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1.概念
皆さんは恐らく、鬱というと「気分の落ち込み」のことだと思っておられるでしょう。アメリカ精神医学会発行の『精神障碍の診断と統計の手引き(第4版)(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, DSM-Ⅳ)』に「気分障碍(mood disorder)」という病名が採用されていることにも表れていますように、少なからぬ精神科医もそう考えていると思います。そして、気分の落ち込みを示す人々に様々な薬を試してみることになります。
気分というものは非常に単純なもので、ちょっとした出来事でも大きく変わることがありますし、食べ物や雰囲気によってさえ変わることもあります。何よりも元々波のあるものです。ですから、薬をのんで気分が良くなったとしても不思議はありません。そして、もしそうなれば通常「治った」ということになります。
しかし、それは実は間違いです。「鬱」で本当に問題なのは「気分の落ち込み」そのものではなくて、本来自然な「気分の落ち込み」を「あってはならない異常な事」と見做すことです(下図)。
2.本質
では、どうして本来自然な「気分の落ち込み」を「あってはならない異常な事」と見做してしまうのでしょうか?
1)目に見えるものはいつか失われる
結論を先に言えば、それはまず一つには「目に見えない心というものの働きを見ること(感じ取ること)がうまくいかない」からです。
ですから、鬱は次の二つの単純な真実に関わっているとも言えます。
① 目に見えるものはいつか失われる
② 目に見えないものは失われることはない
「目に見えない心というものの働きを見ること(感じ取ること)がうまくいかない」ということは同時に、その中で働いている主体としての「自分」が見えていない(感じ取れていない)ということでもあります。「これが自分だ」と納得することができる自分がいない(または、そういう自分に出会えなかった)ということです。
精神分析の創始者フロイトFreud,S.は、通常の悲哀とメランコリィ(古典的な鬱病)を比較して、通常の悲哀が実在の大切な人や物を失った時に見られるのに対して、メランコリィの場合には失われた対象が外部には見当たらない、という観察を残しています。それは、そこで失われた(と信じられている)のが他ならぬ「自分」(の幻想=自己愛幻想)だからです。
2)ネガティヴな体験は即、排除
もう一つの要因は、「ネガティヴな体験は即、排除する」という原体験心性の特性にあります。
何かポジティヴな体験を失う、ということは、ネガティヴな体験です。「これが自分だ」という体験は無論ポジティヴな体験です。逆に、そのような体験を失うことはネガティヴな体験です。故に、その体験は排除の対象となります。そして、具体的には「異常なもの」と位置づけられ「病気」として、自己本来の在り方とは無縁のものとして排除されるのです。
3.誘因
「うつ」という気分を齎す事態には、大きく見て三種類ありそうです。
1)喪失感
一つは、人が自分の大切な一部或いは「自分そのもの」と感じているもの(日本語で「こころの支え」と表現される人物、品物、状況etc.で、米国の精神分析的自己心理学の創始者コフートKohut,H.は「自己対象」と呼びました)を失ったと感じた時に自然に生ずる喪失感です(⇒悲哀の過程)。
失われるものは全て「目に見えるもの」ですが、主体としての「自分」の成立が不十分であればあるほど、その失ったものと自分との原体験的融合合一感は強いです。それ故、それを失うことは端的に「自分自身の喪失」と感じられてしまいます。
2)挫折感
もう一つは、物事が自分の思うように進まなかった時に当然体験する挫折感です。これは「何でも思うようになる」という原始的受動的万能感を有する未熟な自己愛(=原体験幻想)にとって、手酷い痛手です。故に、これは例外無く辛く苦痛な事態なので、直ちに原心性の「ネガティヴ即異常即忌避排除」という特性に従って「あってはならない異常な事」とされてしまいます。
