「いま、会いにゆきます」
vol5
ぼくらはおそるおそる彼女に近付いていった。
怖いからではない。
自分の妻の幽霊を怖れる夫はいない。
ほんのちょっとした空気の揺らぎのようなものが、彼女の存在をかき消してしまいそうな気がしたからだ。
佑司もきっと同じ思いだったのだろう。
いきなり駆け寄って澪に抱きつくようなことはしなかった。
あるいは、幸福の儚さを本能的に知っていたのかもしれない。
一方でぼくは、良識ある大人としての常識的解釈にしがみつくことも忘れていなかった。
そっくりさん説。
双子みたいな他人だとか、他人だとはとても思えない双子だとか。
他人だとしたら幽霊の存在と同じぐらいに信じられないそっくり具合だったし、双子だとしたら、ぼくが知らないはずがない。
彼女には妹と弟がいるが、他人のように似ていない。
むしろ血の繋がらないぼくのほうがよほど兄のように見える。
仮面を被され幽閉されていた双子の妹がいたという話も聞いていない。
彼女が実は生きていた説。
それは無いと思う。
すごく魅惑的な考えだが、ちょっと無理だ。
だとしたら、ぼくは誰か他の女性の最期に立ち会い、誰か他の女性の葬儀に出席し、誰か他の女性の墓に語りかけていたことになる。
ぼくはそこまでマヌケではない。
ほかにも、エイリアン説やクローン説なども浮かんだが、デイビット・ドゥカブニー−−−もとい、モルダーなら信じるだろうが、ぼくにはちょっと信じられない。
彼女に少しずつ歩み寄りながらそんなことを考えていたのだけれど、やっぱりこの目の前にいる女性が妻の幽霊である考えが、ぼくには一番しっくりときた。
だって彼女はぼくにこう言っていたのだから。
『またこの雨の季節になったら、二人がどんなふうに暮らしているのか、きっと確かめに戻ってくるから』
だから彼女は約束を守って、こうやって6月の雨に日にぼくらに会いに来てくれたんだ。
もう間もなく手も届くだろうという距離まで近付いたとき、ぼくははっきりと見た。
うずくまる彼女の右の耳朶に小さなふたつのホクロがあるのを。
そして、閉じた唇の間からのぞく八重歯の白い先端を。
彼女は澪によく似た誰かではなく、双子の妹でもなく、クローンでもなかった。
彼女は澪そのものだった。
そういう表現が間違っているというのなら、こう言い換えてもいい。
彼女は澪の心と外観と、そしておそらくその記憶をも備えた何らかの存在だった。
幽霊と言うにはやけにリアルで、くっきりとした輪郭を持ち、おまけにいい匂いまでした。
あの懐かしい髪の匂い。
例えるものがないので「あの匂い」としか言いようがない。
それは彼女がぼくに向けて放つ親密な言葉のようなものだ。
世界にひとつだけの言葉。
それをぼくは今また感じていた。
彼女はぼくらに気付いた様子もなく、ただぼんやりと自分の足下ではじける雨の雫を見つめていた。
よく見ると、ぼくらのもとを去ったあの頃の彼女よりも、幾分頬がふっくらとしている。
それは病気が悪くなる前の彼女の顔だった。
健康的で若々しく見える。
ちょっと矛盾している。
健康的な幽霊というのは、利他的な金融家かとか、あるいはポジティブシンキングのウディ・アレンとかと同じぐらい矛盾した言葉だ。
あるいは、幽霊がこの世界に戻ってくるときは、その人間がもっとも幸福だったときの姿を見せるのかもしれない。
桜色のカーディガンの下はプレーンな白のワンピースを着ていた。
アーカイブ星で支給された服なのだろうか?
やっぱり、あちらの人々はみんな白い服を着ているのだろうか?
昔から幽霊といえば白い着物が定番だったが、やはり最近では当世風な装いに変わってきたのだろうか?
