神様と手をつないで、歩んでいく人生
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キリスト教の信者となる儀式のことを、「洗礼」と言います。「何かを初体験する」といった意味で、一般的にも使われることが多い語です。教会の門をたたこうとする方が、気にされるのが、この「洗礼」であります。洗礼とはどういうもの
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 (マタイによる福音書3章13節〜4章1節) |
洗礼とは
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洗礼とは、それを受ける者が、神様の愛される子、神様のみ心に適う者であることが、はっきりと示されることです。そのことは、単に「滅びから救いへと入れられて、もう安心」ということではありません。私たちは、この世にあって生きています。洗礼を受けたからといって、この世から離れて、教会に閉じこもって、生きていけるわけではありません。私たちが生きるこの世の有様、この世界、この社会の有様に目をやれば、洗礼を受けたからといって、果たしてすっかり安心して生きていけるのでしょうか。
―新しい人生の第一歩― こんな風に考えますと、何か悲観的な思いにとらわれてしまいそうです。そのような思いは、私たちが、洗礼を、何かのゴールのように考えてしまう時に、沸き起こってくるのではないでしょうか。私たちの生きるこの世界は、そして私たちが信仰生活を送る教会は、私たちが洗礼を受けたからといって、急にバラ色に見えるわけではありません。洗礼を受け、救い世界の入り口にゴールしたかと思っても、相変わらず、厳しくつらい世界、そして理想の集まりとは言えない教会の姿があります。しかし、私たちは、イエス・キリストを知っています。神様は、洗礼によって、イエスに従う道を私たちに示されました。
―イエス=キリストが、共に歩んでくださる― イエスご自身も、洗礼を受けられたことが、聖書には記されています。イエスはその後、すぐに荒れ野に向かわれました。悪魔の誘惑を受けるためです。イエスは、洗礼を受けて、理想郷や、この世からはかけ離れた世界に、一人でさっさと行かれたのではありませんでした。また、自分たちだけは正しいと考える人々に、紛れ込んだのでもありませんでした。この世の荒れ野に、人間が過ごさなければならない、悪魔が横行する人生の荒れ野に、先頭を切って入って行かれたのです。イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのは、洗礼を必要とする私たち人間と一つとなり、先頭に立って、私たちを新しい命へと、導いてくださるためだったのです。イエスにとっては、洗礼はゴールではありませんでした。荒れ野への出発の時だったのです。 ―希望に満たされて生きる― 私は、この世界は、まさに「荒れ野」だと思います。時には、教会においてすら、そうだと思います。もしそうであるならば、私は、皆さんに、荒れ野に踏み出して行くにあたって、神様に向かってしっかり手を伸ばしていただきたいと思います。神様の手がこの世界を導き、神様の手の内で私が生かされているんだということを感じる。私たちが神様の手をしっかり握り、その温かみを感じて力にする。その力を受けて、人生の荒れ野に出ていっていただきたいと思います。そうでなければ、この人生の荒れ野は本当に厳しい荒れ野で、私たちは一体何のためにこの厳しい旅を歩んでいるのかが、分からなくなって負けてしまうでしょう。 教会の礼拝は、神様に愛されている私を、この世界が神様に愛されていることを確認するものであります。日曜日ごとに行われる「聖餐式」と呼ばれる礼拝は、イエス=キリストが私たちをともにいてくださることを、皆で味わう集いです。そして教会は、そこでの出会いを通して、イエスと同じように、神様と人々に仕える愛の人生を送ることを学ぶための「愛の教習所」でもあります。 |
| ぜひ、当教会をお訪ねください。信仰の仲間が、人生をともに歩んでくれる仲間がたくさんいます。イエス=キリストを知り、希望に満たされた人生を、共に歩んでいこうではありませんか。 執事 岸本 望 |