10マイル先に吹く風 VOL4
97/11/1更新

ぼくらはただ黙りこくって夜空の星をみつめていた。
そのうち彼女がぽつりと言った。
「私アメリカにエアロビックダンスの勉強をしに行きたいの」
ぼくは何も答えずにいた。
「アメリカでAFAAの資格を取るための研修があるの。それに佐藤さんが一緒に行かないかって...」
「いけばいいさ」
ぼくの言葉に彼女は表情を曇らせた。
「行ってもいいの?」
「いいも何も、それは五十嵐さんが決めることだよ。ぼくには何も言えない」
きっとぼくの言葉に彼女は心を痛めたに違いない。彼女はそれっきり黙ってしまった。
「俺も旅に出ようかと思ってるんだ」
ぼくの言葉に彼女は俯いたまま頷いた。
「もう、こんなくだらない毎日にはうんざりなんだ。旅にでも出れば何かが変わるかもしれない」
くだらないのは、ぼく自身の存在なのに、まるで、その責任が彼女にあるかのような言い草だった。
「どのくらい...?」
彼女が不明瞭な言葉で訊いた。
「さあ、一月か、二月か、気の向くまま...」
「−−−もし、帰ってきても、私は、待っていないかもしれないよ...」
「−−−ああ...でも、仕方がないよ...」
ぼくは際限無くこじれていく自分の心がままならないまま、自分の想いとは裏腹の言葉を吐き続けた。
「もう帰ろう」
ぼくは立ち上がり、階段を先におり始めた。 彼女もしばらく遅れてから立ち上がった。 ぼくは後ろを振り向かず、早い歩調で競技場の出口へと向かって歩いた。彼女はぼくから10歩ほど遅れて俯きながらついてくる。 彼女は涙を零していた。
それでもぼくは、それに気付かない振りをして黙々と歩き続けた。

8月15日
「じゃあ、行くぜ」
小林が言った。二人は上諏訪の駅前にいた。
「彼女に会っていかないのか?」
「おい、おい、俺がそんな野暮な奴に見えるか?感激の再会は二人きりでするもんだろ」
「...」
「なんて顔してんだよ。彼女は来る。俺が保証する。あのこはお前と一緒にいるのが一番お似合いなんだ」
「ああ...」
ぼくが低い声で頷くと、小林はぼくの肩をばんばんとたたいて、バイクに跨った。ヘルメットをかぶって、グラブを手にはめる。
キーを差し込み、キックでエンジンに命を吹き込んだ小林は「じゃあなっ」と、そう言って、あっさりと走り出した。
ロータリーから国道の流れに合流するとき一度だけ右手を軽く挙げて見せた。たぶんぼくへの別れのサインだったのだろう。
国道に合流した小林のバイクは見る見る加速して、やがてぼくの視界から消え去った。

小林を見送った後、ぼくは自分のバイクで彼とは逆の塩尻方向に向かって走り出した。 裕子が上諏訪の駅に着くにはまだ少し間がある。
ぼくは市内のバイク屋にヘルメットを借りに行くつもりだった。
探してみると、結構バイク屋って少ないもんだ。時間がどんどん過ぎていく。ぼくはさんざん走り回った挙げ句、やっと自転車屋もかねている小さなバイク屋を見つけることができた。
「すいませーん」
ぼくが中にはいると作業服に作業帽のおじさんが応対に出た。
「はい、いらっしゃい」
「あのー、ちょっと変なお願いなんですけど」
「何でしょう?」
「ヘルメットをですね」
「はあ」
「買うんじゃなくて、貸してもらいたいんですけど」
「?」
「いや、ちょっと友達をですね、これからバイクの後ろの乗せるんですけど、ノーヘルじゃまずいし、かといって買うほどの金もないもんですから」
「変わったお客さんだね...どうしたもんだか」
「お願いします。あの、これ、免許の名前控えて下さい。持ち逃げしたりしませんから」
「いや、そんなことはいいんだけど、うちもね、見ての通りちっちゃな店でさ、ヘルメットって言われても、何処にもないんだなこれが」
「えー?無いんですか」
ぼくはがっくり肩を落とした。もう他の店を探す時間はない。
「あなた、私のヘルメットがありますけど」
奥から二人のやりとりを聞いていた奥さんがそう声をかけてきた。
「お前のっていったって」
「あれば何でもいいんです!」
「そうか...じゃあ、ちょっと待ってな」
おじさんは奥さんから場所を聞くと、店の裏へと出ていった。
しばらくして薄汚れた白い半キャップのおばさんヘルメットを持っておじさんが戻ってきた。
「もう、カカアもここ一年乗ってなかったんだが...」
そう言って手渡されたヘルメットは無惨なまでにボロかった。内側には蜘蛛が巣をはっていた。
「ありがとうございます」
ぼくはそれでも精一杯のお礼を言った。
「あの、借り賃は?」
「いらねー。そんなんで金は取れないよ」
「ありがとうございます」

