| 第Ⅱ章 「治療精神医学」の諸知見 |
「治療精神医学」の発展を年代順に追うことは
創始者御本人にお任せするとして、
この章ではその基本的な知見を
なるべく追って行き易い順に解説しています。
1.「こころ」の最深部へ : 「原体験領域」の構造と性向
「治療精神医学」が、最も深く病んでいるとされていた「統合失調症」患者の治療をその中心に据える中で見出してきた人間の「こころ」の最深部は、胎児期~新生児期、つまり子宮内生活~誕生前後の赤ん坊がそれを生きているであろう体験世界でした(考えてみれば当然の事ではあるのですが)。
辻はそれを「原初的体験の領域」略して「原体験領域」primal experienceと名づけ、その性質を「原体験心性」と呼んでいます(本HPではこれを略して「原心性」primal mindとも記しています)。
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想像力を働かせれば分かる事ですが、この心性は次のような構造的特性を有しています。
①内外(自他)の区別が無い ∴周りの空間や状況=自分
②受動的
③今ここに在るものが全て(体験の直接性)
④感じたり思っているだけ
⑤問題意識も無い
スイスのJung,C.G.や英国の精神分析家Bion,W.R.の業績を参照すると、この原体験世界に於いても全くの無対象ではないのかも知れません。しかしそれは、現実の対象と出会う以前の生得的な「元型」archetypeや「前概念」pre-conceptionといったものなので、厳密には「対象」と呼ぶことはできないでしょう。それは、何らかの刺激に対する心的受容器のようなものとして準備されている、と言えるかも知れません。 |
この心性は更に次のような傾向を有しています。
①述語的状況性が支配する⇒述語同一性論理
(注意!「述語論理」ではありません)
②サイレントに終生活動し続ける
③状況の持続によりかかる(馴染みの法則/生物の保守主義)
④好ましい事物に一体化し、好ましくない事物は排斥し遠ざかろうとする
(Freud,S.の「快-不快原則」。但し「快/不快」と言ってしまうと既に人間的感情に近くなり過ぎるので、辻は原生生物から高等動物にまで共通する基底的性向であることを表現する為に「ポジティヴ/ネガティヴの法則」としています。) |
[補足]
一般に「原体験」という言葉には、次のような意味があります。
A. その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの。[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
B. 記憶の底にいつまでも残り、その人が何らかの形でこだわり続けることになる幼少期の体験。[ 大辞林 提供:三省堂 ]
「治療精神医学」で言う「原体験」は「原初的体験」primal experienceです。上記Bの「記憶の底」というのを「意識化され難い記憶の最基底」とみなし、「幼少期」に「胎生期」を含めれば、何とかそれに合致はしますが、少々紛(まぎ)らわしいので御注意下さい。。 |
2.精神的孵りと複合
「こころ」の発達は「外界の現実」と出会うことから始まります。「外界の現実」は欲求不満の体験を通して徐々に学習されて行きます。
生後しばらくの間は通常、母子はまだ一心同体の状態で、赤ん坊が欲求不満に陥ることは極力無いように配慮されます。しかし、母親(養育者)がどれほど努力しても、赤ん坊の欲求にいつまでも完璧に適応し続けることは不可能です。その為に、ごく当たり前の事として、赤ん坊は欲求不満を体験するのです。
当然の事ながら、そのような体験には不快感や苦痛を伴います。上記のような「原体験世界」の住人である赤ん坊にとってみれば、そのような不快感や苦痛は「晴天の霹靂」であり「有る筈の無いもの」です。従って即座に排除しようとし、通常は泣き喚いてその泣き声と共に自分の外へ(awayへ)錯覚的に放り出そうとします。
