「いま、会いにゆきます」
vol4
おそらく、佑司につらい思いをさせた、その報いなんだと思う。
というか、このことによって、佑司にはさらにつらい思いをさせることになったのだけれど。
帰りの道すがら、道程もほぼ半ばにさしかかった辺りで、ぼくの調子が狂い始めた。
佑司はすっかり元気を取り戻し、いま観てきた映画のストーリーを、たどたどしい口調でぼくに語っていた。
風は追い風で、ぼくらは帆を張った舟のように軽快に進んでいた。
気付いたときには、かなり状況は悪くなっていた。
鼻の奥がきな臭くなり、手足の先端の感覚が無くなっていた。
それにおそろしく寒かった。
それでも、しばらくのあいだは佑司の言葉に相槌を打っていた。
もっとも、その中身はほとんど頭には入っていなかったんだけど。
そうやって我慢しながら5分ほど進んだところで、ついに限界が来た。
「佑司」と言って、ぼくは彼の言葉をさえぎった。
「なに?」
「自転車を停めて」
「うん」
ぼくらはアスファルト道から直角に伸びている畦道に自転車を停めた。
ぼくはその場に崩れるように座り込んだ。
エネルギー切れ、ガス欠だった。
普通の人間なら「お腹が空いた」で済むところなのだが、何事も大袈裟にとらえる体質につくられているため、その症状も大袈裟だった。
すでに手足はその付け根まで感覚が無くなっていた。
座っていることもできず、ぼくは地面に横になった。
いつもはこんなふうにならないように、食事は日に五回、小分けにして摂るようにしていた。
だが、今日はすっかり気が動転して3時の間食を摂るのを完全に忘れていた。
「たっくん、大丈夫?」
「うん、少し困っている」
「そうなの?」
「佑司」
彼はしゃがんで、ぼくの顔に自分の顔を近づけた。
「なに?」
「まだ、ポケットの中にはお金が残っている?」
「うん。ポップコーン買ったけど、まだ残ってるよ」
「じゃあ、お願いがあるんだけど」
「うん」
「ここからひとりで自転車に乗って、近くのコンビニエンスストアーまで行って、何か食べるものを買ってきて」
「食べるもの?」
「うん。パパ、電池切れになっちゃった。また動かすには新しい電池を入れなくちゃ」
「そうなの?」
「うん」
「できるかな?」
「できるよ」
「じゃあ、行ってきて」
「わかった」
佑司は立ち上がり、子供用自転車をアスファルト道まで押していった。
そしてサドルにまたがると、振り返ってぼくを見た。
「たっくん?」
「うん」
佑司の鼻がまた赤くなっていた。
「たっくん、死なない?」
「大丈夫、死んだりしないよ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
佑司は言葉の真偽を確かめようとしているみたいに、しばらくのあいだ、じっとぼくの目を見ていた。
ぼくは努力して、なんとか笑顔をつくった。
「じゃあ、行ってくるね」
やがて佑司が言った。
「うん、たのんだよ」
佑司はペダルを踏み込み、走り出した。
「佑司!」
ぼくが呼び止めると、ブレーキを鳴らして自転車を停めた。
「なあに?」
「分かってると思うけど、買うのは電池じゃないからね」
「そうなの?」
(彼の『そうなの?』は一種の無条件反射のようなもので、そこから何か意味を酌み取ろうとするのは危険だ。それにしても−−−どうなのだろう?)
