「心に個性はない」とおっしゃいますが

フリースペースいっぽいっぽ スタッフ 鹿股 英生
©2004 KANOMATA Eisei. All Rights Reserved.

 養老孟司著『バカの壁』がベストセラーになって、もう二年くらいも続いているのではなかろうか。私は、ベストセラーだから読もう、といったことはしたくない人間である。だから先日の、教育者教育研究所所長・長本晃一氏の講演を聞くまでは、この本を読もうとは思っていなかった。しかし、長本氏の話の中に、養老氏は『バカの壁』のなかで、『心に個性はない』といっている。というところがあり、「あの本は、そんな恐ろしいことをいっているのか、それが事実だとしたらこれは捨て置けない。」という思いに駆られ、さっそく入手した次第である。

 これまで『バカの壁』を読もうとしなかったのは、その表題のせいもある。読者に対して、お前達はバカだ、といったか感じが濃厚に漂ってくる。多分彼独特の、人の度肝を抜く言い回しなのだろうが、あまりいい気持ちはしない。バカにされないよう心して読んで見ようと思った。

イ)養老氏の「個性」とは

 養老氏は「個性」を説く前に、人間の脳の進歩について彼なりの説を述べている。
 人間の脳というのは、こういう順序、つまり出来るだけ多くの人に共通の了解事項を広げていく方向性をもって、いわゆる進歩を続けてきました。

 「共通の了解」とは、みんながわかるということを意味している。みんなが共通にわかって、それが基盤となって共通理解の上に次の進歩がある、と彼は説明しているようである。文明の発達は、みんながそのことを理解し、それを基盤とすると次のステップが可能となる。ということは、彼に説明されなくとも分かり切った事実である。しかしその次に彼は、次のように述べている。

 マスメディアのおかげで、多くの人がある事象について、共通の情報を受けるようになったのです。共通了解が多くの人と解り合えるための手段だということを考えれば、それが発達して行くことは自然の流れでしょう。
 ここまでは何とか理解出来ないでもないが、その次の部分には私も違和感を感じた。
 ところが、どういうわけか、そうした流れに異を唱える動きがあります。『個性』の尊重云々というのがその代表です。

 共通理解が自然の流れなのに、個性が尊重されては、共通理解、共通了解は成り立たないのではないか、そして文明の発達も期待できないのではないか、ということのように私には聞こえる。このところに彼の独断と偏見が始まっているように私には思える。

ロ)進化(進歩)の形

 共通了解が広がり、段々とみんなが同じものを見て同じように把握できるということは、ひとつの流れかもしれない。ただこのとき、段々とそれがひとつの方向に、一直線に進んでいくというものではない、と私は考えている。例えば、言葉の使い方や意味合いの変化などを見ていくと、ある一部の人が違った使い方をしていたものが、変な使い方だということで淘汰されていったり、これは面白いから私も使ってみようという人が増え、いつの間にかその使い方が一般的になったりする。或いは、全く新しい製品とか生産物が出現したとき、それに対していろんな名前が付く。そのいくつかを使う人が増えていく中で、最も多く使われたものが段々と一般化されたり、あるいは大金持ちなり有名人がそのうちのあるひとつを使いだしたためにそれが一般化する、ということもある。

 ことがもっと概念的なものである場合は、更に複雑な広がり方をし、共通理解が得られぬままにそれぞれが違ったものとして発展していく場合もあろう。ちょうど樹木が枝を次々に伸ばしそれぞれが発展していく時、たまたま二本の枝が特に勢力を得て、ふたつの幹をもった樹木に伸長していくこともある。或いは、ユキヤナギやアスパラガスのように、ひとつの株から多数の枝葉を伸ばしていくものもある。これと同じように、時の流れの中で、ひとつの共通了解が形成されていく場合もあるだろうが、必ずしもそうならない場合もある。なる場合でもその課程の中で、個性的なものがいくつか現れ、その中のひとつが必然か偶然かは分からないが主流になっていく、という場合もある。

 このように考えてくると、個性的なものが出現しない限り、新しい展開も文化の発展も生じないように思えてくる。特にその集団にとって、有益な或いは画期的な個性を持つものの出現が、文化・文明に欠かせない要素であると私は言いたい。

ハ)個性とは何か

 養老氏はいう。

 大体、現代社会において、本当に存分に「個性」を発揮している人が出てきたら、そんな人は精神病院に入れられてしまうこと必定。想像してみればおわかりでしょう。人が笑っているところで泣いて、お葬式で泣いているところで大笑いしてしまうような人。それで「どうして」と聞かれても理由が答えられない。

