社会学各論2課題レポート
とどまるところを知らない情報社会への流れ――現代社会は情報が氾濫し、それが私たちのアイデンティティや価値観を形成しつつある。その情報を媒介するものがメディアであり、近年のメディアの多様化は著しいものがある。20世紀後半(実際は1930年代のナチスドイツは大衆扇動のためにメディアを巧みに利用していた)はいわばメディアによって社会が発展してきたといえる。そして紙発行物である新聞や雑誌、そしてテレビの爆発的普及、音楽メディアとしてのレコードやCD、そして映像メディアとしてのビデオ・DVD、さらには90年代後半のインターネット時代の到来に、21世紀のデジタルテレビへの移行と、私たちの周りから情報が途絶えることがなくなりつつある時代へと突入している。
しかし、私たちの周囲にあふれる情報とは一体何なのだろうか。本稿ではこの根本的な問いを、情報写像説を念頭に置きつつ「情報のコピー」という観点――特にインターネットや電子メールに代表されるコンピュータによる情報通信――から考察を進めていきたい。後述のとおり、情報が流通するということはすなわち、「オリジナルのパタンの複製が出回ること」と考えると、情報それ自体がコピーとなっているということを意味している。近年叫ばれている「情報のデジタル化」は、この情報のコピーを容易なものにしている。その立役者こそが、コンピュータである。
以下で、具体的にそれら情報のコピー(これ以降、便宜上情報のコピーを単に鍵括弧付きの「コピー」と略記する)について分析していこう。また、必要に際し、随時情報を大量にコピーすることに特化したメディアについても論述していく。
まず、情報伝達とコピーとの関係――情報を伝えることとは、あるパタンをコピーすることである――について考えていきたい。太古の昔の人類とて、情報のコピーは行っていた。狩猟・採集を生業としていた時代であればそこで流通される情報は食料の在り処であるし、シャーマンが活躍する時代ならば「お告げ」という情報が、時代が下って紙や木簡というメディアが誕生すれば、文字による情報をやり取りするようになった。これらでやり取りされる情報は、いずれも発信源の情報をそのまま皆に伝えるのが目的であり、生活に必要な共有すべき情報をコピーし、一つの集団社会を存立させるものであった。そして文字による情報は、音声による情報と異なりある程度の期間存続し続ける。すなわち、それだけ正確なコピーが可能となる(音声が確実に相手の記憶に残るとは限らないのに対し、文字であれば記憶に残らなくてもコピーそのものが残るため)。
そして、グーテンベルクによる活版印刷技術により、第1の情報化というべき現象が起こる。活版技術が導入されたのは聖書の複製のためであるが、後述によるもの、さらには書き写しによる聖書の伝達に比べ、はるかに早く、そして大量に情報を伝達できるようになっていった。そして、本というメディアが庶民にも広まることになり、さらにはそれによる「共通の価値」を形成する一要因となっていくことになる。さらに、本から新聞へ、そして雑誌へという形を経て、文章のコピーによる情報が長らく社会における伝達役割を担うことになった。
そのような状況を変えたのがラジオ・テレビのような、文字に頼らないメディアである。識字率の低かった時代、文字と異なり、すんなり認知される音声や映像――とりわけ、感覚の中でもっとも影響力の大きい視覚(行場・箱田[2000])に訴えかける映像――の影響は第2の情報化いうべき現象が起こる。「百聞は一見に如かず」の諺通り、文字による情報伝達以上の効果を、映像によって与えることが出来るようになっていった。それを技術的に支えるのが映像を電波に置き換えて発信するテレビ放映である。このような影響力の強いものを巧みに利用し、自己の思想のコピーを行ったのが、ヒトラー率いるナチスドイツ、そしてその情報担当大臣であるゲッペルスである。そして、電波を用いることによるもう一つの変化は、「時間的距離の克服」である。かつての文字メディアの問題点として、(印刷から配送まで含めて)伝達させるまでに時間がかかるというものが考えられるが、テレビの場合、即時にスタジオという空間のコピーを視聴者に送信することが可能になった。そして、テレビは瞬く間に人々に浸透していき、マスメディアの頂点として君臨することになる。しかし、テレビにも弱点がないわけではない。すなわち、情報の流れが一方的になる傾向が強く、また仮に双方向であっても視聴者側の意見を即座に送るためにはテレビだけではなく電話やファクシミリの助けが必要になるということである。
