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第Ⅸ章 パーソナリティ障碍とその周辺
 このページの内容
境界例またはパーソナリティ障碍
 1.概念おおよその特徴
 2.「嗜癖」との関係
 3.臨床的特徴その理解
  【アウェイの論理】
  [補足]「植えつけられた罪悪感」と「アウェイ構造」
 4.治療上の留意点
  1)「透明人間」「メッセンジャー」「実況中継」
  2)攻撃と密着
  3)行動化:二つの「自ショウ行為」
  [補足1]死と再生
  4)無自覚的策動と葛藤の外在化
  [補足2]「症状」のポジティヴな側面
  5)薬物への過度の期待(薬物依存傾向))
  [補足3]具象物への依存・嗜癖
  [補足4]依存症治療と愛情の在り方
  6)洞察のアウェイ化
摂食障碍
 1.臨床像
 2.病態
 3.治療
解離性障碍
 1.解離
 2.二重~多重人格
 3.幻聴
 4.幻聴二重~多重人格
 5.その他の解離現象
 6.解離症状と犯罪

ここでは、
「パーソナリティ障碍」
と呼ばれる事態のおおよその
特徴/構造、及びその病態と不可分の
「摂食障碍」と「解離性障碍」について
ごく簡単に解説を試みています。

ここではまだ
「パーソナリティ障碍」
という術語を使用していますが、
筆者らはこの命名が適切ではないと
考えています。
以下に触れていますように、
「パーソナリティ障碍」という術語も
既にその歴史的使命を終えつつある
のかも知れません。
境界例 Borderline Case
または
パーソナリティ障碍 Personality Disorders


1.概念とおおよその特徴

 近代以降「精神疾患」は、奇妙な身体症状や行動障害を示す
「神経症」と現実を無視した言動を来たす「精神病」とに大別されていました。そのどちらにも入らない問題に対して「精神病質」「異常性格」などという概念も有るには有りましたが、援助の為よりはむしろ疎外の為の概念でした。

ところが20世紀半ばから、一見「神経症」のようですが、精神療法的関わりを行うと幻覚妄想などの「精神病」症状や激しい攻撃自傷行為を来たす事例が増えて来ました。それらは当初「神経症」「精神病」の「あいだ/境い目」という意味で「境界(線)例」borderline caseと呼ばれていましたが、1980年のDSM-Ⅲ(アメリカ精神医学会の診断分類マニュアル第3版)の登場以来、「パーソナリティ障碍」と総称されています。


「パーソナリティ障碍」は「人格障碍」と訳されていましたが、日本語の語感で「人格が障碍されている」となると余分な負の価値ニュアンスは拭えませんので、このHPでは日本語としては曖昧な「パーソナリティ障碍」を採用しています。最近の「認知症」という命名法に倣えば、disorderも「障碍」ではなく「症」くらいが良いのでしょう。筆者は「対人関係症」とか「(排他的)二者関係症」でも良いかと思っています。


その中でも、多くの臨床像から類型化されてきた「特定のパーソナリティ障碍」としては次のようなものが挙げられていて、「境界」borderleneという名称は、それらの中の一つを特に指し示すことになりました(下記の「特定のパーソナリティ障碍はDSM-ⅣとWHOのICD-10を参照していますが、一言ずつのコメントは筆者の臨床経験からのもので、若干偏(かたよ)っているかも知れません)。

パラノイド・パーソナリティ障碍 Paranoid Personality Disorder
   アグレッシヴかつ猜疑的で、「木を見て森を見ず」ということになり易いです。
 [補足]
パラノイア Paranoia

 「パラノイア」は、「ヒステリィ」などと同じく今は余り使われなくなった歴史的な病名です。最新の疾患国際分類(ICD-10)では、症候面に着目すれば「妄想性障碍」delusional disorder、パーソナリティに着目すれば「妄想性(パラノイド)パーソナリティ障碍」といったところになりますが、ややこしいことに、両者を重ねて診断してはいけないことになっています。
 その内実は上述の如く「木を見て森を見ず」なのですが、かなり強力な屁理屈(部分的にそこだけ見れば正しいが、大局的総合的に見ると無理のある理屈)をこねることができます。
 高い知性を有する場合も少なくないのですが、その知性はもっぱら自分の着想(恐れや願望)が正しいことを主張する為に動員されています。
結果的に、精緻な「妄想体系」を構築している場合もあります。直接的に体験できる、とても具象的な次元に囚われていますので、眼前の現実を超えた大局観が持てないのですが、見えた範囲の事象をなかなか合理的につなぐことができますので、簡単には論駁できないことも多いのです。
スキゾイド・パーソナリティ障碍 Schizoid Personality Disorder
   控え目ながら少々気難しく、高踏的で孤独を好むように見えます。
スキゾタイパル・パーソナリティ障碍 Schizotypal Personality Disorder
   とても空想的で、現実離れした着想を信じています。
非社会性(反社会性)パーソナリティ障碍 Dis(Anti)social Personality Disorder
   温かい愛情を求めつつ、周囲の人々や社会に恨みを抱いています。
情緒不安定性パーソナリティ障碍 Emotionaly Unstable Personality Disorder
   衝動型(impulsive type)
   
