INOUE YOSUI INOUE YOSUI INOUE YOSUI INOUE YOSUI 
 
 
  陽水の快と不快 
 
 
あるいは、井上陽水のサングラスと笑顔
 
 
INOUE YOSUI INOUE YOSUI INOUE YOSUI INOUE YOSUI 
 

 

 田中幸一(アレクセイ)   

 

 「楽しくないけど すごい作品」という見出しで、井上陽水の『UNITED COVER』が紹介されていた。

 『産経新聞』本年6月9日付けの「メディア ニュース」欄、「コレ聴き隊 新譜CD紹介」のコーナーである。石井健による紹介文は、まさに最大級の大絶賛である。『UNITED COVER』への言及部分すべてを、以下に紹介しよう。

井上陽水の『UNITED COVER』(フォーライフ)は、いまのところ今年聴いた邦楽の中でいちばんすごい。他人の作品を歌うTカバー録音U集だが、たいていのカバーは建築物でいうと改装や増築になることが多いのに、陽水はまず建物(原曲)を解体し、その資材を使ってまったく新しい建物に仕立てている。「銀座カンカン娘」「嵐を呼ぶ男」「星のフラメンコ」などよく知られた歌が、かなり装いを新たにしている。/この荒技を成功に導いた要因は、まず、すばらしい編曲にある。星勝の名前がクレジットされているが、各楽器の音が入念に選ばれ、研ぎ澄まされ、古い歌たちがまさに現代の軽音楽となっている。そして当然、陽水の歌の力。急速長のフォービートで突っ走る「嵐を呼ぶ男」のせりふなど昨今のラップを蹴散らすほどのビート感にあふれている。/しかし、楽しい内容かと問われると小欄、返答に窮する。実は、この作品を聴いていると不安で落ち着かない気持ちにさせられる。そこが陽水作品らしさであり、最大の魅力だと思うのだ。/最近は「楽しい」「励まされる」「過激だ」など、送り手と受け手の意思疎通 が単純なものしか売れないようだが、本来、音楽は聞き手にもっと複雑な感情を喚起させるもの。陽水の新作は、久々に世に出た「楽しくないけどすごい作品」だ。

 以前、友人たちとカラオケに行って、大好きな「リバーサイド ホテル」を歌った時、年若い女性の友人がいきなりケラケラ笑い出した。いくら私の歌が下手だといっても、そんな身も蓋もない笑い方をしなくてもいいじゃないかと思っていると、しばらくして笑い止んだ彼女が言い訳して曰く「決して歌が下手だと思って笑ったんじゃありません。あんまり意味不明な歌詞なんで、ついおかしくなっちゃったんです。だって、『ホテルはリバーサイド 川沿いリバーサイド 食事もリバーサイド Oh― リバーサイド』は無いんじゃないですか」……私はこの時、初めて「そう言われてみると、そうかも知れないな」と思ったのである。

 私が陽水のファンになったのは、つい最近のことだ。カラオケと言えば、アニソン(アニメ・ソング)しか歌わず、それに満足していた私だが、それしか(技量 的に)歌えないと思われるのも癪だという気分もあって、一発有名な曲を歌いこなして、友人たちをアッと言わせてやろうと考えていたのである。そんな折りも折り、ある友人が陽水の「少年時代」を論じる評論を書いたので、じゃあこれを歌ってやろうかと、じつに安直な気持ちで、通 い慣れた古本店『ブック・オフ』で、陽水の『GOLDEN BEST』を購入したのが、つい3ヶ月ほど前のことなのであった。
 それからは暇を見てはこの『GOLDEN BEST』を聴いて聴いて聴きまくった。歌の練習をする前に、まず見本を徹底的に頭と身体に刷り込む。私の歌は、まず完全なコピーを目指すところから始まる。素人が始めから勝手に歌を捻くってみても、ろくな結果 にならないというのは、他人の歌を聴いていて、骨身に沁みていたからである。

 そんなこんなで最初は「少年時代」「リバーサイド ホテル」が好きになったのだが、聞き込むうちにほぼ全ての曲が好きになっていった。そんな中で、いま現在もっとも好きな曲をあえて挙げるならば、「なぜか上海」ということになるだろう。

