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田中幸一(アレクセイ)
碧川 蘭の新しい評論「ティマの悲劇 ―― 映画『メトロポリス』をめぐって」を読んで、まず思ったことは「こないだの評論とは対極にあるような文章だ」ということであった。こないだの文章とは、碧川が本年3月に執筆発表した「踊る希望の化身 ―― 映画『リトル・ダンサー』 」のことである。
『メトロポリス』と『リトル・ダンサー』は、共に「子供」を主人公に据えた映画である。
碧川は、ほんの3ヶ月ほど前に『リトル・ダンサー』を論じて、次のように語った。
人間が生きていく上で、人に夢を託すというのは、そんなにいけないことなのでしょうか?/ 僕はそんな風には思いません。自ら精一杯生きて、それでも果 たせなかった「夢」を、他人にあるいは子供に託すことができるから、人間は絶望することなく前向きに(未来に「希望」を繋いで)生きていく事ができるのではないでしょうか?/ 元気に楽しげに、地を蹴って軽やかに踊り狂うビリーの姿は、彼に「夢」を託した多くの大人たちの「希望」そのものなのだと、僕はそう思いました。
ここでは「子供」は、人間を(就中、大人を)救う「天使」だと看做されており、また「そのように見ること」を碧川は肯定していた。にも関わらず、碧川は『メトロポリス』を論じた新稿で、自分たちの「欲望」のままに「子供」たちの「生」を弄ぶ「大人」たちを弾劾して、こう書いている。
子供が欲しいのに子供が産めない人は、とても可哀想だと思います。できれば、その望みをかなえてあげたいとも思います。だけど、子供を生むにしろ生まぬ にしろ、それは所詮「親」の都合であって、生まれてくる「子供」の意見が聞かれることは、決して無いんです。子供はいつだって「親の欲望」によって、この「穢れと悪意」
に満ちた世界に生み出されてくるんです。/ それでも、それが「神の摂理」に止まっているうちは良いでしょう。だけど、それが人間の思うがままになった時、その「際限なき欲望」の対象になった時、生まれてくる子供は果 たして「商品」以上のものでありうるんでしょうか?/ 彼らは「何も知らないで生まれ」てきて、最初はそうと知らずに「親」を信じて育ちます。でも、そんな彼らもいつかは自分の「正体」を知るんです。『自分は(厳密な意味での)親を持たない「異形」なのだ』と。/ 人間を憎み「怪物」と化して死んでいったティマ。可哀想なティマ。/ 「天使」のような彼女を「怪物」に変貌させ、死に到らしめたのは、「人間の際限のない欲望」という「怪物」だったのだと、ボクはそう思います。/ そして、ボクたちは・・・「ティマの悲劇」を防ぐことが出来るのでしょうか?
碧川がここで論じているのは、クローン技術や染色体操作などの技術によって、今後(ロボットである、ティマやアトムのように)生み出されてくるであろう『人為的に作られた人間(子供たち)』のことである。
この論文の中で碧川も紹介しているとおり、すでに精子や卵子をはじめとした人間のあらゆる「生体部品」が、現実に「商品」として扱われ、既にアメリカなどでは莫大な金の動く巨大ビジネスとして完全に定着しているという事実が、われわれの目の前にはある。そして精子にしろ卵子にしろ、それらは親の「容姿・知能・運動能力・人種」などの条件によって公然とランク付けがなされ、「優性学の悪夢(「ユダヤ劣等民族の最終処理」というナチス・アウシュビッツの悪夢)」が、その悪魔的な相貌も露わに、すでに現代に蘇っているのである。こうした現実を前にして、いったい誰が碧川の問い『ボクたちは・・・「ティマの悲劇」を防ぐことが出来るのでしょうか?』に「然り」と応えられるだろうか……。
『リトル・ダンサー』における「子供」は「大人を救う・希望の天使」だった。ところが『メトロポリス』における「子供」は「大人によって堕とされる・悲劇の天使」となってしまっている。この「天使の二つの顔
= 天使の双貌」のギャップを、私たちはどう考えれば良いのだろうか? 「子供」をただ『希望の天使』とのみとらえて世界を楽観視することは、もはや「お人好し」では済まされないところまで、我々は来てしまっているのではないか? しかし、では「子供」はただ大人によって堕とされるだけの「悲劇の天使」でしかないと考えれば、それで良いのだろうか? それが現実を直視する正しい姿勢だと言えるのか? だが、だとすれば我々に残された道はただ一つ。子孫を残さず「潔く絶滅していく」という選択だけなのである。
だが、これは「違う」と私は思う。碧川が「踊る希望の化身 ―― 映画『リトル・ダンサー』 」の方で指摘した「子供」の属性である『希望の天使』性というのは、決して「きれいごと」でも「大人の勝手な幻想」でもないはずだ。「子供」はたしかに「そういう存在」である、と私は思う。
「子供」をただ「弱いもの」「庇護すべきもの」と考えれば、彼らがこの世に生まれ出てくるのは、ただ不幸なだけだろう。だが、生物は、人間は、そんな単純な存在だとは、私は思わない。子供は「現在」においては、ただ「無邪気」で「可愛く」て「弱い」存在でしかないかも知れない。大人の庇護なくしては生きていけない、ある意味では「足手まとい」な存在かも知れない。しかし、そんな彼らには有って、「大人」には無い「力」がある。それは「未来」という「可能性」なのだ。それは「今は無いもの」である。にもかかわらず、それは「今・現在」を生きる「大人」、「可能性」の半ば閉ざされた「大人」に、ある確かな「力」を与えてくれる。つまり「子供」とは、「大人」に乏しい「未来=可能性」という「力」を持った存在であり、その意味で決して「非力なだけの存在」ではないのである。