境界型(borderline type)=境界パーソナリティ障碍 Borderline P.D.
演技性パーソナリティ障碍 Histrionic Personality Disorder
   周囲にアピールし、賞賛やヘルプを求めます。
自己愛パーソナリティ障碍 Narcissistic Personality Disorder
   自分は特別に有能で愛されるべき存在だと信じています。
不安性(回避性)パーソナリティ障碍 Anxious(Avoidant) Personality Disorder
   傷つきを極端に恐れて、それを避けようとします。
依存性パーソナリティ障碍 Dependent Personality Disorder
   自らを無能だと思い、頼りになる人を求め縋(すが)ります。
強迫パーソナリティ障碍 Anankastic(Obsessive-Compulsive) P.D.
   外的枠組みに過度にこだわり、専(もっぱ)らそれを頼りにします。
抑鬱パーソナリティ障碍 Depressive Personality Disorder
軽佻型パーソナリティ障碍 Haltlose Personality Disorder
受動攻撃パーソナリティ障碍 Passive-Aggressive Personality Disorder
   一見従順に見えながら、妙に非能率的であったりして相手を苛々させます。
拒絶性パーソナリティ障碍 Negativistic Personality Disorder


  尚、
心的外傷PTSDの研究者ジュディス・ハーマンHerman,J.L.によれば、アメリカでは既に「境界パーソナリティ障碍」という診断名も、「身体化障碍」「多重人格障碍」と共に、かつての「ヒステリィ」Hysterie,hysteriaの下位病名として、侮蔑的意味合いを伴っているようです。彼女は書いています。

もっともひどいのが
境界パーソナリティ障碍という診断名である。この用語は精神保健関係者によってよく使われるが、それは高級な学問の装いの下で人を中傷する言葉に過ぎない。ある精神科医は無邪気にこんなことを白状している。即ち「研修医の時の思い出ですが、僕は指導医に境界パーソナリティ障碍の患者をどう治療したらよいのでしょうかと質問したらですね、皮肉っぽい語調で“他に紹介したまえ”という答えをもらいました」。(参考図書『心的外傷と回復』193頁)

  残念ながら日本でも同じような現象が起こっているようです
(-_-;)
さて、
このような事情からも、
ハーマン女史は、「パーソナリティ障碍」に替えて
「複雑型PTSD」complexPTSDいう捉え方
推奨されているようです。

この場合の
「心的外傷」の元となるとされる
乳幼児期から反復された被虐待体験」というのは、
先ずは主観的な次元のお話で、
フロイト「心的現実」と呼んだものに相当します。
とは言うものの、古来「火の無い処に煙は立たぬ」と言われますように、
養育者側の子供への適応に何らかの失敗があった可能性は否定できません。
しかしそれはさしあたって子供の側から見て「子供がそう体験した」というお話であって、
客観的に「虐待」と認識すべき事態が現実に存在したか否かというのとは
次元を異にするお話なのです。
この事は、当HPの
「統合失調症の三重外傷仮説」に言う
「外傷」概念にも当て嵌まります。

しかしながら、
執拗な「言葉による貶(おとし)め」や
繰り返された「生死にかかわるほどではない折檻」や
一時的な「性的いたずら」や、家庭崩壊による保護的環境の喪失なども、
一種の「準虐待状況」と見做してよいのだとすれば、
明白な「虐待」及び「準虐待状況」
「パーソナリティ障碍」
と診断される人々の成育史に於いて
かなり高率に認められるようです。実際のところ、
「ほぼ全例」と言っても過言ではないように思われます。
ですからやはり、ハーマン女史の言うように、
「パーソナリティ障碍」という病態は
基本的には「広義の
被虐待児症候群
なのかも知れません。
詳細な疫学的調査が待たれるところです。

しかし、
仮にたとえ上記のような
虐待的状況が存在していたとしても、
事情を知る関係者の証言等でそれを確認する前に
「パーソナリティ障碍」とまとめられている横断的特徴のみから
いきなり「複雑型PTSD」或いは「被虐待児症候群」と呼ぶことにも
少々無理があるように思われます。
従ってここでは、
上述のような問題が存在することは承知しつつも
一般にも流通している「パーソナリティ障碍」という名称を
使用させて頂くこととします。

2.「依存・嗜癖」「パーソナリティ障碍」

 尚、「パーソナリティ障碍」は、以下に触れますように
アルコールシンナー各種薬物乱用/中毒、更にギャンブル依存セックス依存摂食失調自傷行為をも含めた「依存・嗜癖」と密接な関係にあります。先のハーマン女史も、身体表現性障碍解離性障碍摂食障碍薬物依存等がここで「パーソナリティ障碍」と呼ばれる病理の上に発症していることが多いことを指摘しています。元々「複雑PTSD」を惹き起こし易い「機能不全家庭」の代表が「親がアルコール依存症の家庭」だったことを考えると、「依存・嗜癖」の病理と「パーソナリティ障碍」の病理が密接な関係にあっても不思議は無いでしょう。

 3.臨床的特徴とその理解

 先に挙げたものはあくまでも主要な典型例に過ぎませんが、それでも個々の特徴について詳しく説明するととても大部なものになってしまいます。そこで、ここではそれらに共通する基本的な特徴のみを述べます。

 A) 「辛さや葛藤を感じて抱えることは普通ではない」と思っている。
   その為に、
苦痛を感じている自分を消そうとして自殺企図に至る。
   ⇒
大量服薬(“OD”)の形をとることが多い。
   また、それらの
苦痛を紛らわす為に、食べること薬物に溺れ易い。
   ⇒
過食(+嘔吐/+下剤乱用)、薬物依存
   (
過剰に食べることは、次項の空虚感を代償する行為でもあり得ます。)
   それらの行為をとらない場合は
抑鬱を呈する。

 B) 具体的に目に見えるものが全てである。
見ている自分の存在には
   まだ気づいていない。その為に
「問題は全て目に見える方の側に在る」
   感じてしまう。
    その結果しばしば
他罰的攻撃的で、自分の在り方の問題には余り目が
   向かない。結果的に癒し難い慢性の
空虚感(
さいな)れている。
    そして、目に見える自分の
身体を傷つけ、流れる血を見てこころの緊張を
   和らげ、或いは自己の
実在感を感じることも少なくない。
   ⇒
“リスカ”wrist cut“アムカ”arm cut・その他の自傷行為

