水俣病事件


水俣病事件は,患者が発見されてから半世紀にならうとする現在なお裁判(関西訴訟)が継続している巨大公害事件である.ここでは加害企業チッソが何をしたかを,裁判(一次訴訟)が提起されるまでに絞って,振り返る.

下記の引用で,『水俣病』とあるのは原田正純著『水俣病』(岩波新書,1972年11月)からの引用である.また『公害原論』とあるのは,宇井純著『公害原論(合本)』(亜紀書房,1988年11月)からの引用である.

その他
・栗原彬編『証言 水俣病』(岩波新書,2000年2月)
・川名英之著『ドキュメント日本の公害 第1巻』(緑風出版,1987年1月)
を参考にした.

チッソの歴史をチッソ公式サイトのチッソの沿革から引用する.

チッソの歩みはわが国化学産業の歴史でもあります。1906(明治39)年、初代社長野口遵によって鹿児島県大口市に建設された水力発電所がその第一歩となりました。1908(明治41)年には豊富な電力と石灰石を活かして、熊本県水俣市でカーバイドの製造を開始。社名を日本窒素肥料株式会社と改め、さらに当時の最先端技術であった石灰窒素や硫安の製造にも着手して、化学会社としての礎を築きました。

1923(大正12)年にはカザレー法による合成アンモニアの製造に世界で初めて成功。その後、南九州各地に水力発電所を次々と建設し、電気化学工業の分野において発展を続けました。1927(昭和2)には北朝鮮に拠点を設立して、水力発電を中核とする世界屈指の大規模化学コンビナートを展開。事業分野も化学肥料や工業薬品、合成樹脂、金属精錬など広範囲におよび、総合化学会社としての地位を確立しました。

戦後は新日本窒素肥料株式会社として再出発。オクタノール、高度化成肥料、超高純度シリコンなどの製造に日本で初めて着手したほか、合成繊維、石油化学、ファインケミカルといった分野に進出しました。また、全国に開発・製造拠点を展開していくとともに、1965(昭和40)年には社名を現在のチッソ株式会社に改めました。
(1923年にカザレー法でアンモニア製造に成功したのは,延岡のいまの旭化成の工場においてである.旭化成の沿革にあるとおりこれが旭化成の起源である.)



水俣工場はチッソの主力工場であり,「栄光の水俣工場-新産都市の原型」(『公害原論T』p73)である.

1932. 5. 7
(昭和7)
水俣工場,アセトアルデヒド・合成酢酸設備稼働開始.
(有機水銀を含む排水は水俣湾百間港へ無処理放流.)

水銀触媒を使用してアセチレンからアセトアルデヒドを生成し,それを酸化して酢酸を製造.この技術を確立したチッソ技術者は,水俣病発生時点の水俣市長である.(『公害原論T』p81)
1940年(昭和15年)には水俣工場でアセチレンと塩酸から水銀を触媒として塩化ビニールを生産.日本で最初.


工場排水による漁業被害(漁獲高減少)は水俣病発生以前から出ていた.

・大正14,5年頃,漁業組合に対しチッソは「永久に苦情を申し出ない」ことを条件に見舞金支払い.
・昭和18年,漁業組合に対し「過去および将来永久の漁業被害補償として15万2500円を支払う」補償契約締結.


そして人間にまで害が及んでいることが1956年5月1日に発覚した.

1956. 5. 1
(昭和31)
チッソ水俣工場付属病院の細川一院長,水俣保健所に原因不明の脳症状患者4名発生と報告.
→水俣病発生の公式確認.

細川博士を中心とする現地の奇病対策委員会は,精力的に疫学的調査を実施.8月末頃には,伝染病ではなく食中毒が疑わしいと判明.食中毒の原因究明を熊本大学医学部に要請.
人々は口にこそ出さなかったが,発生当初から魚を疑い,工場排水を疑っていたのである.ただそういった疑念を口にすることは,水俣ではタブーであった.(『水俣病』p23) 

チッソは水俣に君臨する「殿様」企業だったからである.
熊大研究班は同年11月の研究報告会で伝染病を否定し,魚貝類を介して人体に侵入した重金属の中毒と推定.

