『和宮様の御位牌について』
 阿弥陀寺のHPをご覧の方々から、和宮様(幼少時のおん呼び名である和宮を阿弥陀寺のHPでは使います)の御位牌に刻まれている戒名(法名/法号)
     『静寛院殿二品親王好譽和順貞恭大姉』
について
、「殿」、「二品」、「親王」はそれぞれ「宮」、「一品」、「内親王」の誤りではないかとのご指摘をいただいておりますので、和宮様薨去(こうきょ)当時の『官制位階』をふまえてご説明申し上げます。
 和宮様が御存命当時の位階
(参考@)は『養老令』選定の「第五 家令職員令(全8条からなる)によるもので、宮様の場合の位階は「一品条」によるものです。一品条は「一品(いちほん/いっぽん)、二品(にほん)、三品(さんぼん)、四品(しほん)」の四階級があり、これには「内親王、皇女」の区分けはなく男女共 「親王」 として記載されております。和宮様戒名の諡号(本来の浄土宗戒名)は「好譽和順貞恭大姉」ですが、この上に朝廷から贈られた「官位」をお入れして御法名(戒名)としますので、落飾(家茂に死別、薙髪したことを指す)後に賜った「静寛院」の称号(以降宮様は「静寛院宮」と呼称されました。御位牌の「静寛院殿」の「殿」は貴人の尊称であり、徳川家に降嫁された和宮様の場合は敢えて「宮」とせず「殿」としたのです)と、明治六年「二品」に叙せられた「二品親王」(宮様は内親王にあらせられたのですから親王は誤りで内親王が正しいのでは?との疑問をいだかれるむきも多いと思いますが、「一品条」にならって敢えて「二品内親王」とぜず「二品親王」とされたと推察されます。この謂れをご存知ないむきには不自然に思えるでしょう)を組み合わせた「静寛院殿二品親王」の文字を諡号に冠し、戒名を『静寛院殿二品親王好譽和順貞恭大姉』としたのです。
 なお、
和宮様には明治十六年八月二十七日七回忌にあたり「一品追贈」の御沙汰が下されましたので、この時点で戒名は「二品」を「贈一品」に変更した戒名に改められたわけですが、阿弥陀寺に御祀りされている御位牌は明治十六年和宮様七回忌法要時のもので、和宮様薨去に際して諡られた戒名が刻まれております。

 時移り、
大宝令』、『養老令』も今は現存せず、明治22年2月11日に制定された『皇室典範』も昭和22年5月3日に廃止され、昭和22年1月公布された現在の新『皇室典範』が昭和22年5月3日から施行されましたので位階・位号」にいう「親王」も受贈者が内親王の場合は「内親王」に書き改めて解釈しても差し支えありませんし、それに初期の御位牌に接しられた方に「内」の字が欠落していると思われることを避けなければなりませんので、「殿」も「宮」に換えて、和宮様の戒名は
     『静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉』
と御呼び申し上げております。

 念のために申し副えますと、和宮様の菩提寺である増上寺は昭和二十年の戦災にて、大半の建造物(将軍霊廟を含む)・資料・文化財が焼失しており、御葬儀当時の現存する和宮様の御位牌は塔之澤の阿弥陀寺に保存
されているものだけです。和宮様の御遺骸は芝の増上寺に眠る夫君、徳川十四代将軍家茂公の隣に葬られておりますが、増上寺大殿右横の安国殿には将軍家茂の戒名(昭徳院殿大相國公光蓮社澤譽道雅大居士)と和宮様の戒名(静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉)が併記された御位牌が祀られております。

【参考】
@ 大宝律令・養老律令
 『大宝律令』は文武(もんむ)天皇のとき選定・施行されたもので「律」11巻
「令」6巻からなる。その十七年後、元正天皇の代に『養老律令』(律・令各10巻)撰定が開始され孝謙天皇の代に施行されたが、内容は 『大宝律令』とほとんど違わない(その内容は多く大宝律令の字句の修正にとどまっている)といわれている。なお、大宝一年に大宝令の完成に先立ち、「冠位」正式に廃止され、親王四階、諸王十四階、諸臣三十階という位階位号が確定され、大宝令・養老令とも以来後世までこれに依た。この中に「官位」の項があり、これは位階相当の冠を賜るもので、親王四階(一品より四品まで)、諸王十四階、諸臣三十階とある。
A 親王
 『日本紀』には、皇子と書いて「ミコ」と読み、のちまでミコと宮が通称
となった。皇女と区別するため「ヲトコミコ」、ヲトコミヤ」と申したとの記述が見受けられる。なお、「皇女」を「姫(ヒメ)ミコ」、「女ミコ」、「女宮」、「内親王」とも申したとある。『大宝令』、『養老令』の「一品条」には親王、内親王、皇女を特定せず、単に「親王」と記述している。
B 静寛院宮
 
静寛院宮は弘化三年閏五月十日誕生仁孝天皇の第八皇女母は典侍橋本経子(観行院)。幼称は和宮。諱は親子(ちかこ)皇女。内親王宣下により諱を親子内親王に改む。
 万延元年四月に幕府は幕権
強化のため公武一和を標榜して宮の将軍家茂への降嫁を奏請、同年十月幕府の奏請は勅許せられ文久元年四月九日和宮は内親王宣下を受け「親子」の名を賜り、諱を親子内親王と改められる。翌二年二月十一日将軍家茂と婚儀を挙げられた。慶応二年七月家茂に死別、同年十二月九日薙髪、朝廷より「静寛院」と称する旨の御沙汰があり、以後、静寛院宮と御呼び申し上げる。明治十年八月七日脚気治療のため箱根塔之澤「元湯」へ行かれる。同年同月三十日発作により危篤。同年九月二日衝心発作により塔之澤「元湯」で薨去、御年三十二歳(数え年)。同年九月六日御遺骸帰京。同年同月十三日、宮内省の命により、洋行中の徳川家当主家達の留守を預かる松平確堂を喪主として徳川家菩提寺「増上寺」で葬儀。
C 紀州徳川家の菩提寺(長保寺(ちょうほうじ))
 徳川第十四代将軍徳川家茂は紀州徳川家の出
であるが、紀州徳川家の菩提寺である長保寺では徳川家茂の法号(戒名)を『昭徳院殿贈正一位大相國尊儀』としている。なおこの寺には国宝の紀州徳川廟がある。(天台宗 寛仁元年(1017)開山)

★既にアクセスなさった方がお出でかと思いますが、長保寺HPの「徳川家茂」のサイトには関連リンク
【 皇女和宮(こうじょかずのみや)について  箱根 阿弥陀寺 】があります。URLは
http://www.chohoji.or.jp/promenade/iemoti.htm
です。
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