   (タトゥーやピアッシングに進化していることもあります。)

 C) 一人で居ることが困難で、常に自分を抱え支えてくれる相手を必要とする。
    そのような相手が居てもしばしば、
「見捨てられる」という不安から執拗に
   相手を試し、攻撃してしまう。または、
被害妄想嫉妬妄想を抱く。

 D) 自分を支えてくれる相手が期待どおりにしてくれなかったり
   居なくなったりすると
パニックとなり、恐怖怒りに支配される。
   (時には、一過性に
精神病性混乱状態にさえ陥ります。)


アウェイの論理

これらの特徴は、「アウェイの論理」とまとめることができます。サッカーで言うhomeawayawayです。これは、幼児がようやく周りの現実は見えて来たけれども、未だそれを見ている「自分」という存在を自覚していない時期に相当します。

 発達のこの時期は、「目に見えるもの」もう少し厳密に言えば
「直接具体的に感じ取ることのできるもの」が全てです。
 自分の
「身体」は目に見えますし直接具体的に感じ取ることができます。不安苦悩、喜怒哀楽といった「感情」も直接具体的に感じ取ることができます。しかし、「責任ある主体」としての自分は目に見えず直接具体的に感じ取ることもできません。ですから、私達から見てその人の在り方の問題だと思われる場合でも、その本人には相手や身体の問題のように、つまり問題は「こちら(ホーム)」ではなく「あちら(アウェイ)」に在るように見えるのです。「アウェイ」機制と自己消去

 同じ事ですが、次のようにも言えます。つまり、「パーソナリティ障碍」と言われる人達は、自分の中にイヤな思い辛い思い「抱える自分」containing selfというものを十分に発達させることが、不幸にしてできていないのです。

[補足]「植えつけられた罪悪感」「アウェイ構造」
 「パーソナリティ障碍」ないし「精神病」の患者さんは、治療の過程でこの「そっちのせいだ/問題は見える側にある」とするアウェイ構造緩んできた時にしばしば、今度は正反対に過度に「自分のせいだ/自分が悪い」と自分を強く責めだされます。
 この過度の罪悪感は、仮に「原罪」として生まれながらに持ってきたものがあるとしても(筆者はそこまでは考えませんが)、養育過程に於いて「お前のせいだ/お前が悪い!」という形で改めて植えつけられた(刷り込まれた)ものの筈でしょう。そしてアウェイの構造は、その耐え難い苦痛からの退避の手立て(つまり防衛)として用いられ強化させられたものなのでしょう。


 これら人達は、周りの現実(アウェイ)を比較的正確に把握するところまで発達した種々の能力をもっぱら、自分の中に不安苦悩が生ずることを避ける為に用いて、自分の責任領域(ホーム)を作らないようにしてしまっています。それは恐らく、そのような辛い思いをすることが幼い子供にとっては「身の破滅」のように感じられるからでしょう。

 例えば、養育者が子供が自分と同じように考えないと気がすまない人であったとしましょう。
 この場合、子供には「自分の考えを持つ(即ち
ホームを作る)」ということが許されません。その結果子供は「自分の考えを持つ」ということをしない為に懸命に「考える」ようになります。つまり、この人達にとっては「考えない」ということが「考える」ということになるのです。そうしてごく自然に、「現実に考える」のは(もっぱ)自分以外の周囲の人、という構造が作られます(これはアウェイの構造の一つの典型です)。

 このような在り方は実のところ不安苦悩を回避する為にひたすら目に見えるモノを操作する」という現代の物質文明にとてもマッチしています。
 この
境界例/パーソナリティ障碍が20世紀半ばに物質文明最先進国のアメリカで注目されだし、このところ日本でもとみに増加しているように見受けられることは、決して偶然ではないでしょう。

 では、このような在り方は本人に本当に都合がよいのか、と言うと実は多くの場合そうではありません。
 そのようにして防衛してみても、現実の生活では自分の思うようにならない事も多く、人はそのたびに
苦しく辛い思いをします。それを避けようとすれば、どうしても都合よくそれに協力してくれる人物が必要です。そこでこれらの人々は、常に周囲の誰かにくっつきながら、その人物との間で種々の悶着を起こすことになるのです。

また、自分の責任領域(ホーム)を作らないでいることは「自分が生きている」という実感を産み出しません。ですから先述の如く、多くの場合、空虚感孤独感(さいな)れるようになってしまいます。
 昨今、若年層の「うつ」も取り沙汰されるようになりましたが、その大半はここに記した在り方と無関係ではありません


 ここまで読んで来られた皆さんは「こういう面、私にもある」と感じておられないでしょうか。そう感じられることは決して間違いではありません。
 人の心はあたかも地層のように、古いものの上に新しいものが積み重なってできています。積み重なる間に過去のものも変化して行っているのですが、そこを掘り下げていくと色んな過去の「遺物」さえ出てきます。
 以上のような側面も誰もが持っているはずのものです。大事なことは、それらの面に
気づいているか自覚しているか、ということなのです。

 4.治療的関与に際しての留意点事態が紛糾する幾つかの理由

 パーソナリティ障碍の治療は一般に厄介で難しいとされていますが、上記のような特徴に目を向けていると、それほど紛糾することはありません(どうしても多少は紛糾しますが…)。紛糾するのは、おおよそ次のような事情からです。

