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| 三浦按針(ウイリアム・アダムス) William Adams | |||
| 日本に来た最初のイギリス人(海の男・青い目のサムライ) | |||
| 更新 | 2009-11-20 |
| 連絡Mail |
| 概説 | 横須賀市(神奈川県) | 中央区(東京都) | 伊東市(静岡県) | 平戸市(長崎県) | 臼杵市(大分県) | メッドウェイ市(英国) |
| 臼杵市(大分県) |
| <注>写真は2009-5-12按針亭管理人撮影 |
| 佐志生とリーフデ号の漂着 http://www.city.usuki.oita.jp/modules/usukisyoukai/article.php?storyid=7#03 (臼杵市役所サイト) |
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![]() オランダ船「リーフデ号」は 画面中央右寄り沖合に 漂着したといわれる「黒島」 |
上記サイトでは、オランダ船「リーフデ号」の臼杵市佐志生への漂着について説明されています。 |
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| 三浦按針上陸記念碑と公園 臼杵市佐志生の黒島 内 |
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![]() 三浦按針上陸記念公園 |
中央3本の旗竿から、右へ順番に「三浦按針上陸記念碑」、上陸時出会いの情景を描いた絵画「出会い」、左へ順番に「ヤン・ヨーステン像」、「ウィリアム・アダムズ像」、リーフデ号船尾の守り神「エラスムス像」 |
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![]() 三浦按針上陸記念碑 |
「三浦按針上陸記念碑」裏の銘板に記された説明文 |
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| W.ADAMS(1564~1620)は 英国 THAMES 河口に近い GILLINGHAM に生まれ 日本では三浦按針と呼ばれています 1598年 HOLLAND から派遣された東洋遠征舩隊の旗艦 HOOPE 号の航海長として乗組み 遠く南米の MAGEILAN 海峡をへて 2年にわたる苦難の航海のすえ
1600年4月19日(慶長5年)に わずかに残った LIEFDE 号でようやく佐志生(XATIVAI)に漂着しました 時の臼杵城主太田一吉の保護を受け
ついで徳川家康に引見され 家康の外交顧問として重く用いられました その間 イギリス、オランダとの修好につくし わが国外交史上に不滅の功績を残しました よって ADAMS が歴史的な一歩を印した 佐志生の勝地 黒島に その偉業を顕彰するために 記念碑を建設しました 昭和41年(1966)4月19日 臼 杵 史 談 会 |
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![]() 上陸時出会いの情景を描いた 絵画「出会い」 |
上陸時出会いの情景を描いた絵画「出会い」の右下銘板に記された説明文 |
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| 「出 会 い」 1600年4月19日の朝、オランダ人との初めての「出会い」のシーン= 臼杵湾に漂着したオランダ帆船「デ・リーフデ」の乗組員(中央から)ヤン・ヨーステン、ウィリアム・アダムズ、ヤコブ・クワケルナック船長らを温かく迎える佐志生の人たち。 作 二科会デザイン部会員 玉田 信行 2000年4月 Encounter The morning of the 19th of April 1600 : Scene of the first encounter with the Dutch. The Dutch sailing ship "De Liefde" is cast ashore in Usuki, and crewmembers (from center to left) Jan Joosten, William Adams and captain Jacob Quaeckernaeck are kindly received by the people of Sashiu. Drawn by Nobuyuki Tamada member of the Nikakai Design Department April 2000 |
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![]() ウィリアム・アダムズ像 |
「ウィリアム・アダムズ像」の台座銘板に記された説明文 |
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| 「ウィリアム・アダムズ像」 日本名 : 三浦 按針 Statue of William Adams Japanese name : Miura Anjin 「ウィリアム・アダムズ」(1564年~1620年) イギリス、ロンドン近郊ジリンガム生まれ、造船・航海術・天文学を学び、24歳の時航海士兼船長の資格を取得。リーフデ号の航海士として1600年に佐志生へ漂着した。その後、徳川家康の外交顧問として活躍し、名前も「三浦按針」と改め生涯を日本で過ごした。 1986年11月 按針会 William Adams (1564~1620) was born in Gillingham, near London, England. He studied shipbuilding, navigation and astrology, and at age 24, he obtained a navigator's and a captain's license. He was cast ashore in 1600 in Sashiu (Japan) with 'De Liefde'. the Dutch ship he was navigating. After that, he was actine as a diplomatic advisor of shogun Tokugawa Ieyasu and continued living in Japan under the name of Miura Anjin. November 1986, Anjin Association |
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![]() ヤン・ヨーステン像 |