これが100%成功してしまえば、赤ん坊はいつまでたっても外界の現実を認識するに至らないでしょう。しかし、幸か不幸かこれは殆ど成功しません。それでも、放り出した不快感や苦痛が、その意味を理解しようとしながら関わる養育者の存在によって緩和されることは有り得ます(実際には十全に理解できなくても、投げ出さずに一緒に居る、ということが重要です)。そのような関わりに十分に恵まれれば、赤ん坊は不快感や苦痛をすぐに「アカン!」と放り出そうとする在り方から徐々に「アカンけどいい」という複合的体験を感覚的記憶として身につけるようになります。この肯定的な感覚的体験記憶は、PTSDに於けるフラッシュバックと同じく、類似の状況下で自動的に速やかに現実感を伴って復元します。即ち、辛い時苦しい時に繰り返し即座に再生されるのです。もうお分かりのように、これが従来「基本的安全感」basic securityと言われているものの内実だと思われます。
そして子供は、「何でも思うようになる」という原体験的幻想と「思うようにならない」という現実的体験との間で様々な情動を体験しつつ、不如意の現実というものを繰り返し受け容れ認識して行くことになるでしょう。
イギリスの精神分析家Winnicott,D.W.は「抱えること」(holding)として、Bion,W.R.は「包み込むこと」(containing)として、この間の事情をうまく概念化しています。
このようなプロセスは恐らく一生涯続くものでしょうが、うまく行っている場合には、子供はやがて養育者の「投げ出さずに一緒に居る」機能を内界に取り入れ、その分だけ外界の養育者は必須の存在ではなくなって行きます。そうして、原体験心性から分化した現実認識の機能はより精緻なものとなって行くと共に、原体験領域も変化をこうむり、両者がまた統合(複合)される、ということが繰り返されて行くのです。(⇒親子関係の健康な場合)
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3.ライフ・サイクル上の課題:自立の困難とまとめの困難、
「納得する自分」への気づき
治療精神医学に於いて「ライフ・サイクル」が主題の一つに挙げられているのには、深い理由があります。それは、統合失調症が一見さしたる誘因(心因と見做し得る出来事)無しに発症するかに見える謎への挑戦です。辻はこの謎について臨床事例に即して詳細に考究する中で、ライフ・サイクル上の課題を整理していったのです。
ライフ・サイクル上の課題は、概ね10年単位で考えると分かりやすいでしょう。
ここでは、その中でもとりわけ大きな節目を成している①思春期青年期(20歳前後)と②思秋期更年期(50歳前後)とについて見ておきましょう。
①思春期青年期―この時期に人は、子供(即ち大人に頼っている存在)から大人(即ち自分を頼りにする存在)への移行を果たさなければなりません〔精神的/社会的自立〕。それは同時に、男性か女性か(或はそのいずれでもないか)を決定的に選び取らされる(受容させられる)時期でもあります〔性可能性の受容〕。
この二つの課題はいずれも相当にハードなものですから、人はしばしば躓きます。そして様々な問題事象(非行・ひきこもり・家庭内暴力・摂食障害・自傷自殺etc.)が生じます。統合失調症がこの時期を好発時期としていることも、そのような事情と無関係ではあり得ないでしょう。
②思秋期更年期―人生の全体像が見えてくるこの時期に人は、見えてきたその自分の人生を納得するのか否かを問われてきます。
この時に、自分の中に積み上げてきた無形の財産を実感できない人は、目に見える身体的衰えとこれからの可能性の喪失感に打ちひしがれてしまいます。様々な身体化症状や鬱が多いのはその為です。
(ライフ・サイクルについては、別に頁を設けてまとめています⇒ライフ・サイクル)
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4.「一人前になる」ということ:自覚と主体性
先述の如く、人は通常、「何もできないくせに何でも思うようになると思っている」幸せな(おめでたい)存在として生まれます(⇒「原体験心性」)。そして、通常は徐々に「思うようにならない」現実を知り、受け容れて行きます。しかしその為には、周囲の大人の支えが必要です。