 1)「透明人間」「メッセンジャー」「実況中継」
 事態が紛糾する第一の理由は、患者さん達が見かけ上はそこに一人の主体的な大人として存在しているように見えても、
実際には主体として十全には存在していないことにあります。極端に言えばですが、心理的に(あるいは「対人関係の場に於いて」と言ってもよいでしょう)「透明人間」であると言えます。その為に、周囲から発するメッセージはことごとく患者さんを素通りしてあらぬ方へ行ってしまいます。しかし、関わる者はその事に非常に気づき難いものです。メッセージの発信者は、当然そのメッセージは患者さん本人に受け取られた、と思ってしまうので、認識にズレが生じるのです。
 同じことが
「メッセンジャー」という形を取ることもあります。つまり「あちらで聞いた事をそのままこちらに報告し、こちらで聞いた事をそのままあちらに報告する」という「メッセージ運搬人」的在り方です。そこに通常はあるべき「自分はこう受け止め、こう考えた」というプロセス存在しないのです。これはまた、恐ろしく具体的で詳細な「実況中継」(状況叙述)という形にもなります。

 2)攻撃密着
 事態が紛糾するもう一つの理由は、患者さんの中に生じた
不快感が、その不快感きっかけとなった目に前の状況の(それのみの!)せいである、と見做され、そちらへ怒りが向けられることにあります(⇒awayの構造)。その攻撃自体はなかなか的確で、しかも激しい場合が多いので、周囲の者には結構こたえます。

 他方、
自分の気持ちの受け皿となってくれるような相手とは
密着する傾向があります。そのようにして排他的二者関係を作り易いのです。しかしそれも、相手が常に完全な受け皿である、ということは不可能ですので、徐々に破綻して、そうなるとその相手もまた、上に述べたような攻撃の対象となってしまいます。

 アメリカの著名な精神分析的治療家マスターソンMasterson,J.F.は、このような
パーソナリティ障碍患者(マスターソンボーダーライン
患者と言っていて、特に境界(ボーダーライン)パーソナリティ障碍患者に焦点を当てているようです)の対象関係を分かり易く
WORUWithdrawing Object Relations Unit撤収型対象関係単位)
RORURewarding Object Relations Unit報酬型対象関係単位)
二つが統合されていない、と述べています。

 「撤収型」とは「養育者の愛情撤収に対応した型」という意味で、概ね「見捨てる/見捨てられる」「責める/責められる」「怒る/怒られる」という関係です。
 「報酬型」とは
「養育者の過度の“愛情”供給に応じた型」という意味で、概ね「護(まも)る/護られる」「誘惑する/誘惑される」というような関係になります。

 この互いに参照されずに(つまり、一方が現れる時には他方は全く無いかのように)現れる
攻撃
密着の極端さがまた事態を紛糾させます。


 攻撃の型の一つに「表情への攻撃とでも言うべきパターンがあります。これは、クライエントがこちらの僅かな表情を問題にして「いやな顔をしてまでして欲しくない」などと言う場合で、時には急に「何が可笑しいねん!医療従事者のくせにそんなことでええんか!」(大阪弁)などと激しく非難してくるような場合もあります。これは多くの場合、こちらがクライエントの言動に困惑したり厄介だと感じていたりしている時にまさにそのタイミングでなされますので、ますますこちらは窮地に追い込まれることになります。
 既にお分かりかも知れませんが、種明かしをすると、①まずクライエントが上記の
WORUに嵌(はま)っている、②WORUの中で、治療者は「自分を見捨てようとしている人物」として感じられる、③クライエントはその証(あかし)目の前に見えるものである相手の表情の中に「見出す」。④故にそのことを非難する、⑤一方治療者の方はしばしば、現実に(クライエントの言動へのごく自然な反応として)困惑やネガティヴな気持ちが動いているので(決してそれが心の主要部分を占め治療者の心を支配しているのではないにもかかわらず)クライエントの非難を完全には否定できず、罪悪感を抱かされ、部分的に困惑やネガティヴな気持ちが動くことさえ許されないことであるかのように思わされる、⑥その結果、クライエントの主張に全面的に同調せざるを得ないかのような気持ち(即ちRORU)に追い込まれてしまう、といった流れです。
 このような
攻撃がそれほど激しくなければ、上記の事情をゆっくり説明してもよいのですが、攻撃が激しい場合には端的に「そう思っているのは○○さんだ!」と強く返すことになります。


 3)行動化 acting out:二つの「自ショウ行為」
 もう一つ扱いの難しい問題に、
自傷行為リストカット
行きずりのセックスなど)と自殺企図があります。どちらも自分自身に向かう、なかなか放置し難い行動化なのですが、よく見ると、この二つは微妙に異なっているようです。

 自殺企図の方は「辛い気持ちを消したい!」がすぐに実現しないと、その思いを感じている自分を消すことになり「消えたい」となっています。それは必ずしも「死」を第一目的にしているのではなく、「辛い思いを感じている」ということを消すのが第一目的で、要するに意識さえ無くなればよい「自消行為」なのです。

 それに対して
自傷行為は、「自分が消えつつある/消えている」という自己存在の空虚感に対して「自分が生きている」ということを確認するのに役立っているようです

 このように考えると、
自傷行為の方は余程エスカレートしない限り(つまり、本人の生命に重大な危険が生じない限り)、目くじらを立てて禁止する必要は無いでしょう。難しいのは自殺企図です。
 「自殺」一般をどう考えるかという問題は、例えば「尊厳死」などの問題ともつながる難しい問題です。しかし、
ここで問題となっているのはあくまでも、「辛い思いを感じている」ということを消すということで、そう命令しているのは
「赤ん坊の心/原体験心性」です。その事に気がつくと、その事を話し合うことができます。そして例えば「今は脱皮の時期(死と再生の時期)なんだ、その赤ん坊の心は死んでいい、体さえ生き残ればいい」と言うことができます。

