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第]V章 「軽度発達障碍」
 このページの内容
0.「軽度発達障碍」という概念群
[補足1]「発達」概念批判について
1.広汎性発達障碍/自閉症
 1)基本障碍論
 2)原因論
 3)こころの鎧モデルから見た広汎性発達障碍/自閉症
[補足2]「もの」と「生き物」と「人」の分化について
2.注意欠陥/多動性障碍
 1)AD/HD「脳器質性障碍」論の功罪
 2)更にラディカルなAD/HD論
3.特異的学習障碍
4.「軽度発達障碍」と「反応性愛着障碍」
 1)「高機能広汎性発達障碍」と「反応性愛着障碍」
 2)ADHDと虐待による多動性行動障碍
5.成長発達に向けて=抱える環境の提供
[薬物療法に関する補足]

0.「軽度発達障碍」(註)という概念群

―とりあえずの整理―


近年、
児童〜青年期の若者と関わる
現場(幼稚園〜大学)でしばしば話題に上り、
マスコミでも不幸な事件絡みで時々取り沙汰されるようになった
「軽度発達障碍」なるものについて、例によって少々大胆な(つまり実証困難な)
仮説を述べてみます。しかしその前に、「軽度発達障碍」という概念の
輪郭と中身をある程度明らかにしておく
必要があるでしょう。


(註)文部科学省初等中等教育局特別支援教育課からの『「発達障害」の用語の使用について』という2007年年3月15日付けの通達の中で、[「軽度発達障害」の表記は、その意味する範囲が必ずしも明確ではないこと等の理由から、今後当課においては原則として使用しない。]とされています。
 長らく筆者には、わざわざこのような断りが為された理由が分かっていませんでしたが、どうも「知的な遅れが無いか、あっても軽い」という意味でつけられた「軽度」という言葉が、たとえ知的な遅れが無くても、社会適応という点では困難さが重篤である、という現実にそぐわない、ということであったようです。
 そうは言っても、「知的障碍」の存在は社会適応を更に困難にするのは明らかのように、筆者には思われます。故に、このHPではこのまま「軽度発達障害」という用語は残しますが、もちろん「知的障碍を伴わない発達障害」と読み替えて頂いて構いません。

 因みに、同通達には[「発達障害」の範囲は、以前から「LDADHD高機能自閉症等」と表現していた障害(これらが「軽度発達障害」とも総称されていました;引用者註)の範囲と比較すると、高機能のみならず自閉症全般を含むなどより広いものとなるが、高機能以外の自閉症者については、以前から、また今後とも特別支援教育の対象であることに変化はない。]とも記されています。要するに、特別支援教育の展開に於いては、知的障碍の有無軽重の区別は必要ない、という観点からの修正のようです。

〔この部分、2009.05.13に追記〕


[補足1]「発達」概念批判について
 筆者はこのHPでも既に「発達」という言葉を些(いささ)か無批判に使用していますが、そもそも「発達」という概念そのものへのラディカルな批判が存在します(例えば、山下恒男『新装版 反発達論――抑圧の人間学からの解放)。
 そのような議論の趣旨はおおよそ、
@「発達」概念は暗黙の内に一定以上の速さを要求している、
A「発達」概念は(もっぱ)社会が求める能力の達成をゴールとしている、
 と言えるかと思います。

 「速さ」と「ゴール」、この両者は決して切り離せるものではありません。例えば@の「発達の速さ」が主として問題とされるのは、いわゆる「知能(知的能力)」の領域だとしても、その「知能」なるものは純粋に生物学的に定義されるものではなく、「知能テスト」として標準化された各項目が規定する能力なわけですから、実は極めて社会的文化的に規定されています。また、Aの「社会が求める能力」として特に問題されるのは(勿論「知的能力」もそうなのですが、それを除けば)社会性(関係性)の領域と言えるでしょうが、これに関してもある程度の達成速度が求められることは言うまでもありません。
 要するに、従来の「発達」概念は、「速さ」にしても「ゴール」にしても社会的文化的要請に過ぎないものを生物学的必然性であるかのように装い、それに満たない者を個体生物学的「障碍者」として抑圧排除してきた、ということです。
 実は、「統合失調症」を巡る反精神医学的主張もこれと同型の議論でした。