ところが、近年そのような双方向性を武器に新たなメディアが幅を利かせてきている。それがインターネットであり、私はこの「インターネット時代」の到来こそが第3の情報化であると考えている。先に述べた双方向性についても十二分に満たしているメディアであるが、最大の特徴は、インターネット上でやり取りされる情報は容易にその複製を作れるということである。しかも、そのコピーをもとに、新たなものを容易に作り出せるという点にこそ、第3の情報化としての意味がある。そもそもにおいて、HTMLによる情報提供それ自体が、ローカル端末にあるファイルをサーバーに転送(コピー)して、サーバーにあるデータをユーザーが自分のパソコンに「ダウンロード」というコピー作業によって行うというシステムからも分かるように、情報の複製という形で成り立っている。さらに、ユーザー側でもそのような情報を、手間をかけることなくパソコン上で大量に複製していくことが出来るという点でも、インターネットによる情報伝達はコピーの応酬であるといえよう。
以上のように、情報伝達――ひいてはコミュニケーション全般――において、コピーというものがその本質であると考えてきた。昨今「情報のデジタル化」と言うことが叫ばれているが、それとコピーとの間にはどのような関係があるのだろうか。第2節ではデジタル情報化とコピーとの関係性を見ていこう。
コピーというものは何も人間の生活にのみ見られるものではなく、生物の身体レベルでも見られる(例遺伝情報)。言うなれば、私たち自身もオリジナルが定かではないコピーということになる。さらに、自然をオリジナルとした絵画や音楽などの表現技術、さらにはそうして出来た音楽を媒介しているレコードなどのメディアも、一種のコピーと考えることが出来る(正村[2000])。私たちの創作物はみなこの範疇(つまり、何がしかのコピーであるということ)に属している。しかし、私たちはそれがコピーであることを何ら認識していない。一般的な感覚での「コピー」とは、類似性を持たない「あるもの」と全く同じモノを作り上げるということを意味している。
ところで、情報のデジタル化とコピーについてだが、一般的に考えられることとして、コピーする際はアナログ情報よりもデジタル情報のほうが正確であるということが挙げられる。以前、とあるグループが次のような実験をした。方眼紙上にある直線で囲まれた象のイラストを、あるグループはトレーシングペーパーで前の人が描いた絵(最初の人だけ原画)をなぞっていき、別のグループは方眼のます目(言わば座標)のみを書き写していき、最終的に原画とどれだけ一致しているかというものである。結果は速度に関してはほぼ同じだったが、正確さは後者の伝達の方が上であった。この結果から明らかになることは二つあり、一つはアナログデータよりもデジタルデータのほうがコピーを作る際に正確であるということ(これは実験からも自明である)、もう一つは(これは筆者の主観だが)情報量を減らすことが容易であるということである。というのは、書き写しの場合は「その絵が象である」という、情報伝達においてある種の「余分な」情報が混じる(つまり、視覚イメージが情報を歪める可能性がある)のに対し、座標の場合は単なる数字の羅列であり、そのような余分な情報が入る余地はない。つまり、デジタル情報は「正確な」姿を保ちうる可能性が高いということになる。そして、そのデジタル情報を扱うコンピュータの他分野への普及が、情報のデジタル化の意義をますます高めていくことになる。先に述べたように、情報の流通=コピーとする場合、コピーが容易である方がよりもてはやされることになる。
では、何故デジタル化するためにコンピュータが必要なのだろうか。これにも人間の認知が深く絡んでくる。先にも述べた通り、人間の知覚ではぱっと見たイメージが最優先され、そのデータが持つ座標空間的情報を処理するのに時間がかかってしまう。人間の知覚はデジタル情報に十分順応していない。しかもパッと見た限りでは全く分からないような形で「暗号化」されたデータになるのがデジタルの特徴である。そのような作業は人間のてによるよりもコンピュータに任せた方がはるかに効率的であろう(もっとも、現在のコンピュータは意味的な情報の取り扱いは苦手としているので、情報のデジタル化が必ずしも情報処理において優れているとは限らない)。