ところが、不幸にしてその支えが不十分であることも少なからずあります。それでも人は、そのことを理解し自覚することで、その自覚している自分を頼りにして、不足していた支えを補うことができます。そのように自分を頼りにして事に当たる(即ち、自分で考え、自分で決め、自分で実行し、その結果に自分で責任を持つ)ことができればもはや親は必要無いわけですから、それが「一人前になる」ことに他なりません。 |
5.「アウェイ」機制と「自己消去」機制:「パーソナリティ障碍」の基本構造
いわゆる「パーソナリティ障碍」personality disorderは、「アウェイ」の機制と「自己消去」という機制を念頭に置くと、実によく理解できます。
「パーソナリティ障碍」と呼ばれる人達は丁度、幼児の《周囲の目に見えるものに魅せられてそれらに夢中になる反面、それを見ている自分の在り様に未だ気づいていない》という段階に相当する、「目に見えるものが全て」従って「問題も全て目に見える周囲の側に在る!」という状態にあるようなのです。その為に結果的に(あくまでも結果的に)、自分の事を全く棚に上げて他人の事や状況の事ばかりを詳細に言い立て、全てをそれらのせいにしてしまう、ということになりがちなのです。
辻は、1991年3月の「こころの科学」36の特別企画「境界例」への寄稿「内面の風景や物語を踏まえた上で」に於いて「状況への合一幻想=自己消去幻想」と「外面的認知の正確さ」を指摘しています。当時は「自分を対象の方に丸ごと移し換えてしまう」という言い方もされていましたが、その後「アウェイ」awayという術語に凝縮され、かつ様々な病態で認められるものとしてその適用範囲が拡張されて行きました。
幼児や精神病患者に於いてしばしば見られるtransitivismと呼ばれる現象があります。これは「主客の逆転」、つまり「自分が相手にある事をした」という出来事が「相手が自分にある事をした」というお話になり、相手が非難攻撃の対象となったりする現象です。これも、「ある事をした」という述語部分が中心で、主語や目的語は簡単に入れ替わってしまう、という原体験心性に基いたaway構造のなせる業です。 |
6.「主体性の後退」:限界状況と「被圧倒体験」
― 圧倒体験モデル ―
1)限界状況
辻が精神病に関して最も早い時期に気づいたのが、ナチ強制収容所の生存者やベトナム戦争の体験者に見られた独特な後遺障害との共通性でした。後にはこれらに、重度奇形を伴った子供を産んだ母親や末期癌を告知された患者の反応に関する報告が加わります。いずれも、「人間に通常降りかかるとは思えないような尋常ならざる事態」に晒された人間の姿/反応を示しています。
2)主体性の後退と原体験心性の顕在化
そのような時に人間はしばしばそのような体験に圧倒されて、もはや自分を信じて事に当たることができなくなります。いわゆる主体的な営みが困難となるのです(これを辻は「主体性の後退」と表現しました)。この「主体的な営み」は「自我の機能」と言ってもよいのですが、そこには私達が大人になるまでに苦労して身につけてきた、現実適応上必要な多くの弁別的能力/現実検討能力も含まれます。そして、それと入れ替わりに原体験心性が顕在化してきます。
3)「手に余る領域の切捨て/退却」:量的差異から質的差異の感覚へ
そして同時に「手に余る領域の切捨て/退却」が生じます。不安(この時に体験される最も強い不安は英国の精神分析家クラインKlein,M.によって破滅不安annihilation anxietyと呼ばれています)とそこから生まれる恐ろしい着想内容を抱えておくことができなくなり、疑心暗鬼にとり憑かれ原体験心性が顕在化する中で、自分が思い感じているだけの事なのか外界の客観的な現実なのかの区別をつけることはできなくなり、心の内に抱かれた危惧が外の方に位置づけられて行くのです(これもクラインにより「妄想‐分裂ポジション」paranoid-schizoid positionとして記述されています)。
このようにして「手に余る領域の切捨て/退却」が通常の自他の境界である「自我境界」を越えて、自分の内界に在るものまで切り捨てて外界に在ると見做されてしまうと、とてもリアルに「周囲の世界(人々)が自分を中傷誹謗・非難問責し、破滅に追い遣ろうとしている」と感じることになります(⇒妄想-分裂ポジション)。