「ヤン・ヨーステン像」の台座銘板に記された説明文 |
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| 「ヤン・ヨーステン像」 工藤 忠義 作 Statue of Jan Joosten Made by Tadayoshi Kudo 「ヤン・ヨーステン」(1560年~1628年?) オランダ、デルフトの名家に生まれ、リーフデ号にてウィリアム・アダムズらと共に佐志生に漂着した。その後、日本に留まり家康の顧問を務め、オランダ商館設立に力を尽くし、オランダと日本の歴史的関係の礎を築いた。 寄贈 創立10周年記念 臼杵中央ロータリークラブ 2000年3月 Jan Joosten (1560~1628?) was born in a distinguished family in Delft, the Netherlands. Also on board the 'De Liefde', he was cast ashore in Sashiu at the same time as William Adams. Being employed as an advisor of Ieyasu, he stayed in Japan where he made great efforts to set up a Dutch trading house and laid the foundations of the historic relationship between the Netherlands and Japan. Donated on the occasion of 10th anniversary of the foundation of the Usuki Chuou Rotary Club March 2000 |
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![]() リーフデ号船尾の守り神「エラスムス像」 |
「エラスムス像」の台座銘板に記された説明文 |
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| リーフデ号船尾の守り神「エラスムス像」 Statue of 'guadian angel' Erasmus on the stern of 'De Liefde' 「エラスムス」(1469年~1536年) オランダ・ロッテルダム生まれ、貧しいなかに神学校で学び、その後、仏・英・独・伊の各地で研究を重ね 「愚神礼賛」等、多くの著書を世に送り出すなど中世ヨーロッパの人文学者として活躍した。 「エラスムス像」は、デ・リーフデの船尾に船の守り神として設置されたものである。 Erasmus (1469~1536) was born in Rotterdam in the Netherlands. He was poor, but received education at a theological school and studied in France, England, Germany and Italy. He published many works such as 'The Praise of Folly' and became one of Europe's best known humanists of the Middle Ages. "The statue of Erasmus" was set up at the stern of 'De Liefde' as a guardian angel. . |
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| オランダから贈られた「日時計」 黒島の三浦按針上陸記念公園内 | ||
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台座銘板に 次のとおり 説明が 刻されている 未来に続く400年の歴史 この日時計は、日本とオランダの交流400周年を記念し、 オランダのウイレム・アレクサンダー皇太子殿下のご臨席のもと、 オランダから臼杵市に寄贈されました。 2000年4月19日 <注> 歴代の駐日オランダ大使が黒島を訪れた際に記念植樹を行っており、大使名を各々記した記念樹木が 黒島内にあります。 |
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| 故庄司万五郎氏の顕彰碑 |
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| 上陸記念公園内「日時計」脇の芝生に、故庄司万五郎氏の顕彰碑が埋込まれている。顕彰文は次のとおりですが、一部不鮮明で判読し難い箇所を赤文字で記した。 |
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故・庄司万五郎 氏 (平成十一年一月二十六日没・享年八十三歳) 氏は昭和四十九年から四期十六年の永きにわたり、臼杵市議会議員として市政の発展に尽力されるかたわら地域の活性化をはかるためオランダの帆船リーフデ号の漂着地である当黒島の歴史を後世に伝えると共に地域の観光資源として広く紹介するため昭和五十六年に三浦按針会を結成、同時に会長職を努めその運営には私財を投じながら地道な活動を続けることにより黒島もリーフデ号の漂着地として広く知られるようになり、海水浴を兼ねた観光客が訪れるようになりました。 また、二〇〇〇年にはリーフデ号が始めて日本に漂着した一六〇〇年から日本とオランダとの友好四〇〇年を記念して全国各地で記念事業が行われましたが、臼杵市も二〇〇〇年四月一九日に日欄両国の皇太子をお迎えして盛大に記念式典が行われ黒島を広く紹介することが出来ました。 これも氏の地道な活動の努力が報われたものであり地区民にとっても大きな誇りであります。 ここに日欄友好四〇〇周年を記念し整備された黒島公園に記念植樹(ホルトの木)し、氏の功績を永く後世に顕彰するものであります。 二〇〇一年三月吉日 佐志生区長会 |
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| 三浦按針・佐志生按針祭 http://www2.city.usuki.oita.jp/kyouiku/mamoru/saihakken/sonota/miuraanjin.htm (臼杵市教育委員会サイト) |
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上記サイトでは、三浦按針・佐志生按針祭について説明されています。 <本サイト・按針亭管理人「注」> 上記サイト説明文中に、毎年6月1日に海開きとともに「按針祭」が開催されるとありますが、最近は「按針祭」を開催していないとのことです。(2009.04.22記) |
