2/11 色即是空
2/10 共存への道=許容
1/26 現世の苦と宗教
1/19 人間の精子が弱い?
1/11 ガザと十字軍
1/5 インド雑感
大乗仏教の経典『般若心経』にある「色即是空、空即是色」という句は、仏教哲学のなかで最も有名なものだろう。これは「空」の思想を説いたものである。
この「空」を勉強しようと、『仏教の思想3 空の論理<中観>』(梶山雄一、上山春平、角川書店、1969)と『空の思想』(梶山雄一、人文書院、1983)を読んだ。ずいぶん時間がかかった。なにしろ数行読むと眠くなり、ふと心が「空」(=居眠り)であることに気づくのだ。まあ、この手の哲学書は、すらすらと読んで理解できるわけがない。何度か読んでいろいろ思索をめぐらすうちに、知らず知らずいつの間にか心の深層に染みこみ、あるとき「悟り」、つまりわたしなりの解釈がふっと心に浮かぶものだ。その時を待とうと思う。
空の理論化は、ナーガールジュナ(龍樹*1)によってなされた。この世界とは何かについて深く洞察している。その哲学の深みは、他の宗教思想をはるかに凌駕する。さすがにインド人だ。客観的な存在である形のあるものも、実際には実体ではないのだという。
わたしは理論物理学者のシュレディンガーを思い出す。彼は、われわれ人間も確固とした存在ではないという。物理学的に見ると、われわれの体は原子がある秩序をもって凝集したもので、しかも原子は絶えず入れ替わっていて確固としたものではない。もともと原子が無秩序にあるだけの空間に、親から受け継いだ遺伝情報とわずかな分子をもとに環境と相互作用しつつ(=因縁)、絶えず入れ替わる原子をもとに秩序だった構造(=身体)をつくりあげ(因縁によって形をとる)、外界から情報を取り入れては分析して行動し(*2)、死とともにもとの無秩序な空間(=空)にかえる(ナーガールジュナは輪廻を否定する)。
シュレディンガーが仏教哲学を知っていたかどうかは知らないが、インド哲学には傾倒していた。彼の業績である「素粒子は物質でもあり波動でもあり、存在は確率論的にしか示せない」という量子力学の発想は、インド哲学から得たに違いない。現代科学も、世界観にかかわる深い部分では、哲学にほかならないということなのだろう。
とりあえず、こうした皮相な解釈しかできない。深い理解は、死ぬまでに得られるのかどうか。まあ、気長に待つしかない。
注
(*1) 龍樹というのは意訳。「ナーガ」というのは『ラーマーヤナ』にも出てくる大ヘビで、仏教にも龍王として取り入れられている。「アルジュナ」とは木の名前なのだそうだ。
(*2) 情報理論では、ある系を秩序立てることは情報量を減らすこと(=エントロピーの減少)だとする。身体(系)の構造をつくりあげ(発生・成長)、系外からの情報を整理し貯え(学習)、反応することは、エントロピーを減少させることになり、系外からエネルギーを取り入れなければならない(摂食)。やがて死とともに系が解放され情報量が一挙に拡大する(エントロピーの増大)。
地球では、いま、イスラエルとパレスチナの民の争いや、アフガニスタンやイラクなど、モスレムとキリスト教国の軍との争いが絶えない。報道では、被害者に同情しつつ、共存のため「思いやり」が必要だと言うのが定番だ。わたしは、それに異論がある。
ここでは、パレスチナを例にとろう。この地は、かつて現在よりも湿潤で農業の生産性が高く、古代文明の時代から「肥沃な三角地帯」として多くの民族が侵入しては争ってきた。その結果、多くの民族がモザイクのように入り組んで生活している。「ローマの平和」時代から、言語も宗教も多様な多くの民族が混在してきた。争いはもちろんあっただろうが、だからといって決定的な敵対もしなかったのである。
各民族は、自分の言語、宗教を維持してきた。わたしがシリア旅行をしたとき、ある村のレストランで昼食をとった。モスレムが多い国でアルコールは手に入りにくいのに、めずらしくビールがおいてあった。じつは、その集落はキリスト教徒のものだったのだ。集落の規模は、たかだか数千人だろう。彼らは二千年間、自分たちの宗教を守ってきたのである。
いろんな民族は集団としてまとまり、それが他の民族の集団と共存しているのである。ここで注意すべきなのは、集団どうしは思いやりのきずなで結ばれているのではなく、もっとニュートラルな、いわば「許容関係」にあることである。もちろん、相互に「もの」のやりとりのネットワークがあり、経済的には依存しあっている。しかし、それは商取引のような感情を伴わない関係なのである。
