| 日本に来たポルトガル人 ●ルイス・フロイスについて ●フロイスと信長 ●宣教師の人物評 |
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| 日本にやってきた最初のヨーロッパ人が、ポルトガル人だったということは、みんな知っていると思う。 そして、初めてやってきた年が1543年だということも知っていることだろう。でも、実は1542年説と1543年説があって、ポルトガル人が1543年にやって来たというのは、まだはっきりと確定されていない。 また、キリスト教を伝えた宣教師の名前も有名だ。イエズス会のフランシスコ・ザビエル。実はこれもスペインやポルトガル人には通じない人名。ザビエルという読み方はドイツ語からきており(日本のキリスト教研究はドイツ人の研究成果を追っていたため)、ザビエルはポルトガル語では「シャビエール」、スペイン語では「ハビエル」となる。しかし、すでに日本ではザビエルが知れ渡っていたため、いまだにこの呼び方を使い続けている。 では、このザビエル以外にキリスト教を広めた宣教師のことをどれほど知っているだろうか。高校の日本史の教科書には、アレッシャンドロ・ヴァリニャーノ(イタリア人)、ガスパル・ヴィレラ(ポルトガル人)、ルイス・フロイス(ポルトガル人)、オルガンティーノ(イタリア人)の4人が挙げられている。この4人をはじめ、日本にキリスト教を伝えるためにやってきた宣教師達は、数多くの報告書や書翰をヨーロッパにいる同僚に送っている。だから、その書翰などから当時の日本の様子をうかがい知ることができるのである。 その中でも一番多く報告書や書翰を書いた宣教師がルイス・フロイス。彼の書いた記録は、日本の歴史を知る上でも重要な史料になっている。その一つ「日本史」と呼ばれる書物は、かつてNHK大河ドラマ「信長」の元になった史料でもある。 これから、ルイス・フロイスの記録をもとに、ポルトガルと日本の交流を語ることにしたい。 |
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| ルイス・フロイスとは 1532年ポルトガルのリスボンに生まれ、少年時代には王室秘書庁で働き、1548年にイエズス会に入会した。その後、インドに行きゴアでフランシスコ・ザビエルに会ったあと、マラッカに向かった。1557年に再びゴアに行き、1561年に司祭に叙階された。フロイスは、学院長や管区長の秘書として仕え、ゴア管区長の下でアジア各地から届いた書翰を処理した。そのため、来日以前から日本事情に精通していた。来日は、1563年7月6日で、横瀬浦に到着した。1565年に畿内での布教活動を行い、京都の諸事情を同僚に伝えたが、将軍足利義輝が殺害されると、京都を追われ、堺に逃げのびた。しかし、織田信長が足利義昭を奉じて上洛したことにより、事態は好転し、1569年京都復帰が実現した。フロイスは信長と対談もしており、数多くのヨーロッパの文化を伝えている。1576年には畿内での布教長の職をオルガンティーノに譲り、自分は豊後に赴任した。1581年には巡察師ヴァリニャーノの通訳として再び上洛することとなり、信長から歓待された。1583円にはイエズス会総長の命令で「日本史」と題する日本布教史を編纂する述することとなり、その執筆活動に精魂を傾けた。1586年ガスパル・コエリュの通訳として大坂に赴いて、秀吉に謁見した。1587年には伴天連追放令が発せられたため、西九州に留まった。その間にも「日本史」の執筆を進めていたが、ヴァリニャーノに認められないことを嘆き、ヨーロッパ送付の嘆願書を認めたが、その返書が届く前に長崎の修道院で死去した。(参考文献:『日本キリスト教歴史大事典』) |