熊大研究班は,最初マンガン,続いてタリウム,セレンを疑い,実験を重ねた.
1957,58の両年は「研究班にとってきわめて厳しい苦難の時期」であった.(『水俣病』p41)

研究班の喜田村教授は,「水銀などそんな高いものを,まさか海に捨てるわけがないという先入観念から,水銀をリストからはずすことになった」と,当時をくやしがって回顧している.(『水俣病』p42)

研究者たちは企業の論理を知らなかったのだ.企業の論理は飽くことを知らない利潤の追求であって,たとえそれが金であろうと,捨てても採算がとれるものなら捨てるのである.(『水俣病』p42)

チッソは必要な情報の提供をしなかったのである.(中略)部外の研究者が手探りで,苦労して結論に近づいてくるのを,企業のなかからよそごとにようにながめているような態度は,決して許されるべきではない.(『水俣病』p43)
1958年,英国の神経学者マッカルパイン,水俣病患者の症状が英国のハンター=ラッセルの報告した有機水銀中毒にきわめて類似しているという重要な示唆を熊大研究班に与えた.同年9月,熊大竹内教授,水俣病の病理所見は,ハンター=ラッセルによって報告された有機水銀中毒例とのみ完全に一致すると研究班報告会で報告.

(同年,チッソは工場排水路を百間港から水俣川川口に変更.水銀汚染は不知火海南部全域に広がる.)


1959年(昭和34年)はたいへんな年になる.

1959
(昭和34)
2. 9厚生省水俣病食中毒部会(熊大研究班をまるごとかかえこんだもの),湾内の水銀分布を調査する必要性を確認.調査の結果は驚くべきものであった.

・水俣湾内泥土に多量の水銀検出.(排水口近辺では泥土1トンあたり2キロの水銀検出.)「まさに水俣湾は水銀鉱山化」していた.
・不知火海沿岸住民の毛髪中に大量の水銀を検出.とりわけ水俣病患者およびその家族の毛髪には,著しく大量の水銀を検出.
・海水中の水銀量は希薄であるのに,湾内の魚貝類から多量の水銀が検出された.→生物体内で水銀が濃縮.
7.22「水俣病は,現地の魚貝類を摂取することによって惹起される神経疾患で,魚貝類を汚染している毒物として水銀がきわめて注目される」(熊大水俣病医学研究班の非公開の研究報告会)
10.21通産省,チッソに対し,排水口を百間港にもどすこと,年内に排水浄化装置をつけることを指示.(サイクレーターを中心とする浄化装置は12月19日完成.ところがこの装置が有機水銀の除去に役に立たないことをチッソは知りながら「社会的解決の手段として」作ったことが後に判明.水銀の流出が完全に止まるのは実に1968年になってからである.
11.12厚生省食品衛生調査会,水俣食中毒部会の結論により「水俣病の原因は湾周辺の魚貝類中の有機水銀」と厚生大臣に答申.同部会は翌日解散させられる.
11.20解散に対し鰐淵熊大学長,世良医学部長抗議の記者会見 「研究の重大段階で,関係各省の縄張り争いのため解散させられたのはまことに遺憾である.工場排水採取拒否で科学的な研究ができないことは遺憾である.無機水銀が魚貝類の体内で有機化する過程は,近い将来結論を出す」
12.30患者家庭互助会,チッソと「見舞金契約」締結.

7月熊大の有機水銀説の発表はすぐに新聞に出て世論は騒然となる.9月から11月にかけて,不知火海の漁民が連合して工場と交渉する.11月2日のチッソ工場への漁民乱入事件は,多くの人に水俣病事件の存在を知らせる契機となった.4000戸の漁民に対する漁業補償は1億円(要求22億)で12月16日手打ち.この結果に漁協員の多くは強い不満を抱いた.

県警本部は翌60年1月にかけて数百人の漁民を暴行容疑者として拘留ないし尋問.このうち141人を書類送検,55人を起訴.裁判の結果は漁協最高幹部3人に懲役1年から8ヶ月の刑,幹部52人に罰金刑.この55人のその後を追うと,3分の2近くが水俣病患者になり,首吊り自殺2名,農薬自殺1名.(『ドキュメント日本の公害T』p44)
一方患者に対する補償が年末の見舞金契約である.(後述)


11月厚生省によって公的に確認された熊大有機水銀説では有機水銀と工場排水の関連付けがされていない.工場排水が原因であると断定できなかった理由は11月20日の熊大記者会見で明らかである.


