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第V章 精神科疾病論
 
 このページの内容
第1節 大局的考察―「病む」とは何か、
                    「治る」とはどういうことか―

 1.自分の人生の主人公となること
  [補足1]「受苦」と「自己受容」
  [補足2‐1]乳幼児的依存から自立した依存へ
  [補足2‐2]未熟な自己愛から成熟した自己愛へ
 2.「原体験心性」の支配と「脱落意識」
  [補足3]「治療」ではなく「共存共栄」という考え
  [補足4]autoplasticとalloplastic
第2節 防衛について
 1.二つのアウェイ化方策
 2.アウェイの対象領域による整理
第3節 「病態水準」について
  [補足5]
「自己」に対する「主体」の態度から見た各「病態」
第4節 言葉/文脈/こころ
 1.コミュニケーションの構造
 2.コミュニケーション構造から見た病態
 3.「了解可能性」と「体験の共有」との間
  [哲学的補足1]「言語ゲーム論」から見た各「病態」
  [哲学的補足2]哲学を持ち込むことの適否
第5節 ディメンジョナルな病態理解に向けて

第1節 大局的考察「病む」とは何か、「治る」とはどういうことか

1.自分の人生主人公となること
 「病む」と言うと些(いささ)か大層な事にも聞こえますが、実はいたって単純です。要するに「自分の人生主人公になり得ていない」ということです。従って「治る」ということは「自分の人生主人公となる」ことだと言えます。
 「自分の」と断らなくても「人生」と言えば通常は自分の人生」を指すのですが、そうであれば尚のこと、「自分がその人生主人公となり得ていない」という事態はとても奇妙な事態です。どこかで間違いが起こったに違いありません。
 治療は結局、「自分の人生主人公になり得ていない」という事態から出発して「自分の人生主人公となる」ようお手伝いすること、と言うことができるでしょう。そしてこのHPにも記していますさまざまな知見や技法はつまるところ、この「自分の人生主人公になり得ていない」という事態の構造と来歴を明らかにし、それを以ってクライエントが「自分の人生主人公となる」ことを援助する為に見出されてきたものである、とも言えるでしょう。
[補足1]「受苦」「自己受容」
 「病むこと」と「治療の目標」を、「受苦」「自己受容」という観点から論ずることもできます。
 「受苦」とは「苦しみを受けること」なのですが、これが赤ん坊の心」治療精神医学ではこの赤ん坊の心」のことを「原(体験)心性」と呼んでいます)にはできません。しかし、現実の生活に於いては「全知全能」でない限り「受苦」避けられません。そこで、原体験心性の支配力が強いと、「そんな事はある筈がない」と、そのような苦しく辛い現実かつ/またはそれを体験している自分を拒絶することになります。その拒絶の仕方は様々ですが、それに応じて自分が「自分の人生主人公になり得ていない」こととなり、様々に「病んでいる」と言われることになります。
 従って「治療」とは、現実に生きることに必然的に伴う「辛苦の受容」と頓挫している「自己受容」とを援助することだ、とも言えるでしょう。
[補足2‐1]乳幼児的依存から自立した依存
 「治る」ということの本質を対象関係/対人関係の観点から見ると、このようにも言えると思います。
 古典的な発達論では、[ヒトは赤ん坊の時期の絶対的依存の状態から、相対的依存を経て自立すべきものなのだ、「依存」dependencyというものは解消されるべきものなのだ]と言われていて、今でも素朴にそう考えている方々もおられるかも知れません。しかし、お馴染みのウィニコットWinnicott,D.W.は、そうではなくて依存の様態が乳幼児的なもの(「赤ん坊の心性原体験心性」に支配されていて、自分が「自分の人生主人公になり得ていない状態で、思春期以降にもそうだと結果的に「病的」と呼ばれてしまいます)から、自立しながらの依存に変化するだけだ、と指摘しました。
 これは、単に「自分で身の周りのことができるようになる」といった身辺自立の能力の問題ではありません。「乳幼児的な依存」が、相手が常に直接に傍に居て世話をしてくれないといけないのに対し、「自立しながらの依存」たとえ相手が目の前に居なくても、自分は目に見えない(つまり心と心の)「つながり」を信じることができ、それを支えとして生活することができることを意味しています。「信じる」という行為はすぐれて主体的な営みです。つまり、「信じる」の主語(主体)は自分なのですから、その自分を信じて頼りにすることができなければ「信じる」という行為は成立しません。またその為には、目に見えない「心」の存在を実感する能力も必要です。

[補足2‐2]未熟な自己愛から成熟した自己愛
 「治る」ということの本質を自己愛の観点から述べることを可能としたのは、米国版対象関係論とも言うべき「自己心理学」を切り拓いたハインツ・コフートKohut,H.です。

 彼は、フロイトが「自己愛から対象愛へ」と余りにも単純に捉えていたリビドー(生命的志向性)の発達的変遷に反省の目を向け、自己愛には自己愛の発達ラインがあることを主張し、その対象であり主体性の座でもあるものを「自己」selfと概念化しました。そして、乳幼児期にはこの「自己」を喚起し、その後の人生を通じて「自己」を支持し強化する対象体験を明確化して「自己対象」体験と名づけました。

 この「自己対象」体験には、「鏡映自己対象」体験、「理想化自己対象」体験、「双子(分身)自己対象」体験、「対立自己対象」体験などがあり、これらの体験を通して「自己対象欲求」乳幼児的な直接的で具象的なそれ(「今ここにケアが存在しないとダメ」)から、間接化され抽象化されたそれ(文化芸術作品との接触や目に見えない心の絆)へと変化して行きます。
 これを「自己愛」の観点から本HPの用語を使って言いますと、原体験心性そのものに近い「何でも思うようになる」と思っている受動的万能感の状態から、ある程度現実を弁え、自分にできることとできないこととを知った上で尚そのような自分を肯定的に評価する状態(これがとりもなおさず、自分が「自分の人生主人公になり得ている」時の状態です)へのラインであり、その隘路として、不如意の現実とそれに直面することによる傷つきを否認して能動的万能感に固執する(病理的な)狭義の自己愛状態が存在するのです。

