はじめに Introduction  上のライン上をクリックし上へドラッグすれば、画面をより広くできます)
 このページの内容
注意!
注意その2!
治療精神医学
精神医学史概説
[補足]臨床研究の方法論
著作権について
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 注意!

このHPは、

教科書的な精神医学

紹介サイト
ではありません。“もう一つの”と
付けていますのは
、そうすることによって、教科書的な
「正統的精神医学」authorized psychiatry から自由な立場で、
臨床事態のありのままを議論できるようにと
願ったからです。

とは言う
ものの、筆者の臨床認識は
「治療精神医学」Therapeutic Psychiatry
というものに負うところ大であり、従ってこのHPは、結果的に
「治療精神医学」への入門的性格を持たざるを得ないでしょう。
しかし!このHPは「治療精神医学」の公式サイトでもありません
あくまでも筆者が「治療精神医学」的に
考えている事々を
書き綴ったものです。従って、内容に関する責任は
全て筆者に在ります。

治療精神医学」
と銘打っていますが、これは
下記にも述べますように、
「治したい」という
治療者としての素朴な欲望を前面に打ち出したものでは
決してありません
。「治したい」と思い過ぎると却って
治療はうまく行かないものです。
そのような事も勿論踏まえた上で、
真に効果的な援助(それがここで言う
「治療」です)
はどうあるべきか、どうすればそれが可能なのかを探究している
その総体が「治療精神医学」Therapeutic Psychiatryと呼ばれている
ものなのです[⇒もう少し詳しい記述は下記にあります]。

 注意その2!

このHPは、

次の諸目的の為に作成されています。

1.何よりも私自身が自分の考えを整理する為に

2.
精神科患者の方々が(そしてそのご家族が)、
 「何が問題なのか」をお考えになる一助となることを願って


3.限られた診察時間の中で、知識として伝えると役に立つ事柄を
 多少は繰り返し言わなくても済むように


しかしまた同時に、
精神保健医療福祉の専門家の方々とも

「もう一つの精神医学」について語り合いたい、という望みを
捨てきれずにいます。その為の立ち入った記述は、
裏のページに記すように
しています。
勿論、
どのページも
どなたにお読み頂いても
大歓迎なのですが、
一般の方々には、
表のページだけお読み頂いても十分にお役に
立てるよう、随時編集している
ところです。

実は、
最初に訪れて下さった
方々の間で、「難しい!」ととても
不評でしたので、急遽
それらを
「裏のページ」にして、
「表のページ」を新たに作成した次第です。
未だ制作途中ですので、妙なリンクなどあります
m(_ _)m

⇒患者さんや御家族の方々への「総合案内」へ

 このHPで紹介する
「治療精神医学」は、筆者の師である
辻悟
先生( 医学博士、前治療精神医学研究所々長、
元大阪大学医学部精神医学講座助教授、元日本精神神経学会理事、
日本精神分析学会名誉会員、等々 )の創始によるものであり、
その内容も殆ど全面的に辻悟先生に負っています。
先生に関する情報はここにあります〕
 しかしながら上述の如く、
これは「治療精神医学」への私的入門であり、
ここに記された内容に関する責任は、当然の事ながら全て筆者に在ります。

 辻悟先生は1970年頃、統合失調症(当時は「精神分裂病」)の治療を中心に据えた患者さん達と語り合える精神医学が必要でありかつ可能であることを自覚され、自身の臨床実践から導き出されてきた諸見解を「治療精神医学」Therapeutic Psychiatryの名の下にまとめだされました。
 この名称について先生ご自身は、次のように語られています。
「治療精神医学」という概念は明らかに同義重複であるが、
それを私は
「常に治療実践を、治療実践から考え、治療実践によって検証すること」
として用いた。
(日本精神病理・精神療法学会 第29回大会 特別講演『個と世界』(2006年10月5日)より)