こうなると誰の目にも(本人自身の目にも!)、本来は「退却の度合い」という量的差異であるものが、普通ではない異質なもの(質的差異)と感じられるようになります。
こうして「幻覚妄想状態」に陥り「急性精神病」が出来上がるのだと思います。
なお、先のawayの機制は、この「手に余る領域の切捨て/退却」をより防衛的かつより効果的に使えるようになったものだ、と言ってもよいと思います。そう言った場合の「防衛の主体」は勿論「自我/主体としての自分」ではなく、それに先立つ「エス/原体験心性」です。自我(「偽りの自己」)はその実行機関に過ぎません。
[哲学的補足1] 限界状況の超越論的存在論的性格と「世界」の再構成
フッサールHusserl,E.の超越論的現象学の構想が明らかにしましたように、人間は日常的‹生›(生活)に於いては、一「存在者」として所与の「世界」(いわゆる「世間」)に一定の親和感(馴染みの感覚)を持って、かつそれらを当然の事として(殊更に省察の眼差しを向けることなく)棲まわっています。超越論的現象学ではこの事を「素朴な自然的態度」とそれに伴う「世界信仰」Weltglaubenと言っています。
ここでついでに述べれば、ハイデガーHeidegger,M.は前期の主著『存在と時間』に於いて、「その都度の自分自身の存在に関わっている存在者」としての人間を「現存在」Daseinと呼びました。「現存在はその存在(これは「実存」Existenzと呼ばれます)に於いて前存在論的に存在を了解している」と言われる時、その前存在論的な存在了解を徹底化し、そこに潜在する存在と存在者の区別(これは「存在論的差異」ontologische Differenzと呼ばれます)を主題的に解明する学としての「存在論」を営むハイデガーの「現存在」はまさしく、現象学を営む‹生›としてのフッサールの「超越論的自我=超越論的監視者Zuschauer」に他なりません。従って、フッサールの「素朴自然的/超越論的」という区別はハイデガーの「存在的ontisch/存在論的ontologisch」の区別と別のものではありません。
そこで、これまでの議論にこの「素朴自然的/超越論的」「存在的ontisch/存在論的ontologisch」の区別という超越論的存在論的観点を導入すれば、限界状況は必然的に超越論的存在論的次元を顕(あら)わにしてしまう、という性質を持っています。
ひとたび「自分という存在/主体」そのものが主題化するような事態(様々な限界状況がまさにそれです)が生ずると、「素朴な自然的態度」に伴う「世界信仰」は一挙にぐらついてきます。そしてそれは、そのような「世界」(そこには一存在者としての自己も含まれています)が実は主体(超越論的自我=超越論的監視者=現存在)によって構成されたものであることを明るみに出すのです。
そこでは主体(超越論的自我=超越論的監視者=現存在)が従来の「世界‐自己」構成の「改訂」を迫られます。この「改訂」は主体自らの存立の危機の下になされますので、必然的に「それと矛盾せず、その事を説明し得るもの」となるでしょう。そのようにして、周囲からは幻聴や妄想と呼ばれる現象を組み込んだユニークな世界が再構成されるわけです。
しかしこの事は、かつて多くの「現象学的」精神病理学者が主張したような「主体(超越論的自我=超越論的監視者=現存在)そのものの異常や変調」を意味しません。そもそも「異常」や「変調」というのはすぐれて素朴自然的-存在的な次元のお話であり、それらを超越論的存在論的次元に持ち込むことはできないでしょう。
[哲学的補足2] 原体験心性と超越論的自我=超越論的監視者=現存在
破滅不安の現れの典型とされるものに「世界没落体験」と言われているものがあります。この体験に於いて、内的不安が外的世界の没落と感取される事情は、素朴自然的-存在的には原体験心性に於ける「周囲の世界(外界)と自己(内界)との区別の無さ」即ち「世界=自己」という構造により理解可能ですが、超越論的存在論的には超越論的自我=超越論的監視者=現存在による世界構成の一つのパターンとして理解されます。
