「いま、会いにゆきます」

vol3

あれは澪がアーカイブ星に行ってしまう一週間ぐらい前のことだ。(こんなふうな言い回しには、どことなく心安らぐものがある)

彼女はぼくにこんなことを言った。

−−−私はもうすぐここからいなくなってしまうけれど、またこの雨の季節になったら、二人がどんなふうに暮らしているのか、きっと確かめに戻ってくるから。(その日も6月の冷たい雨が降っていた)

だから、そのときまでしっかりとお願いね。

佑司はその頃は小学生になっているはずだから、ちゃんと学校に送り出してあげてね。

きちんと朝ごはんを食べさせて、忘れ物をしないように持ち物を調べて、そして汚れた服は着せないようにして。

できるかしら?


「できるよ」とぼくは言った。


ほんとうかしら?私が戻ってきたとき、ちゃんとしてなかったら許さないから。(それから彼女は小さく笑った。見逃してしまいそうなほど、とても小さな笑みだった)


あなたのことが心配なの、と澪は言った。

「大丈夫だよ」

ぼくは言った。

「強くなる。いい父親にもなるよ。心配しないで」

ほんとうに?

「ほんとさ」

約束よ。

「うん」



ぼくは強くなれたのだろうか?

いい父親になれたのだろうか?


もうすぐ雨の季節になる。



6月の月曜日。

今日もまたぼくらは新しい一日に飛び込んでいく。


「佑司、朝食が出来たよ」

「ん?」

「早く食べちゃいな」

「え?」

ぼくはまだパンツ一枚で目をこすっている佑司の頭からTシャツを被せた。

「食事だよ。食事」

「うん」

「ランドセルは調べたか?忘れ物はない?」

「うん、ないよ」

しかし、彼は必ず毎日何かを忘れていく。

「たっくん?」

「何?」

「また目玉焼きとウィンナー?」

「そうだよ。栄養があるし、とてもおいしい」

「でも、毎日だとね」

「何?」

「なんでもない」

「早くしなくちゃ。あと8分しかないよ」

「そお?」

「そうだよ」

「ねえ、たっくん?」

「ん?」

「このシャツ、ケチャップの染みがついてるよ」

「気にしなくていいよ。シャツの柄だと思えばいい」

「そうなの?」

「ここんとこ洗濯してなかったから、代わりがないんだよ。もう一枚はソースの染みがついているし、後のもう一枚はカレーがべっとり」

「うわ」

「もう少しきみがきれいに食べてくれると助かるんだけどね」

「じゃあ、いいよ。このシャツで」



外回りからの帰り、雨に降られた。

この月、初めての雨だった。

事務所に戻ると、永瀬さんがタオルを持ってきて、ぼくの肩や背中を拭いてくれた。

「スーツ」と永瀬さんが言った。



「はい?」

永瀬さんは言いかけた自分の言葉にひどく戸惑っているように見えた。

自分のブラウスの衿や袖をしきりに引っ張る。

「何でしょう?」

「あの」と彼女は言った。

「染みになってしまうかも」

「ああ、そうかもしれませんね」

それでも彼女はまだ落ち着かないそぶりを見せている。

何?というふうにぼくが微笑むと、彼女は、何でもないです、というふうに首を振った。

ぼくは彼女に書類を渡すと「さよなら」と言った。

彼女は小さく呟くように「お疲れさま」と言って、書類を胸に抱いた。

所長は自分の机で気持ちよさそうに眠っていた。



夕方、傘をさして二人で買い物に出かけた。

「今夜は何が食べたい?」

「カレーライス」

「マンネリだ」

「まんねりってなあに?」

「独創性に欠けるってことだよ」

「それって、どういうこと?」

「我が家の食事のメニューみたいなことさ」

「そうなの?」

「そうだよ」

「じゃあ、どうするの?」

「何か今までに作ったことのないメニューに挑戦してみようか?」

「うわ、いいね」

「新しい風だ」

「何それ」

「昔、アメリカの大統領が言った言葉だよ。いまはその息子が大統領をやってる」

「そうなの?」

「そうなんだ」



そこでぼくらは互いに意見を出し合い、今まで一度も我が家の食卓にのぼったことのない「ロールキャベツ」を今夜のメニューときめた。

ショッピングセンターで分担して材料を買い集め、ぼくらは意気揚々と引き上げた。

「新しい風、新しい風」と佑司が繰り返していた。