その時にその辛く苦痛な「気持ち」を持っている「主体」としての自分の方が大きい存在であることに気づけなければむしろその「気持ち」の方に支配され、更に今度は「そのような体験」と「その体験をしている自分」との区別の無い原体験の構造に基いて、「そうなっている自分はもうダメだ=自分が失われてしまった」という発想に至るわけです。
3)破滅感
三つ目は、周囲の期待や役割に過剰適応し、それが周囲から一定の評価を受けることで、専らそこに自分を定位してしまっている場合です。この場合、かつてユンクJung,C.G.が「ペルソナ」と呼びウィニコットWinnicott,D.W.が「偽りの自己」と呼んだ部分が自己そのものと同一視されています。ドイツのテレンバッハという学者が「メランコリィ性格 typus melancholicus」と言い、クラウスという学者が「役割同一性 Rolenidentität 」と言った事態です。
「ペルソナ」や「偽りの自己」は一見健康な「自己」と変わり無くもみえますが、実は原体験心性の傀儡に過ぎません。本来の自分は実は相当以前から失われていると言ってよいでしょう。
しかし、「ペルソナ」や「偽りの自己」が有効に機能している間は、本来の自己が既に失われていることに誰も(当の本人さえも!)気づきません。その事実に気づかれるのは、その「ペルソナ」や「偽りの自己」がもはや通用しなくなる局面に於いてです。従ってそれは、本来の自分を再発見するべき時でもあるのですが、残念なことに「失われたもの(=「ペルソナ」や「偽りの自己」)」の方にばかり注意が向いてしまいます。
4.鬱の深層―原初的無力感/罪悪感―
鬱に於いて顕著に見られるのは、未だ原体験的原始万能感の内にあった頃からの「周囲を幸せにすることができなかった」という、恐らくは程度の差はあれ万人に存在するであろう「半幻想(半ば幻想で半ば現実)的無力感/罪悪感」です。
通常は深く抑圧されていますが、上記三つのいずれの場合にもしばしば賦活され活性化されています。
5.様々な鬱
鬱というものは以上のような共通の構造を持っています。しかし、そこで「自分」と見なされているものには、その人の年齢などによっていくつかのタイプがあります。
1)乳幼児・児童期の場合:子供の場合には「自分」は「本来の(暖かい)養育環境(親や家庭)」とセットになっています。従って、何らかの事情で「暖かい養育環境(親や家庭)」が失われた時、子供は鬱(うつ)を示します。
ルネ・スピッツSpitz,R.A.は、生後約半年まで満足な母子関係を持つことのできた乳児が母親的養育環境から引き離された場合に示す状態を特に「依存性抑鬱」anaclitic depressionと呼びました。
2)思春期青年期の場合:この場合の「自分」は、それまでの「問題を感じなかった状態」といった程度のものです。思春期青年期にはまさに「自分」とは何者か、人生にどう取り組むのかが問われてきます。その時にそれまでの「問題を感じなかった状態」は失われるのです。
「問題を感じない状態」を維持するために、感じる主体としての自分というものを作らないで来ている度合いが大きければ(つまり「心の鎧」による防衛false self defenseが強固であればあるほど)、この時期に来て自分を空虚に感じ、それが更に疎外感や異常意識(そういう自分を「異常だ」と思う意識)と結びついて「うつ」を呈します。そしてまた「そのような自分を消してしまいたい」と望むのです。
一昔前(より正確には1960年代なので四昔前?)には「ステューデント・アパシィ」student apathyという言葉がありました。それは当時、学生にしばしば見られた無気力状態を表していて、エリクソンErikson,E.H.の考察による「同一性拡散」identity diffusionという概念を用いて説明されていました。昨今は何でもかんでも「うつ」で済ませてしまう傾向にありますが、如何なものでしょうかネ (^ ^;)
[補足1]「新型うつ」?
