| 日本に来たポルトガル人 ●ルイス・フロイスについて ●フロイスと信長 ●宣教師の人物評 |
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| フロイスの信長観 初めて織田信長に会った外国人宣教師は、ルイス・フロイスである。彼は、信長に最も頻繁に会った宣教師でもある。 フロイスは永禄十二(一五六九)年に初めて織田信長に対面した。対面した場所がその時普請中だった二条城の現場だったというのも興味深い。同年に書かれた彼の書翰で、信長をこのように伝えている。(1569.6.1書翰)。 この尾張の国王[織田信長]は、三十七歳長身痩せ型で、ひげはほとんどありません。声はよく通り、たいへん勇敢にして、不撓不屈であり、軍事訓練に励んでおります。正義や慈悲を重んじ、尊大で名誉欲が強いです。秘密裏に決断し、戦略においては抜け目がありません。規律や家臣の進言にはわずかか、もしくはほとんどまったく耳を傾けず、諸人からきわめて畏敬されております。酒は飲まず、誰にも盃を与えるようなこともほとんどありません。家臣の待遇については厳格で、日本のすべての国王・領主を見下しており、自分の家人や家臣であるかのように肩の上から彼らに話をします。すべての者が絶対君主に対するかのように彼に従っております。優れた理解力と明晰な判断力によって、神仏やすべての異教的占いを軽蔑しています。名目上、法華宗徒であるように見せていますが、宇宙の創造者や霊魂の不滅はなく、死後には何も存在しないと公言しております。彼はたいへん清潔で、自身の事業の采配とその完璧さに対して思慮深くあります。話をする際には、冗漫や長い前置きを嫌い、領主であれ何人も、彼の面前では刀を携えることは決してありません。(また、)常に二千名もの小姓とそれ以上の騎馬を引き連れ、身分の低い家臣と話をし、冗談も言います。彼の父は尾張国の領主にすぎませんでしたが、彼はきわめて巧妙な策謀により、四年のうちに十七、八ヶ国を支配下におき、この五畿内及び他の隣国を七、八日で征服しました。 このフロイスの信長評で、われわれは彼の容貌や性格までも知ることができるのである。痩せ型でひげが少ないあたりは、今に残る信長の肖像画[織田信長像(長興寺蔵や神戸市立博物館蔵)]によく当てはまる。また、信長の独裁者ぶりが窺える反面、如才ない部分もあったようで、信長の人となりがよく伝わる記事である。 |
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| フロイス、信長と初対面 二条城普請場にある橋の上で、織田信長はフロイスを出迎えた。1時間半から2時間ほどフロイスは信長と会話した。 まず信長がフロイスにこう質問した。 「フロイス、お主の年齢はいくつであるか。いつ日本にやって来たのか。どのくらいの期間、日本語を学んだのか。お主の両親はポルトガルでお主に会うことを待ち望んでいるか。毎年ヨーロッパなどから手紙が届くか。ヨーロッパから日本までは、どれほどの距離があるか。お主は日本に滞在することを望んでいるか。」 こうした差しさわりのない話を終えると、信長はキリスト教の教えについて尋ねた。 「もしデウスの教えがこの日本で広まらなかったら、お主はインドに戻るのか。」 これに対して、フロイスはこう返答した。 「たった一人しかキリシタンにならなくても、その者を守るために司祭が日本に留まるでしょう。」 また、信長はこう尋ねた。 「なぜ京都でキリスト教が流行らないのか。」 この問いにはロレンソが返答した。 「仏僧達は身分のある者がキリシタンになることを遺憾に思い、デウスの教えが広まるのを妨げるため、司祭を追放するためのあらゆる手段を模索していました。そのため、多くの人がキリシタンになる意志を持ってはいるものの、こうした妨害を見てキリシタンになることを先延ばしにしているのです。」 すると、信長は仏僧達の恥ずべき生活や極めて悪い習慣について長々と述べ、 「仏僧達は金銭を得たり、肉体を楽しませたりすることしか求めていない」 と返答した。フロイスは信長のこの返答を好機と捉え、ロレンソを介してこう信長に申し出た。 「殿下もすでに御存知に違いありませんが、私達は日本で名誉や富、名声、また世俗のものなど望んでおりません。ただ世界の創造主で救世主の教えを説き弘めることだけを求めております。殿下は今日本で最高の権力を有しており、我達の教えと日本の宗旨を比較することができますので、比叡山で最も著名な僧などに集まるよう命じて、殿下の面前で宗論を行わせるようお願いいたします。もし私が負ければ、その時はキリスト教が無益で不要のものとして、私たちを都から追放してください。反対に、仏僧側が負けた場合、彼らにデウスの教えを聴くよう命じてください。こうでもしなければ、私達の主張が正しいことを明らかにすることができず、彼らは我達に対する憎悪をつねに抱き続けることでしょう。」 信長はこれを聞いて笑いながら、家臣に向かってこう発言した。 「大国からは、すぐれた才能と強固な精神が生まれるものである。」 信長は私の方に振り向き、 「日本の学者が宗論を受け入れるかどうか知らぬが、今後実現するかもしれないだろう。」と答えました。 さらにフロイスは、京都に自由に滞在できるための朱印状を求めた。この間、多くの仏僧たちが、この長い談話を注意深く聞いていたが、信長のいる所に近づくことができなかったため、離れた場所からであった。 |
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| フロイスの岐阜城訪問 永禄12年(1569)フロイスは信長のいる岐阜を訪問した。信長はフロイスの来訪を喜び、岐阜城を案内した。その時の様子がフロイスの書翰(1569.7.12)に詳しく記されている。 「これらの宮殿は非常に高い山の麓にあり、そこに美濃国の主城が建っております。それは信長が2年前奪取した城です。この城の周囲には石垣がありました。石はあまりに大きく、つなぎ合わせるのに石灰を用いません。次いで、一つの広場がひろがり、劇場のような大きな屋敷があります。その広場には大きな果樹が植えられております。長い石段を登ると屋敷が現れます。一階には見晴台と縁があり、岐阜の街が一望できます。」 これは岐阜城の天主と本丸の説明であろう。 |
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