 当時の本邦に於ける「統合失調症」は、合州国の伝説的治療者ハリィ・スタック・サリヴァンSullivan,H.S.フリーダ・フロム=ライヒマンFromm-Reichmann,F.(ネオ)フロイト派(対人関係論)や英国のビオンBion,W.R.ローゼンフェルドRosenfeld,H.クライン学派(対象関係論)による優れた業績にもかかわらず、なお「理解不能で治療不能」とされることがしばしばでした。(新フロイト派クライン学派というのはいずれも精神分析の一派です。20世紀前半は、フロイトFreud,S.の創始した精神分析の影響を受けた「力動精神医学」dynamic psychiatryが盛んでした。詳しくは下記をご参照下さい。)
 その後、合州国で精神分析が非効率的だという理由等で斜陽化(?)し、いわゆる「反精神医学」antipsychiatryの運動も(一定の成果を挙げながらも)実践的には行き詰まる中、脳研究手段の進歩やヒトゲノム解析の完了を背景に、統合失調症が専ら脳病として解明されることへの期待が再び膨らんでいます。更に近年、新しい抗精神病薬(いわゆる「非定型抗精神病薬」)が相次いで開発された勢いでか、治療に関しても以前より楽観的な雰囲気が広がっています。

 それはそれで結構な事なのですが、筆者らは辻悟先生と共に、統合失調症を第一義的に脳病だとすることにはどうしても疑問を禁じ得ません。
 先生は近頃よく、治療精神医学グレゴリィ・ジルボーグZilboorg,G.『医学的心理学史』(1941)(「医学的心理学」というのはフランス語の文脈では「精神医学」のようです)に於いて行った次のような指摘への解答だ、と仰っています。

精神病は一つの身体病であるということを一つの既定の事実として仮定する永い間の学問的態度があった。もう一つ、それほど公然と表明されはしなかった仮定があった。それは「精神病とは何であるか」ということは誰でも知っていることであるし、それは或るはっきりしたものである、という仮説である。それ自体これほどはっきりしていない事柄に関するこの確信は、学問に於いて他に類を見ない謎の現象である。(神谷美恵子訳,みすず書房,1958,336頁)

 これをもう少し砕いて言えば
「精神病」はその内実が何も分かっていないにもかかわらず、何故かその輪郭が文句なしにはっきりしているかのように人々は感じている。これはとても奇妙な現象だ。]というわけです。
 ジルボーグは更に次のように続けています。

狂人は脳を病む者であるとか、変質者であるとか、代謝がすっかり故障しているのだとか、「体質的に劣性」であるとか、いろいろ主張したが、いずれの場合も全く同様に証拠なしに確信していたのであった。モレルは「変質の気味」“taint of degeneration”というものが何であるか自分は知っていると信じて疑わなかったし、クレペリンは早発性痴呆は一つの疾患単位であると確信していた。歴史の各時期に於いて精神病の問題はその時代の精神に応じて解決されたように見える。(神谷美恵子訳,みすず書房,1958,336頁;下線部強調は引用者)

 ここでジルボーグは、主に19世紀の自然科学主義に支配された当時の精神医学者の態度を批判的に述べているのですが、残念な事に21世紀の現在に於いても再び同じ事が言えそうです。

 統合失調症への精神力動的ないしコミュニケーション論的理解やシステム論的社会学的考究が殆ど忘れ去られたかのような今日こんな事を言えば、「時代遅れ」やら「悪しき心理学主義」やらの謗(そし)りを受けるかも知れませんが、「脳病」とは別の見方も可能であることが忘れ去られないように、ささやかながら本HPを立ち上げてみた次第です。

 なお、辻悟先生は私(と他の弟子達)にとっては学恩有る師ですが、このHPを訪問して頂いた方々にまで「先生」という尊称を強要するのもどうかと思われますので、以下の頁では原則として「」とのみ記させて頂き敬語も省略します(先生、ゴメンナサイ m(_ _)m)。

精神医学史概説

このHPの
開設理由を説明させて頂く
為に、精神医学が現在置かれている状況を
もう少し明確化しておきましょう。その為にはまず、
心理社会学的理解
生物医学的理解という
両極の間を揺れ動いてきた精神医学の歴史を
概観しておく必要があります。

精神病患者を
鉄鎖から解放したとして有名な
フランスの
フィリップ・ピネルPinel,P.(1745-1826)
次のように述べています。「悟性の狂いは脳の器質性損傷の産物であり、
したがって、治癒不能と一般に考えられてはいるが、大多数例では解剖学により、
これとは逆の所見が得られている。…協調的性格と温和で
思いやりのある厳格さのもたらす好ましい効果が
経験により常に確かめられている

