こころの成り立ち
| 1) 原(体験)心性 |

| これは、 人間が持って生まれた心性であり、 胎児期~新生児期、つまり子宮内生活~誕生前後の 赤ん坊が持っているであろう 心性です。 「原(体験)心性」 という語はいかにも専門用語然と しているので、筆者は治療場面では専(もっぱ)ら 持って生まれた赤ちゃんのこころと 表現しています。 |
想像力を働かせれば分かる事ですが、この心性は次のような構造的特性を有しています。①内外(自他)の区別が無い ∴空間や状況=自分 ②受け身(受動的) ③今ここに在るものが全て(体験の直接性) ④感じたり思っているだけ ⑤問題意識も無い |
この心性は更に次のような法則性を有しています。①述語的状況性が支配する ②サイレントに(密(ひそ)かに)終生活動し続ける ③状況の持続によりかかる(馴染みの法則/生物の保守主義) ④快(ポジティヴ)の事象に一体化し、 不快/苦痛(ネガティヴ)な事象は異常視し排斥し 遠ざかろうとする(フロイトFreud,S.の快‐不快原則) |
| 実は これは、フロイトFreud,S.が ゲオルク・グロデックGroddeck,G.に倣(なら)って [グロデックはフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche)に倣(なら)って] 「エス」と名づけたものと別のものではないでしょう。 ドイツ語の「エス」Es は、英語のit(それ)に相当し、 ドイツ語でも英語でも、天候などを表す場合に 「仮の主語」として用いられます。 グロデックやフロイトは、 無意識が、 主語(主体)として名指し得ない (名づけて呼ぶことのできない) 性質のものであることを的確に見抜き、 仕方無しに「それ」と名づけたわけです。 |
| 2) 養育環境の赤ん坊への適応が うまくいかなかった場合 まず、 心の成長が不幸にして うまくいかない場合について 見てみましょう(下図を参照して下さい)。 これは様々な 事情から、赤ん坊●が 遠ざけようとした不快な思い●が 誰にも抱えられること無く放置されたり、 養育者側に生じた不快な思い●が赤ん坊側に 「お前のせいだ!」と投げ投げ返されたり↓することが 繰り返されることによって生ずると思われます(下図左)。 この時、赤ん坊は 専ら自分を守るという機能を 発達させ「心の鎧」を作ります(下図右)。 この「心の鎧」は、実のところ原心性に支配されており、 自分が困るということ、葛藤するということをできるだけ回避し、 問題はことごとく自分以外の処に位置づけようとします(away化)。 なお、下図の右で 「心無い対象」と書きましたが、これは 「外界の対象が結果的に子供にとっての心無い対象と なってしまう」という意味で、現実の養育者を 誹謗する為の言葉では ありません。 「心の鎧」の性能、即ち 「問題をaway化するの能力」 には、様々な程度があります。 最も 性能が貧弱な場合には 問題に圧倒されて立ち往生するだけ (⇒カタトニィ)かも知れませんし、少し性能が 良い場合には、適当に外在化して「幻覚妄想」を 形成するかも知れません(⇒精神病)。もっと高性能で あれば、周囲の現実の中からうまい受け皿を見つけて、 そこにうまくくっつけることでしょう(⇒パーソナリティ障害)。 下図では、原心性(エス)●が「心の鎧」○を支配しているという事情を、 エス●と「心の鎧」○を同心円で描くことによって表現してみました。 |

| 幼児虐待に 関する最近の研究では、 被虐待児に於いては、海馬などの萎縮が 認められるそうです。 つまり、 脳の発育異常は、 遺伝や胎内環境などの先天的要因 に限らず、後天的要因でも起こり得る、 ということのようです。 |
| 3) 養育環境の赤ん坊への適応 (こころのお世話)が うまくいった場合 次に、 心の成長がうまくいく場合です。 当然ながら、この方が事情は些か精妙です。 この場合、赤ん坊●が遠ざけようとした不快な思い●や、 養育者側に生じた不快な思い●は、ひとまず養育者によって 受け止められ抱えられます。そうして、しばしば赤ん坊が利用できる 形で返されます(下図)。そのおかげで、赤ん坊は殊更自分を守ろうとする 必要も無く、ありのままで居れます。 同じ事を 「愛情」と「理解」という言葉を用いて もう少し別の言い方をしてみましょう。するとこうなります。 即ち、この「うまくいった場合」には、親は赤ん坊~子供と言えども 一個の人格/主体であると捉えています。もちろんまだ 子供の主体は十全には生まれていません。 しかし、親は それが既にそこにあるかのように 慎重に配慮しながら扱うのです。それは 「理解しようと努力する姿勢を伴った愛情」です。 必ずしも子供の心が十分に理解できなくてもよいのです。 理解できなくても、嫌になって投げ出すのではなく、 理解しようと努力しつつそこに共に居る、 ということが大切なのです。 このような養育者の姿勢を 私達は簡潔に何と呼べば良いでしょう? 筆者は患者さんとの実際の遣り取りから、これを 「からだのお世話」との違いを強調して、 「こころのお世話」と呼ぶのが、 使い勝手が良いようだ と感じています。 語としては同じ意味ですが 「心のケア」と言うと幾分(いくぶん)抽象的でしっくりこないし、 災害時の援助活動を連想してしまいますから。 [補足] 合州国の精神分析家ハインツ・コフートは、 このような、子供の自己(主体)を喚起し支持する養育者の機能を 「自己対象」と概念化し、それに対する子供の体験を 「自己対象体験」と名づけています。 このような事の繰り返しから、 子供はいつしか苦痛や葛藤を抱える 養育者の機能を取り入れて身につけ、更に 合理的客観的に考え判断する機能(いわゆる 自我の自律的機能)を発達させて行くのです。 (このような心的装置をフロイトに倣って 「自我」と言っておいてもよいの ですが、抱える機能を 強調する為に 「抱える自己」“containing-self” と呼んでもよいかと思います。) 下図では、原心性(エス)●からの自我●の 自律性を強調する為に、エス●と自我●の 中心をずらせて表現しています。 |
| 上の模式図が フロイト先生の提示されたそれと 少々異なっていることは、余り気にしないで頂けると 幸いです。どうせ直接には目に見えない領域のお話ですから…。 ただ、この違いは、意識から出発して無意識を発見したフロイトと、 その発見を前提に無意識(原体験)の方から再構成した 筆者との違いに起因しているのかも 知れません。 |
| 4) 人間のこころの実相は?
以上、便宜上 二つの極端な場合に分けて 述べましたが、治療的関与の経験からは、実際には 二つの構造は単独で存在する実体ではないように思われます。 (例えば H2O+CO2⇔H++HCO3- といった化学反応のように) 人間の心はすべからくこれら二つの構造の混合状態であり、 二つの構造の間を時と場合によって揺れ動いている ものだと考えられます。 つまり、平衡が より左辺に偏っていれば「病的」とされ、 より右辺に偏っていれば「健康」とされる のでしょう(下図)。 そして、「心の鎧」の性能が貧弱なほど、 また、環境的圧力が強ければ強いほど、 平衡は左辺に偏るものと 考えられます。 ![]() |
これをもう少しダイナミックに表示すると、こんな感じです。![]() |