 このような観点からは、治るということは、欠落或いは不足していた「自己対象」体験を補い、「自己」を支持し強化することのように思われるかも知れませんネ。しかし、ここに微妙な事情が存在します。つまり、乳幼児期以来欠落/不足している「自己対象」体験そのものを補うなどという芸当は、現実には誰であっても不可能です。
 では、治療者は何をするのでしょう。恐らく治療者にできることは、その欠落/不足に由来する「自己対象欲求」を明確化し解釈することしかありません。しかしそれでも、そのささやかな営みこそがクライエントの現在時点に相応(ふさわ)しい「自己対象」体験になる、というわけです。

2.「原(体験)心性」の支配「脱落意識」
 外見や能力は大人思春期以上)なのに赤ん坊の心」(=原(体験)心性)に支配(コントロール)されていると、世間様(つまり「普通だと思っている人々」)から病んでいると呼ばれます。何故かと言えば、
 @大人は通常、「一般に共有された現実を認め、主語同一性に基づく論理に従っていること」を自明の事と思っています。しかし(既にこのHPで何度も見て来ましたように)赤ん坊「一般に共有された現実」などまだ知らず「自分が感じたり思った事」が全てです。そして、暑い/寒い、満腹/空腹、快/不快、等々の述語的状況に埋没して生きています(つまり「述語同一性論理」に従っています)。この赤ん坊の在り方は、赤ん坊の時なら許容されても、大人としては理解(了解)されません。
 ラインハルト・レンプLempp,R.(1923- )という人は、ここで言う公的な「一般に共有された現実」「主現実」Hauptrearität私的な「自分が感じたり思った事」「副現実」Nebenrearitätと呼んで、クラウス・コンラートConrad,K.に倣って「副現実」から「主現実」への「乗り換え」Überstiegの困難を統合失調症の主要病理としています。
 A赤ん坊の心原体験心性)に支配された方は独り善がりとなっていますから、その分他の人々と交流できなくなります。この「交流できない」という感触も、社会的存在である大人達にとっては独特の奇異な体験となります。

 概ねこれらの事情によって、殆ど直感的に「おかしい/異常だ/狂ってる⇒心を病んでいる」と見做されることになるのです。そしてしかも、その異常視を当の本人も共有していますから、ここに治療精神医学が当初より最も問題視している「脱落意識」が生じます。

 そうすると、「治る」ということは、赤ん坊の心(原体験心性)に支配されなくなること」かつ/または脱落意識に取り込まれないこと」とも言えそうです。

 こう言ってしまえばとても簡単でしょう?これを実現するとなると、事はそう簡単ではないのですが…
[補足3]治療ではなく共存共栄という考え
 「治る」ということを次のように言うこともできます。即ち自他共に「これでいい」と思えることだ]と。つまり「自己肯定/自己受容」「一般妥当性」です。
 北海道の「浦河ベテルの家」の実践は、精神病圏の問題を抱えたままでも、顔や名前を隠すこともなく、社会の中に存在し得ることを明らかにしています(但し、経済的に自立できるところまでには至っておられないようですが)。もしもそれが字義どおりの「ユートピア」(utopia(ユートピア)というのは「理想郷」であると共に、「無い」u「場所」toposという意味です)でなければ、つまりそういう在り方が社会全体で可能となるようであれば、「治療」は不要となり「精神医学」も消滅するのかも知れませんね
[補足4]「本人自身が変わること」autoplastic「周りが変わること」alloplastic
 本HPで推奨していますような「対話を中心として個人に働き掛ける治療」の場合、「問題はその個人の在り様にあり、突き詰めればそれは人間の本質に根差した不幸な事情の現れであり、自覚されることによって変化改善する」という考えが前提となっています。そこでは従って「自分のせいを見つけましょう」()ということになります。このような考え方は「本人自身が変わること」autoplasticと呼ばれます。
 他方、「脳病モデル(医学(メディカル)モデル)」の系譜では、「問題はその個人の在り様などにではなく脳の機能にあり、それはで治すか(現実にはでは治りきらないので)それを障碍と考えて周囲がそれに合わせて一定の配慮(特別支援などの福祉的施策)をするべきである」という考えが前提となっています。つまり「全ては病気/障碍のせいだ」と見做されるのです。このような考え方は「周りが変わること」alloplasticと呼ばれます。