 しかしながら、人間が胎内に生を受けてから死ぬまでの間に大きな変化を遂げることは紛れもない事実であり、それを「発達」という言葉を全く使わずに語ることもかなり不自然なことではあります。そこでは私達は、「人間の発達」というものが生物学的自然に専(もっぱ)ら規定された概念ではなく、勝(すぐ)れて社会的文化的に規定された概念なのだ、ということを改めて確認した上で、引き続き使用して行きたいと思います。


〈アスペルガー症候群/児童精神医学〉論文集,星和書店,2001
に拠れば、各概念間の関係は
次のようになっています。


1)自閉症は現在「対人関係障碍」「コミュニケーション障碍」「儀式的常同的反復的行動」の3領域の障碍を併せ持つ症候群であると考えられている。
 自閉症児
   @ 具体的な目に見える明示的な情報は十分に処理できる、
   A 脈絡や布置は無視する傾向にある、
   B 情報を統合して認識したり利用するのが困難である(下註)
   C 明示的でない情報を処理することが困難である(下註)
   といった特徴を持つ。
[日本語で「困難である」と言うと「不可能である」という意味に限りなく近く、「固定化した絶対的障碍」という印象を与えますが、本当にそうなのかどうかは誰にも分からないので、「苦手である」と言っておく方がよいのではないかと思われます;筆者註]
 幼児期自閉症に見られる主な症状は
決して彼らのみに見られる異常現象ではなく、 子供の通常の発達の中で、一時的には少なからず認められるものであって、これらの特徴的な行動が固定化し、成長過程で消退しないところに最大の問題がある。

2)AS(アスペルガー症候群)は最も高機能のPDD(広汎性発達障害=広義自閉症)である。[ここで「高機能」というのは概ね「知能が低くない〜高い」という意味です。言語機能に大きな問題を持たないのが特徴のようです:筆者註]
 ASを有する人達の困難性の基盤は、恐らく生涯に亘って持続する対人関係・社会性の障害であり、それに次ぐのは執着的・強迫的傾向と症状である。

3)AS(アスペルガー症候群)HFA(高機能自閉症)
 AS
高機能の自閉症特定不能のPDD(或は非定型自閉症)との鑑別は、横断面の症状を見ていただけでは不可能であり、幼児期に言語・認知能力の発達に遅れが無いことを確認する必要がある。
 ASに於ける協調運動の拙劣さは、ASHFAとを区別する指標の一つである。

4)AS(アスペルガー症候群)LD(学習障碍)AD/HD(注意欠陥/多動性障碍)
 AS
をその認知、神経心理学的側面から見るとLDADHDである。
 ASLDの一亜型、即ち、非言語性学習障碍と見做せる。
 自閉性スペクトラム障碍という広範な範疇の端っこの方に、自閉性という観点で見ればほんの少しの自閉性しか有しない子供で、LDADHDと見做し得る子供が大勢いる。
5)AS(アスペルガー症候群)パーソナリティ障碍
 AS
スキゾタイパルパーソナリティ障碍スキゾイドパーソナリティ障碍と近縁性があるということは、発達経過を追った縦断研究からも横断的な症状比較研究などによっても示されている。[これについての筆者の見解は『治療論』にあります。]

 さて、[補足1]でも触れましたが、人間の発達に関して私達は、大きく二つの軸を想定することができそうです。一つは「知的な発達」で、もう一つは「関係性の発達」です(関係性の発達に関しては、裏のページ『ライフ・サイクルと臨床的諸問題』に於いてある程度触れています)。
 この二つの軸を参照して、上記の「発達障碍」諸概念を整理すると、概ね表1のようになるでしょう。参考までに、思春期以降を対象とした伝統的諸概念を同じ観点から整理したものを表2として掲げますが、勿論表1の各カテゴリィに当て嵌まっていた子供がそのまま成長に伴って表2の同じ場所の各カテゴリィに移行するという意味では決してありません