キリスト教の文化では、ものごとを「善と悪」「神と悪魔」の対立で見る傾向がある。相互の関係も「敵と味方」に分けて考えやすい。そして「思いやり」というのは、「味方」に対して行うものだ。キリスト教で言う「愛」という感情が伴う。しかし、「人類みな兄弟」とかけ声をかけてみたところで、いったんトラブルが起きると、感情が反転し、愛が憎しみに変わる。これでは、民族や文化が違う人の共存が危うくなる。
いろんな民族が共存するためには、「味方」だと見る必要がない。むしろそれは危険なのだ。もっとニュートラルな、感情を伴わない「許容関係」をめざすことこそが、共存への道なのである。
文明以前の人びとは、この許容関係によって共存してきたとわたしは考える。その共存を危うくしたのが、文明が生みだした「国家」などの権力だと考えている。国家なるものが生まれて数千年。そろそろ国家という枠組みも、過去の遺物になりつつある。いまこそ人類は「許容」というニュートラルな関係を思い起こし、共存を図っていくべきだとわたしは考えるのである。
インドへ行き、ヒンドゥー教の思想を少し学んだ。カジュラーホの寺院遺跡を見た。それは、現世を肯定している。目から鱗の感銘を受けた。
世界三大宗教とは、キリスト教、イスラーム教、仏教を言う。(仏教よりヒンドゥー教信者の方が多いが「世界」宗教ではないとする)。そのどれも天国か、より良き来世あるいは極楽をめざし、現世での正しい生き方を勧める。つまり、現世を苦としているわけだ。
世界宗教は、2500年前から900年前のあいだに生まれた。それまでの宗教がどうだったのか、記録はあまり多くないが、インドのヴェーダのような多神教が多かったのだろう。古代エジプト文明では現世と同じ生活が来世にも待っていた。マヤ文明でも、人が死ぬと住居の下に埋葬され、来世も家族の一員として暮らせた。つまり、現世を肯定的に見る宗教が多かったようである。
世界宗教が生まれた時代には、すでに国家があった。貧富の違いができ、不平等が顕著になっていた。そして、人びとのあいだの軋轢(あつれき)が激しくなり、現世が苦になった。それで救済を求め、世界宗教のような思想が現れとき、それを信仰したのだろう。
日本の縄文時代や弥生時代は、部族ごとに集落をつくっていた。そのころの人びとは平等な生活をしていたとわたしは考えている。多くの集落や部族をたばねる国家は生まれていない。その平等な社会を破壊したのが、「文明」をたずさえて朝鮮半島からやってきた移民だったのではないか。そして、貧富の差が生まれ、現世が苦になった。そこへ世界宗教である仏教が導入されたのである。
現在、われわれは他人より多くの「もの」をもつことが富であり、富をもつ者が勝者だとの思想のもとに生きている。これにもとづく資本主義体制を文明と呼び、良い経済システムだと認めてきた。しかし、その社会は勝者にも敗者にも精神的なストレスを与えるので、救済が待ち望まれる。だからこそ現代になっても、死後の世界では幸せになれるという信仰だけが世界宗教として存続しているのではないだろうか。
人間の遺伝子は昔のままだが、世界を飛び交う「もの」も情報も格段に増えた。いくら望んでも人類は昔に戻れない。それでも、「最大多数の最大幸福」をスローガンに国造りをするブータンのような行き方のほうが、わたしには好ましく見えるのだ(*1)。
(*1)ブータンはチベット仏教の国だが、仏教ならよい国がつくれるというわけではない。たとえば日本の仏教界には、太平洋戦争に協力し、米大統領を呪殺するべく行(ぎょう)をした人もいたと言う。フランクリン・ルーズベルトが戦勝の前に急死したのは、それが成功したのだとささやかれてもいる。それでも、他人の宗教を邪教として排斥する一神教より、「色即是空、空即是色」の大乗仏教の方がはるかにましだと思う。ヨーロッパでは、仏教の信者が増えていると言うが、もっともっと増えて、世界の主流の宗教になればいいなと思っている。
1月18日のNHKを見ていたら、人間は進化の過程で愛をもち「一夫一妻」になって精子競争がなくなったため、精子が「弱くなった」と言っていた。わたしはセクソロジーを専門にしている。人間に精子競争があるとの議論が活発なのは知っていたが(ヒトの精子競争)、精子競争がないというのが定説だとは知らなかった。いったいだれが提唱しているのか?