 このように、alloplastic医学(メディカル)モデルは共生を目指す福祉的考え方とも矛盾しませんが、autoplastic精神療法的モデル福祉的考え方と原理的に矛盾しています。その為に例えば、「患者に精神療法的に関わることは、その人の障碍を認めずに徒(いたずら)にその人を苦しめているだけではないか?」或いは逆に「精神保健福祉手帳や障碍年金は問題を固定化する方向に働き、精神療法的にマイナスではないか?」というような疑念をもたらします。つまり、障碍を強調し人間的共通性を犠牲にして福祉的特別支援(社会的保障)を勝ち取るのか、人間的共通性を強調し治療的努力を続けて福祉的特別支援(社会的保障)を辞退するのか、という問題です(下表参照)。
方向性 autoplastic alloplastic
モデル 精神療法的モデル 医学(メディカル)モデル
強調点 人間的共通性 障碍(特殊性)
治療的努力
(キュア)
(註)
福祉的支援
(ケア)
:通常は「医学モデル」はキュア(治療)cureと結びついているとされているのですが、それはあくまでもキュアが真に可能な比較的幸運な場合に限られるのであって、多くの慢性疾患や難治疾患ではむしろケアが重要となります。
 このような問題は、統合失調症等の精神病圏の場合だけでなく、むしろパーソナリティ障碍圏の場合に一層先鋭化します。つまり、まさにのみでは対処困難でautoplastic精神療法的関与が必要だとされているにもかかわらず、もともとアウェイ化(ここの言葉で言えばalloplastic)することが中心的問題である上にその一部が(例えば「スキゾイド〜スキゾタイパル・パーソナリティ障碍アスペルガー障碍」「反社会的パーソナリティ障碍AD/HD」というように)alloplastic「軽度発達障碍」の枠組みで語られ出すと、autoplasticな「自分のせいを見つけましょう」は成り立たなくなってしまうからです。
 ではどうすればよいのでしょうか?筆者は今のところ、とてもありきたりの答しか持ち合わせていません。つまり、autoplasticalloplasticの両方の視点を保持し、その中で考え続ける、ということです (-_-;)

第2節 防衛について

 ここで「防衛」と言いますのは、原体験心性ネガティヴ即排除」の法則の下に、心(意識)の中に「ネガティヴなもの」(辛い思い、苦しい思い、悲しい思い、怖い思い、しんどいという思い、心の痛む思い、等々)を存在させない為に、人(の心)が[或いは(もしお望みなら)「脳が」と言ってもよいでしょう]用いる様々な方策を指しています。
 防衛は、その破綻が「症状/問題とされる言動」をもたらすのは勿論ですが、皮肉なことに防衛それ自体もまた「症状/問題とされる言動」を形成していることがしばしばです。

1.二つのアウェイ化方策
 この心(意識)の中に存在させない」方策には、次のような区別があり得るでしょう。

 A)初めから心(意識)の中に入れない(知覚しない)[一次的アウェイ化]
 これは、一次的に「アウェイに置かれる」というものです。この方策は恐らく、Bion,W.R.が指摘していますように「門を閉ざすこと」即ち外的現実や内的現実(感情)を知覚する能力そのものを制限(阻害)することによって初めて可能となります。故に、これを人生の余りに早期から用いることは危険です。もしもそんなことをすれば、多くの有用な経験が阻止されてしまうことになるからです。

  フランスの精神分析家ジャック・ラカンLacan,J.は、フロイトの『否定』というごく短い論文を手掛かりに、「抑圧」とは異なる機序としての「排除」について論じていますが、筆者の理解が正しければ、その「排除」はここで言う方策Aに関係しています。
 この方策は、用いられるとしても、一定の人生経験を経て「回避すべきネガティヴな知覚体験のカタログ(リスト)」ができた後に初めて、ごく控え目に用いられるべきものでしょう。
 この方策は、その程度によって更に幾つかの下位分類が可能です。

A-1)多くの客観的(より正確には間主観的/公共的)現実知覚を否認する。
 これをしてしまうと、残念ながら
「精神病」と認定される可能性が高いでしょう。

A-2)現実知覚に伴う感情的側面のみを全面的に否認する。
 これをすると多くの場合、社会的には一見問題無く機能することができます。しかし、自然な人間的共感は不可能で、しかもそのことになかなか気づかれません(
統合失調症患者の養育者に見られ易いという印象があります)。

A-3)リストに基いて、限られた現実知覚や感情体験のみを反射的に回避する。
 恐らく、案外多くの「普通の人々」が用いている方策だと思われます。

 この方策が人生の最初から使えないとなると、どうしても一旦心(意識)の中に成立した「回避すべきネガティヴな知覚体験のカタログ(リスト)」を、次にどうにかして心(意識)の中に存在しないようにしなければなりません。その際に用いられるのが次の方策です。

 B)一旦心(意識)の中に入ったものを隠蔽/消去する[二次的アウェイ化]

 この方策は、二次的に「アウェイにうつす」というもので、これには、古典的精神分析で言う「抑圧suppression」「解離dissociation」クライン学派で言う「分割排除splitting off」「投影同一化projective identification」等、大半の防衛機制が含まれます。

2.アウェイの対象領域による整理
 「アウェイ」となる領域によって、諸防衛を次のように整理することもできます。

1)空間的アウェイ化
 @身を置く空間に
馴染んだ空間から離れられない、或いは、問題を場所のせいにし、場所を変えることで自分の問題が解決すると思う、等々
 A人間対象に
架空の或いは実在する相手に攻撃されると怯える、或いは、問題は全て相手のせいだと思い相手を攻撃する、等々
 B「間の空間」に
問題を相手の領域に位置づけるでもなく、さりとて自分の領域に引き取るでもなく、曖昧な「間の空間」に放置する、等々
 C身体領域に
問題は身体にあると思い、身体の精査加療を際限無く求め続ける、等々
 D非意識領域(無意識)に
様々な程度に「忘却」してしまう、或いは、感情を隔離封印してしまう、等々

2)時間的
アウェイ化
 @現在から過去に
現在の問題を過去の出来事のせいにして、今すべき事に取り組まない、等々

 A現在から未来に
将来の悲観的予想に基いて、今すべき事に取り組まない、等々

第3節 「病態水準」について

 治療精神医学では、近年益々、個々の「疾患単位(≒診断病名)」に拘(こだわ)らなくなってきています。それは勿論、差異よりも共通性(人間的連続性)を重視する治療精神医学の根本姿勢にも由っているのですが、本HPに御紹介していますような見方をすれば、治療実践上概(おおむ)ね事足りるからでもあります。
 とは言え、病態水準に関するおおまかな理解はあった方がよいでしょう。それらは、概ね次のように理解されています(詳しくは、個々のページ及び『臨床事象の理解モデル』を参照して下さい)。
  • 「自閉症/広汎性発達障碍」水準:的な「心の鎧」が殆ど発達していない状態。恐らくそれを補う形で的な「心の鎧」が発達しています。
  • 「精神病」水準:「心の鎧」ないし「葛藤を抱える自我」がとても脆弱で、しばしば原体験心性が殆どそのまま表在化してしまう状態。
  • 「パーソナリティ障害」水準:的な「心の鎧」がかなり見事に発達している状態。
  • 「神経症」水準:「葛藤を抱える自我」がある程度形成されている状態。