筆者が精神科医になった頃、「うつ」は、精神病としての「鬱病」と神経症としての「抑鬱神経症/神経症性抑鬱」の二つに大別されていました。
この内、神経症としての「うつ」は、神経症概念そのものが解体されてゆく中で雲散霧消してしまいました。替わって登場したのが「新型うつ」「ディスチミア」などとも呼ばれている、「パーソナリティ障碍」或いは「(広義)被虐待児症候群」「複雑性PTSD」「愛着障碍」をベースに発症する「うつ」です(表1参照)。
表1.「うつ」の分類
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メランコリィ
Melancholia |
ディスチミア
Dysthymia |
健康な抑鬱 |
| 特徴 |
非現実的な
否定的確信 |
自己消去願望
と状況主導 |
喪の作業 |
| 水準 |
精神病水準 |
パーソナリティ
障碍水準 |
健康 |
| 薬剤選択 |
旧世代抗鬱薬
三環系/四環系 |
SSRI
SNRI |
? |
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1)メランコリィMelancholie/Melancholia(精神病としての「鬱病」)
かつて「うつ」と言えば、このメランコリィを指していました。中高年で発症し、精神運動制止(何もできなくなること)が強く、食事も摂らず寝たきりとなってしまう、或いは罪業妄想/貧困妄想/心気妄想などに支配されている状態です。多くの場合、入院されても数ヶ月は抑鬱状態が続きます。また、少し回復しつつあるところで自殺のリスクが高まります。
通常の了解範囲を超えて現実から著しく遊離してしまうという意味で「精神病圏の抑鬱」と言え、ドイツ精神医学の伝統でも内因性精神病の中に数え入れられていました。
いわゆる旧世代の抗鬱薬(三環系/四環系)は、この内因性の鬱にこそ効く、と考えられていました(勿論、事はそう簡単ではありませんが…)。
2)ディスチミアDysthymia/反復性鬱病性障碍recurrent depressive disorder
ディスチミアの方は「気分変調症」などと訳されていますが、近年とみに増加している、と諸家によって指摘されていて、「新型うつ病」などとも呼ばれています。思春期青年期から発症し、希死念慮、自殺企図などの自己消去願望が強く、意欲低下、拒食傾向、好褥傾向も見られる状態です。また、外的条件に左右され易く、入院されるとすぐに活動的になられたりすることも少なくありません。
反復性鬱病性障碍の方は直訳すれば「反復性抑鬱症」なのですが、何故かわざわざ訳語に「鬱病」という文言を入れてくれています。そのお蔭で上記のメランコリィ型鬱病との区別が曖昧になっていて、診断書を書く時には(ややこしい説明を省けて)とても助かります (^_^;)
いずれにしましても、辛い気持ちや淋しさを抱える自己が十分に獲得されておらず、比較的長期に亘って抑鬱状態が反復的に見られるという意味で、「パーソナリティ障碍圏の抑鬱」と言えます。
いわゆる新世代の抗鬱薬(SSRI/SNRI)は「このような抑鬱にこそ有効だ」と大々的に喧伝されてきましたが、ようやく最近になって、抗鬱薬偏重の治療の弊害に気づかれるようになってきています。
3)健康な抑鬱
通常の「悲哀の過程mourning process/喪の作業mourning work」であり、愛する者との死別や身体機能/財産の喪失など、一般に落ち込んでしかるべき事情によって生じます。一定期間の落ち込みを経て、喪失は受容されます。そうして必ず立ち直ってくる、という意味で「健康な抑鬱」と言えます。
故にこれらは、従来は治療に馴染まないものだった筈なのですが、最近ではこれらでさえも専門家のサポート/ケアを要する場合が少なくないようです。
3)壮年期思秋期の場合:この年代には、それまで良好だった体力や体調が下降線に転じて来ます。従って、体力や体調など具体的なものを頼りにして、専らその良好さに「自分」を感じていた人の場合、否応無く「自分」が無くなって行くと感じ取らされます。そのようにして「壮健な自分」が失われたと感じると、「更年期鬱病」などと呼ばれる事態に陥ったりもします。