 表1.「軽度発達障碍」に含まれる諸概念の関係
軽度発達障碍
広汎性発達障碍 特異的発達障碍
軽度
発達
障碍
高知能 アスペルガー障碍 注意欠陥/多動性障碍
[衝動制御の遅れ]
学習障碍
[特異的能力の遅れ]
「正常」
標準知能
高機能自閉症
境界知能
軽度〜最重度
遅延
自閉症 自閉症以外の「精神遅滞」
知的能力
関係性
未発達
(1者〜1.5者水準)
排他的2者水準 3者水準以上

 表2.成人(思春期以降)を対象とした伝統的諸概念の関係
高知能 精神病 境界例
(パーソナリティ障碍)
神経症 「正常」
標準知能
境界知能
軽度〜最重度
遅延
(接枝分裂病) 「精神遅滞」
知的能力
関係性
未発達
(1者〜1.5者水準)
排他的2者水準 3者水準以上
   [註]この表で「精神病」と言っているのは、その極期(≒緊張病状態)に限定したものです。

 このように、
特に
自閉症的特徴が顕著で、
かつ明らかな
精神遅滞(=知的障碍)を伴わない
「アスペルガー障碍(症候群)」Asperger's syndrome AS
「高機能自閉症」high functioning autism HFAを併せたものが
「高機能広汎性発達障碍」high functioning
pervasive developmental disorder HPDD
と呼ばれ、
(正確にはこれにNOS(not otherwise specified)つまり
「特定不能のもの」も含まれますが、このカテゴリィには
概念を拡散させるとして批判的な意見もあります)

これに更に
「注意欠陥/多動性障碍」
a
ttention deficit/hyperactivity disorder AD/HD

「学習技能に関する特異的発達障碍」specific developmental disorders
of scholastic skills
「(特異的)学習障碍」learning disorders LD
加えたものが(文部科学省の発案で)軽度発達障碍と呼ばれ、

更に
「自閉症」autismを含む
「精神遅滞」mental retardation MRを加えて
発達障碍とされているようです。

 また、
英国由来の
自閉症軽度発達障碍
自閉性スペクトラム障碍とする捉え方も
一般化しつつあるようです。

 尚、この分野で著名な杉山登志郎氏は、「幼児期から追跡を行ってきた児童に関して、自閉症アスペルガー症候群との間に差があるのか否かについてさまざまな検討を行ってきたが、両者に決定的な差は認められなかった」「このため、下位群にこだわるよりも、知的な遅れのない広汎性発達障碍として一括して扱うほうが臨床的に有用と考えてきた」と述べています。

註:特異的発達障碍には、実はいわゆる学習障碍の他にも、発話speechと言語機能languageにまつわる「コミュニケーション障碍」communication disorders、協調運動が拙劣な「運動技能障碍」motor skills disordersがありますが、これらは独立した「特異的発達障害」としては何故か余り注目されず、むしろ広汎性発達障碍の部分症状という位置づけをされているようです。



 1.広汎性発達障碍自閉症

 これは、@対人場面に於ける関係性の持てなさ或いは不自然さ、Aコミュニケーションに於ける言葉の綾(あや)の伝わり難さや字義どおりの解釈、Bひどく極端なこだわり、など「自閉症」を示唆する諸特徴を有する一群を指し、その内の知的遅れがほぼ見られない群を特に「高機能広汎性発達障碍」HPDDと呼んでいることは上に述べたとおりです。

 
1)基本障碍論

 「自閉症」を特徴づけている基本的障害に関しては、
@「早過ぎる外傷的分離性から自己を防衛する為に形成された自閉の殻」とする精神分析的理解(
フランセス・タスティンら)から、
A「『心の理論』が獲得されていないこと」とする有名な認知発達障害説(
レスリー,バロン=コーエンら)を経て、最近では
B「対
関係を相互主体的なものとして経験できないこと」とする対人関係性の障害(R.ピーター・ホブソン)という形にまとめられているようです。
 そこでは、
関係性は比較的保たれていますが、恐らくは対関係性の未発達のせいで、刺激フィルターが形成されず過剰な刺激に曝され続けて、しばしば過剰覚醒状態にある、と考えられています。