情報のデジタル化は、要は人の手を煩わせるようなデータの処理をコンピュータに任せてしまい、そのうえで「正確な」コピーを作り上げるというものに重心が置かれていると結論付けることが出来よう。
ここまで情報のコピーという概念についての考察を進めてきたが、「コピー」において必ず問題になるのが著作権――言うなれば、元にしたものとコピーとの間に存在している同一性と差異性――の問題である。コピーが容易ということは、他人の作品の複製を無断で自分のものとして使うことが出来ると同時に、自分の作品もまた他人に使われる可能性があるということを意味している。極端な例を挙げれば、今こうやって私が書いているレポートも、何らかの形で私のパソコンに侵入してそのデータをそっくり写し取ってあたかも自分のものであるかのように発表することも可能になる(もちろんそれは「不正アクセス」として法律で禁止されているのだが)。
もう一つユニークな例を挙げておこう。私は7年ほど前からゲーム作成を趣味としているのだが、この頃はもっぱらパソコンのゲーム作成ソフトによる創作活動を中心としている。もちろん、一から絵を描けない人のために、デフォルトである程度の量の素材がソフトに用意されている。問題は、以下に提示する2つの画像の問題である。
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この画像だが、左はサンプルの画像、右はそれをもとに私が加工(色を変えた)したものである。ところが、そのゲーム作成ソフトを作った会社がソフトに同封した規約によると、「サンプル素材を改変したものはご自分のゲームにおいて使用することが出来ますが、それを素材としてホームページ上で公開することは著作権の関係上出来ません」とある。実はこのツールで作成した作品は、自分のホームページサーバーにアップロードして、一般に公開してもいいことになっている。つまり、自由な複製を認められているものに複製の歯止めをかけているという奇妙な現象が発生している。言い換えれば、「コピー」を認めるものに「コピー改」を単独で公開することを認めないということである。私にとっては左と右は差異的であっても、別な人が見れば同一的であると考えられても仕方ない。
困ったことに、現段階の日本の法律では、デジタルデータの明確な著作権は確立されていないし、それをきちんと残しておくことは非常に困難である。また、ツールさえ持っていれば容易にそれらのデータを改変することが可能である(例えばMicrosoft Wordで作成した文章には作成者のデータが入るのだが、そのデータを改変することが出来る)以上、その主張が認められるとは限らない。上の例のように原型をとどめている場合ならともかく、改変に改変を重ねてしまった場合はそれが同一か差異かという問題を問えなくなってしまう。この「著作権が不安定・曖昧になりやすいこと」こそがデジタルデータにおける脆弱さだといえよう。私は詳しく知らないのだが、アンダーグラウンドの世界ではさらに手の込んだコピーが出回っているらしく、例えば明確に著作権を主張できるプログラム作品(例えば、店頭で購入すれば何万円もする画像処理ソフト)を、わざわざ画像ファイルの中に埋め込むことで偽装し、それをダウンロードした人が画像を解析して該当のプログラムを引き出すということも行われているらしい。
これらのようなコピーは、メーカーにとっては売上に繋がらないためはた迷惑である。しかし、最近は「使ってor見てもらえるだけでいい。お代は要らない(フリーウェア、もしくは試用期間のついているシェアウェア)」というソフトを開発するプログラマーが増えている。それは、インターネットの世界がコピーであるということを考えればやむをえないことなのだろう。私もこれらのソフトには少なからずお世話になっていることを考えると、単純な金銭感覚よりも「誰かに使ってもらえれば」という、素朴な気持ちから出発しているのかもしれない。いずれにせよ、これからの情報社会における課題は、いい意味でも悪い意味でもコピーということになる。情報のコピーが容易になっている現代社会において、私たちが発信(または単純にやり取り)する情報もまた現実のコピーであり、同時に自分の発信する情報も無制限にコピーされていることを、さらに、それを低コストで得られるからこそのフリーライド問題が発生しうることを、私たちは認識しなければならない。