宝石箱

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■野原の中の中野駅  
2006/02/27
茶の線

中野駅

昔の中野駅の想像図

 


  父がサラリーマンだつたので、幼い頃は何時も借家暮らしでした、数年経つと気分転換を兼ねて引っ越していたようです。当時は中野や杉並辺では少し歩けば貸家の2軒や3軒はすぐ目に入りました。貸家は半紙に筆で「貸家」と大きく書いて玄関のガラス戸に斜めに傾けて張つてありました。貸家の玄関はドアは少なく縦横の枠で仕切つたガラス戸ですから貸家の紙は斜めでないと目立ちません。

 家の前の坂を少し下ると眼前に広い草原が広がつていました。草原の周囲は茅なぞの丈の高い草類が茂つています、中央は低い窪地になつていて通勤で通う人が歩くので草が踏みつけられて道になつています。その道の遥か先に国鉄の中野駅が建つていました。

 休みの日には家族で中野駅から日本橋や銀座に連れて行つてくれました。途中四谷を通る時に電車がトンネルを通るのが楽しみで窓にしがみ付いて暗い外を見ていました、小さい頃は通過する時間を大変長く感じました、そこをぬけると目の前に見える緑の草の土手やお堀の見える景色が大変印象に残つています。

 銀座通りは両側の歩道に柳の木が植えてありました。又歩道には露店がずらりと並んでいました。両側に並んだ立派な商店には余り興味がなく、親の後をついて歩いているだけで何があつたかは印象に残つているものは余りありません。せいぜいデパートの屋上で小鳥や草花を見物した事くらいでした。

 母が出かける時は父が会社に行つている留守に買い物に連れて行つてくれました。その時は青梅街道に出て当時は走つていた路面電車の「鍋谷横町」からで新宿迄行きます。その先に行く時は新宿にある市電の車庫前から浅草とか日本橋行きに乗り換えます。「鍋谷横町」で待つている時に道の向かい側を黒装束だつたか白装束をまとつた信者達が新宿方向に歩いて行く行列をよく見かけました。

 母について強く記憶に残つていることが一つあります。それは今思い起こしても何でこんな事がと思います。何時ものように新宿から帰る途中市電の中で腰を屈めて一生懸命熱心に何か話し掛けてくれました、時々「・・・はしてはだめだよ。」とか「・・・おとなしくしていなくてはいけません。」とくり返し言つていた言葉だけが記憶に残つています、肝心の内容は耳の中を素通りしていたようです。

 何か子供に十分に注意するように言い聞かせていたのだと思います。母がハッツと気がつくと電車は「鍋谷横町」から数駅通り過ぎた所を走つていました。母は急いで車掌さんに頼んで次の駅で降して貰い新宿行きに乗り換えました。世の中はガッツガッツしてないでのんびりとしていました。

 借家には内風呂がなかつたようで、夕方父が帰ると坂を下つた突き当たりにある銭湯(今は風呂屋と言う)に行きました。通常は湯船の中に3〜4人、洗い場にも4〜5人程度です、時々洗い場にいる人の背中を洗い流してくれる人がサービスで囘つてきました。女湯の方に連れて行つてもらった時もやはり奥の扉から流す人が出てきて、背中を流したり時には肩を揉んで貰う人もいたようでした。

 女湯と男湯の間の仕切の羽目板の端には小さな潜り戸がついています。子供連れで来る夫婦の中には石鹸を忘れて来るのか予定して来るのか、上手に使い回している人もいます。風呂に沈み適当に時間が経過するのを見計らつて、男湯に入つているお父さんが女湯の方に向かつて少し大きめな声で、「オイどうだ」とか何とか叫びますと、すると女湯の方にいる奥さんらしき声で「今届けるよ」てな内容の返事がかえつて来ます。しばらくすると小さな子供が先ほどの潜り戸を通り石鹸を持つて洗い場の父を探して渡している光景を見ることもありました。