…一方、大多数の医師が旧弊にとらわれ
多彩となった瀉血法、全身浴法や潅水法(つまり
身体的療法:筆者注)の狭い枠内をいつも歩んでいるだけで、
心理的療法traitement moral(仏語)には殆ど注目することがなかった。」
『精神病に関する医学=哲学論』1800年)

このピネル
眼差しからも窺われるように、
19世紀前半
は、ロマン主義の影響を受け、
moral treatment(これは時に「道徳療法」と訳されていますが、
実際には「精神療法/心理治療」です)が隆盛となります。しかし、ドイツに
ヴィルヘルム・グリージンガーGriesinger,W.(1817-1868)
が現れ、
有名な「全ての精神病は脳病である」というテーゼを発すると、
それが19世紀後半を支配する指導理念となり、
エーミール・クレペリンKraepelin,E.(1856-1926)
引き継がれて行きます。
グリージンガーは実際には
極めてバランスの取れた合理的な見方をしていたようです。
2007年4月に出版された飯田眞/ライナー・テレ編『多次元精神医学』(岩崎学術出版)
に拠りますと、上記の「全ての精神病は脳病である」というテーゼも、
彼の主張の一面を要約したものに過ぎないようです。
例えば、
彼の精神医学に於ける主著
『精神疾患の病理と治療』(1845)には
次のように記されていると言います。[( )内は原著の頁]

「親が子供に対し過度に厳格であったり、冷たく拒否的な態度で接するとか、
絶え間なく心を傷つけたり、屈従させたり、、気持ちを汲んでやらないような場合は、
子供に自然な親しみを伴った感情が発達するのを妨げてしまう。それで
外界との痛ましい葛藤が子供自身に生ずる
」(116頁)
「遥かに多くの場合、神経質の体質は素因をつくるに過ぎず
更にまた別の、実際的な原因が、
その他の身体的な病気であれ、心理的要因であれ、
加わる必要がある。それによってより軽い障害され易さが実際の障害に、
中程度の精神的逸脱がより重篤な病気、本当の脳病になるのである」(120頁)
我々は精神的な原因が最も精神病を起こし易く、数の多い原因だと考える
それは主として病気を直接惹き起こすのに関係すると共に、
病気の準備状態とも関係している
」(126頁)
「精神異常は
一方では多くの症例に於いて純粋に身体的な原因から起こり得るが、
他方では身体的な原因との協働作用のもとで、むしろ精神的な要因が
精神病の発生に主たる役割を担っている
。先天的ないしは後天的な素因も
しばしば考えられるけれども、これはいつも証明されるものではない」(134頁)
[着色及び太字での強調は引用者であるHP開設者による]
他方で、1900年前後に
ジークムント・フロイトFreud,S.(1856-1939)
「精神分析」を創始すると、それは急速に西欧知識人階級に受け容れられ、
更にナチスドイツの迫害を逃れて渡米した多くの精神分析家の活躍で、
20世紀前半力動精神医学全盛となります。
そして更に、
力動精神医学の弁証法的展開
とも言うべき「反精神医学」が登場します。
この「反精神医学」は、力動精神医学の遺産を受け継ぎつつ、
コミュニケーション論システム論文化人類学などの諸成果を参照摂取し、
従来の力動精神医学の「個体病理への還元主義」をラディカルに批判しました。
しかしそれも1970年頃には行き詰まりを呈し、
代わって再び、
「精神病は脳病である」
主張するネオ・クレペリン主義が台頭し、
今日に至っている訳です。

ところが…
1990年前後に合州国では
社会構成主義 social constructionism
と呼ばれる
大きな流れが出現し、ナラティヴ・セラピィ narrative therapy(物語療法)という
新しいコンセプトを提出しています。
「個体が病理を有する」という考え方をしない点で、
これはどうやら、かつての「反精神医学」「恐竜」に喩えると、
それから進化した「鳥類」のようなものの
ようです。