破滅不安は解体不安とも言われるように、文字どおり「自己がバラバラの断片へと解体してしまう!」と語られたりもします。これもまた、素朴自然的-存在的には原体験心性に於ける「身体と精神(心)との区別の無さ」即ち「身体=精神(心)」という構造により理解可能ですが、超越論的存在論的には超越論的自我=超越論的監視者=現存在による世界構成(この場合には自己の身体の構成)の一つのパターンとして理解されます。
同様に、幻聴や妄想といった精神病的体験もまた、素朴自然的-存在的には原体験心性に於ける「周囲の世界(外界)と自己(内界)との区別の無さ」即ち「外界=内界」という構造により理解可能ですが、超越論的存在論的には超越論的自我=超越論的監視者=現存在による世界構成の一つのパターンとして理解されます。
超越論的自我=超越論的監視者=現存在の素朴自然的‐存在的相関者は無論、心理学的「自我/主観」なのですが、このように見てきますと、原体験心性と超越論的自我=超越論的監視者=現存在とは、素朴自然的‐存在的に分析し対象化するか超越論的‐存在論的に分析し対象化するかという探究態度の違いによって、同じものが見掛け上異なって把握されているに過ぎないように見えてきます(奇しくも、原体験心性が人間心理の最深層と考えられ、従ってその心性が顕在化する様子を精神分析の術語でregression「退行」と言い得るのに対し、現象学では構成の生起の深層に到達することをRegression「還帰」と呼んでいます)。
しかし、超越論的自我=超越論的監視者は「見る(監視する)」という営み(これは勿論、眼を使っての「見る」ではなく、「省察する」という意味の「見る」ですが)をするのに対し、原体験心性はこの営みをなし得ません。
フッサール晩年の弟子フィンクFink,E.は次のように書いています。
[超越論的生は、世界に構成的に向かう盲目的な目的論的傾向に於いて活動しつつ、言うならば絶えず自己を去って世界に向かって生き、深い「匿名性」に於いて遂行し構成された最終所産の次元に於いて、つまり世界に於いてのみ、人間的な自我意識として明らかにされて存在し、超越論的主観の本来的な生の深層にまさしく閉ざされるという仕方で「自己のもとに」存在する。](『超越論的方法論の理念―第6デカルト的省察』新田義弘/千田義光訳,岩波書店,25-26頁)
ここに述べられている区別に従えば、原体験心性と超越論的生とが「素朴自然的/超越論的」「存在的ontisch/存在論的ontologisch」という関係にあるのだと言えそうです。つまり、原体験心性は超越論的存在論的には超越論的生であり、超越論的生の素朴自然的‐存在的相関者が原体験心性なのです。
[臨床的補足] 「原体験受容」(辻)と「命を与えるものlifegiver(生命賦与者)」(Symington,N.)
上記の「超越論的生」の活動を素朴自然的‐存在的次元で保証する営みが辻の「原体験受容」であり、それを実践するものがシミントンSymington,N.が概念化している「命を与えるものlifegiver(生命賦与者)」だと思われます。
辻は、人が大きく病むことなく生き生きと存在する為には、その乳幼児期~児童思春期に原体験的活動が(ある程度)受容される必要がある、と強調しています。シミントンは「生命賦与者は自己の外にありながら、同時に自己を含む対象である。(中略)生命賦与者は、全体性を含み込む対象である。それ故、それは自己の外部に存在しつつも、自己の最も本質的な構成要素となるのである」と述べ「生命賦与者は選ばれるのではなく、創造されるのである」とも指摘しています(日本精神分析学会第53回大会招待講演2007.10.27)。
ここで思い出されるのは、これらに先立って提出されていたウィニコットWinnicott,D.W.の「抱える環境 holding environment」や「移行対象 transitional object」、或いはコフートKohut,H.の「自己対象selfobject」という概念でしょう。
周知の如くウィニコットもまた、これらの存在が実は与えられていながら乳幼児の主観に於いては創造される必要があることを強調しています。それが、乳幼児の「真の自己 true self」が窒息してしまわない為に必須の出来事なのです。
