阿弥陀寺の歴史©2003

 塔之沢や、湯本の温泉場から歩くこと約二十〜三十分。急な山道を登ると、眼前が開ける。数多くの石塔、石仏が庭の各所に歴史を刻んでいる。この寺は「悲劇のヒロイン」
として有名な皇女和宮様の香華院(お位牌をおまつりする寺)でもある。阿弥陀寺の開山は、木食遊行僧として知られる弾誓上人であり、上人が篭った洞窟が、阿弥陀寺本堂の裏山三百五十メートルほど登った所にある。
【弾誓上人修行窟入口】
 この洞窟で、慶長九年(一六○四年)から慶長十四年までの六年間修行された。その間に小田原城主大久保忠隣より境内地山林二十四町余(二十三万八千余平方メートル 七万二千余坪)の寄進を受け、阿弥陀寺を開いた。
弾誓上人が修行された洞窟内部=阿弥陀寺「奥の院
 弾誓上人がある日、洞窟で一心に念仏を唱え、そして洞窟を出てみると、夕暮。紫雲たなびく右方面の山林が、何やら光っているように見える。そこへ行ってみると古い石塔が倒れており、その下に光っているものがある。杖で掘ると、五層の舎利塔が出てきた。これはインドの 阿育王(紀元前三世紀 インドを統一して仏教を守護した王)が、仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるために造った八万四千の宝塔の一つで、 日本には三ヵ所に置かれたという。 この塔は、のちに丈余(三メートル余)の石塔を造り、その中に安置された。 これが、本堂横手の山中にある「阿育王塔」である。これに因んで、阿弥陀寺は山号を「阿育王山」という。
阿育王塔=塔之峰の中腹に建立されている】
 洞窟は、弾誓上人が篭る前から修験者達によって掘られていたもので、洞窟の入口横に南北朝時代の至徳丁卯(四年)銘の宝塔が安置されているこの地に初めて草庵を結んだのは、小田原城主大森氏頼の伯父、安叟禅師とされる。総世寺の寺伝によれば、「安叟、塔之峰に草庵を営み、後、総世寺を開建す」と記されており、弾誓上人より百二十年も前のことである。
洞窟入口右側に建立されている宝塔には「至徳四年建立」と刻まれているが、各種歴史年表には至徳は三年までとなっており、至徳の次は嘉慶 (かきょう)
年代となる。しかし、広辞苑など国語字典によるグレゴリオ暦(現行の太陽暦)で表記した記述によれば
  至徳 → 1384/2/27〜1387/8/23
  嘉慶 → 1387/8/23〜1389/2/9
となっている。したがって、これを元に至徳の終りをグレゴリオ暦1387/8/23とすれば、至徳四年がなければならない。
 ちなみに、当時世界各国で多用されていたユリウス暦で表せば
  至徳は1384/2/18〜1387/8/14
  嘉慶は1387/8/14〜1389/2/1
である。
 なお、
宝塔に刻まれた至徳丁卯(四年)銘の干支「丁卯」からも、至徳四年の存在は明らかである。

 弾誓上人は塔之峰に入る七年前の慶長二年(一五九六年)佐渡の檀特山の洞窟で修行中、阿弥陀如来のお告げにより「十方西清王法国光明弾誓阿弥陀佛」と名付けられた。阿弥陀如来の化身となった弾誓上人は、民衆を救済するため、佐渡から信濃に渡り、甲斐、武蔵を遊行して、慶長九年に塔之峰に入った。
 既に晩年に近く、名声日毎に高まり、弾誓上人のもとには多くの信者が集まった。この世の生き仏に「先祖の供養、現世の安穏、未来の極楽浄土往生」を願おうと多くの民衆が重い石塔を背負って、急な山道を登り、洞窟まで運んだのだ。弾誓上人は無縫塔三基、五輪塔八基、板碑五十二基に「南無阿弥陀佛」と刻んだのである。
 弾誓上人は塔之峰を去って京都大原の古知谷に光明山法国院阿弥陀寺を建立、わずか四年後の慶長十八年(一六一三年)五月ニ十三日正午、六十二歳で入定示寂された。弾誓上人は生涯に三百もの寺を開創したが、これらの寺は上人亡きあと浄土宗と天台宗とに分かれていったのである。
 幕府の「寺院法度」により、どの寺院も大宗派の本山―末寺の系列(本末制度)に組み込まれなければ存続することができなくなった。 阿弥陀寺が芝増上寺の捨世寺(出世栄誉を捨て専修念仏に励む道場寺)として末寺に組みこまれたのは、 元禄十六年(一七○三年)のことである。

 阿弥陀寺の本堂は天明四年頃に、今の小田原市久野の庄屋の家を移築したもので、民家造
である。本尊の阿弥陀三尊(箱根町指定・重文)は、江戸本所回向院の旧本尊でったのを、回向院四世の喚霊が元禄年中に寄進したものである。本尊の胎内に黄檗山萬福寺五代高泉和尚(中国福建省出身の高僧)の名が見えることや、阿弥陀寺山門の「阿育王山」書かれた見事な扁額が高泉の筆になることを考えると、本尊は高泉和尚の勧めによって回向院から寄贈されたものと思われる。脇侍の観音と勢至両菩薩は正座しておられる珍しい姿で、大和坐りと呼ばれる。
 また、本堂入口にある百万遍念仏の数珠車は、
これまた非常に珍しいもので、天明四年に造られたが、 これは弾誓上人の日課念仏の教え(一日百遍とか千遍とか決めて念仏を唱えること)を受けて、信者井細田村の宇誓という人が、 一日千遍の念仏を唱える仲間を集め、この人たちの名前を数珠車に刻み、毎日住職に廻してもらえば、毎日百万遍の念仏を唱えたことになる、と考えて造った数珠である。

 時移り、明治十年八月七日、皇女和宮様が脚気を患われ、塔之沢の旅館「元湯
(今の環翠楼=因みに、環翠楼名は伊藤博文公元湯に逗留の際、元湯の景観を愛でて贈った詩の中より引用し、環翠楼と名付けたといわれる)に御療養に来られた。
伊藤博文公が元湯に逗留の際、元湯の景観を愛でて贈った詩】
 和宮さまのご病状は一時快復にむかわれ歌会を開かれるまでになったが、この病気に起こりがちな脚気衝心のため同十年九月二日にご逝去された。御年三十二歳であった。御遺骸は芝の増上寺に眠る夫君、徳川十四代将軍家茂公の隣に葬られた。御法名は
   
「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉」
と申し上げる。
 和宮様の七回忌の法要が、明治十六年旅館「元湯」で行われ、増上寺からは立譽大教正福田行誡が七十八歳の老躯をおして参列され、導師をつとめられた。
 阿弥陀寺は、塔之沢が静寛院宮様終焉の地であるところから増上寺の永久別院とされ、和宮様の御念持仏(個人が身近に安置し
常に帰依礼拝する仏像)であっ黒本尊阿弥陀仏を贈られたのである。
 (執筆:水野賢世 )
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