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ゲームブックの栄光と没落

 1984年12月30日、日本初のゲームブック『火吹山の魔法使い』(S・ジャクソン&I・リビングストン)が発売されて以後、30冊を超す大シリーズ『ファイティングファンタジー(略称FF)』の翻訳が開始されました。このシリーズは社会思想社の教養文庫から出版されており、日本でもっとも多くの洋物ゲームブックを翻訳・出版したのではないかと思われます。

 翻訳物が主流の教養文庫とは対照的に、日本人作家のゲームブックを重点的に出版したのが創元推理文庫の「スーパーアドベンチャーゲームブック(略称SAGB)」です。初期は翻訳物が多かったのですが、徐々に日本人作家の作品が増加してきました。「創元ゲームブックコンテスト」を開催して新人発掘にも力を入れ、国産物ではもっとも質の高い作品群を擁していたのではないでしょうか。

 そこで、SAGBの日本人作家による作品を年代順に紹介し、日本におけるゲームブックの流行と衰退を追ってみたいと思います。

 個人的には、ゲームブックはテーブルトークの人気に押されて消えていったのだと思っています。しかし、そのテーブルトークも今は廃れ、カードゲームの方に人気が集中しています。

 何故ゲームブックがテーブルトークに負けたかというと、ずばり「自由性」です。ゲームブックは自分で選択肢を選び物語の流れを自分で決めるという楽しみがありました。しかし、いくら選択肢を増やしても、プレーヤーのアクションに対して目の前で対応し物語を導いていくゲームマスターが存在するテーブルトークにはかないません。確かに手軽さの面では、ゲームブックは1人で楽しむことができ、それに対してテーブルトークは数人の仲間が必要になるのでゲームブックに軍配があがります。しかし、皮肉にもゲームブックの流行によって、ゲームブックより格段に自由性・想像性が高いテーブルトークの認識度も上がり、テーブルトークをプレイする仲間を集めるのにも苦労しなくなってきたのです。徐々に、ゲームブック読者はテーブルトークプレイヤー&マスターへと変貌し、ゲームブックは見捨てられていきました。

 ここで、テーブルトークの流行には2種類あったことを指摘しておかねばなりません。まず、上記のようにゲームブック読者がテーブルトークを知り、その自由性・想像性に惹かれていった流れがあります。この流れは、何より「ロールプレイング」を楽しみ、物語性・演劇性を重んじました。いわゆる「ごっこ遊び」を真面目にゲームとして楽しもうという想いが強かったのです。

 その後、「ロールプレイング」性を外して純粋なゲームとして楽しもうという流れが出てきました。「ごっこ遊び」でキャラクターになりきって喋ったりするのは気恥ずかしい……そのような躊躇いからテーブルトークをするのに乗り気でない人々を引き寄せるため、キャラクターやストーリーに感情移入することなく、あくまで数値で処理する合理的システムの上に成り立つゲームとしてテーブルトークを扱うようになってきたのです。市場獲得のためにも、コンピュータRPGに慣らされたゲーマーを対象として、この「ごっこ遊び」の要素を排除し厳正なるルールによって支配するシステムが必要だったのです。これにより、「ごっこ遊び」をせずとも、プレイヤーは”演技”することなくキャラクターを数値だけで表現・操作し、マスターは物語を”想像&創造”することなくルールに従って管理していけばよいことになりました。

 物語性・想像性・演劇性を重んじ、いわば「大人のごっこ遊び」としてテーブルトークを楽しんできたファンは、この新たなテーブルトークの流れに反発しましたが、やがて少数派となりました。

 そのテーブルトークも今は衰退していますが、これはテーブルトークからストーリーやロールプレイングを削除し、数値支配の合理的システムと戦闘システムのみに絞ったカードゲームにシェアを奪われたためです。今や想像性・物語性なんか必要ない時代、ということでしょうか?

