「パーソナリティ障碍」
或いは
「境界例」
「被虐待児症候群」
「アダルト・チルドレン」
「傷ついたインナーチャイルド」
「パーソナリティ障碍」
なんと素朴で誤解を招く言葉でしょう!
これは、「精神病」のように現実離れしているでもなし、
「神経症」のように何かの症状で悩んでいるでもなし、しかし、
人間関係がどうもいつもうまく続かずトラブル・メイカーになっていたり、
あるいは、何かとても生き辛そうな様子であったり、そういう人達に対して、
精神医学が、苦し紛れに(?)つけたラベルです。
もちろん
過食や自傷行為や希死念慮などの
「症状」を訴えられることも少なくないのですが、
神経症の症状がご本人にとって違和感があるのに対して、
その「症状」は多くの場合ご本人にとって余り違和感が無いものです。
このような病態は
当初、力動精神医学にとっては
「精神病」と「神経症」という二つの病態水準の
「境界線(ボーダーライン)」を意味していたのですが、
いつの間にか、「病気じゃないゾ、性格だゾ」というわけで、
アメリカ精神医学会の診断マニュアル第3版(DSM‐Ⅲ)以降
第1軸の「臨床疾患,及び他の臨床的関与の対象となることのある状態」
とは別の
第2軸に記録されることになりました。
因(ちな)みに、臨床上、
いわゆる「精神的虐待」をはじめとする
各種の「虐待」や親子関係のシヴィアな問題を経験していて、
発症時にも尚、強い家族内葛藤を抱えているケースが少なくありません。
(これはしばしば、結婚後、新しい家族内に「転移」されています。)
そのようなケースではむしろ広義の「被虐待児症候群」と
呼ぶ方がよいのではないか、と筆者は
近頃考えています。
近頃目にするこれとよく似た概念として、
アダルト・チャイルド AC
というのと
「傷ついた子供(インナーチャイルド)を内に抱えた大人(アダルト)」
というのとがあります。
両者は時に
(恐らく誤って)
同一視されていますが、
実は出自の全く異なる概念です。
筆者は当初、
アダルト・チャイルド
(複数はアダルト・チルドレン)
という言葉から、親が問題を呈していた為に、
早くから「親の親」として「大人びた振る舞いを強いられた
子供達」のことかと思っていました。本当のところは次のようです。
即ち、
元々は「アルコール依存症者のいる家庭で育った子供達」
(後に「機能不全家庭の中で育った子供達」と一般化されています)の
グループワークの参加者の内で、既に大人(アダルト)になっている人達をも
「子供達(チルドレン)」と呼ぶわけには行かないだろう、ということで、
「大人(アダルト)になった、機能不全家庭で育った子供達(チルドレン)」
の意で用いられた言葉のようです。
しかし、結果的に
そのような人達は一般に、内に
傷ついた「インナーチャイルド」を抱えている
のですから、結局は両者は(偶然にも)同じ対象を
指すことになっている、とも言えます。
(⇒「こころの成り立ち」)
これらの病態は、
上述の如く、アメリカではDSM‐Ⅲ以降
第1軸の「臨床疾患,及び他の臨床的関与の対象となることのある状態」
とは別の、第2軸に記録されることになりました。だからと言って、
そうすることで
「決して、その病因または適切な治療が
第1軸にコード番号をつけて記録される疾患に対するものと
基本的に異なることを意味すると考えてはならない」と
ちゃんと書かれてはいますが、
「まぁ病気なら薬でなんとかなるけど、性格じゃ
どうせ変わらないから…」という素朴な考え方と共鳴して、
初めから全く相手にしない精神科医も
多いと聞きます (-_-;)
とは言っても、
「では、いつでもどんな事情でも
精神医療の対象とすべきなのか?」と問われれば、
「そうではない」と思います。
「精神病」や「神経症」のような
「いかにも」という「症状」が無いために、
これらの人達も周りの人々も「病気」とは思いにくく、
実際、精神医療にかからずに生活しておられる方々も
沢山居られると思いますし、まぁそれができれば
それに越したことはないとは思います。
そういう意味では、これを第2軸に位置づけた
DSM‐ⅢやDSM‐Ⅳを一概に不当だとは言えません。
まず、その辺りを見ておきましょう。
0.治療の条件
筆者は現在、
パーソナリティ障碍が治療の対象となるのは、
ご本人に「治そう」という意思がある場合に限られる、と考えています。
もちろん、
「意思」であるよりは
「意志」である方がなおよいのですが、
残念なことに、神経症の場合とはやや異なり、
そのような「意志」を担う自我の存在(或いは「働き」)
を初めのところで期待するというわけには行きません。
それでも、せめて「治そう」という思い(意思)が無いと
治療は成立しないのです。
精神病の場合にも、
治療拒否はしばしば見受けられます。
それでも多くの場合、治療の対象とされます。
では、パーソナリティ障碍と精神病では、
事情がどう違うのでしょう?