チッソは熊大有機水銀説を中央の学者らを動員して否定しようとする.
10月24日チッソは「有機水銀説に対する当社の見解」と題して,日本工業協会大島竹治理事の爆薬説(旧日本軍が水俣湾に投棄した爆薬が水俣病の原因だとする説)をもちだす.(熊大研究班は旧軍責任者を調査し,爆薬投棄の事実がないことを明らかにし,爆薬説は「事実に反し,医学常識を無視したセンスである」と10月20日に反論ずみ.)

11月11日東京工大清浦雷作教授は,水俣病の原因は工場排水とは考えられないという論文を通産省に提出.
チッソを擁護する「学者」の反論は,翌年,翌々年にかけてさらに続く.

 1960年 東京工大清浦教授,アミン説提唱.
 1961年 東邦大戸木田教授,「腐った魚が原因」とする仮説に基づく66頁にわたる膨大な論文を発表.

熊大研究班は「雑音に耳を傾けることなく,メチル水銀が水俣病の原因であるという確証をかためた.」 そして無機水銀が有機化(メチル化)する機構の解明にとりかかる.海水中で有機化する可能性,魚貝体内で有機化する可能性は否定され,工場排水に有機水銀が含まれている可能性だけが残る.

熊大瀬辺教授は1962年4月,チッソ技術者に対して次のように訴える.

水俣病問題発生以来,水俣工場における酢酸合成過程の作業条件および水銀回収の方式は幾回か改更されており,最近ではまったくスラッジを生じないような条件下で操業されていると聞くので,今日において往年のごとき研究資料を採集すことは望むべくもない.しかしながら聞くところによれば,水産庁においては病因の追求を断念し,水俣病関係の研究を完全に打ち切った由であるし(37年3月末日),また一方アセトアルデヒド合成工業も,アセチレンから出発する経路はまもなく廃止される運命にあると聞くので,今日ただいまの機会を逸しては水俣病問題の真相は長く闇に葬られるほかないと憂えられる.(『水俣病』p67)

そこでこの際,水俣工場の研究室の諸氏に切望したいのは,過去の作業記録を遡及し,往年のごとき条件のもとで,模型実験的規模にでも,アセチレン加水反応を再現して必要な資料を採集し,みずから最後の検索をとげるとともに,工場外の研究者にも供与していただきたいことである.(『水俣病』p68)
チッソはこの痛切な訴えを無視した.チッソは自分が黒であることを知っていたからである.(後述)


「きわめて幸運な偶然」が熊大研究班に味方した.1960年に酢酸工場の反応管より直接採取したスラッジの一小片が,入鹿山教室に保存されていたことがわかったのである.分析の結果,無機水銀のほかに,メチル水銀化合物の存在が証明され,その結晶をネコに与えると水俣病が発症した.こうして1963年(昭和38年)2月,水俣病の原因はチッソの工場排水であることが,熊大入鹿山教授によって最終的に証明された.


研究者たちは水俣病は終わったと考えた.同年3月,熊大のある研究者は「1960年までで患者発生は終息」と論文に記載.これは重大な誤りであった.水銀垂れ流しが終ったのは68年である.

研究者たちにとって水俣病は63年に終った.しかし世間では59年末の見舞金契約ですでに水俣病は終っていた.中央の権威を動員した反論が功を奏してチッソの責任はあいまいにされたままであった.

ハンター=ラッセル症候群をすべて備えたきわめて重篤な患者だけが水俣病と認定され,原因が工場排水とわかってからも沈黙を強いられた.なぜか.見舞金契約には,将来チッソの排水が原因であることがわかっても追加補償しないという条項(永久示談条項)が存在したからである.


65年(昭和40年)6月12日,新潟大椿教授,新潟県阿賀野川流域で有機水銀中毒発生と発表.「第二水俣病」の発生である.

新潟水俣病は,熊本水俣病の事例をふまえ,発生を公式に確認した時点から有機水銀中毒とされた.アセトアルデヒドを製造している昭和電工鹿瀬工場に疑いの目がかかったのも当然である.しかし昭和電工側は農薬説,地震農薬説を持ち出して徹底的に反論する.

