「いま、会いにゆきます」
vol1
1
澪が死んだとき、ぼくはこんなふうに考えていた。
ぼくらの星をつくった誰かは、そのとき宇宙のどこかにもう一つの星をつくっていたんじゃないだろうか、って。
そこは死んだ人間が行く星なんだ。
星の名前はアーカイブ星。
「アーカブイ?」
佑司が訊いた。
違うよ、アーカイブ星
「アーカブイ?」
アーカイブ
「アーカ」といって、佑司は少し考えてから「ブイ?」と言った。
もういいよ
そこは巨大な図書館のような場所で、すごく静かで、清潔で、整然としている。
とにかく広いところで、建物をつらぬく廊下は、その果てが見えないほどだ。
ここで、ぼくらの星を去った人々は穏やかに暮らしている。
この星は、言ってみれば、ぼくらの心の中のようなものだ。
「どういうこと?」
佑司が訊いた。
ねえ、澪が死んだとき、親戚の人たちがみんな言ってただろ?ママは佑司の心の中にいるんだよって。
「うん」
だから、この星は世界中の人間の心の中にいる人たちが、集まって暮らしている場所なんだよ。
誰かが誰かを想っている限り、その人はこの星で暮らしていける。
「誰かが、その人のことを忘れちゃったら?」
うん、そうしたらその人はこの星を去らなくてはいけないんだ。
今度は本当に「さようなら」だ。
最後の夜は、友達みんなが集まってさよならパーティーをするんだ。
「ケーキも食べる?」
そうだね、ケーキも食べるよ。
「イクラも食べる?」
うん、イクラもあるよ。(佑司はイクラが好物なのだ)
「それから−−−」
なんでもあるよ。心配しなくていいから。
「ねえ、その星にジム・ボタンもいるの?」
なんで?
「だって、ぼくはジム・ボタンを知っている。それって、『心の中にいる』ってことでしょ?」
うううん、(昨晩、『ジム・ボタンの機関車大旅行』を読んで聞かせたのだ)
いると思うよ、多分。
「じゃあ、エマは?エマもいる?」
エマはいない。
いるのは人間だけだよ。
「ふーん」と佑司は言った。
ジム・ボタンもいるし、モモもいる。
赤ずきんちゃんもいるし、もちろん、アンネ・フランクもいるし、きっとヒットラーやルドルフ・ヘスもいる。
アリストテレスもいるし、ニュートンもいる。
「みんなで何をしているの?」
何って、みんな静かに暮らしているんだよ。
「それだけ?」
それだけって、そうだなあ、みんなで何かを考えているんじゃないかな?
「考える?何を?」
すごく難しいこととか。時間がかかるんだよ、答えが出るまで。
だから、あっちの星へ行っても、ずっと考えているんだ。
「ママも?」
いや、ママは佑司のことを考えている。
「そうなの?」
そうだよ。
だから佑司も、ずっとママのことを忘れずにいるんだよ。
「忘れないよ」
でも、おまえは小さい。ママとはほんの5年しか一緒に暮らさなかったからね。
「うん」
だから、いろいろ話してあげるよ。
ママがどんな女の子だったか。
どんなふうにパパと出会って、結婚したのか。
そして佑司が生まれて、どんなに嬉しそうにしていたか。
「うん」
そして、ずっと覚えていてほしいんだ。
パパがあっちの星に行ったときママに合うためには、どうしてもおまえがママのことを覚えていてくれないといけないんだ。
わかるか?
「うん?」
まあ、いいんだけどね。
2
「学校に行く準備はできた?」
「え?」
「準備だよ。名札は付けた?」
「ん?」
なんで、彼はこんなに耳が遠いんだろう?
澪がいたころは、こんなふうじゃなかった。
なにか精神的なことが原因なのだろうか?