精神病に於ける治療拒否は、殆どの場合
①被迫害的不安に彩られた幻覚妄想(「周(まわ)りは皆敵だ!」)
②「精神病と言われる=人間からの脱落だ」という強い怯(おび)え
の二つのいずれか、または両方に基いています。
故に、①の不安や②の怯えを手当てすることは、
それがたとえご本人の意思に逆らっての事であっても、
人道的にも医療倫理の観点からも正当化されるのだと思います。
これに対して、
パーソナリティ障碍の場合には、
それに圧倒されて幻覚妄想をきたすほどには
被迫害不安は強くなく、むしろ慢性的に自己不全感を抱かされ、
過度に防衛的で、自分や他人を信頼し大切にすることができないでいる
ことの延長上に治療拒否が存在します。その防衛は、耐え難く思われる
辛い思いや苦しい思いを回避する為に動員されています。
そしてその結果、空虚感や孤独感に
陥(おちい)っています。
しかし、
自己不全感にしても、
辛い思いや苦しい思いにしても、実は
誰の心にも存在する人間一般に共通する思いだ
と言えます。つまり、誰も取り去ってあげることなどできない
ものなのです。
「程度に差があるじゃないか」と
仰(おっしゃ)る方もおられるかも知れませんね。
確かにそうでしょう。その「程度」を決めるのは、他ならぬ
「体験するその人自身」ですから、そう言われれば実際、
反論のしようがありません。
その時に
私達が拠り所とし得る
ものがあるとすれば、それは、
「皆、人間であるという点では同じだ」
という事実のみです。
ここで
ネタを明かしてしまえば、
パーソナリティ障碍の「治療」とは、
この何人も逃れることのできない辛さや苦しさを
「そういうものとして受け止める」手助けに過ぎない
とも言えるでしょう。ですから、それを望まない人には
どうしたって「治療」を提供しようがないわけです。
この事と関連して、
パーソナリティ障碍と無関係ではない触法行為に関しても、
ご当人にそれを「治そう」という意思が認められなければ、
「精神疾患によるもの」と見做(な)すことはできないでしょう。
1.「パーソナリティ障碍」の基本的理解
「こころの理解」
という観点から言えば、
「神経症」であろうと「精神病」であろうと、
その人のパーソナリティ(即ち、比較的身についた、
その人の対人的対処パターン)と無関係な病態は、まずありません。
しかし、
殊更に「パーソナリティ障碍」と言われている事象には、
次のような特徴があるようです。
|
A) 「辛さや葛藤を感じて抱えることは普通ではない」と思っている。 |
これらの特徴は、
「アウェイの論理」とまとめることができます。
サッカーで言う「ホーム/アウェイ」の「アウェイ」です。
これは、幼児がようやく周りの現実は見えて来たけれども、未だ
それを見ている「自分」という存在を自覚していない時期に相当します。
発達のこの時期は、「目に見えるもの」もう少し厳密に言えば
「直接具体的に感じ取ることのできるもの」が全てです。
自分の「身体」は目に見えますし直接具体的に
感じ取ることができます。
不安や苦悩、喜怒哀楽といった「感情」も
直接具体的に感じ取ることができます。しかし、
「責任ある主体」としての自分は目に見えず、直接具体的に
感じ取ることもできません。ですから、私達から見てその人の在り方の
問題だと思われる場合でも、その本人には相手や身体の問題のように、つまり
問題は「こちら(ホーム)」ではなく「あちら(アウェイ)」に在るように
見えるのです。⇒「アウェイ」機制と自己消去
同じ事ですが、次のようにも
言えます。つまり、
「パーソナリティ障碍」と言われる人達は、
自分の中にイヤな思いや辛い/苦しい思いを「抱える自分」
というものを十分に発達させることが、不幸にしてできていないのです。
彼達/彼女達は、周りの現実(アウェイ)を比較的正確に把握するところまで発達した
種々の能力を専(もっぱ)ら、自分の中に不安や苦悩が生ずることを避ける為に
