聖書のことば 当教会では、最近ローマカトリック教会と日本聖公会の共通訳の「主の祈り」を用いております。主イエスがこのように祈りなさいと示してくださった主の祈り、その意味するところを噛みしめて祈りたいのです。今回は「主の祈り」の本文を紹介します。 「主の祈り」天におられるわたしたちの父よみ名が聖とされますように。み国がきますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますようにわたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしくださいわたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は永遠にあなたのものです。アーメン 「天におられるわたしたちの父よ」「主の祈り」をめぐって 司祭 広田勝一 はじめに 現在当教会では、礼拝において主の祈りを唱えるとき、最近の日本聖公会定期総会で賛同を得ましたカトリックと聖公会の共通訳を用いております。今回はこの主の祈りについて述べたいと思います。 ところで最近、集会などで「主の祈りを唱えましょう」と言うとき、どの祈りを用いるかと言うことを始めに断りませんと各自が様々な祈りを唱えることが起こります。日本聖公会現行祈祷書の主の祈り、あるいは共通訳の主の祈り、時には文語式文の主の祈りという具合です 。慣れれば問題はそれほどでは無いとは思いますが、しかしニュアンスも含めて内容も若干異なってきます。まして他教団関係の主の祈りはまた異なっています。せめてペンテコステの日には、エキュメニカル(教会一致)サンデーとも呼ばれている日ですので、はやくすべてのキリスト者が同じ文言で唱えられる日を待ち望みます。ではこの祈りは、どの様な祈りなのでしょか。直接には主の祈りは、イエスの弟子たちが自分たちはどのように祈ったらよいのか、イエスに質問しその答えとして示されたものであります。具体的にはマタイによる福音書6章9−13節に出てきます。またルカにも簡潔ですが出てきます。その二つの比較はここで触れませんがそれぞれ独自のものとして用いられてきたと理解できます。それが紀元3世紀ころにはマタイのものが主の祈りとして一般的なものとなり今日に至っていると言えます。 さてわたしたちも何と祈ったらよいのか分からなくなることがありますが、この主の祈りの中には、祈りの根幹が示されております。また聖餐式においては、主の祈りはパンさきの直前に唱えられます。そして陪餐にいたります。主の祈り、そしてパンがさかれ陪餐するという構成になっており、ここには主の祈りの重要性が伺われます。初期の教父テルトリアヌスは、主の祈りを「福音全体の要約である」と語りましたが、決して過言ではないのです。 先に述べましたが、カトリックと聖公会で合意された共通訳の主の祈りを少し暼見したいのです。まず一つの原則、基準のようなものがあります。それは主の祈りを、福音書からイエスの宣教活動の中心的メッセージである神の国、神の支配に向かうキリスト者の祈りとして位置づけていることです。さらに典礼で用いられることも考慮しながら、マタイ福音書に出てきます主の祈りを基礎して、教会という共同体で大人も子供も共に用いる典礼の祈りとしてつくられています。 「アバ父よ」 「天におられる」と言うように、現行の祈りと異なり尊敬語表現となっています。この天が日本語では一番最初にきますが、もとのギリシア語では「父よ、わたしたちの、にいます、天(に)」という語順になっております。まず父よ、という呼びかけから始まります。ところでイエスはおそらく当時のアラム語を話したと言われますが、アラム語で父のことをアバと言います。この「アバ父よ」という呼びかけの祈りは、イエスが十字架にかけられる直前のゲッセマネの祈りのなかに出てきます。このアバですが、旧約聖書が書かれたヘブライ語ですとアブとなります。これはかなり世俗的と言いましょうか、日常的な表現です。幼児がお父さんの膝の上にのり「アバ」と呼びかけているような、親しみに満ちた家族用語であります。ですから荘重な宗教用語としては若干の躊躇があるかもしれませんが、イエスはこうした親しみを込めて父よと語ります。パパ、おとうちゃんといった具合です。わたしたちがこうしたことを踏まえて、あの全能の神にアバと呼ぶ、叫ぶことができる、許されているということは何と素晴らしいことでしょうか。また後の教会もこのアバ父よを大切に伝えております。 ガラテヤ4:6、ローマ8:15参照。 こうしたことだけをみましても、祈りが神からの賜物であるということが分かります。次に「わたしたちの」という言葉が続きます。ここには祈るわたしと側におられるキリストがいます。わたしたちと言うとき、まずキリストとわたしを意味します。ですからイエスが一人祈っているその側にわたしも招かれて、イエスの言葉に導かれつつ、わたしたちの父よと祈りはじめるのです。そしてさらにこの「わたしたち」は、わたしたちの家族、友人そしてすべての人を含み、つつみこむ、そうした世界をもつ祈りであります。全ての人を含むというとき、そこには自分を苦しめたあの人、この人をも思って、わたしたちは「わたしたちの父よ」と祈ることができるでしょうか。