[補足5]「自己」に対する「主体」の態度から見た各「病態」
 「自己」「主体」はどちらも日常用語でありながら、哲学や心理学の主題として多くの議論が重ねられてきている概念でもあります。
 まず「自己」ですが、ここでは「客体としてとらえられた自分自身」という意味で使用します。
 「主体」の方は、[ 大辞泉 ](提供:JapanKnowledge)では、
[1] 自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。⇔客体
[2] 物事を構成するうえで中心となっているもの。
[3] 《語源の(ギリシア)hypokeimenônは、根底にあるもの、基体の意》哲学で、他に作用などを及ぼす当のもの。認識論では主観と同義。個人的、実践的、歴史的、社会的、身体的な自我の働きが強調される場合、この主体という言葉が用いられる。
となっています。

 (けん)()氏は「考えることも一種の運動だ」となかなか鋭い指摘をしていますが、近代の「科学パラダイム」を準備したデカルトDescartes,R.が見出した「思惟する(考える)主体」こそ、最も基本的な「主体」であると言えましょう。
 そうすると、精神の各病態は「自己」に対する「主体」の態度の違いとして、次のようにも表されそうです。即ち、

「自己欺瞞」
 「自己欺瞞」というのはキツイ言い方ですが、筆者の記憶が正しければ、フランスの実存主義哲学者サルトルSartre,J.-P.が無意識的防衛機制というものを認めず、「神経症」に於けるフロイト「抑圧」概念に抗して主張したものです。どちらの見方がより正鵠を射たものであるのかということは、意外に難しい問題です。

「自己(とう)(かい) /自己消去」
 「自己韜晦/自己消去」は、「境界例/パーソナリティ障碍」に於ける中心的特徴の一つとして抽出したものです。
[但し、は近著『治療精神医学の実践』170-171頁に於いて、1990年前後に於ける「自己消去」という捉え方は「(葛藤の)回避と消滅を目的とする主体(主語)の働きを前提としていることになる」が実際には「主語となる作動主体未形成、(原体験心性の)述語・状況性が主導する結果である」(即ち「アウェイの構造」が第一義的である)と訂正しています。この辺りが、日常的な主語同一性論理原体験的な述語同一性論理のせめぎ合う地点なのでしょう。]

自己否定/自虐/自己喪失
 「自己否定/自虐/自己喪失」「鬱」と密接に関連した事態です。
 ここまではまだ辛うじて、「自己」に対する「主体」の態度として「自己」という形で表現できましたが、「統合失調症」では、そうはいかないようです。

「主体喪失」
 「主体喪失」は「喪失」とは言いながら、「鬱」ではなく「統合失調症」にこそ相応しい形容です。「鬱」では、本来の自己が失われた、と感じられてはいますが、その感じを基にそのように考え断じる主体存在します。それに対して、「統合失調症(の病期)」に於いては、まさに考える主体は失われ、考えは外からやって来ます。


第4節 言葉/文脈/こころ

―コミュニケーション、無意識、及び「生の様式」―


1.コミュニケーションの構造
 一つ一つの言葉(word〜phrase)というものは、それが用いられる文脈(context)によって意味が決まります。そして文脈は、人間同士のコミュニケーションである以上、その関係の性質を意味していて、最終的には語る側の人間の思い/こころ(heart&mind)によって決定されます。

1)言葉(word〜phrase):公的(辞書的/客観的)次元=3者水準
 一つ一つの言葉は、話し言葉であれ書き言葉であれ、感覚器官(耳や目、点字の場合は皮膚の触覚)を通じて直接的具象的に、それ自体は辞書的情報という次元で、恣意的に変更できない比較的明瞭なものとして(明示的に)感取されます。

2)文脈(context):関係的(間主観的)次元=2者水準
 文脈はそのようにはいきません。その時々の一連の具体的な言葉の遣り取りや、その一連の遣り取りがなされている状況から、真剣か冗談か皮肉か、友好的か敵対的か、等を読み取らねばなりません。
[非言語的情報(メタメッセージ)]
 この「具体的な言葉の遣り取り」は、単に言語としての言葉の遣り取りではありません。そこには同時に声の調子や身振り手振り、表情や態度、つまり多くの非言語的要素non-verbal factorsが存在しています。そしてそれらが、文脈の把握にとって重要な手掛かりとなります。
[状況性/共同的構成]
 また、その一連の遣り取りがどのような状況に於いてなされているのかという、遣り取りと状況との関係への理解も、文脈の把握に欠かせません。この場合、忘れてはならないのは、聞き手の方もその状況の構成に参加している、という点です。聞き手が話し手になることで話し手であった聞き手に影響を与えるのは勿論のこと、聞き手が聞き手に留まっている場合でも、その在り方はそれだけで話し手である相手に影響を与えています。
[総合的判断]
 従って、文脈を読み取る為には、一連の言語情報の内容を保持しつつ、その都度の非言語的知覚情報を把握して照らし合わせること、更にそれを現下の自分自身が与えている影響をも込みにした状況の中に置いて考えることが必要です。つまり、かなり高度な総合的判断が必要なのです。

