1.概念とおおよその特徴
近代以降「精神疾患」は、奇妙な身体症状や行動障害を示す「神経症」と現実を無視した言動を来たす「精神病」とに大別されていました。そのどちらにも入らない問題に対して「精神病質」や「異常性格」などという概念も有るには有りましたが、援助の為よりはむしろ疎外の為の概念でした。
ところが20世紀半ばから、一見「神経症」のようですが、精神療法的関わりを行うと幻覚妄想などの「精神病」症状や激しい攻撃や自傷行為を来たす事例が増えて来ました。それらは当初「神経症」と「精神病」の「あいだ/境い目」という意味で「境界(線)例」borderline caseと呼ばれていましたが、1980年のDSM-Ⅲ(アメリカ精神医学会の診断分類マニュアル第3版)の登場以来、「パーソナリティ障碍」と総称されています。
「パーソナリティ障碍」は「人格障碍」と訳されていましたが、日本語の語感で「人格が障碍されている」となると余分な負の価値ニュアンスは拭えませんので、このHPでは日本語としては曖昧な「パーソナリティ障碍」を採用しています。最近の「認知症」という命名法に倣えば、disorderも「障碍」ではなく「症」くらいが良いのでしょう。筆者は「対人関係症」とか「(排他的)二者関係症」でも良いかと思っています。
その中でも、多くの臨床像から類型化されてきた「特定のパーソナリティ障碍」としては次のようなものが挙げられていて、「境界」borderleneという名称は、それらの中の一つを特に指し示すことになりました(下記の「特定のパーソナリティ障碍」はDSM-ⅣとWHOのICD-10を参照していますが、一言ずつのコメントは筆者の臨床経験からのもので、若干偏(かたよ)っているかも知れません)。
パラノイド・パーソナリティ障碍 Paranoid Personality Disorder
アグレッシヴかつ猜疑的で、「木を見て森を見ず」ということになり易いです。
[補足]パラノイア Paranoia
「パラノイア」は、「ヒステリィ」などと同じく今は余り使われなくなった歴史的な病名です。最新の疾患国際分類(ICD-10)では、症候面に着目すれば「妄想性障碍」delusional disorder、パーソナリティに着目すれば「妄想性(パラノイド)パーソナリティ障碍」といったところになりますが、ややこしいことに、両者を重ねて診断してはいけないことになっています。
その内実は上述の如く「木を見て森を見ず」なのですが、かなり強力な屁理屈(部分的にそこだけ見れば正しいが、大局的総合的に見ると無理のある理屈)をこねることができます。
高い知性を有する場合も少なくないのですが、その知性はもっぱら自分の着想(恐れや願望)が正しいことを主張する為に動員されています。結果的に、精緻な「妄想体系」を構築している場合もあります。直接的に体験できる、とても具象的な次元に囚われていますので、眼前の現実を超えた大局観が持てないのですが、見えた範囲の事象をなかなか合理的につなぐことができますので、簡単には論駁できないことも多いのです。
スキゾイド・パーソナリティ障碍 Schizoid Personality Disorder
控え目ながら少々気難しく、高踏的で孤独を好むように見えます。
スキゾタイパル・パーソナリティ障碍 Schizotypal Personality Disorder
とても空想的で、現実離れした着想を信じています。
非社会性(反社会性)パーソナリティ障碍 Dis(Anti)social Personality Disorder
温かい愛情を求めつつ、周囲の人々や社会に恨みを抱いています。
情緒不安定性パーソナリティ障碍 Emotionaly Unstable Personality Disorder
衝動型(impulsive type)
境界型(borderline type)=境界パーソナリティ障碍 Borderline P.D.
演技性パーソナリティ障碍 Histrionic Personality Disorder
周囲にアピールし、賞賛やヘルプを求めます。
自己愛パーソナリティ障碍 Narcissistic Personality Disorder
自分は特別に有能で愛されるべき存在だと信じています。
不安性(回避性)パーソナリティ障碍 Anxious(Avoidant) Personality Disorder
傷つきを極端に恐れて、それを避けようとします。
依存性パーソナリティ障碍 Dependent Personality Disorder
自らを無能だと思い、頼りになる人を求め縋(すが)ります。
強迫パーソナリティ障碍 Anankastic(Obsessive-Compulsive) P.D.