以上が精神医学の
歴史と現在の状況の概略ですが、さて、
筆者の、そしてこのHPのスタンスは?と言いますと、
@「個体の病理」は存在する。     しかし、
A
それは何らかの欠陥や故障と見做される
べきものではない
という、些か
中途半端なものです。
筆者は基本的に
折衷主義は好みませんが、
の問題「脳の病理」に還元してしまう
極端な生物学的個体主義は勿論のこと、
の問題「社会的構成」に還元してしまう
極端な関係論的個体主義にも、
少々難があると思っています。
確かに「現実」というものは
社会的に構成され、
常に
生成流転するものである
と筆者も思いますし、全てを「無常」の相の下に
捉えることは「世界」に対する正しい態度だとも思いますが、
「構造」や「システム」をも物象化の産物としてラディカルに否定し去るというのは、
行き着くところ「主語同一性論理を一切使用しない」という境地であり、
「禅」の修行ならいざ知らず、およそ「認識」というものが
成り立たなくなってしまうでしょう。
例えば
「人間」だって10万年単位で考えれば固定した実体ではなく、
もっとロングスパンで考えれば、ヒマラヤ山脈だって海の中でした。
しかし、では「人間なんて存在しない」「ヒマラヤ山脈は海だ」と
言ってしまえば、公案の答えにはなっても、
実用的ではないでしょう。
要は、
「物象化である」という
ことを弁えつつ、諸「認識」を利用する

というのがここでの筆者の
スタンスなのです。

[補足]精神医学/臨床心理学研究の方法論

―事例研究と実証的研究―

 精神医学/臨床心理学の領域では「実証的研究」は事実上不可能である、と思われます。そう言ってしまうと身も蓋も無いのですが、筆者は近頃はそう考えています。何故でしょうか?
 一口で言えば、対象とする臨床事象が、観察者の関与自体の影響をも含むあまりにも多くの構成要素から成っていて複雑すぎ、しかもその構成要素の多くが直接に目には見えず、数量化することもできないからです。
 それでも無理に「実証的研究」を行おうとしますと、どうしても複雑多岐にわたる構成要素から比較的に客体化し易い幾つかを選び、人為的に測定手続きと尺度を作成して数量化し、それを多数の事例に当て嵌めて統計的に分析分類する、という作業をフィードバックを効かせながら繰り返してその精度を上げていく、といったことになるでしょう。

 筆者は決して、そのようにして得られた知見が全く無意味である、と主張するわけではありませんが、それらはせいぜい、丁寧な事例研究から抽出される命題に関する傍証(あいまいな支持データ)をもたらすにすぎないのです。
 ロールシャッハ研究に於けるサイン・アプローチ(各反応を分類し記号化しつつ、多数のデータを整理し、統計的分析にかけるもの)もそうなのですが、ここではその一例として、臨床的でありながら比較的に実証的方法論にこだわってなされている「愛着 attachment 研究」に触れておきましょう。

 「愛着研究」は元々、精神分析家であったジョン・ボウルビィによって始められたのですが、方法論としては精神分析が事例研究的であるのとは対照的に、実証的であることを重視してきています。そこでは例えば新奇(ストレィンジ)状況(シチュエィション)法」で子供を
「安心しての愛着 securely attached 型」
「不安ながらの愛着 anxiously attached の回避 avoidant 型」
「不安ながらの愛着 anxiously attached の両価 ambivalent/抵抗 resistant 型」
「まとまりや方向性を欠く disorganized/disoriented 型」
に分類し、成人(アダルト)愛着(アタッチメント)面接(インタヴュー)AAI」で大人を
「無頓着 dismissing 型」
「とらわれ preoccupied 型」
「(トラウマの)未解決 unresolved 型」
に分類する、そして両者の関連や、それらと他の要因及び臨床事象との関連の有無強弱を分析する、といった具合です。

 そのような研究から得られた知見には正直のところ予想外の結果はまず無く、当たり前の結論かせいぜい「どちらとも言えない」といったものばかりです。しかも、それらの知見は内的必然性に関しては何も教えてくれません。そこはブラックボックスのままなのです。
 それでも、その当たり前のことを「実証」してくれていることを無意味だと言ってはならないでしょう。それらは、事例研究から抽出された命題の妥当性を間接的にであれ補強してくれているのですから。

 [ 著作権についてのお断り ]