「ママ?」
佑司がこらえきれずに、震える小さな声で彼女を呼んだ。
澪ははじめてぼくらの存在に気付き、その顔を上げた。
感情の失せた中立的な眼差しで二人を見る。
ゆっくりと目を閉じ、また開き、それから少し首をかしげる。
その細かな仕草のひとつひとつが、あまりに懐かしく、愛おしく、ぼくは泣き出しそうになった。
たとえ幽霊だって、ぼくの妻であることにかわりはない。
そして、もちろんその愛しさも。
ぼくはそっと手を伸ばし、その存在を確かめようとした。
彼女は少し怯えたような表情になり、身をこわばらせた。
何か不都合があるのだろうか?
人に触れられることが規則違反になるとでも?
しかしぼくは、自分の衝動を抑えることができず、そのまま彼女の肩に手を掛けた。
何か起きるかと思ったが、何も起きなかった。
ぼくの手にあるのは彼女の薄い肩の感触で、雨に濡れてはいたけれど、それでも微かな温もりすら伝わってくる。
そのことにぼくは軽い驚きを覚える。
たとえばそれが、この6月の雨よりも冷たい感触だったとか、あるいは、あるはずの肩のかわりにぼくが掴んだのは、桜色の霞だったとか、そのほうが何だかありそうなことのように思えた。
いずれにせよ、彼女はここに存在し、いい匂いを漂わせ、ぼくの心を激しく揺さぶっていた。
佑司もおずおずと澪に歩み寄り、小さな手を伸ばすとカーディガンの裾を遠慮がちに掴んだ。
彼女は佑司に微笑もうとしたが、頬がこわばり、何だか中途半端な表情だけがそこに残った。
何だろう?
この奇妙な違和感は。
ぼくは少し不安になって、彼女の名を呼んでみた。
「澪?」
彼女はぼくを見遣り、その薄い唇をそっと開いた。
大きな八重歯が顕れる。
「みおって」
彼女は言った。
「それが私の名前なの?」
細く高く、少し語尾が震えるあの懐かしい声だった。
ぼくはまずその声の懐かしさにますます泣きたくなり、それからその言葉の意味に涙も引っ込むほど驚いた。
「私の名前なのって」とぼくは言った。
「覚えてないの?」
「ん?」と佑司が言った。
「そうみたい」と澪が言った。
「そうなの?」と、また佑司が言った。
「私、何も覚えてないの」
「何もって」
ぼくは意味もなく両手をぐるぐると回した。
「何も?」
「そのようね」
クジがハズレてがっかり、みたいな自嘲的な笑みを彼女は浮かべた。
「それで?」と彼女は訊いた。
「あなたたちは誰?」
「誰って」
何だか釈然としない気持ちで、ぼくは彼女に言った。
「ぼくはきみの夫で、佑司はきみの息子だよ」
「そう、ムスコ」と佑司が言った。
「うそ」と彼女が言った。
「ほんと」とぼく。
「ほんとだよ」と佑司。
「ちょっと待って」
澪はぼくらの言葉を押し止めようとかのように手のひらを突き出し、もう一方の手で自分の頭を抱えた。
「私、気付いたときにはここにいたの」
彼女は目を閉じ、真剣な表情で記憶を手繰っていた。
「10分ぐらい前かしら。それで、ずっと考えていたんだけど、何も思い出せないの。ここが何処で、何で私がここにいて、そしてそう考えている私自身が誰なのかも」
この話を聞いて、ぼくは考えた。
つまり、彼女は10分ほど前にこの地上に舞い降りた。
そのとき、どうやら全ての記憶をアーカイブ星に置いてきてしまったらしい。
と言うことは、彼女は自分が幽霊であることさえも忘れてしまっている。(多分−−−)
だから、つまり、どういうことだ?
