠くのは、田中にとっての「師」、大西巨人との関係の説明が不充分だからでしょう。
・ それは、同時に、内にもいるし、外にもいる。
・ 「闇」であり「光」であり、「私を映さない鏡」であり、「私を映す鏡」であり、「答えのない問い」であり、「問いに対する答え」でもある存在なのです。
・ 「理想とは正反対」でありつつ「理想そのもの」であり、「絶対的な外部」にいるとともに、「絶対的な内部」にいるものです。
・ そして、ここまで説明してきたところで、すでに明らかになっていると思うのですが、これは田中幸一が、自分のトポスとしてきた、あの「トリック・スター」そのものです。
・ 「師」は、双面神のように、そこにいます。
・ そして、「同行二人」によって、従来よりも「トリック・スター」の観点が拡がっているのは、「村」というトポスの設定です。
・ そこでは、視点は複数になり、複雑になっています。
・ 「村人」という視点が、存在しているからです。
・ 重層的です。
・ これは、読んでいないので完全に予想ですが、おそらくレヴィナスと内田樹の関係から読み取ってきた、知見ではないでしょうか?
・ 「村」の中に、トリック・スターとしての自分と「師」を、如何に定位させるかです。
・ 大内の例よりも、おそらく、より複雑です。
・ 初等数学では解けません。
・ 位相幾何学が、必要なのでしょう。
・ 「村」自体の性質の分析が、必要不可欠だからです。
・ クラインの壷的な関係性が、見えてきません。
・ そして、このような「師」として、現実的に、あなたの一番近くにいるのは、大西巨人でしょう。
・ 主要な論文としての、『神聖喜劇』論を要求し、予告している論考なのだと思うのです。
・ 日本人の軍隊という「村」の構造と、その中での「トリックスター」東堂の分析に進むことでしょう。
・ 一朝一夕に答えは出ません。
・ ライフワークとして、期待しております。


  2002年10月27日(日)
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見えない絆 投稿者:ホランド  投稿日:10月29日(火)18時12分45秒

 AOIさま
> 『同行二人 ―― 私の「師弟論」』

 この論文を読むと、園主さまはなんだか独りで行っちゃうみたいな印象をうけると思うんですけど、でもそうじゃないとボクは思うんですよ。たとえばそれは園主さまの、

 私の比喩は、やや悲壮に過ぎたかも知れません。たとえ師と同行二人で生きる道を選んだとしても、それがただちに村人としての生き方より孤独なものだとは言えないと存じます。

という部分に表れていると思います。

 園主さまは、他人に媚びないで自分の(言葉の)道を突き進んでゆき、その過程での「反感」や「憎悪」も引き受けていこうとするわけなんですが、でもそれができるというのは、単に園主さまの意志が強いということではなく、心の中に「きっとわかってくれる人がいるはずだ」という確信があるからだと思うんです。つまり、園主さまは誰にも媚びないけれど、いつでも「理解者」と共に歩んでいる、とも言えるんですよね。で、そういう「理解者」というのは、お互いに凭れ合うことを他人に期待する「村人」とは違って、他人に依存することなく他人を承認できる「独立した個人」だと思うんです。そういう独立した者どおしの「絆」を信じているから、園主さまは「孤独」ではない、ということなんじゃないでしょうか。そして、そうした「独立した個人」だけが、時に忌憚なく批判されることもあるこの「花園」の仲間として、いつまでも咲き残るうる人たちなんではないかとボクは思います(笑)。


 楽古堂主人さま
> 「師」という双面神

・ 以上(※ の「師」の定義)は「敵」の定義に、そっくりあてはまります。
・ それは、「闇」であり、「私を映さない鏡」であり、「答えのない問い」です。
・ 「敵」が、体現しているのは、田中幸一の「理想とは正反対」にあるものであり、「絶対的な外部」にいるはずです。
・ 「敵」と「師」の相違はなんでしょうか?

 これは鋭い指摘ですね。言われてみれば確かにそのとおりなんですが、ボクもすっかり見落としていました。

 園主さまって、その行動にあってはとても現実的で、大胆であり果断なんですが、でも、その裏にはこうした「割り切れなさ」も担保しているように思います。たとえば、園主さまが「不毛」「無駄 」「時間の浪費」などと言われながらも「掲示板荒らし」などの「くだらない敵」を相手にしたりするのは、そうしたところに(なかば無意識的な)根拠があるせいかも知れません。

・ 以上(※ の「師」の定義)は「敵」の定義に、そっくりあてはまります。

 だとすると、それは「矛盾」ではなく、この現実において『我以外、みな我が師なり』ということになるんではないでしょうか。「反面 教師もまた、教師である」というような意味で。

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二つの「外部」 投稿者:園主  投稿日:10月31日(木)00時59分49秒

 楽古堂主人さま
> 「師」という双面神

明晰な分析をいただき誠にありがとうございました。私のなかでモヤモヤとしていたものに一端に、形を与えていただけたと喜んでおります。

・ 以上(※ の「師」の定義)は「敵」の定義に、そっくりあてはまります。(楽古堂主人さま)

だとすると、それは「矛盾」ではなく、この現実において『我以外、みな我が師なり』ということになるんではないでしょうか。「反面 教師もまた、教師である」というような意味で。(ホランドくん)

ホランドくんの、とてもわかりやすい説明に触発されて考えたのですが、「師」と「敵」が同じ「外部」であるとしても、ひとまずそれは「肯定的な外部」と「否定的な外部」という風に区別 できるのではないでしょうか。