[補足1]脱皮を繰り返す蛇は、昔から「死と再生」のシンボルとされています。

 4)無自覚的策動葛藤の外在化(away化)
 問題を更にややこしくするのは、患者さんの言動、特に上記のような「行動化」が、リストカットなどの自傷行為にしても大量服薬のような「自消行為」にしても、まさに自show行為としてわざとらしく見えることです。「本当は生きたい(死にたくない)のに」とあたかも、周りの注意を惹いたり殊更に自分の苦境をアピールすることで、関係者から何らかの有利な反応を引き出そうとしているかのように感じられてしまいます
 人の言動の持つそのような側面を
コミュニケーション論では「策動」maneuverと呼びますが、パーソナリティ障碍圏の患者さんはあたかも意識的に策動しているかのように見えてしまうのです。そしてそこから、周囲の関係者(家族や医療福祉のスタッフ達)の中に、「わざと(=意識的に)甘えているのだ」といった反感なども生じます。
 しかし、実際のところはどうでしょうか?

 筆者の印象では、
パーソナリティ障碍圏の患者さんの言動に関して「本当はこう思っている」とか「いや、演じているだけだ」と言うことや、「意識的」か「無意識的」かを厳密に区別することはあまり意味が無いように思われます。むしろ「無自覚的」と言うのがピッタリくるようです。
 このような患者さんに於いては、相反する二つの考えや気持ちがしっかりと葛藤することがなく(
両価的ambivalent)、どちらかが片方を抑圧し無意識化することもできていません(「抑圧できていればよい」という意味でもないのですが)。相反する考えや気持ち(例えば「生きたい」と「死にたい」や「好き」と「嫌い」)がそのまま表出されるのです。

 ここの水準合わせを間違えると、患者さんのその都度の言動に振り回されたり、逆にどちらか一方の気持ちのみに肩入れしたりしてしまいます。ポイントは、葛藤の場としての自分という
homeが十分に成立していない、という事情です。

 パーソナリティ障碍圏のケースでは一般に家族療法が有効なようですが、それは、そのような患者さん達が心の中で葛藤するよりもむしろその葛藤を外在化(away化)、周囲の人達のシステム(その代表が「家族」というシステムです)の中に葛藤を現実化し易いからだと思われます。それ故、家族の力動的布置を変えることが直接に本人を変えるかのような効果を持ち得るのでしょう。

 [補足2]「症状」ポジティヴな側面
 これらの様々な
「問題行動」「鬱状態」は、アウェイ構造の結果であると同時に、実は生き延びる為の「智恵」であるかも知れません。ようく見聞きしていますと、これらの「症状」はしばしば「助けを求める叫び」であると同時に現在の生活をきわどいバランスで維持するものとして機能していることに気づかされます。
 5)薬物への過度の期待(薬物依存傾向)
 よく見られるもう一つのパターンに、薬物への過度の(つまり幻想的な)期待があります。今生じている問題(例えば「眠れない」「不安だ」「苛々する」「過食が止まらない」等)やそれによって今感じている辛さが、自分(home)以外の薬物という道具によって即座に完全に除去されることを期待し、「医者たるものは当然、そのようなを自分に与えるべきだ」と信じて疑わないのです。
 実際にはそんなに都合よく行くものでは決してないのですが、このような方々はなかなかその事を納得して下さいません。その為にじわじわと投薬量が多くなったり種類が増えたりし、気がつくと相当な量のを処方していることも遺憾ながらあります(それがまた「自消行為」(大量服薬)に使われたりすればもう最悪です (-_-;))。
 中には、特定の薬剤理想化して「指名」される方もおられます。勿論、過去に服用した経験から「これがよかった」と仰るのであれば(それが公認されている薬効と大きく矛盾しない限り)こちらも特に異議を唱えませんが、そうでないこと(例えば誇張された或いは(かたよ)た情報に基くこと)もしばしばです。

 例えば「眠れない」にしても、それだけを問題と考えると増薬に走ってしまいがちですが、多くは生活全体の問題です。「苛々」「不安」にもそれなりの原因はあるものですし、生きている限りある程度は避けられません。それらを消すのではなく、むしろ抱えたままでいる練習こそが治療的です。「過食」もまた(事情はじっくり探るとして)まずは対処行動を工夫すべきでしょう。
 [補足3]具象物への依存・嗜癖
 実はこのような依存の対象は「薬物」に限りません。人間対象との抜き差しならない排他的2者関係という依存については既に述べていますが、直接に知覚することのできる具象物への依存もまた、この病態に陥っておられる方々の特徴です。薬物への依存傾向はその一つに過ぎないのです。
 例えばコーヒーやタバコなどの嗜好品は言うに及ばず、ウォークマン®やケータイやゲームといった視聴覚に訴える道具もそこに数え入れることができます(これらは、授乳する乳房赤ん坊をあやす母親お気に入りの縫いぐるみといった、「赤ん坊」の不安を宥(なだ)め鎮(しず)める働きを持った「移行対象」Winnicott,D.W.)或いは「自己対象」Kohut,H.)なのでしょうが…)。

 [補足4]「嗜癖/依存症」治療に於ける愛情の在り方について

1995年以降、麻薬/覚醒剤の戦後第三次の乱用期が続く中、依存症の問題は避けて通れなくなって来ていると思われます。筆者は依存症治療を専門にして来た者ではなく、精神科医ではあってもこの領域ではこれまで「非専門的関係者」の域をいくらも出ていませんでした。しかし最近、何例かの治療経験に専門諸家の見解を合わせて思い至った事が有りますので、ここに記してみます。
 それは、依存症者に対する「愛情=抱えること/理解することholding/containing」を巡るディレンマついてです。

