『リヴァイアサン』 ポール・オースター著
・・・
私は、最後の超どんでん返しのみが売りのエンターテイメント小説より、 その物語り自
体が興味をそそり、はやく先を読み進めたいような、読み 終えるのがもったいなく躊躇
してしまうような、小説の方が好きである。
この『リヴァイアサン』はまさにそんな小説である。
・・・
1990年6月28日一人の男がウィスコンシン州北部の道端で爆死したこと から物語ははじ
まり、そこからネジを巻くように物語りは進む。
(つまり、ある種の結末は提示されており、最後のどんでん返しは残念ながらない)
男の製作中の爆弾が暴発し、死体は15mの範囲に散らばっていた。
男はアメリカ各地の自由の女神像を狙い続けた「ファントム・オブ・リバティ」だったの
である。
男の正体はベンジャミン・サックス。
彼は、気鋭の小説家であり、この物語りの語り部的存在の私、ピーターの親友である。
常に、周りを気遣い、ウイットに富み、人間の弱さ自身を受け入れる寛容さを持っていた。
もちろん、テロまがいなものとは全く無縁の知識人だった。
そんな知識人の日常がその対極とも思える、連続爆破の犯人への変容、そこに潜むなにかを
ピーターは回想し、綴ろうとする。
その転落は劇的に起こったものではない。
彼に関わる人々との間のそれぞれの出来事や偶然がそれを醸成していったのである。
偶然、嘘、真実、勘違い、愛、失望色々なそれぞれのその時の思いや状況の積み重ねが、
思いも寄らないところへサックスを連れ去ってしまったのである。
なぜ彼は各地の自由の女神達を爆破することに栄光を見い出したのか。
この物語りを読んで行くにつれ、周りの人間、読者はそれは、彼にとっての栄光への道程に
彼の苦悶を見る。
それと同時に彼が求めた栄光は正直いって滑稽であることに気付く。
それが証拠に彼の成果は、ゴシップ誌の格好のネタにしかならないものだったのである。
そして逆に、彼が失ったものといえば、家族、友人、恋人、そして彼自身の生命という人生
そのものだったのである。 この両天秤で、前者をとってしまう、人の心理を高邁と言える第
三者は存在しない。
そんな第三者の胸中は作中のピーターの台詞をかりるとこう書く事ができる。
『私は私自身に失望し、世界に失望していた。
どんなに強い人間も弱いのだ。 そう私は思った。
どんなに勇敢な人間にも勇気が欠けている。
どんなに賢い人間も無知なんのだ。』
・・・
この物語りのタイトルにもなり、サックスの未完の作品名でもある『リヴァイアサン』は言う
までもなく、 旧約聖書にでてくる、巨大な幻獣であり、トマス・ホッブスの記した、
近代国家論の表題でもある。
ホッブスが『人は人に対して狼である』とし、自然状態では、自分の生存 の為、争ってしまう
利己主義の人間が発明したもの、自分の生存のために各々が『万人に よる万 人のための争い』
をさけるために作り上げたもの、それが国家『リヴァイアサン』。
しかし、それが人間から授かっている権力を暴力として行使すると、戦争や虐殺となる。
もともと不完全な人間が作った幻獣の不完全さは、やはり、人間自身に降り注いでしまうのか。
個人と外部との調和や軋轢の果てにサックスが作り上げた栄光が自由の女神像を爆破することで
あったこと、
それは『リヴァイアサン』が持つ、不完全で邪悪な側面と同じ意 味をもつのかもしれない。
・・・
p.s. 作中の登場人物のマリア・ターナーには実在の人物のモデルがいる。
フランス人芸術家のソフィ・カルがその人である。
作中には実際にカルが作品として行ったものをベースにしているものもあれば、逆にオースター
が作り上げた虚構にそって、カルが作品を作るという逆転も生まれている。
1999年には東京銀座で『限局性激痛』という個展も開かれた。
(雑誌『ダヴィンチ』で知るも、終了後だった。。)
この『リヴァイアサン』とオースターの前作『偶然の音楽』の装画は塩田雅紀さん。
作風とマッチして本としての価値を上げている。
・・・
関連書籍
『偶然の音楽』 ポール・オースター著
『リヴァイアサン』 トマス・ホッブス著
『本当の話』 ソフィ・カル著
Between The Lines 無料購読/購読解除
2005/5/11