 「なぜか上海」……それにしても、おかしなタイトルだ。たとえば、タイトルが「上海」なのに、上海に関係する内容がまったく無い歌があれば、聞き手は「なぜ「上海」なんだろう?」と思うことはあるだろう。ところが、この作品はタイトルからして「なぜか上海」。自分で言うなよ、と言いたくなるような人を喰ったタイトルなのである。無論、歌詞を見ても「だから上海」なのだと納得させてくれるような部分はどこにも無い。曲の雰囲気には、たしかに「異国情緒」と微かな「旅愁」めいたものがあって、上海だと言われれば、まあそんな雰囲気も無いでは無いのだが、それは所詮そこまでで、実に漠然とした「頼りの無い・落ち着かない」ものなのである。

 ある時、年長の友人に「こないだカラオケへ行って、陽水の「リバーサイド ホテル」を歌ったら、意味不明な歌詞だって笑われちゃいましたよ」と話すと、その友人は「あの人の歌詞は昔からそうだよ。フォーク歌手として出てきた人だけど、どうもそういうものには体質的に馴染まないところがあったようだね。ちょっと意味の取れない、ずれた感じの歌詞を書くんだ。たしか竹田青嗣も『陽水の快楽』って本を書いてたよね」という話をしてくれた。
 私も、竹田青嗣の『陽水の快楽』という本の存在自体は知っていた。「陽水の本」として知っていたのではなく、あくまでも「竹田青嗣の本」としてタイトルだけは知っていたのだ。私は現代思想に興味があったから、そのからみで竹田青嗣の著作をいくつかは読んでいたが、音楽にも、まして井上陽水にもとくに興味は無かったので、その存在こそ知っていたが、読んではいなかったのである。

 それにしても「意味不明な歌詞」と「現代思想の評論家」、さらに「快楽」……と来て、私はその時、陽水の魅力を理解する上で、この「意味不明な歌詞」という特性は、無視することのできない、かなり「重要な要素」なのではないかと、ということに初めて気がついた。そしてそれと同時に、この時から私は、井上陽水というクリエーターに興味を持ち始めていたのである。

 実際、私の場合、他人から指摘されるまで、陽水の歌詞の「意味不明さ」にまったく気がつかなかった。と言うか「気にならなかった」「引っかかりを覚えなかった」「自然に受け入れられた」のである。他人からの「意味不明」だという指摘を待って、私はなぜ「気にならなかった」のかを自問してみたのだが、その私なりの答が「歌詞が曲と完全に馴染んでいた」というものだ。歌詞と曲が一体になっているのなら、何も歌詞に独立性のある明白な意味、例えば「メッセージ性」や「ストーリー性」なんか、あえて必要はないだろう。歌とは本来「演説」や「物語」ではないはずだ。そういう要素があっても差し支えはないけれど、それが第一要素ではなかろうし、それが無くても楽しめる作品になっているとしたら、それはむしろその作品の「歌としての完成度」を保証する事実だということになるのではないだろうか。………というのが、「音楽」や「歌」の素人である、私の考えであった。

 そして、そんな折り、私は冒頭に引用した石井健の文章に出会った。そして……なあんだ、そういう事だったのか、と全てがハッキリしたのである。


 私は「文学」や「思想」「哲学」「美術」といった「読む」「書く」「見る」「考える」の方には、素人ながら、それなりに一定の見識を有しているつもりであった。だが、こと「聴く(音楽)」に関してはまったくの「素人」であり「門外漢」であるという意識しかなかった。ただ子供の頃から「歌う」ことが好きなだけの「一般 大衆」だと思っていた(自認していた)のである。ところが、石川の『本来、音楽は聞き手にもっと複雑な感情を喚起させるもの。』という一文に接して、なあんだ音楽も「文学」と一緒だったのかと、眼を開かれたのである。