 一般に依存症者の傍にいて依存症者が惹き起こすトラブルの尻拭いをすることは「共依存」、つまり依存症者がその「世話役」に依存しているだけでなく、「世話役」の方もそのお世話をすることに自らの存在意義を感じているという形で依存症者に依存しているのだ、と考えられています。
 そのように尻拭いしてしまうことで却って依存症を温存させてしまう人は「イネイブラーenabler(可能にする人)」とも呼ばれています。そして、依存症から脱する為には、そのような尻拭いを絶対にしてはいけない、むしろ徹底的に突き放しなさい、と言われています。
 筆者もこの見方は基本的に正しいものだと思っています。ただ、この「尻拭いを絶対にせず、徹底的に突き放す」ということが、治療的関わりの大原則である(と筆者が考えています)「抱えること/理解すること」と、一見正反対に見えることに若干の戸惑いも感じていました。
 一般に依存症者は、他の多くの病態と同様に、その生活史を通じて「抱えられること/理解されること」の失敗を刻印されています(⇒嗜癖とパーソナリティ障碍)。そのことが分かれば分かるほど、その傷つきへの手当を考えたくなります。そして、結果的に過度に温情的になってしまったりするのです (-_-;)

 恥ずかしながら最近になって(ようや)く筆者に分かった事は、彼ら/彼女らにとって、尻拭いされること、温情的に対応されることが、決して「愛情=抱えられること/理解されること」とは体験されない、という事実です。
 どうしてでしょう?
 通常、そのような尻拭いは(当然の事ながら)「厄介事の処理」としてなされます。特にその処理をするのが親である場合、当事者である子供に対する怒りや自己の子育てに対する自責の念、或は自己弁護の思い等の入り混じった、とても複雑なものとなるでしょう(親以外の関係者の場合も基本的には同じです)。その事は、当の子供(当事者)にも(意識されるか否かはともかく)容易に感取されることでしょう。或は、子供(当事者)の奮起や感謝の言葉を期待して親(や非専門的援助者)は少々恩着せがましく苦労話さえしてしまうかも知れません。そして、その時子供(当事者)は「自分はやはり厄介者だ」と感じるしかありません。
 そこでもし
/彼女がそこに留まることができれば、彼/彼女は依存症から立ち直れるかも知れませんし、それこそが多くの親(や非専門的援助者)達の期待するところでしょう。
 実際、そのような尻拭いによって立ち直ったかのように見える場合もあります。しかし、現実には多くの場合、/彼女達はそこに留まれません。「抱えられること/理解されること」の失敗を刻印されている彼達/彼女達には、「厄介者であること」に留まって受け止めるだけの自我の強さ、自分に対する信頼感が準備されていないのです。そこに留まることは彼ら/彼女らにとっては自分の死にも等しい苦痛でしょう。そこで、彼達/彼女達の多くは、自分達が親(や非専門的関係者)達にとっての「厄介者でないこと」の(あかし)として無条件に「抱えられること/理解されること」を求めて、更に同じ過ちを繰り返さざるを得ません。
 無条件に「抱えられること/理解されること」など、現実には有り得ないことですから、過ちは際限無く繰り返されます。そして、その結果むしろ彼達/彼女達は益々「厄介者」となって行く、そこからの救いを求めて更に過ちを繰り返す…これは完全に悪循環です。

 「尻拭いを絶対にせず、徹底的に突き放す」という方策は、親(や非専門的関係者)達との間でのこの悪循環を断つことができることは明らかです。では、その時に「愛情=抱えること/理解すること」はどうなっているのでしょうか?
 以上の考察が正鵠を射ているのだとすれば、「尻拭いを絶対にせず、徹底的に突き放す」ことでこのような悪循環を断つことが、彼達
/彼女達が「抱えられること/理解されること」の失敗を自ら補って真の自立を達成する為の最善の道であることを見通して、そこから動かずにいること、これがそれに当たるのでしょう。

 6)「洞察」away化
 もう一つ難しい問題に、この「洞察」away化があります。これは多くの場合、話し合いが順調に進み、患者さんがとてもよい理解を示し、治療場面では洞察的言辞が繰り返されるにもかかわらず、患者さんの症状的行動が一向に変化しないことで気づかれます。
 念の為に言えば、これは
「誤った洞察」「偽(いつわり)の洞察」を指しているのではありません。理解された内容は必ずしも間違ってはいませんし、しばしば見られるような「治療者の期待に合わせての言明」もここでは除外しています。
 要するにこれは、例えば、“分かりました~ということですね?”と「正しく理解されたこと」がそのつど即座に主体(home)の外(
away)に置かれてしまい、“それでどうしたらいいんですか?”といった質問へと流れて行ってしまうような事態です。まだこのような質問が返ってくれば分かり易いのですが、場合によっては黙って持って帰られてしまい、しかも本当にはhomeに引き取られていない、という事態も起こり得ますし、そうなるとなかなかすぐには気づき難いものです。
 この背後には、“知的理解が困難を霧散させる”といった
万能幻想や、“万能の治療者が困難を解消してくれる”という(これまた万能幻想に基いた)治療者の理想化とそれへの原初的依存の心性が活動しているのでしょう。
 この事情に治療者が気づき、治療関係の中で扱えるようになることは、しばしば治療のターニングポイントともなるようです(⇒治療の起承転結)。
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摂食障碍 Eating Disorders
―拒食/過食/嘔吐/下剤乱用 ―

 摂食障碍には、古典的な神経性無食欲症Anorexia(アノレクシア) nervosa(ネルヴォーザ)をはじめ、神経性大食症Bulimia(ブリミア) nervosa(ネルヴォーザ)、その他の典型的でない拒食や過食も含まれます。いずれも多くは女性です。

