「いま、会いにゆきます」
vol2
帰り道の途中、ぼくらは17番公園へ立ち寄った。(この町にはいったいいくつの公園があるのだろう?ちなみに21番公園というのをぼくは見たことがある)
公園にはいつものように、ノンブル先生とプーがいた。
ノンブル先生の本名をぼくは知らない。
若い頃、小学校の教諭をしていた頃から、そう呼ばれていたそうだ。
初めてそれを聞いたとき、ぼくは彼に訊ねた。
「ノンブルって、あの小説とかのページの下にふってある番号のことですよね?」
「そうだよ」と彼は答えた。
彼はいつもふるえていた。
まるで雨に濡れた子犬みたいに。
とても年をとっていたから、そのせいなのかもしれない。
「それが何であなたの呼び名に?」
彼は小さくかぶりを振った。
あるいはただ、ふるえていただけなのかもしれない。
「何でだろうね?もしかしたら、まわりの人たちは私の人生が空虚だとでも言いたかったのかもしれないね。いくらめくっても白紙のページばかりで、ただノンブルだけがふってある本のように」
そうなんですか?とぼくは訊ねた。
彼は老人特有の濁った涙目で宙を見つめた。
「私の人生は、ただ妹のためだけにあったからね」
彼の足下でむく犬のプーがアクビをした。
(この犬にもちゃんと「本名」があったのだけれど、佑司が勝手にプーと命名してしまったのだ)
妹と私は13も年が離れていた。
二人のあいだには弟もいたが、彼は両親があいついで死んでしまうと、早々に家を出て独立していった。
家には妹と私の二人だけが残ったんだ。
妹は幼い頃から身体が弱くてね、15歳までは生きられないだろうというのが当時の医者の見立てだった。
みたてってなあに?とそばで聞いていた佑司が訊ねた。
うまい説明の言葉が見つからなかったぼくは、「おまえが思っているとおりだよ」と答えてやった。
やっぱりそおかあ、と佑司は笑った。
きっと別の何かを想像しているに違いない。
弟が家を出たとき、妹は14歳、私は27歳だった。
私は妹の最期を看取る覚悟で彼女と二人だけの生活を送っていくことにしたんだ。
私もいい年頃だったからね、想いを寄せる女性のひとりもいたよ。
でも、まずは妹のことを第一と考え、自分のことはそれからだと、そう言い聞かせて迷う心を戒めたんだ。
実際、妹の病気の治療にはずんぶんと金がかかった。
だから、もし仮に想い人との恋が成就したとしても、所帯を持つことは叶わなかっただろうね。
そうやって月日は驚くほどの早さで流れていった。
ほんとに早かった。
私だけ特別なのかとも思ったよ。
おそろしく頭のいい誰かが、私の時間を掠め取っているんじゃないかとも疑ったぐらいだ。
とにかく、あっという間に時は過ぎた。
たしかに私の本には書くべきことは何もない。
最初のページに、なんと言うことはない、つまらない男の一日を描けば、あとはずっと「右に同じ」とでも記しておけばいいんだからね。
信じられるだろうか?