3)思い/こころ(heart&mind):私的(主観的)次元=1者水準
 そのようにして読み取られた文脈は、事実上、話し手の思い(こころ)をも指し示しています。

2.コミュニケーション構造から見た病態
 上述のようなコミュニケーションの構造から、病態について少し考えてみましょう。

1)解読マトリクス(認知の枠組み)と転移‐逆転移
 ところで、私達の多くは、出生以来の人生経験の中で、上述の総合的判断を行う力をかなり身につけています。多くの場合、これらの判断はほぼ自動的、無意識的に行われるようにさえなっています。
 但し、その判断の仕方は当然一定ではありません。まずは個々人によってかなりの違いがありますし、その時々の精神状態にも大きく左右されます。
 つまり、私達の多くは、文脈の読み取りに関して、各人独自の自動的に働いている解読マトリクス(認知の枠組み)を持っていて、しかもそのことに余り気づいていないのです。そして、この自動性、無意識性が、臨床上
「転移‐逆転移」として俎上に上がるコミュニケーションの歪みの条件となっています。⇒『転移‐逆転移』
 
2)総合的判断と自閉性
 他方で、上述のような総合的判断が何らかの理由で全く困難な場合、或いは敢えてそのような判断をしない在り方が固定化している場合も考えられましょう。前者は
広汎性発達障碍自閉症スペクトラムに、後者は(いわゆる慢性化した)統合失調症に概ね相当する、と筆者は考えています。

3.「了解可能性」と「体験の共有」の間

 ドイツ系の精神病理学を基礎づけたヤスパースJaspers,K.は「了解不可能なものは説明の対象である」として、「了解可能な病態」から「了解不可能で説明するしかない病態(≒精神病)」を分離しました。しかし、フロイトFreud,S.をはじめ多くの先達のお蔭で、私達の了解可能領域は確かに拡大しました。或は「了解」と「説明」の間に想定された溝が埋まってしまった、と言うべきかも知れません。いわば「説明的了解」が広まっているのです。
 しかしそのせいか、体験を了解できること体験を共有できることとの間に新たな溝が生じていることに気づかされます。筆者は既に四半世紀以上精神科医をしてきましたが、正直なところ、了解はできても共有できない事象は少なくありません。思いつくままに挙げてみましょう。

 1)いわゆる神経症(ヒステリィ)圏の病理現象

  • 場面緘黙の人は「喋れない」のか「喋らない」のか?心因性失声の人は「喋れない」のか「喋らない」のか?拒食症の人は「食べられない」のか「食べない」のか?心因性失立(歩行障碍)の人は「歩けない」のか「歩かない」のか?不登校の児童生徒は「登校できない」のか「登校しない」のか?等々
  • 多重人格(解離性同一性障碍)や催眠トランス状態は「実体として存在する」のか「一つの物語」なのか?

 これらは結局、とても古い一つの問いに集約されます。それは「抑圧(または解離)された無意識の主体(単数または複数)の存在」を認めるのか、それとも「全ては対人場の文脈(コンテクスト)に合わせて(意識的に)演じられているに過ぎない」と見做すのか、という問いです。
 アメリカ精神医学会による診断・統計マニュアル第3版に於いて解体された「ヒステリィ」概念の内の「性格」部分の後継概念だとされる「演技性パーソナリティ障碍」の「演技性histrionic」という語は、「1 俳優[役者]の;演技[演劇, 芝居]の. 2 わざとらしい.」〔プログレッシブ英和中辞典(JapanKnowledge)〕とされています。しかし、症状が実際に意識的な演技なのであれば、定義上それは「詐病simulation」であり、臨床的事実と解離してしまいます。

 これらの現象に関与する時、私達は実際には「ごく自然に」とても矛盾した対応を迫られます。即ち、

@無意識の存在を認めて、「喋れない」「歩けない」「食べられない」「登校できない」そして「実体として存在する」と見做す一方で、
A「喋らない」「歩かない」「食べない」「登校しない」そして「一つの物語」であるが故に、慌てなくてもいずれは改善する、

という二重の態度(悪く言えば「面従腹背」)をとることになるのです。そして、それで多くの場合、事態は実際に好転します。しかも、上記の何れが正しかったのかは結局分からず、私達は真実から取り残されるのです。この事実を率直に受け容れるならば、真実はまさにそのような「両面的で矛盾したものだ」ということなのかも知れません。
 因みに、「意識」と「無意識」のこのような両面性を保っていることこそが、私達をしてこれらの病態を「精神病」ではなく「神経症」だと感ぜしめるのだ、とも思われます。

 2)いわゆる精神病圏の病理現象

  • 幻聴はどのように「聞こえる」のか?幻視はどのように「見える」のか?

 筆者は、患者さんから「聞こえる」「見える」と聞くと、必ず「どのように?はっきりありありと?」などと訊くことにしています。そうすると「かすかに」とか「ぼんやり」とかいう答えが返ってくることが多いのですが、時に「はっきりありありと」と返ってくることもあります。これが、私達の言う「記憶想起」と感覚的にどう違うのか、或は同じなのに、それを認識する主体が「外界刺激の知覚体験」と区別できないに過ぎないのか、というのがこの問いです。
 いわゆる「健常者」でも体験し得る幻覚としては、