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| デ・リーフデ資料館・黒島荘ほか 黒島内 | ||
![]() デ・リーフデ資料館 |
![]() 黒島に着くと最初に出会う歓迎板 |
![]() 三浦按針上陸記念碑への道標 |
![]() 黒 島 荘 (リーフデ資料館等のお守り役を兼ねる) 電話 0972-68-3939 |
![]() 上陸記念碑公園から黒島荘への道 (画面中央左寄りに金田忘機の句碑と 右寄りにアダムスとヨーステンの解説板) |
![]() 夢 観 音 (三十三の利益があるという) |
| 史談会初代会長・金田剛平(忘機)の句碑 黒島内 |
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![]() 三浦按針碑設立記念詩碑 |
![]() 三浦按針碑設立記念詩碑の裏面 |
詩碑表面に刻された句 月おぼろ 波も真珠も 寝しずまる |
三浦按針碑設立記念詩碑の解説(上の写真右にある解説) |
この詞は初代史談会会長の金田先生の作詞です 昭和41年建立の三浦按針上陸記念碑は臼杵史談会の皆様方、当時会長金田剛平先生・副会長高橋長一先生・村上あや先生方のお骨折りで此の地に建立されました。 其の後、紀元2000年に日蘭交流400年祭が実施できる事になり、大分県・臼杵市・史談会・按針会の方々と話し合いの上又祭典を行うにあたり公園建設と現在の地に移転完成致しました。 当初上陸記念碑の建設にあたり外務省・イギリス・オランダ大使館・東京の大学の先生方・地元の皆様方との交渉大変ご苦労多かった事と聞いております。又記念碑の塔が舟で運び込まれた時、夕方遅くまで加勢や指揮され夕闇の帰り道舟の中でやっと安堵されてお読みになられた詞だと高橋長一先生が教えてくれました。私等も其の心を大切に後生に永く伝えたいと思い区会長を中心に皆様方で建設致しました。 平成15年9月吉日 按針実行委員会 佐志生区長会 |
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| ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンの解説 | ||
ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステン解説「三浦按針碑設立記念詩碑」の真向かいにある (2009/5/12) |
ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステン 1588年 スペインからの独立のためオランダ艦隊はスペインの無敵艦隊を打ち破る 新興国の意気に燃ゆるオランダは東洋貿易に全力をあげた 印度洋を避け新航路として南アメリカの南端を廻る太平洋の航路開拓を計画し1598年6月27日 5隻の武装船団は堂々と出航した しかし途中の困難は言語に絶した 約1年を経て南米のマゼラン海峡で氷に閉ざされること9ヶ月 やっと待望の太平洋に出たが スペイン人と戦い 土人に襲われ 大暴風雨に遭い やっと日本の島影即ち佐志生にたどりついたのは 1600年4月19日であった 船は破損し110人の乗組員も僅かに24人 そのうち6人は死亡し葬られた しかし村人の親切な看護で18人は助かった その報告を受けた徳川家康は代表を上がらせるよう命令した 最も元気であった英人ウイリアム・アダムスと蘭人ヤン・ヨーステンが家康に呼ばれた 後に二人はそれぞれ家康から重用され家臣にされた アダムスは今の三越附近に屋敷を賜った その町を按針町と呼んだ 江戸の人はアダムスを三浦の按針と呼んだのによる ヨーステンの屋敷の地をまた八重洲河岸と呼んだ 東京駅の八重洲口附近である アダムスは家康に世界の情勢や天文数学までも教えたと言われる 二人は家康に祖国(イギリス・オランダ)との貿易の有利さを進言し許可を得た その時の許可書には日本のどの港でも貿易してよいとあったと言う しかし家康が逝って二代将軍 秀忠になると極端に冷遇され 永い間かかって得た許可書は平戸においてのみとなっていた イギリス・オランダはそれぞれ平戸に商館を開いて日本との貿易を競ったが オランダが遂にイギリスを押え 明治維新まで長崎で交易していた 家康の死によって希望を失った按針は平戸に引揚げて 日本在住20年にして淋しく没し 平戸の外人墓地に葬られた この二人には第一歩を印した佐志生は忘れ得ぬ思い出の地であったであろう |
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| 佐志生海岸と黒島 | ||
![]() 佐志生海岸(藤田地区)からの黒島 |
![]() 出迎えに来て下さった黒島丸 |
![]() 黒島丸船上からの黒島 |
![]() 佐志生海岸(尾本地区)からの黒島 |
![]() 黒島行渡船場 (佐志生海岸尾本地区) |
![]() 黒島渡船・島内案内でお世話になった 黒島荘・黒島丸の渡辺様 左の渡辺健市様は88才 |
| 参考サイト 大分県佐伯市・パノラマンさんの 「パノラマ風景写真で観光する大分県」の一部 佐志生海岸尾本地区からのパノラマ写真 |
黒島を見る http://panorama.photo-web.cc/tiiki/usuki/kurosima.html 佐志生海岸 http://panorama.photo-web.cc/tiiki/usuki/sasiu.html |
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| 上記サイトが、もし、開かないときは、 http://panorama.photo-web.cc/ から、探して下さい。 |
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| JR佐志生(さしう)駅 参考サイト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%BF%97%E7%94%9F%E9%A7%85 |
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![]() JR佐志生駅跨線橋から駅周辺 右手山際に沿って進むと海岸へ近道 |
![]() 佐志生駅前設置の黒島案内板 |
![]() 佐志生駅(無人駅)待合室 |
![]() 佐志生駅ホーム 奥方向が大分駅方面 |
![]() 日中はワンマン列車(2両編成) |
![]() 待合室内の列車時刻表 |
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