17番公園にはいつものようにノンブル先生がいた。

黒い傘を差し、池を縁取るように咲くアジサイを眺めている。

プーは雨を嫌ってベンチの下にもぐり込んでいた。

「ノンブル先生」

ぼくが声を掛けると、先生はこちらに向き直りにっこりと笑った。

「アジサイですか?」

「美しいものだね。花は見るものがいるから美しく咲こうとするんだ。まっすぐで迷いのない思いだよ」

「迷いがないから美しい?」

先生は何も言わず、ただ微笑んでいた。

「アジサイはもともと海辺の植物なんだ。だからかもしれないね、水を恋しがる」


先生はまだいまでも、結ばれることの無かった女性の面影を追い求めているのかもしれない。

それって、恋をしていることと同じなんじゃないだろうか。

たとえ何十年も会えずにいても、もしかしたらもうこの星にはいなくなってしまった相手でも、人は恋しく思うものなのだ。

不思議だけども、それが真実だ。


「小説は進んでいるかな?」

先生が訊ねた。

「まだです。いざ書こうとすると難しいものですね。書きたいことはいくらでもあるのに」

「そのときが来るまで待てばいいんだよ」

「そのとき?」

「そう、胸一杯になった言葉がいずれ溢れ出てくるときまで」

「そうなんですか?」

「そう、いつか来るはずだよ。そのときが」



佑司はしゃがみ込み、ベンチの下のプーに何か話しかけている。

プーは黙って聞いている。

注意して耳を傾けてみると、佑司はこんなことを言っていた。

「ねえ、新しい風って知ってる?」



家に戻り、佑司にも手伝ってもらいながらレシピを参考にロールキャベツをつくった。

レシピには「最も失敗する可能性の少ない料理の一つ」と書かれていた。

だが、我々は失敗した。


「ねえ」

「何?」

「ロールキャベツってこういう味なの?」

「いや、多分違うと思う」

「あの」

「ん?」

「すごくまずいんだけど」

「パパも同じ意見だ」

それから5秒ほど沈黙があった。

「ぼくさ」

「うん」

「気付いたことがあるんだけど」

「何?」

「買うとき間違えたみたい」

「何を?」

「ぼく、キャベツじゃなくてレタスを買っちゃったかもしれない」

「そう」

さらに5秒の沈黙。

「ごめんね」

「いや、いいんだ。気にしないで。それを気付かずに料理したパパも同じだから」

「そう?」

「うん」


いつか新聞で英国の子供の3人に1人はキャベツとレタスの区別がつかないという記事を読んだことがある。

我が家のイングランドの王子も、どうやらその3人のうちの1人の中に入るらしい。

そして、おそらくぼくも。



隣町の映画館で「モモ」が上映されていることを知った。

単館系の映画館で、ふだんから名作のリバイバルなどをやっていたのだが、この月はミヒャエル・エンデの特集を組んでいるらしかった。

今週は「モモ」が、次の週は「果てしない物語」が上映予定とあった。

佑司は「モモ」が観たいと言った。


「パパが映画館に入れないことを知っているよね」

「知ってる」

「だから観るんだったら、佑司ひとりでってことになるけど、大丈夫かな?」

「大丈夫」

「ならば、土曜日に行ってみようか」

「やった。たっくん、ありがとう」

「どういたしまして」


土曜日、上映開始の1時間前にぼくらはアパートを出た。

ぼくは通勤で使っている古自転車で、佑司は子供用の自転車で田園地帯を貫く一本道を走る。

隣町まではほぼ10kmの道のりだから、充分間に合うはずだった。

ぼくは、バスや電車に乗ることが出来ない。

乗って、ドアが閉まり加速度を感じた瞬間、スイッチが入り、バルブが開き、レベルゲージが振り切れる。

それはもう、どんな乗り物でも同じで、遊園地のお猿の機関車でもそうだし、観光地のスワンの遊覧船でもやっぱりそうなる。

だから、バスや電車はもっとそうなるし、モノレールやケーブルカーは(高いところだから)更にそうなる。

推測だが、飛行機はものすごくそうなりそうだし、潜水艦に至っては、致命的にそうなるだろう。

想像するだけでも怖ろしいのは、身動きも出来ないような小さな操縦室に押し込められて、尻の下で火薬を爆発させて宇宙に放り出されることだ。