@入眠や覚醒の過程で生ずる入眠時幻覚
A実験室での感覚遮断下に於ける幻覚体験

の二つが有名ですが、やはり意識清明な状態でしかも知覚刺激に溢れる一般的状況下で「はっきりありありと」聞こえる幻聴、という体験は共有困難だと言わざるを得ません。

 認識や交流の可能性について深く考えた哲学者ヴィトゲンシュタインWittgenstein,L.は、私達の私的な内的体験が同じであるか否かは所詮分かりようがないことを踏まえた上で、それでも私達が「同じだ」とか「違っている」とか言うことには意味があることを指摘しています。「生の形式」の一致(同一の「生の形式」に準拠すること)がその判断を正当化する、と言うのです(『哲学的探求』241)。つまり、例えば私が感じている「不安」と他者が感じている「不安」が同じ「不安」だという保証は何処にもないのですが、その「不安」を巡る交流がその文化圏で流通している「生の形式」に(かな)っている限り、「君の不安は僕の不安と同じだ」とか「違う」とか言うことができる、と言うのです。
 しかし、そもそも「その文化圏で流通している生の形式」を私達はどうやって身につけるのでしょう。ヴィトゲンシュタインはそこまで言及していないようですが、それは私達が生まれてすぐから始まっている母子の交流をベースにそれに続く様々な交流体験の中で、恐らくはミラーニューロンなどの働きによるミメーシス(模倣)[精神分析的に言えば「同一化」]が生ずることと、「生物学的にほぼ同じ身体を持っている」ために、模倣の際に(ほぼ)同じような感覚情動体験が生ずる、ということによってでしょう。
 そうだとすれば、もしもそのような過程に相当の偏りがあれば、「その文化圏で流通している生の形式」とは異なった生の様式を身につけてしまう、ということも起こり得るでしょう。そこでは、内的な「記憶想起」と「外界刺激による知覚体験」とが区別されないままであることも、あり得るわけです。
 しかし、これは残念ながら「そのように了解はできても、決して共有はできない体験だ」とも言わざるを得ないようです。

 ここで注意を促しておきたい事柄が二つあります。
 一つは、最初に述べましたように、「幻聴」の聞こえ方について問うと、多くの場合「かすかに」とか「ぼんやり」とかいう答えが返ってくるのであって、「はっきりありありと」と返ってくることは決して多くはない、という点です。
 そしてもう一つは、ここで「(異なった生の形式に基いている為に)そのように了解はできても、決して共有はできない体験だ」と言いましたのは、あくまでもそのような比較的少数派の患者さん達の体験に関してのことだ、ということです。
 感覚的水準での内界/外界、主観/客観、自己/他者の区別が全く存在しないという意味で、これらの病態を「典型的幻覚」と仮に呼んでおきましょう。

 3)まとめ
 以上の議論から明らかになる事は、「説明的了解」と「体験の共有」との間に存在する溝にも2種類あるようだ、ということでしょう。

@いわゆる神経症圏の事象の場合:それは「無意識」の不可知性に由来しています。定義上「無意識」は当人の意識の届かない領域であり、その実在はフロイトが行ったように「夢」や「失策行為」といった状況証拠から推定するしかありません(勿論、神経症症状や精神分析治療の記録を証拠として用いることはできません。もしそうすれば、循環論法となってしまうからです)。それは結局のところ、「ある」とも断定できないし、「無い」とも断定できない、文字どおり「()()()()」なものなのです。

A「典型的幻覚」の場合:それは「生の形式」の違いに由来しています。ここで対象としています精神病患者さんと話していますと、例えば上記の「無意識」の有無ははなから問題になっていない印象を受けます。
 「無意識の存在を認めない」というのと、この「そのような問題系そのものが存在しない」というのとでは、似ているようですが実は全く違っています。
 ここで「そのような問題系」と言っているものの一般的な性格は「()()()()」即ち「断定できない/真実を知ることができない」即ち「不可知」です。「典型的幻覚」の場合には、この「不可知」というカテゴリィが存在しないのだと言えそうです(この事が何を意味するのかということに関しましては、いずれ『記号論的精神病論』として別に論じたいと思っています)。


[哲学的補足1]後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論から見た各「病態」
 哲学者ヴィトゲンシュタインは、認識の根底を「言語ゲーム」と概念化して見せました。『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の中で著者鬼界彰夫は、ヴィトゲンシュタインの草稿を丁寧に辿りながら、彼が突き当たったあらゆる言語ゲームの根底(「岩盤」)について次のように解説しています。

[どんな単純で原始的な言語ゲームであっても、そこでは個々の言葉に関する規則に人が従うのに先立って、前提されているある能力、原言語ゲームとも言うべき過程が存在する…それは有限の例による訓練の後、我々が単純な概念を無制限に以下同様に」とか「自然に」呼ぶ仕方で適用する能力であり、そうした言語ゲームである。](『ウィトゲンシュタインはこう考えた』286頁,講談社現代新書,2003.太字着色は引用者による強調、下線部は引用者による付加。)

 ヴィトゲンシュタインはこの原言語ゲーム「規則に従う」と名づけ、人間の基本的な資質であり、それ以上遡(さかのぼ)りようのないものであり、数学的論理を含むあらゆる論理の源泉であり、これを外せば「狂っている」としか見做されないものだと考えました。
 前期の彼は、言語的理解の根底にある「論理」そのものについては「語り得ない(つまり、何故そうでなければならないのかを説明できない)」と考えていましたが、後期の彼は、例えば1+1=2といった算術や、矛盾律などの古典論理学的命題も、太古からの「規則に従う」という人間的実践の積み重ねの中から沈殿し化石化したものだ、という「説明」を見出したのです。

 この「規則に従う」規則というのは、「掟」や「法」などの人為的社会的ルールのことではありません原言語ゲームとしての「規則に従う」というのは(鬼界彰夫の解説が正しければ)例えば数学の帰納法の前提となるような最も初歩的な抽象と推論の能力を指しています。
 そうだとすれば、今日の私達の観点から見れば、私達と同じ原言語ゲームを身につけていない、もしくは別の原言語ゲームを身につけている存在は、狭義の「狂気(精神病)」ではなく広汎性発達障碍自閉症スペクトラムと呼ばれるのではないかと思われます。彼らは例えば「叩く」と「どつく」と「小突く」が人間関係に於いて「ほぼ同じ事である」ということが自然には理解できません。そしてそのような人達は、ヴィトゲンシュタインの想定に反して、今や全人口の6%を占めようという勢いなのです(⇒『広汎性発達障害』)。