番組で根拠にしていたのが、チンパンジーが「乱婚」(*1)で精子が強いのに対し、人間の精子は数が少なく弱い(つまり死んだ精子や奇形の精子が多い)という。精子の話はわかるが、番組では何の論理的脈絡もなく話が「愛」に飛躍する。
わたしは、各種霊長類の精巣における精子形成を組織学的レベルで比較研究している。その結果から、チンパンジーよりヒトのほうが精子形成が少ないことは間違いがない。しかし、ヒトは明らかにゴリラより精子形成が活発だ。では、ゴリラに愛があるだろうか? 番組では、ヒトに固有だと言っていた。とすれば、愛があるから精子がだめになるとは言えなくなる。「愛」によって精子が弱くなるという仮説は棄却されるべきだ。それをあたかも事実であるかのごとく紹介する。科学番組を装っていなければ許せるのだが、そのいいかげんさに、わたしはがまんできない(*2)。
そもそも、ヒトに愛があるから一夫一妻だというのは、論理的には言えない(*3)。そして、ヒトという生物種の配偶様式が「一夫一妻」(モノガミー)であるというのは間違いだ(核家族?)。各民族の婚姻制度を見れば大半が一夫多妻だし(結婚と性)、一夫一妻制の文化のもとでの性行動の研究を見ても「つがい」ではない(女性器のたくらみ)。一夫一妻という婚姻制度がヒトという種において普遍性をもたない以上、その文化のもとでのヒトという生物の「精子が弱くなる進化」に言及するのは、思い違いも甚だしい。
なぜ番組に紹介されたような根拠のない考えが広まるかと言えば、キリスト教文化圏では、「一夫一妻」が進化の頂点だとする社会進化論が根付いているからだ(人種差別の構造)。聖書によると、神が男女を創造し、その機能を決めた。だから、男性優位で、夫は妻をいたわり、妻は夫を慕う。そこで家族ができた。このあり方こそ「進化の頂点」だとするのである。こんな学説は科学ではない。ただの信仰だ(「排卵隠蔽説」批判)。
欧米人ならいざ知らず、キリスト教文化圏ではない日本の公共放送が、こんな宗教のからむ思想を、まるで定説であるかのごとく放送するのは、番組制作者の見識を疑わざるを得ない。まあ、いつものことだが。
(*1) チンパンジーが「乱婚」だって? そもそも「婚姻」をしない動物にたいし、人間で一例もない「乱婚」という社会人類学の用語をあてるのは初歩的な間違いだ(もともと社会進化論を唱えた人によって差別的に用いられた用語だ)(人種差別の構造)。一般向け放送だからと言って、基本的な概念を間違って使っていいわけはない。番組制作者は、婚姻制度と生物学的配偶の区別もできないということだ。(「乱婚」参照)
(*2) 科学的に反論してみよう。受精はオスの精子とメスの卵子が接合する。オスの精子が弱くて授精能力がないというのは、それだけメスがバリヤーをめぐらし精子を選別しているということだ(女性器のたくらみ、卵管の精子選別)。それに言及せずに、オスのほうばかり言うのは、そもそもおかしいじゃないか。
(*3) 愛すると結婚しないといけないのなら、紫式部は『源氏物語』を書けなかった。
パレスチナの紛争が絶えない。いま、イスラエル軍がガザに侵攻し多くの人びとを殺している。それを米国が後押ししている。米国は、イスラエルがイスラーム勢力からパレスチナを奪還しようとする十字軍として評価しているように見える。