「大人」は「子供」から「未来=可能性=希望」という「力」を与えられて「今・現在」を生き、「子供」は「今・現在」を「大人」に依存的に守られながら、その存在として「大人」の「力」を与える存在なのだ。つまり、「大人」と「子供」は「持ちつ持たれつ」の関係にあり、「どちらが欠けてもダメなもの」なのである。
この先、どんな「悲劇」が人間を待っていようと、人間はその「生」を終えるまで、生きるしかない。生物とは「生きるもの」であり、「生きる」ということ自体に「意味」などなく、ただ「生きる」しかないのなら「どう生きるか」だけが問題なのだ……と私は思う。事実、人間はそうしてこれまで生きてきた。将来の「新しい悲劇」を怖れ、それを理由に「生きる価値」を問うたならば、人間は遠の昔に絶滅しておくべきだったはずである。決して、これまでの歴史に「悲劇」が無かったということではないからだ。そう、私たちは「アウシュビッツ」の後にも「恋を歌い」「愛を語り」「理想を抱いて」生きてきたのだ。どんな悲劇を体験しても、必ずそこから「懲りずに」立ち上がってきたのである。我々とは、どうしようもなく、そういう「生き物」なのである。
しかし、こう語っても碧川の内心の「矛盾」と「不審感」を拭い去ることはできないだろう。私がここまで書いてきたきたことは、言わば「決定論」であり「運命論」だあり「だから仕方がないのだ」と言うに等しいものだからである。だから、彼はこう嘆かざるをえないはずだ……「人間とは、そんなものなのか? ただ生き続けるために、嘆くべきを嘆き続けることすらできない、そのように予めインプットされた、神の木偶人形でしかないのか?」。
「大人を救う・希望の天使」と「大人によって堕とされる・悲劇の天使」。その『天使の双貌』のギャップを、我々はどう理解し、どう対処するのが「正しい」のか? どうすることが「人間らしい」対処なのだろうか? だが、その答は、たぶん誰も与えてはくれないはずだ。それはたぶん、自分でみつけるしかないものなのだ。それを求めて「生き」、それと格闘しながら「生き」るしかないものなのである。
楽古堂主人(大内史夫)は、このことを、ユング派心理学者 河合隼雄の言葉(『大人になることのむずかしさ』岩波書店・1983年)の引用によって、こう書いている。
『暴走族など「悪」であることが明らかであるのに、なぜそんなことをするのか。それは、現代の青年たちが数限りない対極性のなかで、それをいかに生きるかに苦闘しており、それによってこそ個性的な大人になりうること、そして、暴走の一件はそれらの多くの対極性の代表として目の前に出てきているものであることを知っているからである。今まで述べてきたことを、この際思い出していただくなら、自立と依存、日本と西洋、男性と女性、孤独と連帯、などなど多くの対極性に目を向けてきたことに気づかれるであろう。そのときに、どちらか一方を善とすることは可能であり、そのときは単純明快な人生観や理論ができあがるであろう。そして、その理論に頼って「大人になる」ことは可能であり、そのような大人もたくさんいることは事実である。』(中略)『現代の青年たちが大人になることに難しさを感じるのは、そのような単層的な人生観や、イデオロギーに絶対的に頼るようなことができなくなっているからである。古来から絶対視されてきたものが、絶対ではないことを、彼らはあまりにも多く知りすぎたのである。このような限りない相対化のなかで、青年が「しらけ」を感じずに生きてゆくためには、対極性の中に身を投げ出して、そこに生きることを学ばなければならないし、われわれ大人がまずそれをやりぬ いて行かねばならないのである。』(中略)『人生のなかに存在する多くの対極に対して、安易に善悪の判断をくだすことなく、そのなかに敢えて身を置き、その結果 に責任を負うことを決意するとき、その人は大人になっているといっていいだろう。それらの対極はハンマーと鉄床のようにわれわれを鍛え、その苦しみのなかから個性というものをたたき出してくれるのである。』
(「青雲の歌 6 ―― 小野不由美『図南の翼』ノート」より孫引き)
そう。「子供」たちの「悲劇」を招かない・繰り返さないためにも、私たちはこの『対極性=矛盾的真実』に堪えて「真の大人」にならなくてはならない。「子供」を犠牲にせず「子供」と力を合わせて「生きる」ためには、我々「大人」が「子供」に一方的な犠牲を強いない「世界の矛盾を引き受けて立つ・真の大人」にならなくてはならないのであろう。つまり「大人になる」とは「答にすがりつくこと」ではない。「世界の矛盾(対極性)」を引き受けて立ち、「子供」に「世界の矛盾(対極性)に負けない・強い大人」という「希望」を与える存在となることなのではないだろうか。
そう考えれば、碧川 蘭が「踊る希望の化身 ―― 映画『リトル・ダンサー』 」で肯定した「子供に夢を託し、矛盾に堪えて生きた大人」と、同じく「ティマの悲劇 ―― 映画『メトロポリス』をめぐって」で否定した「矛盾に堪ええず、子供に依存した大人」の「差」も明らかになるはずである。 「わかりやすく、かっこいい大人」になる必要はない。私たちが目指すべきは、むしろ「堪える大人・決して負けない不屈の大人」なのではあるまいか。
「堕天使」なるのか、それとも「守護天使」となるのか。
『天使の双貌』とは「子供たちの双貌」であり、それはそのまま……、私たち「大人の双貌」でもあるのである。
2001年6月10日