 ところで、この「規則に従う」という原言語ゲームだけではまだ「私達の言語ゲーム」にはなりません。
 鬼界彰夫に拠れば、ヴィトゲンシュタインは更に、彼が「世界像」Weltbiltと呼んだ(科学的言説のような)権威と信頼に媒介された共同的・社会的な公的確実性の領域と、(人や物には名前があるという)「名前の知」と(「私は知っている」と言うが如く)自己の知を言葉によって表明し得る能力(反省知)を有し、かつ(例えば「私は考えている」といった)私的確実性を「これについて私に間違いはあり得ない」と保証する絶対的「私」という存在が、「私達の言語ゲーム」の根底(必須要件)であることを見出すに至ったようです(そしてその直後に、幸せに亡くなったそうです)。
 ここには多くの重要な見解が詰まっています。

 まず、公的確実性/世界像ですが、これは例えば「地球は私の生まれる前から存在した(あるいは、地球は太陽系の3番目の惑星で、人類をはじめ各種生物が住む天体。太陽からの平均距離は約1.5億キロで、自転周期は23時56分4秒、公転周期は365.2564日。形はほぼ回転楕円体で、赤道半径6378キロ、極半径6357キロ。地殻・マントル・核からなり、平均密度は1立方センチ当たり5.52グラム。年齢は約46億年。表面は窒素酸素とを主成分とする大気に囲まれ、水がある。衛星を1個もち、月と呼ぶ。総人口65億2517万(2006)。[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ] )」といった言明の確実性を指しています。今日これに大真面目で異を唱えれば、まず「精神病」だと見做されるでしょう。

 次に、名前の知/反省知ですが、ヴィトゲンシュタインはこの「言語を知ること」を、訓練された動物幼児に見られる「反応の体系」としての前反省的な語運用能力と対置しています。ここで言われている「言語を知ること」は、事物表象と言語表象が本来的に別の物であることの理解だと言ってよいでしょう。
 この事に関してフロイトFreud,S.(1915)は、@ニキビを押し出して満足を得「そこにできた穴を皆が見つめている」という統合失調症患者の訴えと、A靴下を脱いだり履いたりする強迫神経症患者の症状を例に比較し、@を「事物表象からの脱備給⇒言語表象への過剰備給」という図式で説明しています。要するにこれは、ニキビに於ける「射出」「穴」といったイメージ(事物表象)がそれらの言語表象(「射出」「穴」)を介して前反省的に「射精」「膣」というイメージ(事物表象)と結びついてしまっている、ということなのでしょう。つまり統合失調症患者ではしばしば、事物表象が言語表象と分かち難く結びついている(同一視されている)というわけです。

 最後に、私的確実性を保証する絶対的「私」ですが、これは「責任主体としての私」に他ならず、実は現代の私達の言語ゲームに於いてはしばしば欠落しています。昨今の政治家の言動などその典型でしょうが、その欠落の特に著しいケースは「パーソナリティ障碍」と呼ばれることになるでしょう。

 このように見ますと、ヴィトゲンシュタインはその生涯を懸けて「私達の健常と見做される言語ゲーム」の条件を明らかにしてくれたのであり、そのお蔭で私達は、私達の社会に於いては健常とは見做されない言語ゲーム」の幾つかのパターンとして、「広汎性発達障碍」「精神病」「パーソナリティ障碍」を次のように区別することができそうです。

  • 「広汎性発達障碍」「規則に従う」という原言語ゲームを身につけていない(註:ここで言う「規則に従う」は、上にも述べていますように最も初歩的な抽象と推論の能力を指しています)。
  • 「精神病」公的確実性/(私達の)世界像ないし名前の知/反省知を有していない。因みに、前者の問題は「妄想」に、後者の問題は「幻覚」に結びつき易いと思われます。
  • 「パーソナリティ障碍」私的確実性を保証する絶対的「私」という存在を欠いている。

[哲学的補足2]哲学を精神医学に持ち込むことの適否
 精神科医をしながら某大学院で哲学を学んだ畏友の一人は、かつて筆者と共に「現象学的精神病理学」の言説を批判しながら、哲学を精神医学に持ち込むことは間違っている」と繰り返し述べていました。私達が当時批判していたのは、それらの言説が精神病者の内面を理解すると見せて、実は詰まるところ「彼ら/彼女らは根底的なところで我々に通常あるものが決定的に欠けている」と結論していることに対してでした。
 このような立論は、素朴自然的な学問である脳病理学などの実証科学のそれと何ら変わるところの無いものです。

 言うまでもなく、哲学者は臨床家(精神科医)ではありません(例外的にヤスパースJaspers,K.は精神科医でしたが、哲学をやり始めてからは臨床に戻ることはなかったようです)。つまり、哲学者は自己の方へ内省するにしても他者を観察するにしても「一般人≒健常者」を素材とすることになるのです。従って、そのような中から見出された哲学的真理も、「健常者」に関する真理であるに過ぎません。
 この事を忘れて、それが人間全般に当て嵌まるべき真理であるかのように扱われる時、そこで何らかの欠落を示す「病者」は「人間ではない」という位置に置かれてしまうのです。私達が批判したのは、まずはこのような事情をでした。