もう一つこの年代に多いのは、職場に過剰に適応して燃え尽きたようになってしまう「消耗抑鬱」Erschöpfungsdepressionです。この時に失われるのは「周囲の期待に応え続ける優等生の自分」でしょうか。
4)向老期初老期の場合:この時期には自分の人生の大まかな見当もついてきて、若い時のような「人生の可能性」が失われ、それを受け容れるのか否かも問われてきます。「退行期鬱病」involutional melancholia「初老期鬱病」presenile depressionなどと呼ばれます。
なお、この喪失感を精神的次元の事象(心の中のこと)と正しく見て取ることができないと、身体の健康が害されていると確信したり(心気妄想)、自分が我が身のように大切に思っているモノ(着物やお金)が盗られていると確信したり(物盗られ妄想)馴染んでいる住空間に何者かが侵入している(この場合は部屋の中の微細な変化が「根拠」とされます)と確信して多くの錠前を取りつけたりします。特に後二者は、しっかり者の独居女性に多いように見受けられ「退行期妄想症」involutional paranoiaとも呼ばれています。
5)老年期の場合:この時期には、社会的役割の減少(或いは喪失)、親しかった人々との離別などが襲って来ます。そこに生活環境の変化や経済的困難などが上乗せされると、もはやそれらに柔軟に粘り強く対応することが難しく、抑鬱的とならざるを得ません。
この時期にはまた、脳動脈硬化症やアルツハイマー病などによる認知症も生じ易いのですが、その初期症状と鬱症状とが紛らわしいだけでなく、認知症の部分症状とすべき器質的鬱状態もあるようです。
これらの他に、「引越し鬱」Umzugsdepressionや「荷降ろし鬱」Entlastungsdepressionといったものもあります。自分がそれまで住んでいた空間や役割が「自分」そのもののように感じられていると、それらが無くなった時に「自分」をなくしたように感じるのです。
6.症状
「症状」と言うとあたかも身体の病気の場合のようでしっくりこないのですが、ここでは鬱の時に必然的に見られる様子について述べます。
- 意欲低下、無気力:何かをするのは「自分」です。「何かをする」ということは、自動的に「している自分」を認めることになってしまいます。従って、その自分が「ダメだ、失われた」と感じられていては当然何もできなくなります。
- 食思不振:食べるというのも一つの行為ですから上と同じ理由でもできなくなりますが、更に言えば、そもそも食物を食べるべき自分がいないと感じているのですから食欲が湧く筈もないのです。。
- 不眠や過眠:「今のままではダメだ」という気持ちが強いと眠っていられなくなり、「何もしたくない、何もできない」という気持ちが強いと逆に横になりっ放しになります。
- 不安焦燥:「今のままではダメだ」という気持ちが強いとまた、一箇所にじっとしていられなくなります。常にソワソワと落ち着けず、不安に駆り立てられてしまいます。
- 抑鬱気分、希死念慮:通常の悲哀と同様「情けない気持ち」になったり、そういう今の自分を消したくなったりします。
- 貧困妄想、心気妄想:本来は目に見えず触ることもできない「自分」を無くした感覚を、具体的な目に見えるものを失っているように錯覚すると、財産や健康が失われているように思い込むことになります。古典的メランコリィや退行期鬱病でよく見られます。
- 卑小妄想、罪業妄想:自分という存在が無価値のように思われたり、罪深く罰せられていると感じられたりもします。これも、古典的メランコリィや退行期鬱病でよく見られます。
これらの「症状」の内、専ら具体的な身体的不調のみが訴えられる場合があります。ネガティヴな気分や着想のような「こころ」の領域のことが語られないのです。そのようなケースは「マスクされた(覆い隠された)鬱」masked depressionと呼ばれています(「仮面鬱病」と訳されていますが、決して「仮面のように無表情な鬱」などという意味ではありません)。