一般に
学術論文は、
著作物としては例外的に
「無断転載を禁ず」とはされていません。
しかし、それでも書籍の形にまとめられると、一応
著作権copyright
は明示されています。
内田樹(たつる)
(神戸女学院大学教授:フランス現代思想)は
2006.10.04の毎日新聞(夕刊)紙上、次のように述べておられます。
作品は作者が
ゼロから作り上げたものであるから、
それを管理する権利も、それから発生する利益を独占する権利も、
それを解釈して最終的意味を確定する権利も、全ては作者に帰属する

という発想が支配的になったのは
ごく最近のことで
ある。

知的創造物に関わる権利が
作者に排他的に帰属する場合よりも

「パブリック・ドメイン」( 著作権が広く一般に開放されている
状態 )の方がそれが人類にもたらす利益は大きいだろうと考える。

人間や世界の成り立ちについて有意な情報を含んでおり、美的価値を通じて
多くの人を癒し励ます力のある作品の複製や頒布に
(経済的利益を独占したいという動機から)
著作権者が制限を加えるということは、
私の目には倒錯したものに
映る。

氏は、最後は慎重に、
著作権保護の問題に「一般解は存在しない」
と述べておられますが、筆者は、氏の上記の所論に基本的に
賛同する者です。無論、このHPの内容が「人間や世界の成り立ちについて
有意な情報を含んで
」いることになるか否かは読者の判断に
お任せするしかありませんが…
筆者の知る限り、
先生も所説の引用について
とやかく言われたことはありません。従って、
HPからの引用・転載等については当面、そうであることを
明示する、という最低限のマナー
を守って頂ければ、特に制限は設けない
ことにしたい、と思っています。[とは言うものの、引用・転載は「元の文脈」から外れることにより、
うっかりすると
筆者達の意図しないメッセージに変貌してしまう危険も考えられます。
従って、引用・転載頂く際には、お手数ですが直近に元のページのURLを
貼り付け、元の記事を参照できるようにして頂きたいと思います
(この部分2007.08.27より実施)。]
( 尚、筆者は法律には疎いので、
将来しかるべき事情が生ずれば、方針を変更させて頂く
ことがあるかも知れません。悪しからず
御了承下さい。)逆に、
他の方々の論文等を筆者自身が
引用・転載等している場合も、できる限りきちんと
そのオリジン(原資料)を明示するよう
努めています。
著作権の中核は「コピーする権利」で、
だから copyright なのだそうです。
著作権者はユーザーに対し、
コピーの禁止や使用料を要求する権利を有するわけです。
因みに、たとえ新聞記事であっても著作権は存在しているようです。
従って、このHPに貼りつけている新聞記事その他の情報に対しても、
著作権を有する新聞記者(或いは新聞社)等の情報発信者が
権利を行使されれば
一定の対応を迫られることになります (- -;)

「やきもの作るんだって、みなコピーさ。
なにかしらコピーでないものはないのだ。但し、
そのどこを狙うかという狙い所、まね所が肝要なのだ」

これはNHK『美の壺』「魯山人の器」(2006年5月12日放送)
紹介された北大路魯山人(1883年3月23日 - 1959年12月21日)の言葉です。

魯山人(本名、房次郎)は京都市上賀茂(現・京都市北区)出身の、
篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など
様々な顔を持っていた、秀でた芸術家です。

かのシェイクスピアモーツァルト
実は先人の作品を参照していて、但し彼らはそれらを
より芸術的価値の高い作品に仕上げたのだ、と言われています。
(この部分、2008年1月1日に記載)

[リンク集]      
お勧めサイト
 ここには、筆者が見つけて感銘を受けたサイトでサイト作成者の許可を得たものを紹介させて頂きます(但し、「リンクフリー」と明示されているサイトに関しては勝手に紹介させt頂くこともあります)。

 『対話の広場』にも来て頂いているイマーゴさんのブログサイトです。当事者及び当事者ご家族の貴重なドキュメントとしても、種々の学びの記録としても、お勧めしたいと思い、イマーゴさんに無理言って正式に紹介させて頂きました。

☆彡HP作りでお世話になったサイト
内容に関して
素材に関して
  • Googleサイト内検索用タグの自動作成ツール
まだ作成中の箇所が多く恐縮です。
随時、完成させアップして行く所存ですので、
時々覗いてみて下さい m(_ _)m


                    
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