用いて、自分の責任領域(ホーム)を作らないようにしてしまっています。
それは恐らく、そのような思いをすることが幼い子供にとっては
「身の破滅」のように感じられるからでしょう。
このような在り方は実のところ
「ひたすら目に見えるモノを操作する」という
現代の物質文明にとてもマッチしています。
この境界例/パーソナリティ障碍が
20世紀半ばに物質文明最先進国のアメリカで注目されだし、
このところ日本でもとみに増加しているように見受けられることは、
決して偶然ではないでしょう。
しかし、
現実の生活では
自分の思うようにならない事も多く、
人はそのたびに辛(つら)く苦(くる)しい思いに襲われます。
それらを避けようとすれば、どうしてもそれに都合よく協力してくれる
人物が必要です。そこでこれらの人々は、周囲の誰かに
くっつきながら、その人物との間で種々の
悶着を起こすことになる
のです。
では、
このような在り方は
本人にとって本当に都合がよいことなのか、
と言いますと、実は多くの場合そうではないと思われます。
自分の責任領域(ホーム)を作らないでいることは一見楽なようですが、
「自分が生きている」という実感を産み出しません。
「辛」は「からい」、「苦」は「にがい」、とも読みますが、丁度
「からさ」や「にがさ」を避けようとすれば、奥深い味わいを知ることができないように、
「つらさ」や「くるしさ」を避けようとすれば、人生の奥深い味わいを避けることとなり、
結局のところ空虚感や孤独感に苛まれるようになってしまいます。
昨今、若年層の「うつ」も取り沙汰されるようになりましたが、
その大半はここに記した在り方と無関係ではありません。
ここまで読んで来られた皆さんはどなたも、
「こういう面、私にもある」と感じておられないでしょうか。
そう感じられることは、決しておかしな事ではありません。
人の心はあたかも地層のように、
古いものの上に新しいものが積み重なってできています。
積み重なる間に過去のものも変化して行っているのですが、
そこを掘り下げていくと色んな過去の「遺物」も出てきます。
以上のような側面も誰もが持っているはずのものです。
大切な事は、
それらの面に気づいているか、自覚しているか、
ということなのです。
2.最初の出会い~治療の始め方(始めない方)
ご本人の治療へのスタンスによって、対応は異なってきます。
1)ご本人が治療を積極的に望まれる場合
大抵は、
空虚感~抑鬱気分~希死念慮、
対人恐怖~被害関係念慮、頻回のパニック発作、
種々の行為化( 自傷行為、過食嘔吐、薬物依存etc. )、
種々の身体化症状
などでの受診となります。この場合には、
治療的インタヴュー/カウンセリングを中心に、
安定剤や抗鬱剤や睡眠導入剤を
( 初めから過大な期待を抱かないよう説明しながら )
補助的に利用する、といった治療になります。
意外に思われるかも知れませんが、
筆者の印象では、
ご本人が治療を中断なさらなければ、
3~4年でかなり改善するものです。
2)ご本人が治療を積極的には望まれない場合
家族や友人の勧めで
受診される場合に相当します。
この場合には、
何が問題となってきているかを十分に話し合った上で、
治療を始めるか否かはご本人に改めて
考えて頂きます。
3)ご本人が治療を強く拒否されている場合
これは典型的には、
激しい家庭内暴力や自殺企図など
「かなりの問題」が生じていて、
ご家族が関係機関などに相談の上、
無理に連れて来ておられる場合です。
(「無理に」と言うと何か悪い事のように
聞こえるかも知れませんが、
決してそういう意味ではありません。
「放っておけないので仕方なしに本人の意に反して」
という意味です。)
「かなりの問題」が生じていなければ、
ご本人が強く拒否しているのに
それをおして精神科に連れて来る、
ということは、まず無いでしょう。
この場合も、外来でお会いすると、
錯乱状態であることはまずないので、
受診に至った事情を確認し、
治療を始めるか否かを