 幼い頃の出来事で今でも生々しく記憶に残つている事件?があります。父に連れられて銭湯に行つた時の事です。体を十分に洗いゆっくりと並んで入つていました、「良く沈みなさい」と言われて肩まで沈んで静かに入つていて良く暖まつた頃、何時の間にか勢い良くオシッコをしていました。父の手か胸あたりに当たつたのでしょう、父が小声で「オシッコしてるの」と言いました、その時私は返事をした覚えはありません、小さく頷いて湯の中をじっと覗き込んでいると水面に細かいさざ波がうっすらと立つていました。その後風呂から帰る途中に父は叱りもせず黙々と坂を登りました、家に帰つても何も言いませんでした。此の時の様子は何時までも記憶に鮮明に覚えています。お風呂のなかで思い切りオシッコをするのは大変壮快で気分が良く脳裏に焼き付いたのでしょうか、3〜4歳の頃の出来事だと思います。

 

中野駅

現在の中野駅前広場

銀座通り

銀座通り

 
 
 
 

 

 




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■横浜の戦中戦後
2006/03/11
茶の線

伊勢佐木町

横浜伊勢佐木町入り口

 

 戦時中は今のようにワンルームマンションやマクドナルドや回転すしはなく、横浜に出てきて親元から離れれば皆何処か下宿屋を探しました。しかし食糧難の時代ですから外で食事をするにも近くに店はなく、パン屋やコンビニもないので自炊するのは大変なことでした。運良く私の友人が良い下宿屋を探して呉れましたので2人で6畳の部屋を借りて下宿生活をする事にしました。下宿人は4〜5人いて食事付きでしたから助かりました。朝夜の食事の他に昼の弁当も出して呉れたような気がします。下宿のおばさんは1人暮らしでたまに旦那が来て泊まる丁度でした。お米は「米の通帳」があり配給制でしたが量が少なく到底足りませんでした。おばさんは知り合いの農家を訪ねて、米や野菜はそこから分けて貰つていました。田舎に買い出しに行く折は下宿人が交互にリヤカー(小型の荷車)を曳いて食料運搬のお手伝をしました。

 戦争が激しくなるとアメリカの「B29」と称する大型の爆撃機が我々の上空に来て多くの爆弾(主に焼夷弾)を周囲一面にばら撒きました、中には神経を苛立たせる甲高い音を出すものも多く、周囲は畑でしたが無数に落ちて来ました。米軍の爆撃機はサイパン島から富士山を目標に飛んで来ます。それを発見すると大本営発表として空襲警報のサイレンが鳴るので急いで防空壕に避難する事になつています。私は気休め程度の出来映えでしたが隣の家の防空壕に必死で入れさせて貰いました。日本軍は空の敵機に向かつて高射砲を打つていましたが米軍機は1万メートル以上高く飛んでいるので、日本軍の弾はそこ迄届かず米軍機には何の威力もなく、祭りの花火でも見る程度で帰つて行つた事でしょう。

 そのうち戦火が激しくなり横須賀の海軍工廠へ動員されて行く事になりました。宿舍は田浦か逗子あたりにある海軍に関係の宿舍で、毎日その宿舍から往復4〜5Kmの道を歩いた通いました。休みの日には近くの逗子海岸へ泳ぎに行きました。当時の横須賀海軍工廠は横須賀の半島の岩山の地下に造られた地下壕でその全長は26Kmにも及ぶといわれています。軍の機能は次々と此の中に移されました。工作機械類は旋盤・ボール盤等壕の中に並べられて一大地下工場の感がありました、操作しているのは皆女の工員さんばかりでした。横須賀海軍工廠は日本で最も強固な要塞で安全な場所だ。此処が潰れる時は日本はないと言われました。米軍機の飛んで来るのを見たことはありませんでした。占領後使う予定にしていたのでしょう(※参照-1)