外的枠組みに過度にこだわり、専(もっぱ)らそれを頼りにします。
抑鬱パーソナリティ障碍 Depressive Personality Disorder
軽佻型パーソナリティ障碍 Haltlose Personality Disorder
受動攻撃パーソナリティ障碍 Passive-Aggressive Personality Disorder
一見従順に見えながら、妙に非能率的であったりして相手を苛々させます。
拒絶性パーソナリティ障碍 Negativistic Personality Disorder
尚、心的外傷やPTSDの研究者ジュディス・ハーマンHerman,J.L.によれば、アメリカでは既に「境界パーソナリティ障碍」という診断名も、「身体化障碍」「多重人格障碍」と共に、かつての「ヒステリィ」Hysterie,hysteriaの下位病名として、侮蔑的意味合いを伴っているようです。彼女は書いています。
―もっともひどいのが境界パーソナリティ障碍という診断名である。この用語は精神保健関係者によってよく使われるが、それは高級な学問の装いの下で人を中傷する言葉に過ぎない。ある精神科医は無邪気にこんなことを白状している。即ち「研修医の時の思い出ですが、僕は指導医に境界パーソナリティ障碍の患者をどう治療したらよいのでしょうかと質問したらですね、皮肉っぽい語調で“他に紹介したまえ”という答えをもらいました」。(参考図書『心的外傷と回復』193頁)
残念ながら日本でも同じような現象が起こっているようです (-_-;)
さて、
このような事情からも、
ハーマン女史は、「パーソナリティ障碍」に替えて
「複雑型PTSD」complexPTSDという捉え方を
推奨されているようです。
この場合の
「心的外傷」の元となるとされる
「乳幼児期から反復された被虐待体験」というのは、
先ずは主観的な次元のお話で、
フロイトが「心的現実」と呼んだものに相当します。
とは言うものの、古来「火の無い処に煙は立たぬ」と言われますように、
養育者側の子供への適応に何らかの失敗があった可能性は否定できません。
しかしそれはさしあたって子供の側から見て「子供がそう体験した」というお話であって、
客観的に「虐待」と認識すべき事態が現実に存在したか否かというのとは
次元を異にするお話なのです。
この事は、当HPの
「統合失調症の三重外傷仮説」に言う
「外傷」概念にも当て嵌まります。
しかしながら、
執拗な「言葉による貶(おとし)め」や
繰り返された「生死にかかわるほどではない折檻」や
一時的な「性的いたずら」や、家庭崩壊による保護的環境の喪失なども、
一種の「準虐待状況」と見做してよいのだとすれば、
明白な「虐待」及び「準虐待状況」は
「パーソナリティ障碍」
と診断される人々の成育史に於いて
かなり高率に認められるようです。実際のところ、
「ほぼ全例」と言っても過言ではないように思われます。
ですからやはり、ハーマン女史の言うように、
「パーソナリティ障碍」という病態は
基本的には「広義の
被虐待児症候群」
なのかも知れません。
詳細な疫学的調査が待たれるところです。
しかし、
仮にたとえ上記のような
虐待的状況が存在していたとしても、
事情を知る関係者の証言等でそれを確認する前に、
「パーソナリティ障碍」とまとめられている横断的特徴のみから
いきなり「複雑型PTSD」或いは「被虐待児症候群」と呼ぶことにも
少々無理があるように思われます。
従ってここでは、
上述のような問題が存在することは承知しつつも
一般にも流通している「パーソナリティ障碍」という名称を
使用させて頂くこととします。 |
2.「依存・嗜癖」と「パーソナリティ障碍」
尚、「パーソナリティ障碍」は、以下に触れますようにアルコールやシンナー、各種薬物の乱用/中毒、更にギャンブル依存やセックス依存、摂食失調、自傷行為をも含めた「依存・嗜癖」と密接な関係にあります。先のハーマン女史も、身体表現性障碍や解離性障碍、摂食障碍や薬物依存等がここで「パーソナリティ障碍」と呼ばれる病理の上に発症していることが多いことを指摘しています。元々「複雑PTSD」を惹き起こし易い「機能不全家庭」の代表が「親がアルコール依存症の家庭」だったことを考えると、「依存・嗜癖」の病理と「パーソナリティ障碍」の病理が密接な関係にあっても不思議は無いでしょう。
3.臨床的特徴とその理解
先に挙げたものはあくまでも主要な典型例に過ぎませんが、それでも個々の特徴について詳しく説明するととても大部なものになってしまいます。そこで、ここではそれらに共通する基本的な特徴のみを述べます。
A) 「辛さや葛藤を感じて抱えることは普通ではない」と思っている。
その為に、苦痛を感じている自分を消そうとして自殺企図に至る。
⇒大量服薬(“OD”)の形をとることが多い。
また、それらの苦痛を紛らわす為に、食べることや薬物に溺れ易い。
⇒過食(+嘔吐/+下剤乱用)、薬物依存
(過剰に食べることは、次項の空虚感を代償する行為でもあり得ます。)
それらの行為をとらない場合は抑鬱を呈する。
B) 具体的に目に見えるものが全てである。見ている自分の存在には
まだ気づいていない。その為に「問題は全て目に見える方の側に在る」と
感じてしまう。
その結果しばしば他罰的攻撃的で、自分の在り方の問題には余り目が
向かない。結果的に癒し難い慢性の空虚感に苛まれている。
そして、目に見える自分の身体を傷つけ、流れる血を見てこころの緊張を