つまり「師としての外部」は「自分・我(内部)」には無いものであり理解しがたいものではあっても、それは「内部に取り込みたいもの(肯定的な外部)」でございます。ところが「敵としての外部」は同じく「自分・我(内部)」には(表層意識的には)無いものであり理解しがたいものではあっても、それは「内部に取り込みたくないもの(否定的な外部)」だと申せましょう。つまり、ここでいう「外部」とは、「外部」が「外部」として「自分・我(内部)」に否定的なこと(受動性)が問題なのではなく、私の方がそれに対して肯定的か否定的かという「能動性」の問題なのだと存じます。

わかりやすく具体例を示しましょう。

例えば「掲示板荒らし」をするような人物でも「ああいう人物になりたい」という「理想としての外部」は必ず持っております。つまり私と同じように大西巨人を尊敬する人の中にも「掲示板荒らし」をするような人物は現に存在するのでございますね。では、彼らはなぜそういう立派な「理想」を持ちながら、愚かで志の低い行いに走ってしまうのでございましょうか? 私はそこに、「否定的な外部」に対する、彼らの認識の甘さを見るのでございます。すなわち彼らは、たしかに「ああなりたい」という「理想」を持っていたとしても、「ああなりたくはない」という「反・理想」を明確に把持していないのでございます。たぶんこれは、彼らの「私の中にそんなものに成り下がる要因などあるはずがない」という隠蔽された逃避的意識に根ざした、「だから、私がそんなものになるわけがない」という無根拠な「自己に対する楽観視(自信過剰)」に発するのでございましょう。

しかし、人間というものはとかく「易きに流されるもの」でございます。つまり「理想」に近づくのは困難でございますが、「反・理想」に流されるのはいとも簡単なことなのでございます。ですから本来、人間は「理想」を持つのは当然としてそれだけでは足らず、「反・理想」を明確に把持しつづけることが重要なのでございましょう。
すなわち「負け惜しみを言うような人間になりたくない」「卑劣な手段に訴えてまで、復讐をしようとするような卑怯な人間になりたくない」「数の力にものを言わせようとするような人間になりたくない」「すぐに興奮するようなみっともない人間になりたくない」「自分のことを棚上げにしたり、臆面 もなく一貫性のないその場限りの言葉を発するような人間になりたくない」「人を差別 するような人間になりたくない」「立場や肩書きで、威張るような人間になりたくない」「強者に媚びるような人間になりたくない」「人の猿まねしかできないような人間にはなりたくない」など、つまり「恥知らずな人間になりたくない」という意識の把持でございます。……こうした「反・理想」に対する明確な意識を常時意識化しておくことにより、ひとまず人は「易きに流され」ないで済むのでございます。

したがって、ある意味では「教師」よりも「反面 教師」の方が重要だと言えるのかも知れません。なぜなら、それは、人間の「(好ましからざる)自然の法則(としての内部)」についての理性的現実認識に根ざした「人間的意志による抑制的はたらき」を意味するからでございます。

まとめますならば、「師」も「敵」も「私の中(内部)」には無いという「認識」においては、両者は共に「外部」ではございますが、実のところ「敵」の方は、見えにくくはあれ、誰にも「内在」するものなのでございます。ですから「師」は意識的に取り込む努力を続けなければ取り込めない強固な「外部」でございますが、「敵」という「外部」は意識的に拒絶する、つまり「反・理想」として意識的に取り込む(内在する「敵」を直視する)努力を続けなければ、正しく取り込めない「外部」。取り込めないどころか、いつの間にか「内部」で繁殖し「内部」を腐敗させ、自ら「内部」化して乗っ取りを行う危険な存在なのでございます。ですから私たちは、常に「敵」である「反・理想」としての「外部」を直視すること、つまり「内部」にそれ(悪しき外部)を見るという行動によって、それを「内部」化(飼い馴らし)しなければなりません。「敵」である「反・理想」としての「外部」を直視することを避けた時、あるいはその苦役を怠った瞬間に、「敵」は「内部」に育っていくものなのでございましょう。つまり、「師」は「真の外部」であり、「敵」は外部に投影された「隠蔽された内部」なのでございます。

さて、少しは、「外部」としての「師」と「敵」の違いの説明になっておりましたでしょうか?
私は今この説明をしながら、ウイリアム・P・ブラッティの『エクソシスト』(創元文庫)を思い出しました。たぶんそれは、「外部」としての「師」と「敵」の関係が、「人間(内部)」に対する「神」と「悪魔」の関係に似ていると感じたせいでございましょう。



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秋日和にハイヒールの靴音
 投稿者:AOI  投稿日:10月31日(木)11時15分07秒

☆園主さま
>> 「内部」に「外部」を取り込んだものだけが、その「外部」という通 路を辿って、あらゆる「内部」を横断することができるのである。

>> たとえ師と同行二人で生きる道を選んだとしても、それがただちに村人としての生き方より孤独なものだとは言えないと存じます。

>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

う〜ん、これでは何とも……。どうぞ、否定的なご感想でもかまいませんので、忌憚のないところをお聞かせ下さいまし。

ゴメンナサイ!否定的な感想というのではないのです。
自身のことを思えば、懐疑的になってしまうのです。
園主さまをご存知なかたは、上記の言葉はどなたも納得されるでしょう。園主さまらしい言葉です。でも、私がそれになにかコメントするのでは嘘っぽくなってしまいそうで、あのようにしか書けなかったのです。

AOIさまは最近そうした「村」と対峙したばかりでございますから、人の心に宿る「村」意識を頑迷さと、それとの戦いの困難さを、実感をもって読んでいただのではないでしょうか?


少し前このように書かれていましたけれど、対峙したというより通りすぎたと言ったほうが適当と思います。それも一人ならできないことでした。

楽古堂さまへのレスの「師」「敵」は、整理していただいたように思います。

 


 

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