「もう時間だ、行くよ」
ぼくは、半分眠りの世界に戻りかけている佑司の手を取ってアパートを出た。
階段の下で待っていた登校班の班長に佑司を引き渡し、彼を見送る。
6年生の班長の隣を歩く佑司はまるで幼児のように見える。
6歳のわりには、あまりに小さい。
成長することをすっかり忘れてしまっているみたいだ。
後ろから見る彼の首筋は鶴のように細く白い。
黄色い帽子からはみ出している髪は、ミルクをたらしたダージリンティーみたいな色をしている。
しかし、このイングランドの王子のような髪も、あと6年もすれば太く、くるくるに丸まったくせっ毛に変わっていくはずだ。
それはぼくが辿ってきた道でもある。
思春期に大量に分泌される化学物質のなせるわざだ。
その頃になれば、佑司も大きく成長し、やがてはこのぼくを追い越していくのだろう。
そして母親とよく似た少女と出会い、恋をし、うまくいけば自分の遺伝子を半分持つコピーをもうけることになる。
太古の昔から人々はそうしてきたし(たいていの生き物たちもそうしてきた)、この星がくるくる回り続ける限りは繰り返されていく営みだ。
ぼくは階段下に置かれた古自転車にまたがると、勤め先である司法書士事務所を目指し、ペダルを踏み込んだ。
5分と離れていない。
乗り物が苦手なぼくにとっては、ありがたい距離だ。
この事務所に、もうぼくは6年も勤めている。
決して短くはない年月だ。
結婚し、子供が生まれ、そして妻がこの星から別の星へ行ってしまう。
そのくらいのことが起こりうる年月でもある。
そして実際そうなり、ぼくは6歳の息子を抱えた29歳のシングルファザーになってしまった。
事務所の所長はよくしてくれる。
6年前から老人だった所長は、いまでも老人であり、きっと死ぬまで老人なのだろう。
老人でない所長は想像できない。
いまの年齢がいくつなのかも分からない。
80歳かもしれないし、あるいはもっと高齢なのかもしれない。
首から酒樽をぶらさげたピレネー犬のような風貌をしている。
所長がぶらさげているのは二重になったあごの肉なのだけれど。
物静かで温厚であるところも似ているし、眠たそうな目をいつもしょぼつかせているところもよく似ている。
所長の替わりに奥の机に年老いたピレネー犬が座っていたとしても、ぼくは気付かないかもしれない。
澪が死んだとき、もともと弱虫だったぼくは、とことん弱虫になり、息をする力さえも失いかけていた。
ずいぶんと長いあいだ、仕事をほったらかしにして事務所にすごく迷惑を掛けた。
それでも所長は代わりの人間を探したりせず、ぼくが立ち直るのを待っていてくれた。
それにいまでも、ぼくは4時には仕事を終えて帰宅できるようにしてもらっている。
学校から帰った佑司をなるべく一人きりにしたくないというぼくの願いを聞き入れてもらっているのだ。
その分、給料は少なくなったが、お金には代えられない貴重な時間を得ることが出来た。
よその町には学童保育という制度があるとも聞いたけれど、ここにはそんな気の利いたシステムは存在しない。
だから、とてもありがたく思っている。
事務所に到着すると、ぼくは先に出勤してきている永瀬さんに挨拶をした。
「おはようございます」
彼女も挨拶を返してくれる。
「おはようございます」
ぼくがこの事務所に入所したとき、すでに彼女はいた。
高校を卒業してすぐに来たのだと言っていたから、いまはもう25歳になっているはずだ。
控えめで生真面目な性格の女性で、その内面に似つかわしいおとなしそうな顔立ちをしている。
自己主張が得意な女の子たちの中で、彼女が立っていられる場所はちゃんとあるのだろうかと、ときどき心配したりもする。
ひじで押され、足で小突かれしているうちに、いつか世界のへりから落っこちてしまうんじゃないだろうか?
そんなふうにも思う。
所長はまだいない。
最近、とみに事務所に出てくる時間が遅くなっている。
歩く速度が遅くなったこととは関係がないと思うけれど。
だから、しばらくのあいだ、事務所には二人だけしかいない。
これで全て。
仕事の量から言っても、妥当な人数だと思う。
ぼくは自分の机に座ると、クリップボードに貼られたメモ書き全てに目を通した。
『銀行に二時』とか『クライアントから書類をもらってくる』とか『法務局に行くこと!』とか、おそろしく読みづらい文字で書かれている。
昨日のぼくから今日のぼくへの送り状だ。
ぼくはあまりに記憶力が弱い。
だから、自分がすべきことは常にメモ書きにして残しておくようにしている。
この記憶力の弱さは、ぼくが抱え込んでいる様々な不具合の中のひとつだ。
それはつまるところ、ぼくをつくり上げるために用意された設計図にミスがあったのだということ。
ほんの一カ所。
おそらく修正液で消して、その上からボールペンで書いたのがいけなかったのだろう。
もちろん、ものの例えだが、実際にも似たようなことがあったんだと思う。
とにかく文字がかすれたか、あるいは下の字が顔を出してしまったのかは知らないけれど、ぼくの頭の中ではあるとても重要な化学物質がでたらめに分泌されるという、かなりでたらめな状況が生じている。
それでぼくは必要以上に興奮したり、まったく場違いなところで不安を感じたり、忘れたいのに忘れることができなくなったり、忘れちゃいけないのに忘れてしまうような人間になった。
すごく不便だ。
行動が制約されるし、とても疲れる。