和らげ、或いは自己の実在感を感じることも少なくない。
⇒ “リスカ”wrist cut・“アムカ”arm cut・その他の自傷行為
(タトゥーやピアッシングに進化していることもあります。)
C) 一人で居ることが困難で、常に自分を抱え支えてくれる相手を必要とする。
そのような相手が居てもしばしば、「見捨てられる」という不安から執拗に
相手を試し、攻撃してしまう。または、被害妄想や嫉妬妄想を抱く。
D) 自分を支えてくれる相手が期待どおりにしてくれなかったり
居なくなったりするとパニックとなり、恐怖や怒りに支配される。
(時には、一過性に精神病性混乱状態にさえ陥ります。)
【アウェイの論理】
これらの特徴は、「アウェイの論理」とまとめることができます。サッカーで言うhome/awayのawayです。これは、幼児がようやく周りの現実は見えて来たけれども、未だそれを見ている「自分」という存在を自覚していない時期に相当します。
発達のこの時期は、「目に見えるもの」もう少し厳密に言えば「直接具体的に感じ取ることのできるもの」が全てです。
自分の「身体」は目に見えますし直接具体的に感じ取ることができます。不安や苦悩、喜怒哀楽といった「感情」も直接具体的に感じ取ることができます。しかし、「責任ある主体」としての自分は目に見えず直接具体的に感じ取ることもできません。ですから、私達から見てその人の在り方の問題だと思われる場合でも、その本人には相手や身体の問題のように、つまり問題は「こちら(ホーム)」ではなく「あちら(アウェイ)」に在るように見えるのです。⇒「アウェイ」機制と自己消去
同じ事ですが、次のようにも言えます。つまり、「パーソナリティ障碍」と言われる人達は、自分の中にイヤな思いや辛い思いを「抱える自分」containing selfというものを十分に発達させることが、不幸にしてできていないのです。
[補足]「植えつけられた罪悪感」と「アウェイ構造」
「パーソナリティ障碍」ないし「精神病」の患者さんは、治療の過程でこの「そっちのせいだ/問題は見える側にある」とするアウェイ構造が緩んできた時にしばしば、今度は正反対に過度に「自分のせいだ/自分が悪い」と自分を強く責めだされます。
この過度の罪悪感は、仮に「原罪」として生まれながらに持ってきたものがあるとしても(筆者はそこまでは考えませんが)、養育過程に於いて「お前のせいだ/お前が悪い!」という形で改めて植えつけられた(刷り込まれた)ものの筈でしょう。そしてアウェイの構造は、その耐え難い苦痛からの退避の手立て(つまり防衛)として用いられ強化させられたものなのでしょう。
これら人達は、周りの現実(アウェイ)を比較的正確に把握するところまで発達した種々の能力をもっぱら、自分の中に不安や苦悩が生ずることを避ける為に用いて、自分の責任領域(ホーム)を作らないようにしてしまっています。それは恐らく、そのような辛い思いをすることが幼い子供にとっては「身の破滅」のように感じられるからでしょう。
例えば、養育者が子供が自分と同じように考えないと気がすまない人であったとしましょう。
この場合、子供には「自分の考えを持つ(即ちホームを作る)」ということが許されません。その結果子供は「自分の考えを持つ」ということをしない為に懸命に「考える」ようになります。つまり、この人達にとっては「考えない」ということが「考える」ということになるのです。そうしてごく自然に、「現実に考える」のは専ら自分以外の周囲の人、という構造が作られます(これはアウェイの構造の一つの典型です)。
このような在り方は実のところ「不安や苦悩を回避する為にひたすら目に見えるモノを操作する」という現代の物質文明にとてもマッチしています。
この境界例/パーソナリティ障碍が20世紀半ばに物質文明最先進国のアメリカで注目されだし、このところ日本でもとみに増加しているように見受けられることは、決して偶然ではないでしょう。
では、このような在り方は本人に本当に都合がよいのか、と言うと実は多くの場合そうではありません。
そのようにして防衛してみても、現実の生活では自分の思うようにならない事も多く、人はそのたびに苦しく辛い思いをします。それを避けようとすれば、どうしても都合よくそれに協力してくれる人物が必要です。そこでこれらの人々は、常に周囲の誰かにくっつきながら、その人物との間で種々の悶着を起こすことになるのです。
また、自分の責任領域(ホーム)を作らないでいることは「自分が生きている」という実感を産み出しません。ですから先述の如く、多くの場合、空虚感や孤独感に苛まれるようになってしまいます。
昨今、若年層の「うつ」も取り沙汰されるようになりましたが、その大半はここに記した在り方と無関係ではありません。
ここまで読んで来られた皆さんは「こういう面、私にもある」と感じておられないでしょうか。そう感じられることは決して間違いではありません。
人の心はあたかも地層のように、古いものの上に新しいものが積み重なってできています。積み重なる間に過去のものも変化して行っているのですが、そこを掘り下げていくと色んな過去の「遺物」さえ出てきます。
以上のような側面も誰もが持っているはずのものです。大事なことは、それらの面に気づいているか、自覚しているか、ということなのです。
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