十字軍はカトリック教皇が音頭をとり西ヨーロッパの騎士団がパレスチナに攻め込んだ戦いだった。当時パレスチナには、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の人びとが共存していた。これらの三宗教の聖地であるエルサレムにもそれぞれの信徒が混在していた。十字軍はこれを攻め、宗教を問わず住民を皆殺しにしてエルサレムを奪ったのである。ダマスクスでは10万人の住人を虐殺し、人肉を食べた。蛮行だった。現代になって、カトリック教皇は十字軍の派遣は間違いだったと謝罪した。ところが、米国では十字軍がいまでも正義の軍隊として人気がある。
「自由」と「人権」の独立宣言をした米国は、焼き畑農耕をして暮らしていた北アメリカの先住民から土地を奪い、「インディアン居留地」に隔離した。西部開拓時代には、「良いインディアンは死んだインディアンだ」として虐殺を続けた。そして先住民の宗教を禁じ、人権も認めてこなかったのである。1978年になってようやく信教の自由を認めたものの、収奪した聖地の返還は今でもなされていない(*1)。
この米国のやり方を手本にしているのがイスラエルだ。イスラエルは、パレスチナが神に約束された土地だという旧約聖書をたてに建国し、それまで住んでいた住民を追い出した。自分の土地を奪われたパレスチナ人が難民として隔離された場所がガザなどの「パレスチナ自治区」なのだ。イスラエルは、占領した土地での共存を選ばず追い出した。まるで十字軍のように。
こうした宗教のからむ紛争を解決するには、たがいに相手の宗教の存在を許容するしかない。自分の宗教が正義で、相手のは邪教だという限り、紛争はなくならない。かつてローマ領であったときもイスラーム領であったときも、エルサレムにはキリスト教徒も住み、キリスト教徒の巡礼者も通行できた。その共存体制を破壊したのが十字軍だった。やがて十字軍は敗退し、もとのようにイスラーム領としてパレスチナに共存体制が戻ってきた。それをふたたび破壊したのがイスラエルの建国だった。
この紛争を解決するには、強者であるイスラエルと米国が、まず他の宗教の信徒との共存をすすめる必要がある。しかし、これらの国は傲慢で、武力だけは強力だ。とりあえず解決ができそうにもないのは悲しい。
(*1) マウント・ラッシュモアは先住民の聖地だったが、無神経にも、彼らの土地を不法に奪ったリーダー(ワシントンなど4人の大統領)の顔が彫られてしまった。
新年、おめでとうございます。
昨年末、インドを訪問した。いろいろ感銘を受けた。それをひとくちに言うなら、インドの文明は多様ですごいということだろう。
インドは、古くヴェーダ文学やウパニシャッド哲学をもっていた。哲学は、しかし、これにとどまらない。原子論から実存主義、唯識論など、百家争鳴というべく多様な議論がなされた。決してヴェーダが強制されず、それと違っていても異端として排斥されず許容されたという。
4世紀から6世紀には、グプタ朝が繁栄した。この時代には、数学、天文学、文学などが、すばらしい発展を遂げている。まさに文明の爆発だった。美術も例外ではない。このころからヒンドゥー教が盛んになり、仏教はすでに衰退期に入っていたが、王たちは宗教に寛容だった。仏像を寄進してもいる。そして、仏教美術が花開く。アジャンタ窟院の壁画(右図)や、ほれぼれするほど優雅な仏像は、この文化の粋である(鹿野園=サルナートの博物館にあるグプタ様式の仏像は撮影禁止だった。残念! 下図を参照)。これは、ヘレニズム文化に影響を受けた後期ガンダーラ美術とは別ものだ。つまり、美意識が唯一無二ではなく多様なのである。ちなみに日本の仏教美術は、ガンダーラ美術の流れをくんだものである。