「買ってくるのは食べるものだよ。何か甘いものがいいな」
「うん」
「できるなら」
「うん?」
「ビスケットアイスがいいんだけど」
「わかった。たっくん、あれ好きだもんね」
「ああ」
「行ってくる」
「うん」
そして彼はペダルを目一杯回して、ものすごいスピードで遠ざかっていった。
ぼくは慌てて声を掛けようとしたが、彼の耳の悪さを考え諦めた。
「そんなに飛ばしちゃ−−−」
ぼくは再び土の上に横になった。
「危ないよ...」
背中に感じる土の冷たさと草の匂いだけが、現実世界とぼくを繋いでいた。
なかば失い掛けた意識の中で、ぼくは佑司の無事を祈り続けた。
彼が車にはねられる光景が幾度も脳裏に映し出され、そのたびに胸がきりきりと痛んだ。
心臓の拍動はトレモロを奏でていた。
それに時折変拍子が加わり、なんだかとてもつらかった。
「澪」とぼくは心の中で呼びかけた。
返事はなかった。
「澪」
試しにもう一度呼びかけてみたが、やっぱり返事はなかった。
何故だか分からず、ぼくはすごく悲しかった。
「たっくん?」
佑司の声に意識が蘇った。
「クッキーアイス買ってきたよ」
彼は汗をびっしょりとかき、肩で息をしていた。
「よかった...」とぼくは言った。
「何が?」
「うん、いいんだ。今度からはあんなに自転車でスピードを出しちゃだめだよ」
「でも」
「うん、だから、もういいんだ。ありがとう」
ぼくは半身を起こし、彼が買ってきてくれたクッキーアイスを食べた。
あまりの冷たさに、身体ががたがたと震えた。
温かいものを頼めばよかったと後悔したが、黙ってそのまま食べた。
アイスが分解吸収され、体中に巡るまでにはまだ時間が必要だった。
ぼくはまた仰向けに寝ころんだ。
佑司も隣で同じように寝ころんだ。
空はすでに紺藍の天幕に覆われていた。
星たちは、電池の切れかかった懐中電灯みたいにちかちかと瞬いていた。
「だいじょうぶ?」と佑司が訊いた。
「うん、まだ、ちょっとだけつらいかな」
「そう?」
「うん」
「じゃあさあ」
「うん?」
「うたを唄うといいよ」
「何それ?」
「ママが教えてくれた」
「知らなかった」
「まあね」
「何がまあね、なんだ?」
「なんでもいいでしょ?」
「いいけど」
「怖いときとか、痛いときとか、これを唄えばがまんできるって」
「澪が?」
「言ってたよ」
「じゃあ、教えてよ」
そして彼は澄んだ細い声で唄い始めた。
ひとりのぞうさん くもの巣に
かかって遊んで おりました
あんまりゆかいに なったので
もひとりおいでと よびました
ふたりのぞうさん くもの巣に
かかって遊んで おりました
あんまりゆかいに なったので
もひとりおいでと よびました
三人のぞうさん くもの巣に
かかって遊んで おりました
あんまりゆかいに なったので
もひとりおいでと よびました
「ちょっと待って」
「なに?」
「この歌って、どこまで象さんが増えていくの?」
「どこまでも。自分がもうだいじょうぶになったと思うまでだよ」
ぼくは巨大な蜘蛛の巣に、ひしめき合って遊んでいる何百匹もの象を頭に思い浮かべた。
「象はほんとにゆかいだったのかな?」
「そうんなでしょ?だから友達を呼んだんじゃないの?」
ふむ。
「いっしょに唄って。そしたらよくなるから」
「わかった」
四人のぞうさん くもの巣に
かかって遊んで おりました
あんまりゆかいに なったので
もひとりおいでと よびました−−−
我々は65人のぞうさんが、蜘蛛の巣に引っかかるまで歌い続けた。
そして最後はこう。
65人のぞうさん くもの巣に
かかって遊んで おりました
あんまりおそくなったので
おうちにかえろと いいました
「たっくん、ぐあいよくなった?」
「あれっ?」
「なに?」
「ほんとだ。いつのまにか治ってたよ」
「ね?」
「うん」
「すごいでしょ」
「たしかに」
「うちらも遅くなったから帰ろうか?」
「うん」
ぼくらは二人並んで、夜の道を自転車を押しながら歩いた。
カエルたちがやけに嬉しそうに鳴いていた。
何かいいことでもあったのだろうか?
佑司が言った。
「ママに会いたいね」
「そうだね」
しばらくしてから、また佑司が言った。
「ぼくのせいでママ死んじゃったの?」
「ちがうよ」
「ほんと?」
「ほんと。なんでそんなふうに思ったの?」
「なんでも」
さらにしばらくしてから、今度はぼくが言った。
「ほんとに違うからね」
「わかってる」
「ならいい」
「うん」
いずれは彼も本当のことを知るときが来ると思う。
口さがない人間はどの一族にもいるものだ。
現に彼はぼんやりとではあるが、真実の輪郭をつかみかけている。
おそらく、お節介な誰かに何かを言われたのだろう。
だが、真実を知るには、彼はまだ幼すぎる。
しばらくのあいだ、ぼくは嘘をつき続けようと思う。
できれば、この小説を読んだときに初めて、彼が真実を知ることになればいいと、ぼくはそう考えている。
それに、真実は「佑司のせいで澪が死んだ」というのとは、少し違う。
何かひとつの結果が在ったとき、その原因をどれだと断定することは難しい。
たしかにルーレットのボールは黒の13に入った。
だが、その理由はどこにあるのだろう?
