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◆ この先の50年 ◆ |
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「SRの会創立50周年記念大会」に思う
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田中幸一(アレクセイ)
「SRの会創立50周年記念大会」の前日、私は自分のウェブサイトの掲示板に大要つぎようなことを書いた。
「これまでのミステリマニアは、ミステリを語り合える仲間が欲しいと思えば、SRの会など限られたいくつかのサークルに入るしか方法がなかった。しかし、例えばSRの会は本格ミステリを中心としたミステリ全般 を扱うサークルで、当然いろんな好みの会員がいる。だから新会員が特定の作家のファンで、その作家にしか興味がなくても、その話ばかりするわけにはいかないという難点もあった。ところが、インターネットの一般 化によって、より限定された好みの仲間を見つけることが容易になったため、SRの会のような幅広くファンを結集するタイプのサークルは、その存続が困難になってきているように思う。今回50周年を迎えたわけだが、今後の読者の意識変化を展望する時、SRの会はこれまでの伝統を守りつつも、やはり一定の変化を遂げていかざるをえないであろう」
「SRの会創立50周年記念大会」の冒頭、ゲスト作家のひとりで、古い会員でもある有栖川有栖氏が「お祝いの挨拶」として大要つぎのようなことを語られた。
私は高校一年生の頃に入会しましたので、ここでも古い方の会員かも知れません。最近は例会にも参加できませんが、以前は松虫通 りの石田さんのお宅で行われていた例会へよくお邪魔したものです。今もそうだと思いますが、SRの会の良いところは、お年寄りから中学生くらいまでの会員が、分け隔てなく対等にミステリを語り合える場所だということだと思います。つまり六十歳くらいの人が孫のような会員に「君はカーでは何が好き?」と質問して、それで話がきちんと成立して盛り上がるという楽しさがありました。ところが最近はミステリファンも好みが細分化してきて、同じミステリファンと言っても話が通 じないというような状況も出てきています。私としては、そういう状況をとても残念に思うのですが、これからもSRの会だけは、老いも若きも集い合って「君はカーでは何が好き?」と言って、仲良く語り合える場所であってもらいたいと期待しております。
言うまでもなく、有栖川氏は私と同種の危機感を感じている。不況の続く出版業界にあって独り気を吐きつづけ「空前のブーム」と言われる推理小説だが、しかしその内実は、読者の細分化が進行して、実質的に「ジャンルとしての推理小説」を愛し支えるような「ミステリマニア」という存在が死滅しかけているのではないか、このままでは今の「推理小説ブーム」もかつて「SF」が辿ったと同じ「拡散と浸透」という道程を経て雲散霧消してしまうのではないか……そんな危機感である。無論、私は、有栖川氏のような生え抜きのミステリマニアでも、ましてや「本格ミステリ原理主義者」でもないので、推理小説が消えても左程に痛痒は感じないと思う。しかし、「ミステリ」にしろ「SF」にしろ、ある程度は求心性をもった(つまり社会性をもった)観念が失われ、個人的な「好み」のレベルにすべてが解体されていくという現状には、大いに危機感を持っている。「他者への想像力」を必要とせず、「個の安楽」に自閉するこのような傾向に、私は「ミステリ」云々を超えた、より根源的な危機感を感じるのである。
有栖川氏に続いて挨拶した、綾辻行人氏は
僕がSRの会に期待しているのは、忌憚のない厳しい批評です。かつてはそういうものがよく見受けられたのですが、最近少なくなったように思います。もちろん為にする批判は論外ですし、いくら的を射た批判でも、批判された方は必ずその時は腹が立つものなんです。しかし、こと本格ミステリに関してはそういう厳しい批評は必要だし、それは後で生きてくるものだと思うんです。ですから、ミステリマニアであるみなさんには、そういう愛のある厳しい批判をお願いしたいと思っています。
という主旨のこと語った。
一見これは、有栖川氏や私の問題意識とは別のところからの発言のように見える。だが、私はそうとばかりも言えないと考えた。と言うのも、「愛ある厳しい批判」とは「ミステリ全体を愛する」という意識なしには出てこないものだからだ。つまり「好み」が細分化して「好きな作家(や作品)」にしか関心を示さなくなれば、そうではない作家や作品に言及することもなくなり、「ミステリの発展のために」あえて苦言を呈するというような「社会的な意識」も必然的に失われてしまう。また、さらに言うと、「好きな作家」が「好みの作品」を書かなくなれば、その作家はすでに興味の対象ではなくなり、別
の新たな「好きの作家」に移っていく、というのが徹底した「個人」の態度であれば、「愛すればこその批判」などというものは、もはや存在しえなくなってしまうのだ。……かつては「毒舌のSR」を自負し、時には「毒舌を売り物にし過ぎるきらいがある」と批判されることもあったSRの会にも、そういう時代の波は確実に打ち寄せ、侵食していたのであろう。綾辻氏は批判される側の立場からそうした変化を見てきて、そこに一種の危機感をおぼえたのではないだろうか?
こうした「読者の変化」を考える上で示唆的だと思えるのが、先頃刊行された東浩紀の『動物化するポストモダン
―― オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)であろう。
東はここで、日本の戦後の半世紀が「理想の時代」(マルキシズムなど)から「虚構の時代」(オウム真理教など)へと変化してきたという大澤真幸の意見を踏まえたうえで、現在は「虚構の時代」が破綻して「動物化の時代」に入っていると説明している。「理想の時代」が「大きな物語(理想)」の信じられた時代であるならば、「虚構の時代」とはそうした「大きな物語」が破綻失効し、そのためにさまざまな「理想の代用品としての小さな物語」が求められた時代であり、そうした中から「オタク文化」というものも育ってきた、とする。ところが、現代の若者は最早そうした「代用品(としての物語)」すら必要とはせず、『萌え要素(快感要素)』に還元され、それを蓄積したものとしての「(共通
認識としての)データベース」を消費するようになってきており、「物語(という矮小化された理想)」を介さずに直接的に「気持ち良いもの」にアクセスし満たされてしまうような消費行動(「動物」状態)をとっている、と東は説明するのである。――
詳しくは東の著書に当たってもらうとして―― 要するに「ミステリ」であれ「SF」であれ、そうした趣味的な「観念」が一人の人間の「自負」を支ええたというのは、それが一種の「理想の代用品としての物語」であったからなのだが、現代の若者は「ミステリ」や「SF」といった「物語」にすらもはや興味を失い、「ミステリ」であることを必ずしも前提としない「名探偵」「密室」「友情」などといった『萌え要素』に直接的に反応するようになってきているのである(若い読者層での、清涼院流水氏の人気が示唆的)。そして、これが有栖川有栖氏や私の見ていた「ファンの(個への)細分化」ということであり、綾辻行人氏の危惧した「批評性(社会性)の喪失」の原因なのではないだろうか。
東の見解は充分に説得的であり、この理論に沿って考えれば、時代は確実に「個の好みへの(類型的)細分化」「批評性の喪失」という方向に進んでいくことになる。だとすると、私たちはそうした事態を、どう理解し、どう対処し、どのように受け入れていくべきなのだろうか? ……私には、まだその答えが見えてはいないのである。
2002年3月9日 執筆(初出)
2002年3月19日 改稿
初出・ウェブサイト『LIBRA アレクセイの星座』 BBS「アレクセイの花園」
URL【http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/index.htm】
※ 以上が『SRマンスリー』2002月5月号(NO.322・SRの会 同年7月発行)に掲載されたものの全文です。
2002年7月5日