 更に突っ込んだ議論につきましては、
裏のページ『精神科疾患論』第0節の
[哲学的補足1]をご参照下さい。



 2)広汎性発達障碍自閉症原因論
 原因について下記のように様々な事が言われていますが、まだはっきりした事は分かっていません(この辺の事情は「統合失調症」などとも全く同じです)。
@ 遺伝的素因?
A 周産期異常⇒微細脳損傷 minimal brain damage(MBD)?
B 早期養育環境との不適合による偽性適応 pseudo-adaptation または防衛的適応 defensive adaptation

 

 しかし、そもそも発達の偏位に常に一定の「原因」を想定すべきかどうか、考えものです。人間の発達というものには実に多くの要因が関与していますから、その達成度は知能をとっても関係性をとっても正規分布様の連続的な分布をなしているでしょう。つまり、最初に掲げた表1のようにはクリアカットに区分できないのです。それは丁度、「足の速い遅い」に絶対的区分が存在しないのと同じです。



 3)「こころの(よろい)モデルから見た
 
パーソナリティ障碍広汎性発達障碍自閉症
2者関係適応的「こころの鎧」
         思春期青年期発症
         
⇒「パーソナリティ障碍
           
精神病
 母子(養育者-子供)というの二者関係の中で獲得された「こころの鎧」は思春期青年期にその課題に対応できず、「パーソナリティ障碍」「精神病」と呼ばれる問題を呈すると考えられます。
1.5者こころの鎧」
        
幼児期発症
        
⇒「広汎性発達障碍自閉症
(人)ではなく、(人)の関係水準でしか形成されなかった「こころの鎧」は二者関係に適応したそれよりも更に性能が限られていますので、幼児期に既にして問題を呈し、「発達障碍」と呼ばれる、と考えられます。
[補足2]「物」「生き物」「人」分化について
通常、原初的な心性に於いては[全ての「物」には生命こころが宿っている]と見做す「アニミズム」と呼ばれる捉え方が行われているとされています。恐らくそれは、幼児が直接に体験しているものを物的対象に投げ入れること(投影/投影同一化)によるものでしょう。それ故に当然の事ながら、そこに宿るとされる生命こころは、あくまでも「ヒューマンな」ものであるでしょう。

 
私達自身を振り返っても分かることですが、この[全ての「物」には生命こころが宿っている]という捉え方は何も幼児や原始宗教に限らず、例えば「針供養」などの行事にも反映されていますし、そこまでしなくても、長年慣れ親しんだ道具に愛着が生じて容易には捨て難いといった経験は珍しいものではないでしょう。

  
しかし、統合失調症の深達的精神分析治療に取り組んだハロルド・サールズはまた、患者の心の中に(そして私達の心性の最奥部にも)逆に「ノンヒューマンな物」つまり「(人間的)生命が宿っていると見做されていないもの」への同一化が存在することをも見出しています。

  最も原初的な心性(
原体験心性)に於いては、「物」「生き物」「人」の区別は未だ成立していないと考えるのが自然でしょう。お馴染みのウィニコットの所論を参照すれば、外在物体はまず[自分であると同時に自分でないもの]という「移行対象」として発見されます。この時点で、先の「投影/投影同一化」を通して[その「物」と十分に交流すること]が、後の[全ての「物」には生命こころが宿っている]という捉え方アニミズム)を準備するのかも知れません。そして通常の発達に於いては、未分化な対象体験はまずは一旦[全ての「物」には生命こころが宿っている]という捉え方(アニミズム)の方に振れ、その後に徐々に「無生物」「生物」「人間以外の生物」「人間」というように分化し区別されて行くようです。
  そうだとすると、「
広汎性発達障碍自閉症」の場合は、何らかの事情に因って、「投影/投影同一化」を通して移行対象と十分に交流すること]によるこの最初の「アニミズム化」がうまく成立しなかった、と考えることができそうです。

 ここからは私達の想像力が試されます。
 もしもそのようにして移行対象と十分に交流すること]が成立しなかったとすれば、その時ヒトの仔はどうせざるを得ないでしょうか?筆者が想像するには、その仔にとって外界は永遠に「馴染みの無い、不案内なもの」に留まります。その仔にとっては「今ここ」の具体的体験が頼りにできる全てであり、「今ここ」に無いものを別の対象の内に仮託することもできません。つまり、『快感原則の彼岸』に於いて
フロイトが考察した、彼の甥の「糸車遊び」も成立しないのです。従って抽象化(象徴化)は達成されず、対象関係はあくまでも具象的即物的な「物との関係」以上には発展して行かないわけです。