鬱に陥る人達は一般に、目に見える具象的な事物に囚われがちで、目に見えない「こころ」の在り様を認識するのは苦手なのですが、特にそれが顕著になっている場合です。
7.治療
最近、SSRI,SNRIといった薬が開発され(恐らくその開発費を回収するためにも)大々的に売り込まれています。知ってか知らでか、近頃はマスコミでも「鬱は心の風邪のようなもの」で「薬で治る」と、余りにも素朴に(と言うよりも無責任に)報じられたりしています。
初めにも書きましたように、確かに気分は薬でましになる可能性があります。不安やイライラ、ソワソワも薬でいくらかは和らぎます。しかし、それらはあくまでも対症療法です。
因みに、従来の抗鬱剤(三環系ないし四環系)はいわゆる「内因性」の鬱病にこそ有効であるとされ、臨床医は多くの「(抑)鬱状態」から「内因性鬱病」を鑑別することに腐心していたものです。しかし、1988年にアメリカで発売されたプロザック(商品名)という代表的なSSRIは、これまでなら典型的な「内因性鬱病」と診断されたような「重症の鬱病」には有効でないことが多い反面、かつては抗鬱剤が効き難いとされていた「軽症の鬱病」や「消極的性格」などを改善する「魔法の薬」として爆発的な人気を博したそうです(かつてNHKでも、そのようなアメリカの現状を取り上げていました)。
ところが、プロザックはまた開発段階から既に一定の割合でアカシジア(静座不能)や希死念慮(自殺願望)の高まりが報告され、既遂例についての裁判も少なくないようです。(『アドバスターズ』の「プロザックの秘密」に比較的詳細な記事があります。但し、『アドバスターズ』の記事内容につきましては筆者自身が裏を取っていませんので、真偽の保証は致しかねます。)
文明の利器であるそれらをとりあえず利用することは必ずしも悪い事ではないのですが、安易な薬物中心主義は、例えば「青少年に使用すると自殺が増えた」といった(これまた結果しか見ていないような指摘の)問題だけでなく、より深刻な問題をもたらすように思われます。
つまり、折角人生の課題に直面せざるを得なくなって、正しく「問題を感じている」のに、それが「異常な事」と誤って位置づけられて、それまでの幼い「問題を感じない状態」の方が「正常」と誤認されてしまいかねないのです。
『永遠のとなり』(文藝春秋社)の著者で「鬱病」の経験もあるという白石一文氏(1958~)は、毎日新聞の取材に「うつ病になった時、お医者さんから、みんなこれを飲んでバリバリやっています、と薬を処方されました。この国では、別の生き方を探すのが難しい。それで、薬飲んで頑張っている人が多いのでしょう。でも、それで、いいんでしょうか?」と述べています。(毎日新聞2007年6月17日(日曜日)11面)
鬱というのは、それまで自分が拠り所にしていたものが既に「耐用年数」を過ぎつつあることを、現実が教えに来てくれているのだとも言えます。そして、そのことをしっかりと見ていく自分こそが、本当に拠り所となる「自分」なのです。
[補足2]ある「慢性鬱病治療家」の言葉
―患者は自分の鬱病に対して責任がある。
―社会的変数のみを操作することで脳内アミン(セロトニン,ノルアドレナリン,ドーパミン等の神経伝達物質:HP作成者註)に大きな変化を惹き起こすことができるのだから、「鬱病は化学物質の不均衡のせいであって、私のせいではない」と患者が言うことはできない。鬱病を終焉させる手段は、現在の自分の生き方に対する責任をしっかりと引き受ける以外に無いのである。
これは慢性鬱病の治療家McCullough,J.M.という人の著書“Treatment for Chronic Depression:Cognitive Behavioral Analysis System
of Psychotherapy”Guilford,New York,London,2000(邦訳『慢性うつ病の精神療法―CBASPの理論と技法』医学書院,東京,2005)からの引用です(『精神神経学雑誌』第109巻第6号589頁で見つけました/太字と下線による強調は筆者)。この考え方自体、欧米でどの程度の支持を得ているのか筆者には分かりませんが、臨床的には全面的に賛同できるものです。 |