ぼくは内心、確かにこれじゃ金は取れない、とったらあんたは鬼や、と思っていた。
ぼくはオバサンヘルメットのストラップを右腕に通し、再び上諏訪駅へと急いだ。
もう時間がない。
普段は滅多にしないすり抜けを多用して混雑している国道をとばす。
裕子は来ると言った。
ならば、ぼくは彼女を迎えてあげなければいけない。
時計を睨みながら、ぼくは70Kmの速度で縁石と車の間隙を飛ばしていく。
上諏訪の駅が視界に捉えられるようになったとき、すでに約束の時間を10分過ぎていた。
ぼくはバイクを駅前のロータリーに乗り入れて停めた。
裕子を捜す。
一人一人、同じ年頃の女性を確かめていく。
何処にもいない。
もう一度駅前の雑踏を丹念に探す。
やはり、いない。
ぼくは時計を見た。約束の時間から15分過ぎている。
彼女はやっぱり来なかったのだろうか?
あのとき、電話でぼくに会いたいと言ってくれた、あの一言でぼくにはもう充分だったのかもしれない。それ以上を彼女に望むのは過ぎた願いだったのだ。
ぼくは身体から力が抜けていくのを感じ、駅前のタイル張りの歩道に腰を下ろした。

97/11/9更新
駅前は旅支度の若者で賑わっている。
今夜は年に一度の諏訪の花火大会だ。日本中から30万人以上の人々がこの街にやってくる。
でも、その中に彼女はいない。
ぼくは歩道に腰を下ろしたまま、力無くうなだれていた。
「井上君...」
その時ぼくの名を呼ぶ声が聞こえた。
裕子の声。
「井上君!!」
ぼくは声のする方向を見た。
改札口から出てくる裕子の姿が見えた。
涙顔で歩いてくる。
ぼくが立ち上がって歩き出したとき、初めて彼女の顔がほころんだ。
ぼくは彼女をタンデムシートに乗せてビーナスラインを走っていた。
頭にはあのオバサンヘルメット。
ぼくのオープンフェイスのヘルメットは彼女がかぶっている。
ぼくの腰に手を回し、しがみついている彼女の身体が熱い。
裕子の身体だ。何だか未だに信じられない。
前方からツーリンググループの一群が近づいてくる。皆、そろいのレザーのつなぎを身につけている。
先頭のライダーがピースサインを出した。 ぼくはグリップを握ったままで親指と人差し指の2本を立てた。北海道で数百回もピースサインを出し続けた末に辿り着いた形だった。
ぼくは本格派ライダーたちに自分のみっともないヘルメットを見られるのが恥ずかしかった。だが、そんなぼくの気持ちもお構いなくライダーたちは次々とすれ違っていく。
半分ぐらいが女性ライダーだ。
長い髪をフルフェイスヘルメットの後ろからなびかせている。
「かっこいいわよ」
一人の女性ライダーが自分の頭を指さしながら言った。
からかっているんだろうか?
でもぼくには、すれ違うライダーたちが皆、ぼくら二人に好意的な態度を示しているような気がしていた。
夕方、ぼくらは再び諏訪湖の湖畔に戻っていた。
日はほぼ暮れ落ち、人々の顔は街灯のあかりでオレンジ色に染まっている。
湖畔に響くアナウンスが花火大会が間もなく始まることを告げていた。
「ここら辺に座ろうか」
「うん」
ぼくらは歩道の縁石に腰を下ろした。
「寒くない?」
「大丈夫よ」
湖を渡り来る風はひんやりと冷たかった。 裕子は風が吹く度、微かに首をすくめた。
ぼくは彼女の肩に腕を回した。
「ありがとう」裕子が言った。「暖かいわ」
最初の花火が上がった
二尺玉だ。大きい。
半刻遅れて、ずんと地響きのような波動が届き、人々がどよめく。
アナウンサーがスポンサーの名を告げる。 「凄いね」
「うん」
立て続けに何発か打ち上げられる。
だんだんと人々が熱狂していく。
ぼくらは立ち上がり湖に向けて歩き出した。
「来て良かったわ」
「そう?」
「ええ、井上君とこんなに長い時間一緒にいられるなんて...」
彼女はそう言ってぼくの腕に自分の腕を絡ませた。彼女の腕は、信じられないほど細く、そして、冷たかった。
花火大会はいよいよ、フィナーレを迎えようとしていた。人々は幕引きにふさわしい最後の花火を息をのんで待つ。
もうかなりの沈黙が続いている。
突然、湖上で尺玉が炸裂した。
巨大な半球が丁度椀を臥せたように湖面に盛り上がる。
これが諏訪湖名物の花火だ。
1.2秒後に音というより圧倒的な衝撃がぼくらを襲った。
腹に響く。
裕子を見ると、真剣な眼差しで湖面を見つめている。うっすらと涙が見えるのはぼくの気のせいだろうか。
ぼくの視線に気付き、彼女がこちらを見て微笑む。
「何だか怖いくらいだわ」
「そうだね」
「この夜のことは一生忘れないわ」
裕子が独り言のように呟いた。
続く