 当時は高校や大学で1〜2番の優秀な学生は幹部候補生と称して日本軍の幹部に相応しい特別の教育を受ける事ができました。私の手伝つていた仕事は海軍の技師達の部屋らしく彼らの設計している図面の製図でした。今想像すると日本海軍が密かに造つていた「人間魚雷」の一部だつたかなと勘ぐつています。此の魚雷は艦首に爆薬を搭載して人間が乗り込み、電池とエンジンで海中を突き進み敵艦目がけて突撃し体当たりで爆破する計画でした。しかし実際は魚雷不足と訓練機材の不足で実現しない内に敗戦となつたようです。このような計画が外部に漏れて知る所となり、大多数の外国人から見ると嘗てのアフガンやパレスチナの特攻隊と同じように、「日本人は天皇を守る狂信的愛国心の自爆テロリスト集団」と見なされたのです。現在の大多数の日本人はその様な考えはなく、戦争は絶対しない平和な世界を望んでいるので、それを世界に向けて分かり易く言葉と行動で表して行く努力をしなければならない。(※参照-1)

 昭和20年5月京浜工業地帯・横浜の大空襲がありました。その時工場跡で使える機材が残つていればと翌日海軍のトラックで横須賀から出かけました。横浜の街に入つた時、前日の空襲でここも全て焼き尽くされ、あちこちに煙が立ち上り、異臭が漂つていました。路は何とか車が走れました。川崎の軍事工場地帯に着いてそれらしき場所を走りましたが皆焼け焦げていて何一つ使えるものはありませんでした。その後ラジオから重大放送があるとして全員広場に集めら「玉音放送」を聞きました。

 原爆実験成功から10日を経た7月26日に、アメリカ、イギリス、中華民国の3首脳による「ポツダム会談」がおこなわれ、日本に対して十三条から成る無条件降伏勧告の宣言をしました。日本政府は、7月28日これを「黙殺」すると発表したので、11日後の8月6日広島への原爆投下、14日後の8月9日長崎への原爆を投下しました。又ソ連が9日午前零時を持って日ソ中立条約を破棄し日本に宣戦布告して樺太南部、千島列島に侵攻しました。ついに8月14日、最後の御前会議で宣言の受諾を決定し、同日夜、終戦の詔勅が発せられ、翌8月15日正午、NHKラジオを通して天皇が国民に敗戦を伝える玉音放送を行いました。それはポツダム宣言から20日後のことであり、7月28日これを受け入りていれば20世紀最大の原爆の悲劇は免れたであろうし、ソ連の北方への侵攻も避けられたでありましょう。しかしこの報が入ると陸軍青年将校が玉音放送を中止させて「本土決戦内閣」を樹立しようと動き、8月15日未明に一部部隊が皇居やNHKなどを占拠する事件が起こりました。(※参照-2)
 太平洋戦争の敗北を認めた日本政府が,無条件降伏を求める「ポツダム宣言」を受諾して連合国に対し降伏した。このポツダム宣言の基礎となったカイロ宣言では日本の(日本軍のではない)無条件降伏と言い切っている。ポツダム宣言の時点に至ると、あえて日本の無条件降伏を日本軍の無条件降伏と緩めている。無条件降伏とは、ある国家または軍隊が示した降伏条件に、交戦相手は無条件に従うという取り決めで降伏することである。日本の場合は、無条件降伏でなかったとする説と、無条件降伏であったとする説とがあります。(※参照-2)

 敗戦後一旦郷里に帰り暫くして又横浜に戻つて来ました。前にご厄介になつてい家を探したら畑の中に見つける事が出来き再び下宿する事にしました、あの大空襲下でよく焼けずに残ったものだと思いました。隣の家には若い娘さんがいたのでアメリカの水兵2人で毎日よく通つて来ました。彼等はチョコレート・菓子・ウイスキー等それ迄の日本では余り目にしないものを持参するので親も娘に口出しはしないようでした。家が留守で鍵の掛かつている日は彼等は家の回りを囘つて暫くして帰つて行きました。私の友人も郷里から戻つて来て我々仲間はメンバーが揃いました。