 私は、なんとなく「音楽」というものは「エンターティンメント」だと思い込んでいた。ポップスも演歌もジャズもラップも、あるいはクラッシックもオペラもあるだろうが、それらは基本的に「娯楽」であり、「娯楽」でしかないのだ、と何となく思い込んでいた。もちろん「娯楽」とは程遠いような実験音楽・前衛音楽の類もあるだろうが、それでも「音楽」というのは善くも悪くも「娯楽」なのだと思い込んでいたのである。
 私のこうした思い込みは、やはり日頃接することの多い「歌謡曲」が、どこまでも「娯楽」でしかなく、ほんらい「娯楽」からはみ出すような要素を持った音楽(例えば、宗教音楽)ですら、「娯楽」として利用され、そのようなかたちで紹介されることが圧倒的に多いという「日本の現状」に由来するのではないか、と私なりの分析をしてみた。音楽にこだわりのある人なら、そういう「与えられた常識」を疑ってみることもあるのだろうが、私を含む「一般 人」はそこまで「音楽そのもの」を総体として考えてみることはなかったし、事実その必要もなかった。
 「考える必要が無い」理由を考えてみると、例えば「本」なら「わかる本」と「わからない本」があって、「わからない」のは端的に「読者としての能力不足(私の「頭がわるいから」)」が原因だとハッキリわかる場合が少なくない(哲学書など)。ところが「音楽」の場合、「わかる」「わからない」が「感性に合う」「合わない」と理解されて、欺瞞的に「言い替え」られてしまいがちなのではないだろうか? 本当は、聞き手に、その作品を聴きこなし楽しむだけの能力がないだけなのに、それを「感性に合わない」という漠然とした言葉で、なんとなく誤魔化し自己正当化してしまっているというようなことが少なくないのではないか? ……事実、それが通 るからこそ「音楽」は「娯楽でしかない」ということになってしまうのではあるまいか。「わかって当たり前」「楽しめて当たり前」。「わからない」「楽しめない」のは、聞き手の「責任」ではなく、作り手の「責任」なのだという「感覚(常識)」が、だれにでも「一応は聴く(鑑賞する)ことに堪えうる・音楽の世界」では、流布しやすいということなのではないだろうか?

 だが、こうした「常識」は無論「まちがい」なのであろう。文学でも美術でもそうだが、訓練されていない「感覚」には理解のおよばない「難解な」けれども「素晴らしい」表現というものが、「音楽」にだって必ずあるはずなのだ。無論「わかりやすい」に越したことはないのだけれども、「わかりやすくなければならない」つまり「エンターティンメント」でなければならないということは、「音楽」の場合にだってないはずなのだ。なぜなら、そういう「義務」は、「芸術」としての「音楽」の「可能性」を狭め、結果 としてその「足枷」にしかならないからである。

 そこで話を井上陽水に戻すと、陽水の歌詞の「意味不明」性は、単純な「エンターティンメント」性を揺さぶって、「音楽」の、「歌」の可能性を取り戻す契機を孕んだものなのではあるまいか。
 むろん私は、陽水がこういうことを「意識的」「戦略的」に、選んで実行しているとまでは思わない。なぜなら、そういう発想でつくられた「音楽」は、その「意識」が前面 に出過ぎてしまい、たいていは「実験」とか「前衛」と呼ばれるものになってしまって、「ポピュラリティー」を失ってしまいがちだからである。無論、まったく無自覚ではありえないのであろうが、陽水の場合、基本的には「自然体としての意味不明」なのだろうと思うのだ。だからこそ「押しつけ」や「権威」めいた「重さ」が、そこにはまったく無いのであろう。

 私のこの推測を裏付けるものとして、ここで二つの証言を紹介しておこう。いずれも井上陽水の所属するレコード会社 フォーライフの発行する『Yosui Magazine』からで、まずは陽水の友人エッセイスト玉 村豊男のエッセイ「メールともだち」から。

簡単なメールと(※ママ)文章でも彼の表現は独特で、やはり天才か、あるいは、ちょっとアブナイ人なのではないか、と思った。

 次は『UNITED COVER』についてのインタビューに答えた、陽水自身の言葉。

――では、その 選ばれた曲についておしえてください。
井上 「花の首飾り」、ザ・タイガースの。
――何故?
井上 純愛だから(笑)。純愛じゃないが、ノスタルジー? 全世界の女性が……今や持ち得ない……? 何なんですかねえ。フフフ。/そういえば、これって、歌っていると自分が詐欺師?になったような気がする時があるんですよ(笑)。まがりなりにも真顔で歌える私ってなんだろうってね。白鳥が出てきますからね。2回も3回も。ロマンチックっていうんですかね。