67年4月に遅れていた厚生省特別研究班の「新潟水銀中毒事件特別研究報告書」が発表された.報告書は新潟の第二水俣病は昭電鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で作り出されたメチル水銀化合物が阿賀野川に流入し,川魚の体内に蓄積し,これを繰り返し食べるうちに,メチル水銀化合物が人体に蓄積し,中毒を起こして発病したものと「診断する」という内容である.

診断するという表現になっている点に関して,報告書作成メンバーの神戸大教授喜田村正次は後の新潟水俣病裁判で次のように証言している.
厚生省特別研究班がさる41年,阿賀野川有機水銀中毒の原因は昭電鹿瀬工場の排水と”断定”するとの結論に達したところ,当時の館林環境衛生局長が自宅を訪れ『断定という表現で昭電を追いつめると訴訟になり事件が長びく.やわらかい表現にしておけば会社側から補償金が出て患者も助かる.あなた一人が大見得を切ると困るのは被災者だ』と表現をやわらげるよう要請してきた.そこで学者として結果を曲げることはできないから,研究班から出て個人として”断定”と発表するといったところ『それでも困る』と押されたので表現をかえることに同意した.(『ドキュメント日本の公害T』p71)
この報告書は厚生省の結論であって,政府の結論ではない,政府見解は原因究明に金を出した科学技術庁が通産省など関係各省と調整した上でだすという論理のもとで「メチル水銀の汚染源断定は困難である」と大きく後退した政府原案がでる.これに対し園田直厚生大臣が強く反発し,翌68年9月26日の政府見解に至る.(後述).

67年6月12日,新潟水俣病患者ら13名は昭和電工を相手取り,慰謝料請求の訴訟を起こす.
NHKテレビで「たとえ研究結果がクロと出ても,昭和電工は納得がいかない限り,絶対に研究結果を受け入れない」と総務部長が開き直りまして,これを見た患者がカンカンに怒って,裁判に踏み切ります.(『公害原論T』p150)

新潟患者が相手企業を訴えたことは熊本患者たちに衝撃を与える.

68年3月,「熊本の患者は新潟の患者とともに,厚生省,通産省,科学技術庁に,おおやけの正しい結論を出すように陳情し,9月には熊本出身の園田直厚生大臣が現地を訪れるところまできた.」(『水俣病』p105)

68年9月26日 政府,水俣病に関して正式見解発表.「熊本水俣病は,新日窒水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因であると断定し,新潟水俣病は,昭電鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物を含む排水が中毒発生の基盤をなしたと判断する」(『水俣病』p108)という内容である.厚生省,熊本水俣病を公害病と認定.


医者である『水俣病』著者原田は次のように自己批判している.

私たちは行政の措置のあまりのおそさを怒ると同時に,間の抜けたような公害認定を滑稽にすら感じた.「いまさらなにを・・・・・・」という気持ちが強かったのは事実だ.「そんなことはすでに明々白々で,全世界で認められている事実をいまごろどうして・・・・・・」と考えた.しかしそれは私たちの認識不足であった.学問的に明らかになったので,それで事足れり,水俣病は済んだと考えていた私たちのあさはかさ.(『水俣病』p108)

ある胎児性水俣病の患者の母親が私にこう語ったのである.「これでわたしは恥ずかしい思いをせんでよくなりました.いままでは病院に行くにも,バスに乗ると人がジロジロ見ます.恥ずかしかった.しかし工場が原因での公害病とはっきりわかったので,もう胸をはって人の前に出られます」. 私はあきれて質問した.「だってB子ちゃんが水俣病ということは何年も前にわかっていたし,どうしてこれまでそんな恥ずかしい思いをしていたんですか」. 「いいえ,わかっていても,やっぱしお上が認定してくれんと,肩身の狭い思いをばし続けなければならんとですたい.」(『水俣病』p109)

公害認定の翌日,チッソ江頭社長は患者家族をわびてまわった.しかしチッソが具体的な補償案を出さなかったため,翌69年2月,厚生省は第三者機関の設置を決め調停にのりだす.