創元推理文庫
スーパーアドベンチャーゲームブック
日本人作家

展覧会の絵
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1990年
1991年
1992年
鈴木直人

外国人作家
S・ジャクソン

教養文庫
送り雛は瑠璃色の
さらば青龍


補足
文庫型テーブルトークの流れ

(追記1)
メールにて次のような御意見を頂きました。
「玉石混合・有象無象の作品が大量生産されてしまったために業界全体のレベルが下がり、衰退してしまったのでは?」
確かに否めませんね、それは。

(追記2)
最近、ネット上でゲームブックの復活を望む声が多い。しかし、以前と全く同じ形式で持ってきても、それにノスタルジアを感じる古株のファンが喜ぶだけである。昔のゲームブックを知らない人々をも引きつける魅力を持ったゲームブックを作り上げなければ真の復活とはいえまい。

そもそも、過去のゲームブックブームにおける最大の失敗は「ブック」ではなく「ゲーム」に比重を置き過ぎたことであった。ファミコンゲームが原作である作品が数多く見られたように、数値によって管理されるゲームを、サイコロを使ったルールで表現しようと四苦八苦し、肝心の中味がおろそかになってしまった。否、サイコロを使った適当なルールでキャラクターシートの数値をアレコレといじることによってコンピューターゲームを疑似体験させようとしたのが実質的正体であろう。それが、所詮はコンピュータゲームには敵わないという誤解の下にゲームブックが一般的評価を得られなかった最大の原因である。

ところで最近のパソコンゲーム界におけるビジュアルノベルの隆盛は凄まじい。”葉っぱ”の『東鳩』『ほわるば』に始まり、”鍵”の『かのそ』と、選択肢を選ぶことによって物語が進行するゲームが大人気である。ビジュアルや音楽もさることながら、自分が主人公となって感情移入し想像を膨らませることができる点が多くの人々を引きつけているのだと思う。想像力を刺激されて自らSSの執筆を行っているファンも多い。

これこそ、ゲームブックが歩むべき道であったのだ。《ゲーム》という言葉に呪縛されることなく、書籍としての形態を存分に活用し、「自分が主人公となって自分が進む道を選択し、自分の手で物語を進行させていく小説」として発展して行くべきであったのである。ゲーム性を追求しようという無意味な努力を放棄し、ひたすら物語性を追求すべきだったのである。

名作『展覧会の絵』の作者様が、この作品がサウンドノベル化されると嬉しい、という内容を御本人のHPに記しておられるが、私もそれが実現化すれば迷わずプレイするだろう。『展覧会の絵』が多くの支持を集めたのはなぜか?言うまでもなく、その物語自身が素晴らしかったからである。ゲームを遊ぶ楽しさではなく、小説を読む喜びを感じることができたからである。しかしながら同様に小説を読む感動を味わうことができたゲームブックは、他には『送り雛は瑠璃色の』一作だけであった。

『東鳩』『かのそ』などのビジュアルノベルの名作では主人公を数値で表現しようという考えは一切ない(逆に主人公に体力値を設定した『ほわるば』は余計なシステムをつけてしまった失敗作という扱いを受けている)。その物語の中身で勝負しているのであり、そのストーリーに引き込まれて多くの人々がプレイしているのである。本来ならば、ゲームブックが10年前に既にこの道を歩んでいるべきであったのだ。「自分自身が主人公となって物語の行く先を決めていき数々の疑似体験を感じる小説」に向けての発想転換を行うべきであったのだ。それが実際にはテーブルトークのソロシナリオという代品扱いに甘んじて衰退してしまったのは情けない限りである。

では、今やゲームブックの未来は真っ暗なのか?それは違う。幸いにも、現在のところビジュアルノベル化されているのは学生生活をモチーフにした恋愛物が大半である。ここに我々ゲームブックファンは「剣と魔法のビジュアルノベル」を作っていくべきなのだ。ネットを利用すればパラグラフごとにページを分けて物語が分岐していくゲームブックを自作発表することは容易いであろう。ゲームブックを復活させるのであれば、サイコロとキャラクターシートを捨てて、純粋に文章力をもって剣と魔法の世界を疑似体験させる選択分岐型小説を作るべきなのである。その舞台となるような魅力ある世界を共同作成しようという試みが進められることを期待したい。