2.注意欠陥/多動性障碍

 これは、1930年代のminimal brain damage(微細脳損傷)、1960年代のminimal brain dysfunction(微細脳機能障碍)を経て不死鳥のように蘇(よみがえ)った概念です。「ありもしない」と言っては語弊があるかも知れませんが、想定されただけで確認されなかった「微細な」障碍の存在が、またまた「推定されている」のです。
1968年DSM-U⇒hyperkinetic reaction of childhood(小児多動反応)、
1980年DSM-V⇒attention deficit disorder+or-hyperactivity(注意欠陥障碍±多動)、
1987年DSM-V-R⇒attention deficit hyperactivity disorder(注意欠陥多動性障碍)、
1994年DSM-W⇒attention deficit/hyperactivity disorder(注意欠陥/多動性障碍)

〔Wikipediaによる、より中立的な情報はここにあります。〕

1)AD/HD脳器質性の発達障碍と言うこと不思議とその功罪

 AD/HDも近年『のび太・ジャイアン症候群』(司馬理英子著)等で紹介され、また「学級崩壊」の引鉄(ひきがね)になる存在として注目されたりもしました。当時のNHKの特集で、アメリカの子供の50人に一人が、AD/HDに有効とされているmethylphenidate(商品名リタリン)という覚醒剤に類似した薬物を服用している、と紹介されていたのは衝撃的でした。
 [
AD/HDは@不注意、A多動性、B衝動性、という行動特性を3主徴とする発達障碍である]とされ、更にADHDは、神経生物学的障碍であり軽度発達障碍として理解すべきものである]田中康雄「ADHDの診断と治療」『臨床精神医学』2002年第31巻第9号)ADDADHD脳器質性の発達障碍なのである市橋秀夫「成人におけるADD,ADHD 特集にあたって」『精神科治療学』第19巻第4号2004年4月)と断じられていますが、筆者は実は2007年8月時点で、このような意味でのADDAD/HDという概念の妥当性には疑問を抱いています(註:ADDというのは「注意欠陥障碍」attention deficit disorderで、AD/HDの亜種のようなものです)。
 実は田中氏は同じ論文で市川宏伸「ADHDへの臨床研究総論」(中根晃編『ADHD臨床ハンドブック』金剛出版,2001年)を引いて[現在、
AD/HDは中枢神経系の発達のアンバランス(神経生物学的障碍)という見解が広く認知されているが、原因の特定は困難「原因にいかに近づくか」の段階にあると言える](田中康雄「ADHDの診断と治療」『臨床精神医学』2002年第31巻第9号)とも述べておられますが、それにもかかわらず市橋氏のように「脳器質性の発達障碍なのである」(先述)と断じられているのは大変奇妙な事ではないでしょうか。
 このような事情は「統合失調症」の場合と全く同じで、は恐らくその事から、「発達障碍」という概念にも強い懸念を表明しています。

 しかし筆者は、AD/HDを「脳器質性の発達障碍」と言うことには臨床上一定のメリットが存在することも認めざるを得ない、とも感じています。何故なら、この脳器質性の発達障碍という規定は意外に当人に受け容れ易く脱落意識には結びつき難いようで、しかも生活上とかく不都合とされ易いその行動特性を脳器質性の発達障碍と規定することで、クライエント(或いは児童)を有害無益非難叱責から守ることができるからです。
 しかし、それはデメリットと表裏を成しています。そしてそれは、そのようにして不都合な行動特性が免責されてしまうことが喧伝されることで、過剰な「自己診断」が横行しつつあることにも現れていると思います。


2)更にラディカルなAD/HD

 今までのところ多くの論者は、ADDAD/HDに関して、特異的なADDAD/HD的素因としての神経生物学的障害の先在を仮定しています。しかし筆者は、仮に何か存在するにしても、それだけでは決してADDAD/HDとして結実しない非特異的な素因に過ぎないのではないかと思います。
 人間のは大きな潜在的発達能力と可塑性を具え持つ上に、先天的/後天的を問わず、物理的、生物学的、心理社会的諸環境の中でそれら諸次元との相互作用の中で発達するものですから、後年AD/HDなる状態が発現したとしても、その第一義的要因を先在する特異的な神経生物学的障碍と断ずる根拠は何処にも無いと思います。