厚生省は,この補償処理委員会の結論には一切異議なく従うとの確約書の提出を求め,患者側は一任派と自主交渉派に分裂する.一任派は確認書を提出し,後に斡旋案を飲む.
斡旋案なるものは「現在の法制のもとでは,本件被害が会社の排水に原因するというだけでは,会社側に法律的責任を負わせることにはなっていない」と,会社の責任をあいまいにし,さらに「見舞金契約が無効であるかどうかを検討する必要がある」などと述べて,裁判におけるチッソの主張そのままであることに,まったく私たちは驚いた.(『水俣病』p127)

斡旋額は,年金最高38万,最低17万,死者は320万から400万円.
一方自主交渉派は水俣病訴訟弁護団を結成し,69年6月14日,29世帯,112名は熊本地裁に総額6億4239万444円の慰謝料請求の訴えをおこす.

1969. 6.14
(昭和44)
自主交渉派(=訴訟派)チッソを提訴(いわゆる水俣病裁判)



困窮の中で補償を求める患者たちの声は「チッソの城下町」といわれた水俣市にあって孤立し,1959年,因果関係を認めないままチッソが支払った「見舞金」によって「問題は解決した」とされた.以後10年,水俣病の原因と判明していながら有機水銀は流されつづけ,汚染の規模は年を追って拡大した.患者たちはわずかな金銭と引き換えに沈黙を強いられ,深い闇の中でチッソ,行政,世間への怨みをつのらせた.それゆえ,再び立ち上がった69年以降の闘いは峻烈を極め,経済成長に疑問をいだきはじめた人びとの間に大きな共感を生んだ.患者たちの闘いは,政治家や知識人,専門家らに委ねられることなく,自然を相手に汗して働く生活民自身の意思によって選択され,その日常言語によって表現されるという史上稀なものとなった.(『証言 水俣病』p88)


さて10年さかのぼり,見舞金契約が締結された1959年に戻る.

この年11月,患者たちは一律300万円の補償をチッソに要求するが,11月12日の厚生省発表では病気の原因と工場排水の関係は明確ではないとしてチッソはゼロ回答した.患者らは11月28日から1ヶ月水俣工場前に座り込む.周りの眼は冷たいものであった.

チッソ労働組合は「水俣病の原因未確定の現在,工場の操業停止には絶対反対」と決議.また市長,商工会議所,農協などと共同で「工場排水をとめることは,工場の破壊であり,市の破壊になる」と寺本知事に要望.
不安と貧困の中,孤独な闘いをしいられた患者達は,暮も押し詰まった12月30日寺本県知事を中心とする調停委員会の斡旋案すなわち「見舞金契約」を飲まされる.

見舞金契約(1959年12月30日)
死者30万円,葬祭料2万円,生存患者年金成人10万円,未成年3万,成人に達した時5万など.
「今後原因が工場排水とわかっても追加補償しない」という条項(第5条)を含む.
未成年に対する年金3万が,成人に達した時5万となり,成人で病気になった場合の10万と格差がある.これは生まれた時から障害者ならば,どうせ大きくなっても役に立たないのはあたりまえだから5万であきらめよと解釈するより他ない,つまり人間を労働力のかたまりとして評価しているのである.(『公害原論T』p119).

ところでチッソが患者に金を払う理由は何であろうか.59年時点ではチッソは水俣病と工場排水の関係を一切認めていないのである.なぜチッソは金を支払ったか.
会社の方が「貧乏な隣人が病気をしているときに,可哀そうだから見舞金をもっていってやります」という有名な言葉を吐きました(『公害原論T』p118)
チッソはわずかな金を恩着せがましく患者に支払って「問題解決」した.しかし実はこの時すでに,チッソは工場排水が原因であることをはっきり知っていたのである.

チッソ付属病院の細川院長は,患者公式確認の翌年57年から62年までの5年間に,約1000匹のネコなどによる動物実験等を工場技術部と共同で行っている.研究は熊大研究班の成果を追試する形で進められた.59年熊大有機水銀説が出た時,「会社の黒白をはっきりさせる」目的で,触媒水銀を使用する2工程(アセトアルデヒドと塩化ビニール)の廃水をネコの食餌に直接かけて実験を始めた.前者を食べさせたネコ400号が,78日後の10月7日水俣病を発症したのである.
1959年10月7日 「ネコ400号」発症

細川はこの結果を工場幹部に報告し,11月30日の工場研究班会議で,工場廃液で水俣病が発症することを強調した.
細川は水俣病裁判でこのことを証言した.70年7月4日,肺がんで闘病中の細川は臨床尋問に応じ証言したのである.細川はまた58年の排水口の水俣川への変更時にも,新患者を発生させることになり人道上も許せないと反対したが,会社側が聞き入れなかったことも明らかにした.(細川は3ヶ月後の10月13日永眠.享年69歳.)
チッソは結果を隠した.補償問題に大きな影響を与えるのは必至だからである.