だから、スプートニクに乗って地球をくるくる回ったライカ犬のクドリャフカはぼくの英雄だ。

彼女の勇気のひとかけらでもぼくにあればと思う。


とにかく、これはすごく不便なことだ。

ぼくが背負っているあらゆる制約の中でも、かなり上の方に位置する。

おかげでぼくは、月に行くことも出来ないし、マリアナ海溝に潜ることも出来ない。

とても残念だ。



映画館には上映の5分前に着いた。

思ったよりも時間がかかったのは、向かい風のせいだ。

佑司は頭を低くしてけんめいにペダルを回していたが、それでも予定よりもずいぶんと到着が遅れた。

家から持ってきたサンドウィッチを手渡し、自動販売機で買ったコーラを持たせる。

ほんとうは映画が始まる前に二人で食べようと思っていたのだが、その時間は無くなった。

ぼくは窓口で子供用のチケットを一枚買った。

「さあ、楽しんでおいで」

佑司は突然の予定の変更に、少し不安を感じているみたいだった。

ぼくはサイフから硬貨を何枚か取り出し、佑司のズボンのポケットに入れた。

「もし、サンドウィッチだけじゃお腹が一杯にならなかったら、ポップコーンを買えばいい。ドーナツでもいいし、好きなものを食べるといいよ」

「うん」

それでも佑司は胸の前でサンドウィッチが入ったランチボックスとコーラの缶をかかえたまま、動こうとしなかった。

上映開始を告げるブザーが鳴った。

佑司はくるりと首を回し、場内に通じるドアを見た。

それからまた向き直って、ぼくの顔を見る。



「行っておいで。始まるよ」

ぼくは佑司の肩に手を掛けると、彼を促した。

係の女性にチケットを手渡し、佑司の背中を押す。

彼は2度ほど振り返りぼくを見て、それから場内に消えていった。



一緒に行けたら、と思う。

でも、ぼくは映画館に入ることは出来ない。

音楽のコンサートにも行けないし、誰かの結婚式に出席することも出来ない。

この理由はエレベーターに乗ることが出来なかったり、高いビルに昇ることができないのとは少し違う。

自分でもものすごく理不尽なことだとは感じているのだけど、これはあるひとつの衝動に強くとらわれてしまっているせいだ。

ぼくは大勢の人間がいる場所で、誰もが黙ってなくちゃいけない状況になると、大声でしゃべりだしたくなるというやっかいな癖を抱えている。

誰もが多かれ少なかれ感じていることだとは思うのだけど、問題はその程度なのだろう。


「やあ、そのシャツいかすね!」とか、「ちくしょう、もうちょっとだったのに!」とか、言葉そのものには深い意味はない。

とにかく、そのときぽっと頭に浮かんだ言葉が出口を求めて、ぼくを困らせるのだ。

あとはいつもと同じパターン。

困惑がスイッチを押し、バルブが開かれ、レベルゲージが振り切れる。

このごろではさほど、このことで不便を感じることは無いのだが、大学に通っていたときはさすがに困った。

授業中に、「うわっ、それはひどいな!」とか、「もうっ、そんなこと言った覚えはないぞ!」とか、頭に浮かんでくる言葉を押し込めるために脂汗を流していた。

結局、これが最大の原因となって、ぼくは大学を中退することになる。



佑司の背中を見送ったあと、ぼくは映画館のまわりを歩いて、時間がつぶせそうな場所を探した。

この辺りは、ブティックやアクセサリーショップやファーストフードの店なんかがひしめき合っている。

なんだか、その喧噪だけで目眩がしてきそうなほどだったが、とにかく佑司が戻ってくるまではここで待たなくてはいけない。

サンドウィッチを全て持たせてしまったので、お腹も空いてきた。

ぼくはしばらく歩いて、「ここなら大丈夫」ということでスターバックスに入ることにした。

何が大丈夫かと言うと、ここは全店が禁煙になっているから。

センサーが敏感なぼくには、タバコの煙はペッパーガスにも等しい脅威だ。

ぼくみたいな人間の集団がデモ隊となったら(「やあ、そのシャツいかすね!」とか「ちくしょう、もうちょっとだったのに!」とか書かれたプラカードを持って行進している)、警察は鎮圧するのに口々に火のついたタバコをくわえて包囲すればいい。

きっと涙をぽろぽろこぼして退散するから。(「うわっ、それはひどいな!」って言いながら逃げ回るのだろう)