そんな生活が30年も続いたなんて。
妹は44歳で死んだ。
そのとき私は、あと3年で60歳になる年になっていたんだよ。
でも、ひとつだけ言えるのは、そんな私の人生だって、決して「空虚」なんかじゃあなかったってことだ。
なんと言うことはない、つまらない男の人生にだって、ちゃんと中身は詰まっている。
からっぽじゃないんだよ。
ささやかではあるけれど、喜びだって感動だってあったからね。
一日の仕事を終えて家に帰り、私の帰りを待っていた妹にその日の出来事を語って聞かせるのは、なんていうか、楽しいことだったよ。
それが私の人生だよ。
もし、別の人生を送っていたら、きっと私とは別の人間がここにいるのだろうしね。
人は人生を選ぶことはできなんだから。
そして今日も、ノンブル先生は自分の人生を生きている。
老いたむく犬のプーと一緒に。
佑司があごの下をさすると、プーはいつものように何とも不思議な音をたてた。
音というよりも微かな空気の振動。
それでもそこには抑揚がある。
あえて書こうとすれば「〜?」
以前、ノンブル先生が教えてくれた。
彼の前の飼い主が、手術でプーから声を取り去ってしまったのだと。
公園にいる他の犬たちから「ウオン」と挨拶されても、プーは「〜?」としか返すことが出来ない。
本人はさして気にしているようには見えないのだけど。
「今日の夕食はカレーかな?」
買い物袋を見やりながらノンブル先生が言った。
「そうです。先生は?」
「私はこれだよ」
彼が掲げて見せたビニール袋の中には、パックに入ったワカサギのフライがあった。
「残り物は半額になるからね。ありがたいことだよ」
彼は袋に鼻を近づけ、匂いをかぐと目をつむり嬉しそうな顔をした。
「これもささやかな幸せのひとつだね」
ところがぼくは、そんなノンブル先生の幸せそうな顔を見て何故か悲しくなった。
どうしてかはわからない。
とにかく悲しかった。
ノンブル先生の幸せが、あまりにつましいものだから?
人生の終章を迎えた人の手の中には、もっと多くの果実があってもいいはずなのに。
だから?
ぼくとノンブル先生は、じゃれ合っている佑司とプーを眺めながら、ベンチに並んで座りいろんな話をした。
そしてぼくは、最近自分が密かに温めていた計画を彼に打ち明けた。
「実は小説を書こうと思うんです」
ノンブル先生は座っている位置をずらし身を遠ざけると、ぼくの姿全てを視界に収めようとするかのように目を細めた。
それから両手を静かに掲げて言った。
「素晴らしい。ほんとに素晴らしい」
「そう思います?」
「思うよ。小説は心の糧だ。闇を照らすともしび、愛にも優る悦びだよ」
「そんな大それたものじゃないんです。ただ、いつか佑司に読んでもらうために、ぼくと澪の話を書こうと思ったんです」
「うん、いいことだと思うよ。彼女はとてもすてきな女性だった」
「そうですね」
佑司がプーの首にしがみつき耳を囓るマネをした。
プーは本気でいやそうな顔をして、しきりに「〜?」「〜?」と言っている。
「病気のせいかもしれないんだけど、ぼくはものすごく記憶力が弱いんです」
だから、とぼくは続けた。
「全てを忘れてしまう前に残しておこうと思って。ぼくらのことを」
ノンブル先生は小さく頷いた。
「忘れるってことは悲しいことだね。私もほんとにたくさんのことを忘れてしまった。記憶とは、もう一度その瞬間を生きることだ。頭の中でね」
ノンブル先生はそう言って自分の頭を指さした。
ふるえる指先は、まるで自分のこめかみに何か言葉を書こうとしているみたいに見えた。
「記憶を失うということは、その日々を生きることが二度と出来なくなるということだ。人生そのものが指のあいだから零れていくみたいにね」
先生は自分の言葉に何度も頷き、さらに続けた。
「だから、書き残すということはいいことだと思うよ。よほど私の本よりも充実した中味になるだろう。(ここで先生は器用に片目をつむってみせた)20世紀最高の文学のひとつと言われた小説も、つまるところは幼い頃の記憶を手繰り寄せることから始まったのだからね」
ぼくはノンブル先生の言葉に聞き入っていた。
(忘れることは悲しい。忘れることは悲しい)
やがて先生はゆっくりと立ち上がった。