とは言えウィニコットの場合、「抱える環境」と「移行対象」はいずれも誕生後即ち母胎外に於いて与えられつつ創造されるものですが、シミントンの「命を与えるもの」に関する上記記述(特に下線部)を見る限り、むしろ生まれる以前の母胎内の状況を連想させます。それでも彼は「生命賦与者は創造される」と述べているのですから、やはり誕生後の事情を指しているのでしょう。
コフートの「自己対象」もシミントンの「命を与えるもの」に酷似しています。ただ、コフートには部分対象という着想が見られず、従ってそれが「自己の最も本質的な構成要素となる」という捉え方は無かったかも知れません。
既に御承知の如く、辻の「原体験」は端的に母胎内に於ける心性とその構造を指しています。辻に倣って考察の原点を思い切って母胎内に据え直してみると、上述のウィニコットやシミントンの議論の歯切れの悪さをよりスッキリした見通しの良いものにできそうです。そうすると、ウィニコットの「抱える環境」や「移行対象」、コフートの「自己対象」、そしてシミントンの「命を与えるもの」も、その原型は「母胎内状況」そのものであり、それは「創造される」と言うよりは「再発見される」のだ、ということになるでしょう。 |
7.「精神病=脱落」の意識:「疎外」の根源
1)「限界状況」と「異常な体験」
限界状況下に生ずる、精神病発症直前の原体験心性に於ける「自己と世界が破滅してしまう」といった破滅不安annihilation anxietyは、言うまでもなく「日常経験」をはみ出ています(それがうんと薄められた、或いは時間的にごく限られたものであれば、私達の日常経験の中にも見出されるのですが)。
また、幻聴や妄想といった精神病的体験もまた原体験心性に基いて、通常の大人が絶対的に外せない(外せる筈がない)と思っている主語同一性論理に基づく現実把握とは異なった、遥か昔に卒業した筈の述語同一性論理に従った構造を有していますので、人はそれだけで十分に「自分は普通の状態とは異質な(つまり「異常な」)体験をしている」と感じてしまいます。しかもこれらは、したくてしている体験ではなく、不安や恐怖からそういう所に追い込まれているのですから、一層不安や恐怖を掻き立てられることでしょう。
2)限界状況からの知見:「体験」と「その体験をしている自分」の未分化/脱分化
様々な限界状況からの知見は、人間は「人間に通常降りかかるとは思えないような尋常ならざる事態」に晒された時に、それを一時的な尋常ならざる体験と位置づけることができなくなり「そのような体験をした自分自身が尋常ならざる存在、即ち《異常》になってしまった」と感じ取るものであることを教えています。そのような時に顕在化する原体験心性に於いては、「体験」と「それを体験している自分という受け皿」とは区別されず、同じものだからです。
3)「異常=精神病」という連想と社会的疎外
そのような経緯で「自分が尋常ならざる存在、即ち《異常》になってしまった」と感ずると、人は直ちにそれが《精神病》であり「人間からの脱落だ!」と感じてしまいます。
これ自体は恐らく万人に共通の着想でしょうが、困ったことに、有無を言わさず長期にわたって患者を隔離して来た過去の「精神医療」は、しばしば社会からの実際の脱落をもたらしても来ました(これもまた深層心理学的には、葛藤がイヤで「異質なものを排除したい」という原体験心性と、その原体験心性を具現している《狂人》を見たくない」という近代合理主義的理性との共同作業でしょう。近年では大きく変わって来ている、と信じたいところですが)。
ここで、それに反発する力の有る人は当然、「いや、自分はおかしくない、気が狂ってなどいない!」と主張することになり、するとまた「病識が無い」と言われてしまいます。反発する力の乏しい人は静かに自分自身に絶望して行きます。そうして「荒廃」に陥って行く訳です。
よく見れば明白なこの事情を強調する人が辻以外に殆どいなかったことこそ、この「精神病=脱落」の意識が人間に於いていかに深く抑圧されているか、という事の証だと思われます。
[補足1]「脱落意識」の「意識」性
「意識」Bewußtsein;consciousnessという言葉は、哲学や心理学の領域では
自分自身の精神状態の直観。
自分の精神のうちに起こることの知覚。
知覚・判断・感情・欲求など、すべての志向的な体験。 |
或いは、