〔Wikipediaによる、より中立的な情報はここにあります。〕


3.特異的学習障碍

 昔から本邦でも「読み書き算盤(そろばん)」と言って、字の読み書きと計算能力は学習技能の基本と見做されて来ました。ところが、知能検査上全般的な遅れは無いものの、字の読み書き或いは計算が特異的選択的に極端に困難な人々が見出され、「(特異的)学習障碍」と総称されるようになって今に至っています。


[註]learning disorderlearning disability
 
「学習障碍」という術語には、上記のlearning disorderと、文部省(当時)が1999年に定義したlearning disabilityとがあるのですが、後者は「聴く、話すa)読む、書く、計算するb)または推論するc)能力の内の特定のものの習得と使用に著しい困難を示すもの」とされていて、b)の「学習障碍」の他にa)の「コミュニケーション障碍」、更にc)の広汎性発達障碍を思わせるような特徴を持った一群をも含んでいます。


4.「軽度発達障碍」

「反応性愛着障碍」

〔この部分2009.11.03〕

 発達障碍の臨床と研究に長年従事されている杉山登志郎氏は、愛着障碍の抑制型は広汎性発達障碍に非常に類似しており」「脱抑制型はADHDによく似ている」と指摘されています(『発達障碍の子どもたち』151頁)。

1)高機能広汎性発達障碍反応性愛着障碍

 杉山登志郎氏は、高機能広汎性発達障碍反応性愛着障碍か診断に迷った症例では「治療を行いながらフォローアップをすると、反応性愛着障碍の場合は対人関係の在り方が著しく変化して行く」「特に入院治療によって集中的なケアを行うと鑑別はより容易となった」とも述べられています(同書152頁)。

 他方で同氏は、「一般的な家庭で生じたネグレクトのレヴェルでは、広汎性発達障碍との鑑別が問題となるような愛着障碍は生じない」とも記されています(同書152頁)が、鑑別困難だったケースの殆どが里親養育か児童養護施設入所児であり、家庭に育った子も非常に激しい虐待ネグレクトかその両者を受けていたことをその根拠とされています(同書152頁)。
 この記述は同書が一般読者向けのものであることからの配慮かも知れませんが、そのまま読めば、里親養育や児童養護施設での養育が「一般的な家庭で生じたネグレクトのレヴェル」とは違って「非常に激しい虐待ネグレクトかその両者」に匹敵するとも取れてしまいます。勿論著者の意図はそのような処には無いでしょう。実際には里親養育や児童養護施設での養育にも大きな幅があるのと同様に、「一般的な家庭」での養育にも大きな幅があると考えるべきです。だとすれば最早、「一般的な家庭で生じたネグレクトのレヴェルでは、広汎性発達障碍との鑑別が問題となるような愛着障碍は生じない」とは言えなくなります。

 児童期に治療の場を訪れたケースに関しては、冒頭に紹介しましたような鑑別法が恐らく可能でしょう。しかし、思春期以後に臨床の場に現れたケースに関してはどうでしょうか。たとえ反応性愛着障碍の場合でも、その広汎性発達障碍様パターンはある程度固定してしまっているのではないでしょうか。本人や家族から子供時代の「激しい虐待ネグレクトかその両者」の存在が証言されることもあるでしょうが、そういった証言が必ず得られるとも限りませんし、客観性に問題があることも少なくありません。
 故に、思春期以降のケースに関しては、両者の鑑別は一層困難となるでしょう。だとすれば、私達は思春期以降の広汎性発達障碍様パターンを見た場合、主に先天的要因による仮想的な一次性広汎性発達障碍と、反応性愛着障碍による二次性広汎性発達障碍のいずれの可能性をも視野に入れておく必要がありそうです。