まるで彼の足下だけ地球の重力が倍になっているみたいにひどく辛そうだった。
「さあ、帰る時間だ。ささやかな幸せが私を待っている。」
ノンブル先生は小さな歩幅でゆっくりと歩き出した。
気付いたプーが先生のもとに駆け寄り、あとに続く。
「さよなら先生」
ぼくは言った。
先生は背中を見せたまま右手を掲げ、そして去っていった。
「さよならプー」
佑司が言った。
プーは立ち止まると振り返り、「〜?」といって、それから先を行く先生を追いかけた。
*
夜眠る前、ぼくは「アーカイブ星」のお話を佑司に話して聞かせる。
ぼくは小さなディテイルを積み重ねていくことで、この星にリアリティを与えていった。
そして佑司が何かを訊ねるたびに、この星は存在の重さを増していった。
「ねえ、この星はどんな形をしているの?」
この質問によって、この星に外観が与えられた。
ぼくは折り込み広告の裏にサインペンで星の絵を描いた。
こんな感じ。

「星の表面全てを図書館みたいな建物がおおっているんだよ」
「海とか山はないの?」
「ないんだ。山を削って、その土で川と海を埋めた。そして凸凹をならした上に建物を建てたんだ」
「どうして?」
「この星に住んでいる人がとっても多いからだよ。無駄な場所はないんだ」
「そうなの?」
「だって考えてごらんよ。パパの心の中にはたくさんの人が住んでいる。もう地球にはいなくなった人たちだけど、その人たちはみんなアーカイブ星で暮らしている」
「うん、まえも言ってたよね」
「そんなふうにして、地球にいるみんなの心の中に住んでいる人たちを足していったらどのくらいになる?」
「うん。わからないよ」(少しは考えてみろよ)
「もしひとりの心の中に10人が住んでいたら、アーカイブ星には600億以上の人がいることになる」(ダブりを除けばもっと少ないのだろうけど、佑司に説明してもきっと理解できないだろう)
「600おくってどのくらい?」
「ええと、たとえば佑司の学校には1年から6年までで1000人ぐらいの友達がいる。朝礼のとき、みんなが集まっているのを見ただろ?」
「見たよ」
「そしたら、そんな学校が−−−ちょっと待って(指で0の数を数えて)、そう、6千万個集まっているんだ」
「6千万ってどのくらい?」(当然の質問だ)
「ええと、そうだな。うちのテレビの上に置いてあるペットボトルには1円玉がいっぱい入っているね」
「うん。ずっとためてたんだ」
「そうだね。あの1円玉はだいたい1000枚ぐらいあるはずだから、6千万っていうのは、あのペットボトル6万本に入った1円玉の数だよ」
「じゃあ、6万ってどのくらい?」
(いい質問だ)
「そう、6万ていったら、ええと、そうだなあ−−−ああ、パパと佑司はよく図書館に行くよね」
「いくよ」
「あそこに置いてある本は、だいたい全部で6万冊あるって聞いたことがある」
「あそこにある本全部で?」
「そう」
「あれが6万かあ...」
そしてずいぶんと長い時間、佑司は隣のフトンで考えていた。
あまりに長いので、もう眠ってしまったのかと思った頃、佑司が小さな声でぼくに訊いた。
「たっくん?」(佑司はぼくのことをこう呼ぶ)
「何?」
「もうひとつ訊いていい?」
「いいよ」
「あのね」と佑司は言った。
「ぼく、一番最初に何を訊いたんだったっけ?」
「あれ?」
「うん」
「パパも忘れちゃったよ」
「そう?」
「もう寝ようか?」
「そうする」
また別の夜は、佑司の「何でその『誰か』は、この星を作ったの?」という質問によって、アーカイブ星に存在理由が与えられた。
「この星の建物は図書館に似てるってパパは言ったよね」
「うん」
「じっさいこの星は図書館なんだよ」
「そうなの?」
「そうなんだ。アーカイブ星を作った『誰か』は、こういうものが大好きなんだ。だからこの星に住んでる人たちは、『誰か』のために本を書くんだ。前に言ったよね、みんな考えてるんだって。アリストテレスもニュートンも難しいことずっと考えてるんだって」
「そお?」
「うん、言ったんだ。そしてニュートンでもプラトンでもいいけど、その人たちは地球で考えても答えられなかった難しい問題をアーカイブ星に行ってもずっと考え続けているんだ。何百年もね。地球人が覚えている限り、その人ずっと考え続けることができる」