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| フロイスと信長 フロイスが一躍日本史で有名になったのは、「日本史」という日本記録を書き記したからであった。残念ながら、その内容が冗長であったため、当時「日本史」が刊行されれることはなかった。そのまま現代になって、松田毅一・川崎桃太両氏の史料調査によって「日本史」の写しが発見された。そして、400年の歳月を経て、ようやくフロイスの念願であった「日本史」の刊行が実現したのである。ちなみにポルトガルでもリスボン国立図書館で「日本史」が刊行されている(CD-Rom版も出されている)。この「日本史」には、信長・秀吉をはじめ、多くの戦国武将の国盗り物語や、民衆の生活、日本人の宗教観、日欧の文化の違いなどが書かれており、戦国時代の様々な話題を提供してくれる。 しかし、フロイス自身が日本に滞在する中で経験した出来事を伝えるものとしては、この「日本史」よりも彼自身の書翰の方が生々しさがある。というのは、「日本史」は秀吉が天下統一を果たした時期に作成されたことから、それ以前の記録は回想録だからである(もちろんイエズス会宣教師の書翰や報告書をもとにしてはいる)。そこで、信長時代を見るには、書翰から探っていった方がよいと考える。そこで、フロイスの書翰から、彼と信長との交流や、その時代で経験した出来事を見ていくことにしよう。 |
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| 1568年(永禄11年)の出来事 1568年といえば、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した重要な年である。フロイスが信長のことを初めて知ったのもこの年であった。 1560年(永禄3年)にガスパル・ヴィレラが将軍足利義輝から京都滞在を認めた許可状(実際は禁制)を得たことにより、本格的に京都を中心とした畿内で宣教活動を開始した。その後、フロイスも畿内布教担当となり、ガスパル・ヴィレラとともに京都で布教活動をおこなっていた。ところが、彼らの後ろ盾となっていた足利義輝や三好長慶が死去し、その直後天皇によって伴天連追放の女房奉書が出されたことにより、京都退去を余儀なくされたのであった。 1568年の時、フロイスは堺に避難していた。その堺で次期将軍の足利義栄に京都復帰をお願いしようと、篠原長房という武将に依頼していたが、なかなか進展しないでいた。そうした時に、織田信長が足利義昭を奉じて入京してきたという情報を入手したのである。フロイス書翰には「尾張の国王(信長のこと)が、都で殺された公方様(足利義輝)の兄弟(足利義昭)を武力によって(将軍職に)就任させるために、6万の軍勢を率いて都にやってきました」と書かれている(1568.10.4書翰)。この箇所を読んでもわかるように、フロイスはまだ信長自身に注目したわけではなく、京都の情勢を書き記したに過ぎない。フロイスはこれによって、「大変大きな戦さが起こることは避けられないでしょう」とも書いているからである(同書翰)。 1568年段階では、まだフロイスは信長に大きな関心は寄せていなかったのである。 |
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| 1569年(永禄12年)の出来事 フロイスの信長に対する評価が変わるのは、翌年永禄十二年に信長と出会ってからである。堺で京都復帰に向けて奔走していたところに、将軍義昭と信長の家臣団が接収奉行として堺にやってくることになった。その家臣団の中に佐久間信盛と和田惟政がいたことをフロイスは書翰で記している(1569.6.1書翰)。なお、フロイス「日本史」には佐久間信盛の代わりに柴田勝家となっているが、勝家が堺にやってきたのも事実である。その信盛と惟政はフロイスに京都復帰を約束した。約束通り、惟政は京都に宣教師を招くよう高山飛騨守に命じたので、飛騨守は自身の兵を連れて迎えにやってきた。そこで、フロイスは飛騨守の兵とともに京都への旅路についた。富田寺内を通り、天神の馬場というところで高山飛騨守の迎えを得た。上桂川から京都へ入っていった。京都に到着すると、キリシタンのアンタンと呼ばれる者の家に宿泊した。翌日和田惟政がやって来て、信長がかの宣教師は京都に到着したのかと尋ねてきたので、近々フロイスを信長に紹介するので、その準備をしておくように伝えてきた。 その頃信長は、室町15代将軍に就任させた義昭のために、旧足利義輝邸跡に二条城の普請を行っている。