長野オリンピック予備知識
〜オリンピックの開催決定まで
1998年2月7日から16日間、開かれた。
場所は長野県の長野市、山ノ内町、軽井沢町、野沢温泉村、白馬村の5市町村である。
98年冬季五輪開催に際して、旭川、盛岡、山形の3都市が立候補し、国内候補地に決定された。91年にはアメリカソルトレイクシティーを破り、開催地となった。
長野オリンピックからスノーボードやカーリング、女子アイスホッケーが新たに正式採用され、冬季五輪史上最大規模の選手が長野で競技を行なった。
そもそも長野オリンピックの開催を言い出したのは、信濃毎日新聞(信毎−長野県内46万部の発行)の記者であり、85年2月、酒の席だった。以前もオリンピックを開催する、ということは2回計画されたが、地域間の対立により、実現しなかった。今回はその経験に鑑み、信毎がスキー連盟、県議、知事などに根回しを行ない、85年3月に県議会は全会一致でオリンピックの招致を決議した。同じ日に長野市議会も招致協力の決議を行なう。
問題は県民の総意と言えるまでにオリンピック招致を県民に浸透させることができるかどうかだった。県による根回しが始まる。長野県自然保護連盟に対しても協力を要請した。その結果自然保護連盟は開催には反対しないということで一致した。このあと、だんだんと県に取り込まれていくことになる。
85年12月には冬季五輪招致準備委員会が発足、県や市町村、県議会、スポーツ団体、自然保護団体など93人が参加した。そして86年6月、招致準備委員会の専門委員会が開催市町村と競技会場を決定することになる。これは地域対立を起こさないように密室で行なわれた。決定された市町村ではただちに五輪招致決定決議が行なわれる。86年7月には五輪招致委員会が設立された。
88年の6月の国内候補地決定に向けて、「県民の総意」結集に向けて活動が行なわれることになる。署名活動が行なわれ、署名は183万人分にも及んだ(全人口は215万人)。これは長野独自の区長会という町内会システムが働いた、といわれている。しだいにオリンピックへの異議を唱えられない雰囲気ができていった、という。五輪に反対する県議もいたが、それに対する妨害が相次いだ。結果、その県議は91年選挙で落選することになる。
国内候補地には決定されたが、次の関門は91年の開催地決定であった。IOC委員が決定権を持つため、このIOC委員への働きかけが活発になった。一つはIOC委員への訪問、2つめは国際会議や国際スポーツ大会でのアピール、3つめがIOC委員を長野に招くことだった。3番目のパターンは東京で1泊し、長野へ行き競技会場予定地の視察や知事などとの会談、市内観光を行ない、夜は和風旅館に宿泊し、宴会。その次の日におみやげ(150万円相当の日本画ということもあった、という)を渡し、京都に移動し観光をする、そして大阪から帰る、というものが多かった、という。もちろん、全額招致活動費が使われる。
91年のIOC総会では長野はプレゼンテーションで選手などの渡航費を全額負担する、ということを表明する。その結果、僅差でソルトレイクシティーを破り、開催地に決定する。91年10月に長野オリンピック招致委員会は解散し、長野オリンピック組織委員会(NAOC)が発足する。日本オリンピック協会と長野市が出資した財産1億円をもとに財団法人となる。この招致委員会の解散の際に、その当時の会計帳簿が紛失する、という事件が起こった。その真相はまだ分かっていない。以降はこのNAOCを中心にオリンピック開催へ動いていくことになる。
(参考;長野オリンピック騒動記 相川俊英著 草思社)