チッソは水俣病が自分のせいであることを知りながら,一方で中央の「権威」たちを動員して繰り返し反論し「世論を惑わし,患者たちに不安をあたえ,そうしておいて補償交渉を,急いでまとめようとした」のである.見舞金契約は,水俣病裁判判決で「公序良俗に反する」つまり破廉恥だと指摘され無効になる.


59年から61年にかけてチッソを擁護した学者らは,全てを知った上でチッソに加担した確信犯であるか,それともチッソにだまされたあほであるかどちらかである.


チッソ水俣支社東平総務部長がスウェーデンのジャーナリスト,ボー・グンナーソンのインタビューに応じている.
ボー しかし,現在はチッソの水銀たれ流しが水俣病をもたらしたことは認めていますね.
東平 ええ,関連はあるかもしれません.しかし他にもいろいろ要素がありましてね.原因の二分の一,あるは四分の一が他の毒物であるかもしれないということは,われわれにはわかりませんからね.他所から出ているのかもしれませんからね.
ボー 近くに工場があるのですか.
東平 ありません.裁判でくわしくふれますのでこれ以上説明できません.
ボー 水俣でとれた魚を漁師たちは食べ続けているんですか.
東平 ハイ,そこはわれわれが攻撃すべき点でね.端的にいうなら,彼らは海に浮かんだ死んだ魚を食べたんですよ.が,そんなことを裁判にもちだすのはむつかしいですよ.一般の人に相手側について悪い印象をいだかせることになります.まるで動物ででもあるかのようにね.58年以後の病気の原因が,死んだ魚を食ったためなのか,水銀のためかわからんのですよ.58年以後に発病した人にかぎっていえば,それで補償金をもらえるなんて,ありがたく思ってもらいたいものです.(『水俣病』p218)
このインタビューは,発言内容でおわかりのように,69年水俣病裁判が起こされて以降のものである.政府が工場排水が水俣病の原因であると断定し,チッソ社長が患者たちにわびてまわったのは68年のことである.

インタビュー中の58年とは,58年に熊本県経済部長が県魚連等に対し「水俣湾内の漁獲の操業厳禁を指導するように」と通達したことに関係すると思われる.県が魚連に何かを言ったことは事実だろう.しかし正式の法律なり条例による漁獲禁止は一度も行われていない.禁止すれば補償しなければならないからである.

総務部長は,58年以後の患者は,行政の指導を無視して魚を食ったためだと言おうとしている.ところがそれでもチッソにとって十分ではない.たとえ隠れて魚を食った漁師がいたにしても魚の中の水銀はチッソが出したものであり結局チッソの責になるからである.(チッソが完全に水銀流出を止めたのは68年である.念のため.)

こうして総務部長は単なる魚から「海に浮かんだ死んだ魚」に話をすりかえる.有機水銀から腐った魚に原因をすりかえ,チッソが悪いのではなく,腐った魚を食う「まるで動物」のような人間の方が悪いのだと言わんばかりである.

そしてさらに言う.こんなことを裁判に持ち出せば,一般の人に対して,患者について悪い印象をあたえるから,つまり相手の立場を思いやって,裁判では持ち出さないと言っている.なんたる偽善.


裁判ではもちろんこんなことは問題にもならない.熊本水俣病では因果関係はとうの昔に決着がついているからである.
判決がおりるまでは,なにを喋ってもいいとチッソは考えている.こうしてチッソは患者に対する差別を助長することを平気で喋る.要はどんな手を使ってでも安くあげようとしているのである.

総務部長がすりかえ論理を駆使して好き勝手なことを喋れるのは,チッソ社長が自己の責任を社会に対して明確に示していないからである.つまり総務部長は社長のホンネを代弁しているにすぎないのである.

社長の68年の謝罪が形だけのものであったことが明らかである.裁判を通じてチッソが社会的に糾弾されたのは当然の話である.