1.臨床像
 典型的な二つのパターンを述べておきましょう。
神経性無食欲症 Anorexia(アノレクシア) nervosa(ネルヴォーザ)
 「思春期痩せ症」Pubertätsmagersuchtとも呼ばれ、近代医学の黎明期から報告されていますので決して新しい病態ではありませんが、日本では1970~80年代に比較的多く見られ、一般に知られるようになりました。
 高校年代前後に発症し、拒食によって体重が30kg近く、小柄な人では25kg程度に至る著しい痩せを呈します。また或る時点から月経も止まってしまいます(通常は可逆的ですが、無月経が長期に亘ると幾らかの卵巣機能低下も生じるようです)。典型的には、理知的であるにもかかわらずそのような著しい痩せを全く意に介さず、むしろ過活動的で、治療も積極的に求めません。そうして、電解質異常や栄養失調による合併症から死に至ることもありました。
 治療に入ったとしても、入院治療中に夜間密(ひそ)かに残飯を漁(あさ)っていたり、様々な要求を持ち出してきたりして周囲を混乱させ、治療は難航しがちだと言われていました。近年このタイプはやや少なくなり、代わりに次の大食症(過食症)が増えているようです。
神経性大食症 Bulimia(ブリミア) nervosa(ネルヴォーザ)
 いわゆる過食症(「巨食症」という語をタイトルに含んだ本も出ていました)で、多くはダイエット目的の拒食から、一旦食べだすと憑(つ)かれたように止まらなくなり、そんなことを日に数回も繰り返す内にそのまま太ってしまったり、それを避ける為に再び拒食したり嘔吐を自分で誘発したり下剤を乱用したりするタイプで、近年の摂食障碍はこちらが主流のようです。

2.病態
 アノレクシア・ネルヴォーザは従来より、過保護過干渉を背景に「自立」「女性的成熟」との葛藤の産物との理解が有力でした(これは特に「自立」「女性的成熟」が両立し難い時代背景に因っていたのかも知れません)。
 ブリミアも含めてもう少し巨視的に捉えますと、これらはいずれも「心の中の葛藤」の「食べる」という「身体(+物質)的行為」への移し替え、つまりaway化です。実際、「パーソナリティ障碍」のところで触れましたように、その部分症状として出現する場合も多く、判断主体としての自己の確立が課題となっている点でも共通しているでしょう。

3.治療
 以前から摂食障碍の治療は難しいと言われているようですが、実際のところ問題の食行動はあくまでも「結果」に過ぎず、それだけを変えようとしてもまずうまく行きません(「結果いじり」は無理)。
 痩せが著しい場合には(当然の事ながら)常に生命の維持が治療の前提であることを御本人との間で話し合っておく必要があります。筆者は具体的な限界体重を設定し、「少なくともそれを下回れば入院です」と明るく言っています。
 逆に肥満が著しい時には一応自己誘発的な嘔吐を勧めたり、行動制限による減量の為の入院を提案したりもしますが、大抵は却下されています。
 嘔吐が繰り返されていれば、胃液で歯がとけてボロボロにならないよう「必ず口をゆすぐこと」もアドヴァイスしたりします。
 以上のような「前処置」の上で、問題の食行動の起源やそれが生活上に有している意味を探りつつその必然性を確認して行くところから治療に取り掛かるのですが、結局は自己確立のお手伝いをして行くことになるものです。



解離性障碍 Dissociative Disorders
解離幻聴
 少々異例でしょうが、「解離」「幻聴」を併せて論じています。

1.解離
 「解離」dissociationというのは一般に「受け容れ難い体験の記憶や思考や感情を自分の意識から切り離してしまう」という最もシンプルな防衛機制の一つです。最近では心的外傷psychic trauma体験に於ける中心的防衛機制としても注目されています。

 「防衛機制」と言いましたが、最初にこの概念を提唱したピエール・ジャネは「防衛」という見方をしていなかったようで、彼の「解離」はむしろ、「統合失調症」schizophrenia概念を提出したブロイラーがその“schizo-”に込めた「分裂」Spaltung=仮説的な「連合associationの弛緩」に酷似しているようです(なお、フロイトはこの仮説的な「分裂」を認めず、schizophrenia”に替えてparaphrenia”という術語を提唱しています)。
 精神病理の理解に「防衛」という見方を導入したのはフロイトですが、彼はその中心を「抑圧」Verdrängung / repression「排斥/排除」の方がドイツ語の語感に忠実なようです)に置き、「解離」「抑圧」に従属するものと位置づけたようで、その為か精神分析の文脈では「解離」はあまり取り上げられていなかったようです。

 フロイトは後に、ブロイラーとは別の見地から「分裂/分割」Spaltung / splittingという機制を導入し、「自我が何かを抑圧する」という図式ではなく「自我そのものが分裂する」というパターンの存在も認めています。そのようなものとしての「分裂/分割」機制は、もはや「解離」と別のものではないでしょう。
JeanLaplanche&J.-B.PontalisVOCABULAIRE DE LA PSYCHANALYSE,1976の邦訳、ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典』(みすず書房,1977)の「自我の分裂」の項参照]。

 私達の視点からは、この機制もまた「原体験心性によるaway化の一つ」と言うことができます。

2.「二重~多重人格」
 幼児期児童期身体的/性的被虐待体験は、後の解離性同一性障碍DID(dissociative identity disorder)いわゆる多重人格障碍multiple personality disorder)の原因となり得ると言われています。
 この事は、原体験心性述語同一性論理に従うことに思い致せば無理なく理解できます。つまり、受け容れ難い述語的状況のひと纏(まとま)りが先に存在し、それは一つの「状況体験の複合体」となります。それに「仮の主語」pseudo-subjectがくっつけられると一つの「別人格」ができあがるわけです。