「うん」
「で、何か答えが出るたびに本を書くんだ。そして、その本はアーカイブ星の図書館に納められる」
「ママの本は?」
「ママも本を書くよ。佑司とパパのことが書いてあるんだ」
「その本を『誰か』は読むの?」
「読むよ。『誰か』はこの本がとくに好きなんだ。人間の愛について知ることができるからね」
「そうなの?」
「そうだよ」
「ジム・ボタンは何を書くの?」
「機関車の本じゃないかな」
「じゃあ、赤ずきんちゃんは?」
「オオカミの本、だと思う」
「ほんとに?」
「ほんとさ。赤ずきんちゃんは、おばあさんとオオカミの見分け方の本を書いたんだ。一種の実用書だね」
「そうなの?」
「たぶんね」
週末になると、ぼくらは町はずれの森に行く。
コナラやクヌギ、エゴノキの葉が生い茂る緑の揺籃では、タヌキやイタチ、そしてもっと小さな齧歯類やさらに小さな昆虫たちが幸福に暮らしている。
森を囲むように点在する小さな沼には、タナゴやワダカ、クチボソがいる。
彼らは自分たちの世界を満足げに見渡しながら、優雅にヒレをそよがせている。
森には幾筋もの小径があって、それは迷路のように入り組んでいる。
小径の入り口には造り酒屋の工場が一軒ぽつんと建っている。
古材とトタンでできたこの工場は、すでに森の一部になりかけている。
壁には葛のツタが絡まり、屋根は張り出したクヌギの大枝の葉に覆われている。
工場は「ゴン、ゴン、シュー」と低いうなり声のような音を立てている。
ぼくは色褪せたコットンのショートパンツに「KSC」と書かれたTシャツ(ケネディ宇宙センターの略。誰かのお土産)を着て走っている。
昔のようにはいかないけれど、1kmを6分ぐらいのゆっくりとしたペースなら1時間は走り続けられる。
ぼくの後ろから子供用の自転車に乗った佑司が続く。
ようやく補助輪がとれたばかりで、その走りは頼りなく、危なっかしい。
落ち葉が積もった小径には木の根が地面から顔を出していたり、折れた枝が横たわっていることもある。
ぼくは軽いステップで障害物をまたいでいくが、佑司はそのたびに自転車を降りて押して乗り越える。
そして僕の背中に向かって訴える。
「たっくん、待ってよう。ぼくを置いて行かないでよう」
ぼくはペースを遅くして彼を待つ。
「置いていくわけないじゃないか」
「そうだけど」
「さ、行こう」
そして二人は再び森の中心に向かってペースを上げていく。
幾筋もの小径を一筆書きのように辿りながら40分も走ると、ぼくらは森の向こう側に出る。
そこは何かの工場の跡地で、地面は剥き出しのコンクリートでおおわれている。
巨大な機械を据えていた台座の名残も見える。
石灰質の広大な平面に、建物の一部がポツンと取り残されて立っている。
ほとんど崩れ落ちているが、そこには一枚のドアが残されている。
郵便受けもある。(傾いている)
こんな感じ。
5番工場だったのか、5番倉庫だったのか分からないけど、この壁の向こう側はすっかり無くなっている。
佑司はいつもここでボルトやナットやリベットやコイルバネを拾う。(ごくたまに、小さなスプロケットを拾うこともある。そんな日は当たりだ)
ぼくは残された台座に腰掛け、そんな彼を眺めている。
以前はここに澪もいた。
佑司はおそらく2歳ぐらいのときから、この作業を続けている。
なのにボルトもナットもリベットもコイルバネも無くなることはない。
とても不思議だが、小さな部品はいつでもここにある。
佑司はポケット一杯に拾い集めた部品を持ち帰ると、アパートの向かいにある空き地に穴を掘って埋める。
もう、そうとうな量になっているはずだ。
この空き地の地表から30cmぐらいまでのところは、ぎっしりとボルトやナットやリベットやコイルバネが埋まっているに違いない。
いずれ誰かが掘り起こしたときの顔を見てみたい気もする。
ぼくは佑司に訊ねる。
「ひとつ訊いていいかな?」
「なに?」
「なんでこんなことをするの?」
彼はものすごく頭の悪い人間を見るような目でぼくを見る。
「きまっているじゃない」と彼は言う。
「楽しいからだよ」
ふむ。
続く