阿弥陀三尊©2002


 洛北・三千院の阿弥陀三尊は悲し過ぎる。お顔はもとより、お姿も柔らかく、特に両脇侍の前屈みのそれは一層悲しく切ない。来迎印を結ばれた中尊に安心を委ねる、死に行く人の望みをそこに見るようである。拝む一度目は涙を誘い、二度目は涙をこらえ、三度目は悲しみにじっと堪えた糸が切れる思いである。それに比べて当寺の三尊像は何度対峙しても安心(あんじん)がいける。希望と、安らぎだけが見いだせる。この二仏の違いは何だろうか?仏師の思い入れの違いだけでは説明がつきかねる。造像の時代背景がより大きく影響しているのであろう。
 ところで、同じ平安時代といっても、藤原の栄華もあと半世紀に迫った三千院の三尊像より百年ほど前の藤原最盛期に造られた平等院の阿弥陀如来像(仏師定朝の代表作)は、まさに浄土を間近に拝むようである。同じ定朝様式の仏像としては、永長二年 (一○九七年) 頃の造像といわれる東山・萬寿寺の阿弥陀如来像がある。その雰囲気は、当寺の阿弥陀如来像に通じるものがある。とはいえ、当寺の阿弥陀像は江戸時代最盛期の造像(両脇侍は江戸時代初期の造像といわれる)ではあるが、他の諸仏像に照らして、その容貌から鎌倉時代を感ぜずにはいられない。阿弥陀如来像は、奈良時代から平安の頃まではその多くが坐像であり、立像は平安末期からであると言われることから、当寺の阿弥陀如来像は江戸時代としては数少ない坐像ということになりはしまいか。

【中尊:阿弥陀如来、左脇侍:観音菩薩、右脇侍:勢至菩薩】
(三尊の御前からは向かって右観音、左勢至)
 何はともあれ、仏像に対峙するに理屈はいらない。ひたすら拝むだけでよい。そこに静寂があり、仏の言葉が聞こえてくる。悩みがあれば話すがいい。有りの侭に総てを仏に委ねる「無心」が大切である。喜びがあったら、仏と分かち合おう。その喜びが何倍にもなって、仏の笑顔を見ることが出来るだろう。こうしてみると、造像についての様々なことは、まさに仏を拝む心には些末なことのように思えてならない。阿弥陀寺を訪れて、荘厳な中にも優しさを秘めた阿弥陀三尊を拝むと、もう、そこは仏の世界である。(T・N記)
▲先頭へ