「私は今日ここに、あなたたちと一緒に来たの?」
「そうだよ」
とっさの判断で、ぼくはそう答えた。
「え?」と佑司が言った。
ぼくは彼の細い首筋を掴んだ。
彼は黙った。
「ぼくらは3人でここに来た。いつもの日曜日の散歩だよ」
「そう?」
「うん」
ぼくは頷いた。
「それで、ちょっとぼくと佑司はきみと離れて森の中で遊んでいた。そして戻ってきたら、きみはこの状態だった。きっと転んで頭をどこかに打ち付けたんじゃないかな」
「つまり、そのショックで私は記憶喪失になったってこと?」
「そうみたいだね」
「そうなの?」と佑司が訊いた。
ぼくは首筋を掴む手に力を込めた。
彼は黙った。
「とにかく、一緒にうちに帰ろう。そのうちきっと記憶も戻ってくるよ」
「そうかしら?」
「そうだよ」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
濡れたワンピースが腿に貼り付き、裾からは雫が落ちていた。
「さあ、急いで帰ろう。冷えたら風邪をひくよ」
「そうね」
何も知らないなら、いっそそのほうが幸福だ。
つらい記憶をわざわざ思い出させることもない。
それに、ぼくは彼女が言っていたある言葉を思い出していた。
『雨の季節になったら戻ってくるから』と言った、あのときの最後の言葉だ。
彼女はこう言ったのだ。
「そうね。雨とともに訪れて、あなたたちがしっかりと暮らしているのを見届けたら、わたしは夏が来る前に帰ることにするわ。だって、私は暑いのが苦手だから」
自分がどこから来たのか忘れたままなら、もしかしたら彼女はアーカイブ星に帰ることも忘れていてくれるかもしれない。
そうすれば、ぼくらはずっと一緒に暮らしてゆける。
ぼくと佑司と、そして澪の3人で。
3人が一緒にいられるなら、妻が幽霊なことぐらい大した問題じゃない。
ほんとに。
森の小径を澪と佑司が並んで歩き、ぼくは後ろから自転車を押しながらついていった。
最初そわそわと落ち着かないそぶりを見せていた佑司は、やがて意を決して、その手を彼女に向けて差し伸べた。
気付いた澪がすぐにその手を掴んだ。
佑司がはっとして、澪の顔を見上げた。
彼女は優しく微笑んで見せた。
その途端、ついに堪えきれなくなった佑司が声をたてて泣き始めた。
無理もない。
一年ぶりに母親の手に触れたのだから。
彼女が振り返り、どうしたの?という顔をぼくに向けた。
「いずれわかると思うけど」
ぼくは言った。
「佑司はものすごい泣き虫なんだ」
こう言っておけば、これから先佑司が不自然なタイミングで泣き出したとしても言い訳になる。
「少し動揺しているんだよ。きみの記憶が消えてしまったから」
「そうなの?」
しゃくり上げながら佑司が訊いた。
ぼくは彼を無視して続けた。
「だから、深く考えずに優しくしてあげて。今までもきみはずっとそうしてきたんだから」
わかった、というふうに頷き、そして彼女は佑司の細い肩に手を掛け抱き寄せた。
彼は母親の温もりを感じながら、涙酔いとでもいうべき心地よい酩酊の中に浸っていた。
思えば、彼はもうすでに一度、母親との別離を経験している。
再び巡り会えた母親とも、やがてまた別離の日が来るのだとしたら、この再会には初めから悲しみが用意されていることになる。
「夏が来る前に」と彼女は言っていた。
その言葉が真実ならば、与えられた時間は少ない。
(いまのうちに思い切り甘えておくんだよ)
ぼくは、澪のワンピースの裾を握りしめ、彼女の腰に顔を押しつけ、しゃくり泣きしている佑司にそっと言った。
もちろん、彼女が帰ることを忘れて、ずっとこの星に留まってくれるなら、こんな心配も必要のないことなのだろうけど。
(公開はここまでです)