 玉村の証言からわかるのは、陽水の「特異な言葉使い」は決して「作品の上でだけ」ではない、ということ。つまり陽水の「歌詞」の「特異さ」は、世間にとっては「特異」でも、陽水自身にとっては「当たり前」であり「自然」なものでしかない、という事実を保証していると言っても良いはずだ。

 一方、陽水自身の「花の首飾り」の歌詞にたいするこの反応は、どう理解すべきなのだろう。私はここに、陽水の「わざとらしさ(偽物性)に対する鋭敏さ」と「快楽にたいする寛容(快楽主義)」を見る。つまり陽水は「花の首飾り」の歌詞に「嘘っぽさ」やそれ故の「白々しさ」「臆面 の無さ」を感じているのだが、だからといってそれを「不正義として、イデオロギー的に否定」するのではなく、単純に「照れている」ように見えるのである。そして陽水は、そういう「白々しく」「臆面 の無い」作品を、自分では「照れくさくて」作れないだろうと感じつつ、「そういうのもあり」だと考えているのではないだろうか? 個人的には抵抗もあるけれど、一方で魅力を感じているのも事実。ならば別 に悪いことでもなかろうし「そういうのもあり」なんじゃない、という感じがこのインタビューの回答からは感じられるのである。

 そして、ここに陽水が「メッセージ性」の強いフォークソングから離れていった理由を見い出すのは、容易なことである。彼は、「純粋」とか「感動」とかいったものを「臆面 も無く」「白々しい」までに率直に語って見せがちなフォークソングに、ある種の「照れくささ」を感じたのであろう。もちろん、時代の要請はあったにしろ、そこから出発した陽水にそれを「否定」するつもりはさらさらない。が、さりとて他のフォークシンガーのように「観客を泣かせる」歌を(自分のものとして)歌うには、彼の「照れ」や「羞恥」心は強すぎたのだろうと思う。「嫌いじゃないんだよ。むしろ好きなんだけど、自分で作るとなると、なんだか照れくさくって……」というのが、陽水の「実感」だったのではあるまいか(彼のトレードマークとも言うべき「サングラスと笑顔」に注目)。


 つまり、井上陽水作品における「快・不快」というのは、「感動」的な作品にありがちな「単純さ」「わかりやすさ」にはないのである。
 彼のフォークソングに対する態度である「好き(快)なんだけど、恥ずかしい(不快)」……これがひっくりかえったかたち。すなわち不快なんだけど、快いこれが、陽水の作る歌なのではないか? それを端的に体現したのが、彼の「歌詞」なのではないだろうか。


 以上、語ってきたことは、陽水ファンには既に常識に類することなのかもしれない。また、『不快なんだけど、快い』という作品の存在とその重要性、といった考え方も、「文学」や「美術」の世界では「常識」に類することであろう。だが、私がここであえて陽水を注目したのは、「音楽」をその典型例として「文学」や「美術」などのあらゆる芸術作品が、なだれをうって「エンターティンメント(娯楽)」に回収されていっているのではないか、という現状への危機感が根底にあったからなのだ。
 もちろん、陽水とおなじく「エンターティンメント(娯楽)」が悪いとは言わない。だが、そうしたものに見られる「単純さ」「奥行きの無さ」というのは「恥ずかしく」もあり「恐ろしく」もあるのではないだろうか。少なくとも、そういう「単純さ」に全面 的に取り込まれてしまうことに「照れ」を感じるくらいの「感性」を、私たちは保つべきなのではないのだろうか?

 さもないとないと、誰も彼も「同じような歌」しか聴かないとか、誰も彼も「カリスマに熱狂して疑うことを知らない」などという、「感性」的にも「知」的にも、非常に「貧しい」世界を招来せずにはいられないのではないだろうか。そしてそれは、……「芸術」的感性にとって、何よりも「不快」なことなのである。

 「芸術」とは、所詮「好き勝手」なものである。だからこそ、本来「多様」なもののはずなのだ。

 そして私は、陽水の場違いに明るい笑顔と、あのかん高い声で発せられた(そして隠蔽された)『お元気ですか?』という言葉を思い出しつつ、ここでも好きなあの言葉をくり返しておこう。


一色のバカにそまってしまうより、色んなバカがあってええじゃないか。好みで言うなら「派手なバカにしてくれ」と小生は思う。

(南伸坊『おもしろくっても大丈夫』より)

 

 

  2001年6月22日


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