ぼくはコーヒーが飲めない体質なので(スイッチがパチンッ)、この店で口にできるメニューは限られている。

なので、飲み物はミネラルウオーターのペットボトル、食べるほうはBLTサンドを注文した。

トレイに乗ったパンと飲み物を受け取ると、店の奥の席に座った。

店内はその8割ほどが客で埋まっていた。

パンツスーツ姿の女性がノートパソコンに向かっていたり、学生ふうの男の子がテキストを開いていたりと、ここではコーヒーを飲みながら何かをしている人間が多い。

ぼくも彼らにならって、持参してきた大学ノートを開いた。

シャープペンシルの頭を自分の胸に打ち付けて芯を送り出す。

それからパンを一口ほおばり、少し考える。

ごくりと飲み込み、ぼくは1ページ目の最初の行にまず『1』とナンバーを記した。

題名はあとから考えるつもりで、まだ書かなかった。


最初の言葉はすぐに出てきた。


「澪が死んだとき、ぼくはこんなふうに考えていた−−−−



それから先は、あらかじめ用意されていた文章を書き写すみたいな感じで、どんどんと言葉が溢れ出てきた。

なるほどな、とぼくは思った。

これがノンブル先生の言っていたことなんだ。

「胸一杯になった言葉がいずれ溢れ出てくる」


ぼくはアーカイブ星のこと、佑司のこと、事務所の仕事のこと、ノンブル先生とプーのこと、それに週末のランニングと工場跡のことを書いた。

まずは今の生活を書いてから、徐々に澪との思い出を書いていくつもりだった。



今まで日記ぐらいしか書いたことがなかったのに、文章はすらすらと進んでいった。

大好きな作家、ジョン・アーヴィングや、彼に文章の書き方を教えたSF作家、カート・ヴォネガットの小説を頭に思い浮かべ、それを参考にしながら書いていった。

ノートの上に描写されたぼくと佑司は、なんだか実際のぼくと佑司よりもずいぶんと幸せそうだった。

本当に辛いことは書かなければいい。

そうすれば彼らは幸福でいられる。

そして、幸福な彼らを書くことはとても楽しかった。

ぼくは夢中になって、自分たちの分身に時間と空間と言葉を与えていった。

与えた時間は、つまるところぼくの失った時間でもあった。

信じられないことに、気付いたときには、すでに陽が傾き始めていた。

ぼくは驚いた。

「うわっ、しまった!」

勢いよく立ち上がったひょうしに、テーブルの上のペットボトルを倒してしまった。

もっとも中味はとっくにカラになっていた。

店にいた他の客たちが訝しげな眼でぼくを見た。

大学ノートとシャープペンシルと、それから消しゴムをバッグに大急ぎで仕舞い込み、トレイを戻すと、ぼくは店を飛び出した。

走りながら腕時計に目をやると、すでに上映終了から1時間以上が経過していた。

『忘れちゃいけないのに忘れてしまう』

だとしても、絶対に忘れちゃいけないことだってある。

何で、ぼくはこうなんだろう?

何で、こんなふうになっちゃたんだろう?

行き交う人に何度もぶつかり、そのたびに「ごめんなさい」と謝りながら、ぼくは佑司のもとへと急いだ。


映画館の周りだけは、何故かひとけが無かった。

次の上映がちょうど中頃に差し掛かった時刻で、こういうとき映画館は妙な静けさに包まれることがある。

佑司はすぐに見つかった。

幅の広い正面階段の真ん中にひとりで座っていた。

膝の上にランチボックスを載せ、それを抱くようにして、ぼんやりと曖昧な空間を見つめている。

小さな口が何かを歌っているように動いていたが、声は聞こえなかった。

「佑司」

ぼくが声を掛けても、彼は気付かなかった。

すぐ近くまで行って、初めて佑司はぼくを見た。

目が赤く、鼻が赤く、ほほも赤かった。

彼は何度も鼻水をすすり上げた。

「ごめんね」とぼくは言った。

「うん」と佑司が言った。

ぼくは腰を落とすと、まだ涙の雫がついている佑司のまつげを指で拭った。

ポケットからティッシュを出し、鼻をかませる。

「片方ずつだよ。思い切りやると耳が痛くなるからね」

「うん」

そしてぼくは彼の隣に座った。

「ほんとにごめん」

「うん」

ぼくは佑司の小さな手を握った。

彼の手はいつものように、温かく湿っていた。

「心配したんだ」

やがて佑司が鼻声でぼくに言った。

「たっくんがどこかで具合が悪くなって、動けなくなっているんじゃないかって」

「そう?」

「うん。だから走って探したんだ。いろんなところを。でも、見つからなかった」

「ごめん」

もう一度ぼくは言った。

「でもよかった」と佑司は言った。

「だいじょうぶだったんだよね?」

「大丈夫だった。だけど、佑司にひどいことをした」

佑司は首を振った。

「ぼくは平気。がまんできる」

「うん。佑司はえらいね」

「ぼく、えらい?」

「すごくね。パパの何倍もえらいよ」

「そんなことないよ」

佑司は言った。

「ぼく、泣いたもん。いっぱい泣いちゃったもん」

そして彼はまたぽろぽろと涙をこぼし始めた。

ぼくは汗に濡れた琥珀色の彼の髪に手を差し入れ、自分の胸に引き寄せた。

「泣かしてごめん」

彼は声を押し殺して、静かに泣いていた。

そして、ぼくの胸に顔を押しつけたまま、くぐもった声で囁いた。

「お願い」と彼は言った。

「ぼくのことをひとりにしないで」


「ぼくのことを忘れないで」



続く

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