言うまでもなく、ヒンドゥー教は多神教である。現代のインドでは、シヴァ神をとくにあがめる人がいたり、ヴィシュヌ神をあがめる人がいるが、何か儀式を始めるときには、まずガネーシャ(富の神、シヴァ神の子)を祭るのが一般的だという。インドには、また、イスラーム教徒もいれば、シーク教徒やジャイナ教徒、それに仏教徒、キリスト教徒がいる。言語も違う多くの民族がいる。違った文化や違った思想、宗教の人が共存し、たがいに許容しているのである。
現代の欧米文明がいちばん鼻持ちならないのは、自分たちのキリスト教文化が絶対的に正しく唯一無二のものと考え、それを他国の人びとにまで押しつけることである。キリスト教徒たちは、たとえばギリシャ文化を異教徒(多神教)のものとして排斥し焚書にした。キリスト教徒は何度も公会議を開いては、同じキリスト教徒を「正統」と「異端」に分類し、異端者を排斥した。一神教のこうした原理主義思想は、現代においてもなんら変わらない。
不幸なのは、このことが文明の衝突を招来していることだ。イスラエルがガザ地区に侵攻し、多くの人びとを殺し、それを米国が後押ししている。先だって米国がイラクに攻め込んだのと同じ構図だ。神と悪魔、敵と味方。こんな単純な思考法しかない愚かな大統領が、世界のリーダーを自認して戦争をしかけ、人びとを殺し続けている。
しかしいま、ヨーロッパや米国では仏教の信者が増えているという。米国では、ヒンドゥー教の思想も広まっているという(たとえば、ヨーガをする人が増えた)。欧米の社会も、少しずつ多様な価値観を許容する方向へと進んでいるのかもしれない。
わたしは、多神教の世界がやってくることを願っている。自分の信じる神以外にも、他人が信じる神がいていい。自分が良いと思う文化があるのはさいわいだが、他の人が良いと思う文化が別にあってもいい。どの神を信じようと、同じ人間なのだという認識が一般化したらいいなと思っている。
グプタ様式の仏像(釈迦像)のイミテーションが四国霊場31番札所・竹林寺にある。そっくりにつくってあるのだが、実物と微妙に力が違う。
初期の仏教では、釈迦の姿を絵や彫刻でつくり拝むことは禁じられていた。釈迦は真理を説いたのであって、自分自身が仏になったとは言っていない。
紀元前326年ごろ、西インドは、西から攻めてきたマケドニアの支配下にはいった(現在のパキスタンの領域)。アレクサンダー大王もタキシラに足跡を残している。そして、ギリシャ人たちが持ち込んだヘレニズム文化の影響のもとで、ガンダーラを中心に仏像が制作されるようになったのである。これが、仏教美術の初めだった。
左の写真は、タキシラ(パキスタン)のジョーリアン寺院跡にある彫刻である(2005年に撮影)。残念ながら、めぼしい仏像は博物館に入れられ、写真撮影ができなかったので、辛うじて遺跡に残るものを撮ったものだ。顔立ちがギリシャ風で、ヘレニズム文化の影響が顕著である。
法顕は401年にタキシラを訪れているから、この寺も訪問したのではないか。629年に長安を発った玄奘もタキシラを訪れ、アショカ王が建てたストゥーパを参拝している。
グプタ朝に仏教美術が花開いた頃、西インドでは仏教はかなり衰退していた。それでもガンダーラ美術の後継者がバーミヤン(アフガニスタン)の石仏などを制作している。
こう書いてきて、南アジア地域は多くの国があったにせよ、ひとつの文化圏としての歴史を持ってきたことを、あらためて認識した。いま、アフガニスタン、パキスタン、インド、バングラデシュなどの国に分かれ、インドとパキスタンはいがみ合っている。なぜこうなるのだろう。
作成:2009年1月5日
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