考えて頂くのが基本です。
しかし、しばしばここで、
ご本人と連れて来られたご家族とが
激しく言い争うことになったりします。そして、
当方の仲裁にもかかわらずご本人が冷静になれず、
かつ「問題」の再発が避けられないと判断されれば、
その時点でこちらのその判断を一同にお伝えし、
「入院治療が可能かつ望ましいであろうこと」を宣言します。
これでご本人が少し我に返って
入院治療に同意されれば、「任意入院」となります。
なお激しく抵抗される場合は、家族の同意が得られれば
「医療保護入院」という強制入院に踏み切ります。
家族の同意が得られなければ無論、
仕方が無いのでお引取り頂きます ![]()
3.「パーソナリティ障碍」の治療
治療的インタヴュー/カウンセリングは、
「アウェイ構造」に留意しながら
「治療の基本」に沿って進めて行くことになります。
(よろしければ、裏のページ『治療論』も参照して下さい。)
ここでは、
よくある「症状」について、
若干の「言葉」の処方を試みてみましょう。
| 1)「死にたい」 私もとても惨めな気持ちになって、死にたくなったことが 無いわけではありません。そんな時に救いになった二つの 言葉/命題があります。 一つは、『おきざりにした悲しみは』という吉田拓郎の歌の 出だしの「生きて行くのは、あぁみっともないさ 」という言葉 です。「あぁ皆そうなのか」と妙に安心できたものです。 もう一つは、「世界の中心は自分だ」という命題です。 『世界の中心で愛を叫ぶ』という映画がありましたが、要するに 「世界」は常に「自分の世界」であり「自分あっての世界」だ、 ということです。自分が死ねば「世界」も同時に消滅する のですから。 仏教では、ブッダが生後間もなくにして「天上天下唯我独尊」と 宣言した、と言われています(要するに赤ん坊の泣き声は 「自分が世界の中心だ!」と叫んでいるのだ、という洞察 でしょう)。 この「世界の中心は自分だ/自分が世界の中心だ」という 命題は、全く正しい命題で、とても重要な命題でもあります。 というのも、「アウェイになっている」というのは、この「自分が 世界の中心だ」という事実を失念しているところに成り立って いるのです。自分が「世界」の中心であるにもかかわらず、 そのことに気づかず「世界の中心はそっちだ」と言っているのが 「アウェイの構造」なのです。 例えば、コペルニクス以来、「地動説」(地球が太陽の周りを 回っている)が正しいとされていても、私達から見れば依然 太陽が地球(にいる私達)の周りを回っていることに変わりは 無い、ということと同じです。 2)「消えてしまいたい」 これは通常、辛い思いを消したい⇒それを感じている自分を 消したい、というところから来ています。これにも二つ。 一つは、「自分」は気持ち(辛い思い等)の容れ物であって、 中身である気持ち(辛い思い)よりも「大きい」ということです。 もう一つは、身体さえ生かしておけば消えてもよい、という こと。身体さえ生きていれば、心はまたよみがえります。 要するに 気持ち⊂自分⊂身体 ということです。 3)「生きている意味が分からない」 これは「消えてしまいたい」の哲学ヴァージョンです。そして、 哲学は古来この問いを問い続けています。と言うことは、この 問いに「一般解」は存在しないということでしょう。自分なりの 答えを見出すしか無いわけです。 そこで一つは、その答えが見つかるまでは生きてみる。 もう一つは、生きることそのものが意味あることだと思う。 4)「自分は意味の無い存在だ」 これも「消えてしまいたい」の別ヴァージョンです。これには、 古来「意味のある存在」など一人もいなかった。それでも、 つまり意味が無くても、存在は許されている。 もう一つの答えは、自分のことを「意味の無い存在だ」と 決めつけていじめているのは自分自身に過ぎないということ。 所詮、筆者にもこの程度の考えしか無いのです。 どうか安心して生きて行って下さい m(_ _)m |