④ 思考・感覚・感情・意志などを含む広く精神的・心的なものの総体。特に対象を認識する心の働き。主観。物質・存在・世界・自然など、客観的なものに対する。現象学では世界を構成する超越論的自我の働き、また唯物論では存在に拘束される観念一般を意識と呼ぶ。
⑤ 単なる直接的な情意作用や知覚ではなく、自他の在り方自身を察知する明瞭で反省的な心の状態。また、その作用・内容など。自己自身を対象化する対自的・反省的働き、人格あるいは自我による統一・自律、一定水準の明晰(めいせき)さなどによって規定される。自己意識。 |
とされています。
「治療精神医学」では辻の原案に従って「脱落意識」としていますが、これは患者さんの方から訴えられることはむしろ少なく(敢えて直視し難い或いは「他の人間には到底理解されない」と思われる事象であるからだと私達は理解していますが)、こちらから問いかけることによって初めて「まさにそうです、そう感じています」という反応が返って来、そこで初めて明るみに出る性質のものです。
従って、ここで言う「意識」は上記⑤のような「明瞭で反省的な心の状態」という意味のそれではなく、①~④の「精神的・心的なものの総体」といった最広義の「意識」の内のいずれかだと言えるでしょう。つまり、その時々によって様々な様態や明晰さを持ち得るものなのです。
[補足2]「脱落意識」の射程:「脱落意識」は「精神病」に固有のものか
この「脱落意識」は「精神病」中でも特に「統合失調症」の発症促進因子及び回復阻害因子として大変重要なのですが、注意深くお話を聴いていますと、パーソナリティ障害や神経症の水準の患者さんに於いても決して無縁でないことが分かります。それらの病態に於いても、臨床事態が長引けば長引くほど、回復阻害因子としての力を増してくるものです。
更に視野を拡げて見ますと、いわゆる「健常者」に於いても「脱落意識」は、「それを恐れる」という形で常に既に存在していることに気づかされます(次の[哲学的補足3]も参照してください)。むしろこの事実が、人々が(患者さん自身をも含め)「精神病」を恐れる原因の一つともなっているのです。
[哲学的補足3]「脱落意識」の超越論的存在論的性格
ハイデガーHeidegger,M.は『存在と時間』に於いて次のように述べています。
[現存在の世界は、共同世界です。内‐存在とは、他人達との共同存在です。他人達との内世界的な自体存在とは、共同現存在です。]
ハイデガーの現存在はフッサールの超越論的自我‐超越論的監視者であり、その素朴自然的‐存在的相関者は「自我/主観」でありましたから、「脱落意識」は、素朴自然的‐存在的な心理的破滅感や社会事実的脱落(ないしその主観的予感)であると同時に、超越論的存在論的な「共同世界からの脱落」の意識でもあるのです。 |
8.共感・共検討・共決断―治療のエッセンス―
以上のような理解を伴いながら、辻は、自らの実践と他の様々な(うまくいっている)治療技法を総合し、治療的関与のエッセンスとして次の三つを抽出しています。
①共感:これは「あらゆる治療的関わりを肯定的関係性の上に載せる」ということの為に必要な要素で、この時に共感されるべきなのは、病んでいることそのものに於いて働いている共人間的事情です。これは原体験心性の融合合一的で直接的な性質に基づいていながら、同時に弁別的理解の裏づけ(間接化)を必要としています。
②共検討:これは「見るべきものを共によく見、見分けるべきものを共に見分けて行く」という営みを指しています。
③共決断:これは治療に於ける力のモーメントです。当初は「対決」とされていて、患者さんが「手に入れるべき決断」を前に逡巡している時、治療者が「背中を押す」といったニュアンスがあり、実際に力のこもった喧嘩腰(?)の遣り取りも目撃されました。しかし、最近では「決断することを独りにさせない」と修正され、例えば「そこが難しいねぇ」と明確化しながら寄り添う(或いは、決断に付き合う)というニュアンスで、より穏やかなものになった印象です。
辻は、「およそうまくいっている治療であれば(行動療法であろうと来談者中心療法であろうと精神分析療法であろうと)、必ずこれら三要素を含んでいる」と述べています。 |

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