 ところが、ここで筆者はヴィトゲンシュタイン「言語ゲーム」論を持ち込んで、個々の病態を「私達の健常と見做される言語ゲーム」の諸条件に関する欠落態として説明しています。これでは、かつて筆者自身が批判した「現象学的精神病理学」と同じ轍を踏んでいるのではないでしょうか。
 「広汎性発達障碍」に関して言えば、恐らくそうでしょう。ヴィトゲンシュタインは、最も初歩的な抽象と推論の能力としての「規則に従う」という原言語ゲームを「人間」の基本的な資質であると考えていたようです。つまり、原言語ゲームに関しては別の原言語ゲーム」を想定し得なかったわけです。
 しかし、それでも筆者には[彼の構想は別の原言語ゲーム」を許容している]と思われます。
 筆者がこのページでヴィトゲンシュタイン「言語ゲーム」論を持ち込んだのは、個々の病態が「人間からの脱落態である」と言う為では無論なく、「広汎性発達障碍」でさえ、ヴィトゲンシュタインが直接観察し得なかった「もう一つの原言語ゲーム」)なのだ(そうであるに過ぎない)」と見て取ることで、むしろ「病者」との対話の可能性を開いてくれると思ったからです。

第5節 ディメンジョナルな病態理解に向けて

 筆者が精神科医になった頃にあった[神経症境界例精神病]という非常に分かり易い図式がDSM-Vの登場で反故(ほご)されて以来、精神病理学的な病態の理解は全て一旦白紙に戻された感があります(本HPでは、それでもめげずに議論していますが)。
 議論のついでに、ここまでの議論を踏まえて、治療的な病態理解についてもう少し考えておきましょう。
  『DSM-X研究行動計画』(2002)〔邦訳みすず書房,2008〕には、次のように記されています。
伝統的に「疾患とは大抵が個々に独立した実体的単位である」という、いわれの無い仮説もある。過去の精神科医の大多数は、「精神障碍もまた、個々別々の実体であって、他の障碍および正常と区別されるものであり、この区別は明確な病因の証明か、さもなくば症状の認識可能で他と区別しうる明確な内容の組み合わせによってなされる」と思い込んでいた。(中略)しかし、過去20年間に、疾患実体仮説を疑問視する向きは増大する一方であって、それは、大鬱病、不安障碍群、統合失調症、双極性障碍のような代表的・原型的な精神障碍の相互が全く漸次的に移行し、「自然境界線」も「空白に近い中間帯」も認められず、正常との間も同様であるらしいという証拠が増大してきたからである。それだけでなく、以上の症候群の基底である遺伝因子も環境因子も非特異的なものであることが多い。(邦訳30頁;下線部強調と「 」付けは引用者)

 もしも「精神疾患」について「疾患単位」という実体化した捉え方に無理があるとすれば、他に考えられるのは、一つの病態を幾つかの相互に比較的独立した諸側面/諸要素の組み合わせ(複合体)として理解する、というディメンジョナルな捉え方です(因みに、DSM-Xの段階ではまだ、ディメンジョナルな捉え方はせいぜいのところパーソナリティ障碍に限られるようです)。
 その場合、問題はその「相互に比較的独立した諸側面/諸要素」を如何に適切に抽出するか、ということでしょう。
 筆者には今のところ残念ながら、それらをきちんと列挙する準備はありませんが、試しにその候補を幾つか挙げてみましょう。

 @基本的安全感:まず、あらゆる精神的健康さの基盤として「基本的安全感 basic security」を挙げねばならないでしょう。「不十分⇔十分」で考えることができるでしょう。
 Aネガティヴな体験
:次に、あらゆる精神科的臨床事態の契機としての不安緊張、或いは一般にストレスと呼ばれるネガティヴな体験を挙げることができるでしょう。
 これには、発症への脆弱性を準備する一次ネガティヴ体験と、発症の引き金となる二次ネガティヴ体験とを区別することができるでしょう。
 「強い(狭義外傷的)⇔弱い」の物差しで一応考えることができますが、むしろここでは、個々の具体的な内容をリストアップすべきだと思われます。
 B解離(⇔自己同一性):次に浮かぶのは、最もシンプルな防衛機制としての解離とその結果生ずる様々な度合の自己同一性障碍です。
 この防衛機制を全く使用していない人というものは想定できませんので、「全面的⇔部分的」或いは「強い⇔弱い」で考えることができるでしょう。
 Cアウェイ機制(⇔内省機能):次に浮かぶのは、アウェイの機制です。アウェイの機制の逆方向は「ホームに目を向けること」即ち内省機能です。
 アウェイの場所によって、様々な防衛パターンが生まれます。「遠い⇔近い」で考えることができるでしょう。
 D「内界」と「外界」の支配バランス(外界認知の分化度):これはいわゆる現実検討能力に関係し、病態水準を決定づけます。
  • 内界≫外界(外界の一般に共有された公的現実に比べて、内界の私的空想の方が圧倒的に優位な場合で、外的現実が十分に把握されていない為に現実離れした「幻覚妄想」を呈する)⇒精神病水準
  • 内界≒外界(内的現実をそのまま外的現実と見做しており、それに必要な現実把握はできている為に、周囲を巻き込んだ形のトラブルが生じる)⇒パーソナリティ障碍水準
  • 内界≪外界(内的現実よりも外的現実を重視する姿勢が定着している)⇒健康水準
 これらが真に独立した次元として扱われ得るのかどうか(@とA、BとCとD)、また、これらの他に無いのか、筆者にはまだ十分な検証ができていません。特にCとDはいずれも、原体験に通ずる直接的体験間接化する能力に深く関係しているでしょう。
 しかし、いずれにせよこのような捉え方をすることで、例えば解離性障碍統合失調症、或いは広汎性発達障害統合失調症の「鑑別診断」といった問題が、実は見かけ上の問題に過ぎなかったことが明らかになると思われます。