これをひと言で説明することは不可能だ。
そしてぼくらの世界だって、このルーレットとなんら変わることはないのだ。
たしかに佑司は極め付きの難産だった。
妊娠中から様々な不具合は生じていたし、体力の落ちていた澪が出産の際に、わけの分からない注射を何本も打たれたのも事実だ。
カエサルのごとく、産道ではなく医師の手によって開かれた隙間を抜けて出て来るという手段も考えられたが、結局彼は30時間掛けて正規のルートを通ってこの世に現れてきた。
まったくもって元気な赤ん坊で、体重は3900gもあった。
一方の母親はひどく衰弱していた。
身体の中にある様々な器官、濾したり、分解したり、中和したりする器官がうまく働かなくなった。
彼女はこの5年後にこの星から去っていったが、そのときに抱えていた身体の不具合と、この出産の時に陥ったいくつもの機能不全とのあいだに、どのような関係があったのかはよく分からない。
だって、彼女はこの後すごく元気になったし、普通の母親、妻として、普通に生活していたこともあったのだから。
だから、佑司のせいで澪が死んだというのは、真実とは言えない。
仮に、この出産の時に生じた何かが、5年後に彼女の命を奪ったのだとしても、それを「佑司のせいだ」と言うことはできない。
彼は何もしていない。
ぼくと澪が望んで彼をこの世界に迎え入れたのだ。
そのとき、彼はまだ呼吸もしてなかったし、目も開いていなかった。
彼は地上に届く前の雪のように無垢だった。
だから、このことで佑司が苦しむようなことがあってはならない。
*
翌日、ぼくらはいつものように森に向かった。
造り酒屋の工場は今日も「ゴン、ゴン、シュー」と唸っている。
空は灰色の厚ぼったい雲に覆われていた。
森の奥から吹き来る風は、雨の匂いがした。
「降るかもしれないね」
「え?」
ぼくは走る速度を落とし、佑司の横に並んだ。
「雨の匂いがする。降るかもしれない」
佑司はくんくんと鼻を鳴らした。
「よくわかんない」
「少し急ごう」
いつもは出来る限り遠回りをして、十分な距離を走ってから工場跡に向かうのだけれど、今日のぼくらは最短のルートで目的地を目指した。
森の中は暗かった。
コナラやエゴノキの葉が天蓋のように二人の頭上を覆っていた。
幾重にも積もった落ち葉が、踏み締めるたびに湿った音をたてた。
鳥は鳴いていなかった。
何か言葉を口にするには、あまりに憂鬱な空模様だったからなのかもしれない。
静かだった。
ときおり、思い出したように吹き付けてくる風が木々の梢を揺らし、ざっと、豆をまいたような音をたてた。
前に来たときには無かった倒木が小径をふさいでいた。
ぼくは佑司を手伝って自転車を持ち上げ、それを乗り越えた。
やがて森は終わり、工場の跡地にぼくらは出た。
空はさらに暗くなっていた。
と、まず最初の一滴が、ぼくの頬をかすめ肩に落ちた。
「降り出したね」
雨足はすぐに強くなった。
コンクリートが雨に濡れて、すごく懐かしい匂いを立ち上らせた。
広大な工場の跡地には、雨宿りできるような場所は何処にもなかった。
これなら森の中のほうがまだましだった。
ぼくは来た道を戻ることに決め、佑司に声を掛けた。
「さあ、帰ろう」
しかし、彼はぼくの声を聞いていなかった。
濡れた髪が貼り付いた額をぐっと前に突き出し、彼はおそろしく真剣な表情で何かを見ていた。
目と眉を近づけ、彼にしてはずいぶんと大人びた眼差しで一心に見つめている。
ぼくは彼の視線の先を辿った。
雨に煙る灰色の風景の中に、一点だけ淡い色彩が在った。
それはちょうど、ただ一カ所だけ残った壁、#5と書かれたドアの前だった。
睫毛の雫を指先ではらい、もう一度目を凝らしてみる。
それはすぐにそれと分かる懐かしい輪郭だった。
見間違いようがない。
澪だ。
彼女が桜色のカーディガンを羽織って、ドアの前にうずくまっている。
ぼくは、ゆっくりと佑司を見下ろした。
彼もぼくを見上げていた。
目を大きく見開き、口をOの字に開いている。
佑司はとっておきの内緒話をする時みたいに、小さな小さな囁き声でぼくに言った。
「たいへんだよ、たっくん」
彼は何度もせわしなく瞬きを繰り返した。
「ママが」
と佑司は言った。
「ママがアーカブイ星から帰ってきちゃった」
続く