 或る日、市電の始発駅のある六角橋の近くに、便利で雰囲気の良い下宿屋があるとの情報を手に入れた友人がいました。友人と共に見に行き気に入つたので早速引っ越す事にしました。今度は白楽の丘にあるお屋敷で下宿人が7〜8人になる家でした。8帖の部屋を我々3人で借りることにしました。友人の一人は英語が堪能で毎晩英語の本を読み耽けり、郷里に残してきた彼女には長い手紙を書いていました。今一人は関西の大会社の御曹司でした。下宿屋の奥様のご主人は大きな船会社の船員さんらしく一度航海に出ると暫くはお帰りになりませんでした。奥様には2人の娘さんがいて、姉さんには親も公認のフィアンセがいました。たまの日曜には迎えに来て街に2人で出掛ける事が常でした。暫くした或る日に海外から引揚げて来たが住む所がないと言う夫婦が訪ねて来て「軒下で良いから置いて貰いたい。」と奥様にお願いしていました。随分長いこと話していた様です、終いには「お勝手の板の間で良いから是非置かせて貰いたい。」と祈るようにお願いしているのが聞こえました。我々の知る限りでは奥様と娘が一部屋で生活し、その他の部屋は下宿人がいるので空き部屋は無いように思われました、然し数日後夜になると先程の夫婦らしき話声が聞こえて来ました。それによると港近くの街頭で魚か何かの露天商をしているようでした。当時は働くにも職場はなく食べる為に自分の衣類や金目の物を売り繋いだり、各自の闇ルートから手に入れた物を売りさばいて生活していました。

 私は休みの日には横浜の中心にある伊勢佐木町界隈へ出掛けました。アメリカの進駐軍の人々「GI」とも言いましたが大勢で商店街を歩いていました。裏通りの一区画には外人専門のバーやキャバレーまがいの飲み屋が軒を並べて建つていて盛況のようでした。その頃浜ではアメリカ兵の影響かダンスが流行り初めていたので伊勢佐木町にある教習所を覗いて見ることにしました。一人のダンス教師が4〜5人を相手にステップを教えていました。他の3〜4人の教師は皆生徒と踊りながら教えていました。他の生徒達は一曲ずつ相手を換えて踊つていました。男の人は曲が代わると女性に礼をして次のお相手を探してお願いしています。中々相手をして呉れないで部屋の周囲の壁に凭れている人もいて「壁の花」と言つていました。女性は自信がなく初めのうちは先生以外とは踊らないとか、ワルツとかトロットが一応身につく迄は他の曲では踊らないと言う信念の強い方がいるようです。私は和やかで暖かい雰囲気に好感を覚えて此処で習つてみようと思う気分になりました。入会すると一人の教師が付いて最も易しいトロットの基礎的ボックスのステップを、一人で何とか出来る迄教えてくれました。その後はお相手をしてくれるパートナーを一曲毎に探して練習しました。ある程度踊れるようになつた頃3〜4人程度まとめてワルツ・タンゴ・ルンバ等教える講習に加りました。
 そのうち仕事の関係で楽しかつた横浜を離れる事となりました。

(※参照-1)
   川崎・横浜大空襲の記録
      http://www.history.independence.co.jp/ww2/index.html
   東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼幸博
      http://www.geocities.jp/torikai007/1945/turugi.html
(※参照-2)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/ポツダム宣言
    http://ja.wikipedia.org/wiki/無条件降伏
    http://akabori.web.infoseek.co.jp/b-01l.japan%20did%20not%20surrender.htm

 

 

米軍基地

横須賀米軍基地正門の前

横須賀港

現在の横須賀港のヴェルニー公園

伊勢佐木町

伊勢佐木町オデオン座近く

伊勢佐木町

現在の伊勢佐木町通り

白楽の丘-2

現在の白楽の丘-1

白楽の丘-2

現在の白楽の丘-2

 
 
 

 

 

 

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   ・今後の予定表-----。
   
■ギューちゃんのいる兜町
2006/00/00
   
■浅草寺の奥の院
2006/00/00