2)ADHD虐待による多動性行動障碍

 同氏はまた、本来のAH/HDの他に、虐待によるAD/HD様症状(多動性行動障碍)があることを認めておられます。AD/HD虐待を誘発し易い、という事情とは別に、です。その上で、両者の違いにまで触れておられます(『発達障碍の子どもたち』159-160頁)。
 同氏によれば、虐待によるAD/HD様症状は、

@症状に日内変動が大きいこと(鬱病のように夕方〜夜にテンションが上がる)、
A対人関係が単純率直ではない、そして
B困難に直面すると朦朧となったり記憶がとぶ等の解離症状が見られる、

といった点で、本来のAD/HDとは異なり、薬剤反応性も異なる(本来のAH/HDでは覚醒剤系の中枢神経刺激剤が第一選択であるのに対して、虐待由来のAH/HD様症状では中枢神経刺激剤は無効で、少量のSSRI非定型抗精神病薬のカクテルがしばしば有効)とのことです。
 ここまできちんと指摘されますと、AD/HDを仮想的な「本来のAH/HD虐待由来のAH/HD様症状とに論じ分けざるを得ないように思われます。
 杉山氏はあくまでもAH/HDという概念を仮想的な「本来のAH/HDの為にとっておられますので、虐待由来の方はAD/HD様症状と表現されています。しかし、現時点で実際に両者を明確に区別しておられるのは恐らく同氏くらいのもので、一般には両者共に「AH/HD」と診断されているように思われます。故に、ここでも両者をそれぞれ一次性AD/HD二次性AD/HDとしておきましょう。


5.成長発達に向けて
      =
抱える環境の提供

 結局のところ「統合失調症」と同じく、こころの発達にとってよさそうなできる限りの事をするしかないのであって、そうすると、このHPで紹介している治療論と別のものは何も無い、ということになるでしょう。「治療強迫」に陥って「角を()めて牛を殺す」ようなことにならないよう注意すべきことも、他の病態に対する場合と同じです。
 いわゆる中核群(典型例)に関しては、何か生物学的な発達制限要因が存在している印象も拭い難いところですが、そうではなく成育環境要因が主だったとしても、「だから治療的関与によって速やかに治せる」とは限りません(そもそも多くの精神疾患が「速やかに」は治せません)。

 そのように考える時、「発達障碍」を有する子供達に提供すべき「抱える環境」としては、

@個別に肌理(きめ)細かな学習指導が可能で、
A「いじめ」等による二次的障碍を予防でき、
B子供が安心し、かつ自尊心を持てるような環境

ということになるでしょう。
 先に紹介しました杉山登志郎氏は、児童期の場合、何よりも子供が授業に参加できるかどうかを基準に学校/学級を選ぶべきだ、と指摘されています(『発達障害の子どもたち』196-197頁)。



薬物療法に関する補足]

薬物療法について、少し補足しておきます。

出典は、
(内山登紀夫・水野薫・吉田友子編
『高機能自閉症・アスペルガー症候群入門』46頁「薬物療法」,
中央法規出版,2002)です。


自閉症を根本から「治癒」させるものではありません。
しかし、他の療養的働き掛けと並行して
薬物療法を行うことで、
指導をし易くしたり、指導の効果を上げたり、本人の苦痛を緩和したり
できる場合があります。

の効き目は
一時的なものであるにせよ、
が効いている間に本人が学んだ事は、
が切れた後で消えてしまうわけではありません。
か療養かと二律背反的に考えるのではなく、
の長所と短所を正しく理解した上で、
選ぶ事のできる選択肢として
持っておくというのが、
現実的な考え方では
ないでしょうか。

確かに
には
副作用があります。

使わずに済むならば使わない
にこしたことはありません。ただ、使った場合の
プラス面が副作用などのマイナス面を上回ると考えられる
場合には、効果の限界を弁えながら、慎重に使っても
良いのではないかと考えます。

とても興味深い事に、
ここに引用した叙述は、まさに筆者が
「統合失調症」「パーソナリティ障碍」の患者さんに
お話している事柄です
!!!
しかし
上の記述はあくまでも
高機能自閉症アスペルガー症候群の方々や援助者に向けて
なされています。
正統的精神医学に於いては
「統合失調症」「パーソナリティ障碍」の患者さん向けには
何故かこうは語られないのです。
面白い現象でしょ?
(^ ^;)

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