 通常その第一のものは「過酷な迫害的超自我」(このHPでは「心無い対象」)と呼ばれているものとの「状況体験の複合体」のようです。まず「自己」はこの「心無い対象」の方にヒラリと乗り移ります。次に見ますように、幻聴の場合でしたらただひたすらに「心無い対象」の発する悪口や非難問責に圧倒されているのですが、解離性同一性障害の場合にはそこで「心無い対象」の方に同一化してうまく難を逃れるわけです。こういう機制は、
アンナ・フロイトFreud,A.「攻撃者への同一化」と呼んだ自我防衛機制と同じです。ただ、防衛の主体は自我ではなくてエス(原心性)ですが…

 このようにしてまず「二重人格」が生じます。そしてやがて、少しずつ違う特徴を持った幾つかのパターン(「人格」)が現れますが、それはまるで「義経の八艘跳び」のようです。そして最後に、全てを統合する人格が現れメデタシメデタシとなることが多いようです。

3.幻聴

 幻聴というのは、実際には声が無いのに「誰かが自分の悪口を言い合っている」とか「誰かが自分に向かって非難問責の言葉を浴びせる」などととてもリアルに感じ、実際にそう言われていると思い込んでしまう体験を言います。その「言われている」と感じる内容は通常、当人が「思い浮かべたくない/思い浮かべないようにしている」何かです。

 幻聴体験はしばしば、幻声の主としてあたかも一人~数人の人物が存在しているかのようなものに(しゅう)(れん)して行きます。それらも勿論「内的対象」(特に当初は、悪口や非難問責を発する「心無い対象」)なのですが、当人にはそれが外部のどこかに人物として実在しているように感じられてしまうのです。

 幻聴の内容は上述の如く、初めは迫害的なものが多いのですが、やがて誇大なものや友好的なものも現れます。患者さんの中には、そういった友好的な幻声を(例えば、北海道の「浦河ベテルの家」の当事者さんは「幻聴さん」と呼んで)日常生活の様々な場面でとても頼りにするようになっておられる方もおられるくらいです。
( 筆者は、それも一つの在り方だとは思いますが、「幻聴さん」も実は自分だ、と思える方がより健康なのではないか、とつい思ってしまいます (^_^;)

4.幻聴「二重~多重人格」
 
以上のように見てきますと、「幻聴」「二重~多重人格」解離機制に基き、ただ主体がヒラリヒラリと解離された部分部分に乗り移る点で、後者の方が防衛としてはよくできているに過ぎない、と考えることもできそうです。上記の如く、解離された部分の内容や、その出て来方、統合へのプロセスには類似点が多く見られます。

 幻聴を「一種の解離症状だ」と言ってしまうと、精神病の症状を神経症の防衛機制と結びつけるのはおかしい!と目くじらを立てて仰る方もおられるかも知れません。お望みなら「分裂」splitting「投影同一化」projective identificationと呼んでみてもよいのですが、上述のように、フロイト「分裂」splitting解離と異なりません。また、ラプランシュ/ポンタリスの『精神分析用語辞典』(1976)の邦訳172頁「自我の分裂」註(α)には[精神分裂病(統合失調症)的な分裂(Spaltung)を指す場合、フランスの精神医学者は、一般的に解離(dissociation)という術語を用いる]と記されています。少なくともフランスに於いては、精神病水準の「分裂」clivage(Spaltung / splitting)「解離」dissociationは区別されていないようです。
 元々神経症に数え入れられていたヒステリィ「解離性の幻覚」があることは認められていましたし、ヒステリィ精神病(≒非定型精神病/統合失調感情障碍という概念もあるくらいです。これらはいずれも原体験心性述語的状況性の優位(述語同一性論理の支配)という性質に基く現象である、という点で大同小異だと言えますし、治療上、両者の区別は殆ど問題になりません。

 但し、幻聴体験に対しては現実検討を巡る定則的接近をとりあえず試みるべきですが、解離現象に関しては現実検討を巡るそのような関わりは不要のようです。と言うのも、解離現象に於いては既に、様々な副人格が所属する「副現実」は一般に共有された「主現実」とは区別されているからです。その意味では、舞台に於ける俳優の演技と似ています。
 しかし勿論、解離性障碍の場合には、自我(主人格)は俳優のように自覚的に演技を行っているのではなく、むしろ例えば副人格の陰か舞台の(そで)に退いてしまっています。この点がなかなか理解し難く、昔から「故意に演じている」との誤解も受けて来ました。

5.その他の解離現象
 解離によると分類されている現象には、上述の二重~多重人格の他に、その不全型とでも言うべき離人症depersonalization解離性健忘amnesia解離性遁走fugue等があります。
 離人症depersonalizationは、全てに実感が伴わず、自分自身から離れて他人のように自分を見ているような事態を指します。「現に実在する生身の自分」というものが否認されていることを表しています。
 解離性健忘amnesiaは、一定期間の記憶が欠落してしまう事態、いわゆる「記憶喪失」で、ほんの数分間のこともあれば、全生活史に及ぶこともあります。そして、期間が長い場合はしばしばその間にどこか比較的遠い処に行ってしまう遁走fugueの形をとります。

6.解離症状犯罪
 解離を伴う行動化には、リストカットなどの自傷行為の他に、万引などの触法行為があります。後者の触法行為は、その位置づけが案外難しいかも知れません。

 筆者は今のところ、ここでもパーソナリティ障碍圏の問題への対応の原則に沿って、「治りたい/治したい」という思いがある限りに於いて「病気/精神疾患」と見做し、そうでなければ「病気/精神疾患」扱いすべきではない、と考えています。そして、「病気/精神疾患」と見做す場合でも、刑事責任能力の問題とするのではなく、情状酌量の問題とすべきかと考えています。

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