自ら陣頭指揮を執り、急ピッチに建設作業が進められていた。フロイスの書翰(1569.6.1書翰)にはこの時興味深い出来事を伝えている。一つは、城郭建築には石材が必要であったが、石像を加工して石材にあてている。おそらく近隣諸国の地蔵等が集められたと思われる。この出来事について、いくら信長が無神論者であっても、そこまではしないだろうとする意見もあったが、二条城の発掘調査で石像が発見され、フロイスの述べていることが事実であることが証明された。もう一つは、信長の性格が窺える事件が起きたことである。工事中に一人の兵士が見物人の一女性の顔を見ようとしたのを信長が見つけて、即座にその者の首を刎ねたという。 フロイスがはじめて信長と対面したのは、永禄12年(1569)の夏、この二条城の普請場であった。しかし、その前に反キリシタン一派による宣教師追放工作が始まっていたのである。和田惟政がフロイスを信長に会わせるようとしていたことを知った松永久秀は、宣教師の赴くところでは争乱が起こり、町が破壊されると進言した。しかし、信長は一笑に付してこれを一蹴した。フロイスは、ロレンソという日本人キリシタン等を伴い、二条城の普請場に赴いた。その際、ビロードの帽子・鏡・ベンガラの杖・クジャクの尾などを贈り物として持参したが、、信長はベンガラの帽子だけを受け取った。だが、信長はこの時宣教師と会おうとはしなかった。その後、信長は和田惟政と佐久間信盛に、キリスト教を広めるために来日した外国人をどう迎えればよいか分からなかったことと、信長がキリスト教に改宗したとの噂が流れることを避けるため、宣教師と引見しなかったと語った。 信長がフロイスに会わなかったことから、反キリシタン達は宣教師が堺から追放されたから京都にやってきたとか、信長は奈良の大仏殿を再建させるために宣教師を捕らえたとの噂を流した。ちょうどその時、内裏も義昭のところに宣教師を追放するように信長へ伝えるように指示を出したり、水野信元という信長の家臣が教会に寄宿するなど、宣教師にとって不都合なことが、たて続いて起こった。さらには朝廷の使者がやって来てすぐに立ち去るよう伝えてきた。そこで、フロイスはロレンソ修道士に和田惟政や佐久間信盛等のところに行き、ことの子細を報告するよう指示を出した。すると、彼等はキリシタンの保護を約束し、こうした事態が生じないように取り計らった。 復活祭の最初の八日目、信長の命令と惟政の尽力により、フロイスは義昭の滞在する六条の僧院(六条本国寺を指す)に赴いた。しかし、義昭は病気のためフロイスと会わず、乳母が代わりに対面させた。乳母は宣教師に尽力する旨伝えるに留まった。 惟政は、義昭も信長もフロイスに会おうとしなかったことを知り、フロイスの対面が実現するように手を尽くした。その機会がやってきたので、惟政はフロイスのいる修道院を訪れ、フロイスを輿に乗せて信長のいる二条城の普請現場に向かった。信長は二条城の橋の上でフロイスを待ち受けていた。フロイスは土産に持参した金平糖入りのガラス瓶とロウソクを数本捧げた。この時フロイスが信長と会話したのは1時間半から2時間ほどだった。 この対談でフロイスは、京都に自由に滞在できるための朱印状を求めた。対談が終わると、信長は和田惟政を呼び寄せ、フロイスと二条城の普請現場を見学するよう指示した。「尻切」を履かずに橋を渡った際には、二、三度大きな声で「その必要はないから、尻切を履くように」と信長はフロイスに話したという。普請現場を見終えると、フロイスは信長のところに戻り、あいさつをして帰途についた。 その二日後、和田惟政がやって来て、足利義昭に謁見する件で信長と話し合い、将軍義昭が待っているので、すぐに支度をするように」と伝えた。そこで、フロイスは美しい孔雀の尾を持参した。義昭は自身の盃をフロイスに与え、和田殿は私の後にこれを受けた。将軍は日本の彫像であり、彼を訪問する者に対して一言でも話すことさえ極めて稀であったが、フロイスには二度にわたって酒を飲むよう勧めた。また、献上した土産をよろこんで受け取った。 |
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