| 母親 ママ |
| (私は母を"ママ"と呼んでいたのであえてママと書かせていただきます) |
私のママは2001年9月10日、あの恐ろしいテロ事件の前の日に死んだ。あれから約半年が経つ。今でも、その日救急車を呼んで、一緒に乗りこんだ車内でのこと忘れられない。わたしが初めてママの死と言うものを頭でなく、体で感じ、車内で繰り返した “懺悔” と “ごめん・・という謝り”。子供と言うものは、本当に愚かなものだと思う。(わたしだけかもしれないが)。 私がこのことを痛感したのは、わたしの友人の流産の体験を聞いたことからだった。友人は言っていた “こんな大変な思いをして産んでくれた母親は本当にすごいよ。偉大だよ” “子供はそれになかなか気づかないけど・・・” わたしのママもわたしたちを産んで、ここまで大きくしてくれた。 でも、今ふと思う、私はどれだけ"病気の深刻さ"を理解していたのだろうか?私は子供という立場に甘んじていただけではないか? わたしは、ママが大好きだった。私のママは学問的ではなく、生活の知恵と言う意味に於いて頭がよく、きちんと物事をあるがままに見る人だったと思う。未熟なわたしのよき先達だった。ママが病気になり、わたしが午前中家にいた約4年間、本当にいろんな話をした。わたしもまだ若く、自分自身が未熟であったため、ALSの患者としてではなく、家にいるママと話をすると言う感じだった。(その時は、ママはまだ普通に話はできたが、手の上げ下げは出来なく、歩くのも多少困難な状態だったと思う)ママとの話は、本当に私にとって有益でその時のあたしにとって必要なものだった。 患者さんの家族の方とお会いして色々話を伺うと、“○○のことは本人の前では言わないようにしているの” といった配慮をされているかたもいたが、よくも悪くもわたしは、配慮ができなかった。わたしは、素のままで接する事しかできなかった。また、ママもあたしには素のままで接していたと思う。ママは、亡くなった年の5月中の3週間、胃漏を開ける手術のためにはじめて入院した。6月のはじめに自宅に帰って来た時には、車椅子に乗れないほど体力が落ちていて、ほとんど不平を言わない本人も身の置き所なく苦しんでいた。そんな8月のある日ママはあたしに、“お前だから言えるけど、殺してくれないか?” と言ったのだ。もちろんあたしは意に添えなかったが。 もう一つ、流産した彼女が “仕事なんて子供に比べたらどうでもいい事なんだよ” と言っていた。そのどうでもいい仕事を私は頑として辞めなかったし、あえてそれにしがみつく事で自分のアイデェンティティーを保とうとしていた。もし、これが逆の立場なら、ママは仕事を辞めていただろう。子供は親不孝で愚か者である。 そしてわたしは、事あるごとに"ママごめんね"というフレーズが口を突いてくる。でも、なぜだか解らないが、ママが死んで"ごめんね"ではあっても、悲しくはないのだ。正確に言うならば、"ママ、楽になってよかったね"というのが率直な感想なのだ。 しかし、こんな文章を書いているとしきりに涙がこぼれ落ちてくるのだが。 |
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