しかし教会というところは、そうした祈りがあるところではないでしょうか。 天におられるということ 「天に」と続きます。この天とは、人間の力の及ばない、神の支配の基にあるそうした場をさします。いと高き天、という表現もあります。神の超越性が意味されます。超越という言葉を用いますと何か難しそうな響きがある、何か遠い世界にいる神のようです。ここには緊張が感じられます。厳しく悔い改めを迫る神の姿が潜んでいるようです。しかしこうした義であり、聖なる遠き神が、心からアバと呼べる近き神、父なる神になってくださった。それはすべてイエスの十字架に掛かっているのであります。先のイザヤは「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」と語ります。この時とは、チャンスです。その時を失ったら取り戻すことのできない時であります。聖書の神は、生きて呼び、召し、そしで出会われる神です。パウロの言葉が聖餐式の感謝聖別祈祷に引用されていますが、「神はわたしたちが求め思うところの一切を、はるかに越えてかなえてくださることができるお方」です。天におられる父は、まさにその天が示しますように、その大空はその果てが見えません。しかし神はわたしたちを包み込むお方です。いかに大きいお方か、大空の大きさ、そして敵をも包み込むそうした神の愛であります。パウロはこうしたことを認識しつつ、「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」と言います。「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかける祈りの対象となる神はまさに大きいのです。この大きな神を、小さな自分と同じように小さく閉じ込めることなく、神への信頼を新たにしていきたいのです。 どこが祈りのポイントか 主の祈りの中核ともなるべき箇所で「わたしたちの日毎の糧を今日もお与えください」と祈ります。先ず「わたしたちの」という所有格しかも1人称複数形が入ります。これは福音書に近づいております。自分の糧を祈るということもありますが、この祈りはそれを越えた他者との共存の祈りとなっていきます。それを複数形は表します。パンが直訳になるのですが、日本ではいまいちです。糧といえば、人間にとって生きるに必要なものです。そしてここにはわたしたちにとって欠かすことのできない主の聖体としてのパンもみ言葉も含みえる表現となってきます。それを毎日です。今日もです。「お与えください」という尊敬で結んでいます。 私はこの日毎の糧を求める祈りと、次の罪のゆるしを求めるこの二つの祈りが、主の祈りの核になっていると思います。そこで次の祈りですが、これは従来その訳をめぐって様々な議論を呼び起こしてきた祈りです。人の罪をゆるすことによって、自分の罪もゆるされる。そのように条件的に理解されがちでしたこの祈りを、今回はその祈りの意図をくみ、明確に「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」としました。従来のひとつの文を、二文に分け、罪のゆるしの呼びかけを最初にもってきました。先ず己が罪のゆるしを求めます。ここがすべての祈りの始まりです。個人的にも早祷のとき、儀悔をもって始めます。さてこの「罪」も負い目とか負債とかいう言葉が用いられたりしますが、罪のゆるしは、神のみがなされる業ですので、罪のほうが良いと思います。 誘惑か、試練か 祈りは「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と続きます。ここで従来の主の祈りに馴染んでいる方は、これまでの「試練」はどうしたのかと思うかもしれません。ペイラスモスというギリシャ語ですが、試みとも誘惑とも両方に訳せる言葉です。しかしこの「試み」ですが、積極的な意味もあります。プラス思考です。ひとつのテストです。このテストをかつて義人といわれているアブラハムもヨブも受けました。必ずしも悪いことではないのです。しかし誘惑は悪い意味で用いられます。信仰の喪失の誘惑があります。誘惑のあるところ必ずサタンの働きがあります。ですからこそ「誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と祈るのです。 おわりに 最後のところは、頌栄ドクソロジィと言います。後代の付加です。カトリックではふだんの主の祈りのなかでは用いません。しかしパウロの書簡などからこれをもって主の祈りを結ぶことも支持されることと思います。 以上、主の祈りをみてきましたが、今回の共通訳は中核となる二つの箇所が明確に、良くなっています。それは「わたしたちの日毎の糧」という、隣人への配慮を込めた祈りに戻ったこと。そして罪のゆるしを求める祈りを明確にしたことであります。イエスによって示された祈り、その祈りが今日の教会においても祈られているということ、その祈りの単純性のなかにも福音の要約が秘められているということ、これからも教会は、そしてすべてのクリスチャンはこの祈りを大切にしていくことでしょう。そして日本のすべてのクリスチャンが同じ信仰告白のもとで、この主の祈りが唱えられるとき教会の一致へと大きく前進することでありましょう。