仕事でよくミスをするし、人からは不当なまでに過小評価されることになる。
つまりは能なしあつかいされる。
いちいち頭の中の化学物質のせいなんです、と言ってまわることはしない。
面倒だし、理解されづらいし、とどのつまり、結果だけ見れば確かにその通りなのだし。
所長はとても寛容な人で、そんなぼくを解雇もせず使い続けてくれている。
永瀬さんはさりげない気配りで、ぼくの仕事をフォローしてくれる。
とても感謝している。
所内でのデスクワークをこなすと、ぼくはブリーフケースに書類を詰めて外に出た。
自転車を飛ばして法務局に向かう。
ぼくは、自動車の免許を持っていない。
大学2年のときに一度試してみたのだけれど、どうしても仮免許試験の壁を超えることができなかった。
その数ヶ月前に、ぼくは初めて自分の脳ミソの不具合を知ることになる。
カチン、とスイッチが入り、バルブが開かれ、そしてぼくのレベルゲージが振り切れた。
だから自動車の免許を取ろうとしたとき、ぼくはまだ相当な混乱の中にいた。
むしろ仮免許試験まで漕ぎ着けたことを評価すべきなのかもしれない。
当日、教官を隣に乗せ、ドライバーズシートに腰を下ろした時点で、すでに例の化学物質はぼくの血液の中になみなみと注がれていた。
ぼくは必要以上に不安を感じ、必要なだけの注意力を保つことができなかった。
不安は徐々に駒が大きくなっていくドミノ倒しのようなもので、ものすごい勢いで増大していく。
指数関数的とでも言うのだろうか、そのものすごさは、ほんとにものすごい。
ぼくは死にそうになる。
本気で死ぬんじゃないかと思う。
もっともこの頃は、一日に何十回もそう思っていたのだけれど。(いまでも日に何回かはそう思うときがある)
そして試験は中止となった。
その後2回同じことをやって、ぼくは自動車の免許を諦めた。
昼になると、ぼくは公園のベンチに座り、自分でつくった弁当を食べた。
つましい生活の中で、削れるものはどんどん削ることにしている。
それにぼくはコンビニエンスストアーの弁当を食べると、必ずお腹をこわしてしまう。
他の人間には大丈夫でも、ぼくにとっては致命的となる添加物のせいだ。
ぼくの体内センサーは、普通の人の数十倍の感度を持っている。
温度や湿度、気圧の変化にもすごく敏感だ。
だから、ぼくは前もって心構えが出来るように、気圧センサーの付いた腕時計をはめている。
台風はとても怖ろしい。
それにしてもつくづく普通の人たちは、なんてタフなんだろうと感心してしまう。
ときおり、ぼくは自分のことを、あまりに繊細なために絶滅しかけている小さな草食動物のように思うことがある。
レッドデータブックのどこかには、ぼくの名前が載っているかもしれない。
午後になると、ぼくはいくつかのクライアントを回り、それから事務所に戻った。
この時も必ずメモを携えていく。
訪れたクライアントに×印を付けて、残りを確認するためだ。
そうでないと同じクライアントに二度行ってしまったり、行くはずだったクライアントを素通りして事務所に戻ってしまうこともあるからだ。
クライアントから預かった書類を永瀬さんに手渡し、いくつかの事務仕事を片づけると、ぼくの勤務時間が終わった。
所長の姿はなかった。
ぼくは永瀬さんに「さよなら」といって事務所を出ようとした。
永瀬さんが、「あの」と言ってぼくを呼び止めた。
「何ですか?」
ぼくが訊くと、彼女は困ったような顔をして、自分のブラウスの衿や袖を何度も引っ張った。
「ううん」と彼女は言った。
「何でもありません」
「そう」
ぼくは1秒ほど考え、それからにっこりと笑って言った。
「さようなら」
「さようなら」
自転車を飛ばしてアパートに帰ると、佑司は寝転がって本を読んでいた。
表紙を確かめると、それはミヒャエル・エンデの「モモ」だった。
「読めるの?」とぼくが訊くと、佑司は「ん?」とぼくに顔を向けた。
「その本、読めるの?」ともう一度ぼくが訊ねると、「読めるよ」と彼は答えた。
「少しだけ」
「夕食の材料を買いに行くよ」
ぼくはプルオーバーとジーンズに着替えると、佑司に声をかけた。
「今夜は何が食べたい?」
「カレーライス」
ぼくらは部屋のドアを開け、外に出た。
階段を下りながらぼくは言う。
「カレーライスはおととい食べたよ」
「でも食べたい」
「それに確か、日曜日もカレーライスだった」
「うん、でもぼく食べたいんだよ」
「時間がかかるよ」
「へいき」
「そう」
で、ぼくらは駅前のショッピングセンターでカレールーとタマネギとニンジンとジャガイモを買う。
ぼくは左手にビニール袋を提げて、右手で佑司の手を握りながら歩く。
佑司の手はいつも汗ばんで、すこし湿っている。
ぼくは必要以上に心配する人間なので、道を歩くときはいつも佑司の手を握って離さない。
そして彼に言う。
「車はこわいんだ。気を付けなきゃだめだよ」
「うん」
「車の事故で、毎日何十人もの人が死んでるんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。もしこれがさ、電車とか飛行機の事故で毎日同じくらいの人が死んでいたら、きっとその乗り物は何か大事なところに間違いがあったんだってことになって、廃止されちゃんだろうな」
「じゃあ、車も無くなるの?」
「無くならない。増えている」
「なんで?」
「なんでかな?」
「不思議だね」
ほんとに不思議だ。
続く