 どうも彼のいう「個性的な人」というのは、極端にみんなとは違った行動をとる人とか、精神的におかしな人、ということのようである。我々が普段、子育てとか教育の場で使っている、「個性を伸ばそう」と言ったときの「個性」とは、決してそんな異常性をもった「個性」ではない。絵が得意であるとか、とても優しい、或いは服装のセンスがいい、数学が得意である等という、その人の特性とか特徴を指しているものと思っている。養老氏の「個性」の定義が、世間一般のものとは大きく離れている、としか私には解釈するほかない。その変な言葉の解釈でもって、「個性を伸ばすなんてバカのいうことだ」といわれては腹も立とうというものだ。その変な解釈をしているのが子どもや、あまりものを考えない人なら笑ってすますこともできるが、養老氏は一応は東大の名誉教授であり、広くその名を知られている人である。そんな偉い人が言うことだから間違いはないだろう、と思う人も少なくはない。現にこの『バカの壁』は、すでに三百万冊も売れたと聞く。買った人がこれを読んで、「そんなバカな」と思うのであればいいが、そうでないとしたらこれは大変な事態だと私は考える。

ニ)養老氏の独断と偏見

 更に養老氏は、学問の世界でも個性、個性と言うわりには、論文の書き方には個性が認められない。それはおかしな話だと言う。どんなことを言っているのかと思って良く読んでみると、何のことはない。「学術論文を書く場合は、必ず英語で書け、と言われる。それは、学者の世界では大概、英語を共通語として、それを使うように求められている。どこが個性なのか。」ということである。学問の世界で個性、個性という時の「個性」とは、学者自身の独自性とか特別の分野での成果を指すのであり、英語で書くかドイツ語で書くかといった表現法や小手先の違いではない、ということは子どもでも分かることではないかと私は思う。

 次に養老氏は、個性があるのは我々の身体だ、身体こそが個性の違いを示すものである、と言っている。その例として、臓器移植を挙げている。親の皮膚をもらって子どもに植えたってダメだ、身体はみんな違うのだ。その結果、イチロー選手や松井秀喜選手のような個性のある人が見られる。我々凡人はいくら練習してもイチロー選手や松井選手のようにはなれないものだ、とまでいっている。言い換えれば、個性とは遺伝子の違いであり、努力や教育によっては変わるものではない、と言いたいのだろう。
 はたしてそうなのだろうか。もし仮に、イチロー選手に一卵性双生児の弟がいたとしたら、彼はイチロー選手と同じような一流選手になれただろうか。弟として、兄と違った立場に置かれ、また父親の英才教育がなされなかったり、良き指導者に恵まれなかったらどうなっていただろうか。

 個性は、勿論遺伝的な要素が基盤になっているということは誰にも異論のないところではあるが、それだけで形成されるものではないと私は考えている。幼少期の育て方、その後の教育の仕方、訓練や鍛錬、周りを取り巻く諸々の要素等によって体格、体型も変わってくるし個性(こころ)も違ってくる。特に、こころの違いは、幼少期の育ち方が大きく影響されるものと言われている。身体と違って(身体は生まれた時から存在するものだが)こころは、生後の経験によって形成されていくものと私は考えている。生まれた直後は、白紙の状態だと考えるからである。白紙の状態に、親の言葉や接し方、感情や表情、直接間接の経験などが次々に刷り込まれていき、それらの総合によってこころ即ち個性が形成されていくものだろうと考えられる。

 養老氏の思い込みのひどさは、次の部分にも現れている。
 意識にとっては、共有化されるものこそが、基本的には大事なものである。それに対して個性を保証していくものは、身体であるし意識に対しての無意識といってもいい。今の人は夢にもそう思ってはいない。それどころか、まったく逆に、意識の世界こそが個性の源だと思っている。
 どんな資料を基に、「今の人は、意識の世界こそ個性の源だと思っている」と彼が判断したのか理解に苦しむ。彼の言う「今の人」とは多分、「多くの人」とか「民衆一般」といった意味合いなのだろう。私の知る限りにおいては、個性というものは体質が根幹にあり、それに教育やしつけ、環境や経験などが複雑に影響しあって形成されるもの、と多くの人は考えているように受け止めてきている。私もしっかりした資料を持っていないのであまり大きな事は言えないのだが、「意識の世界だけが個性を決める」などと考えているのは、ほんの一部の人のように思えるがどうだろう。

ホ)エピローグ

 おかしいな、変だなと思う点は他にも感じられたが、これ以上追求していくと私の無知をさらすことにもなりかねないのでこの辺で止めよう。

 この文がほぼ纏めあがった頃、新聞の『正論5月号』の広告が目に付いた。内容紹介の一部に「『バカの壁』を読めばバカになる」(岡田克敏)とあったのでさっそく購入して読んでみた。彼の調べによると、『バカの壁』に対する感想・評価の7割が否定的なものだったということである。バカでない人が多かったということを知り、一安心した次第である。(04.4.10)